【証言で綴る日本のジャズ】山本剛/第1話「独学ピアノでプロの道に…欧州ツアーに参加するも逃走!?」

文/小川隆夫

2018.03.08

証言で綴る日本のジャズ  #6
連載「証言で綴る日本のジャズ3」 はじめに

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場する“証言者”はピアニストの山本剛。十代の頃に独学でジャズピアノを習得し、デビュー後は『ミスティ』をはじめヒット作を続々とリリース。海外のフェスティバル参加やテレビ番組の音楽を担当するなど、その活動は多岐にわたる。

ジャズに目覚めたころ

——山ちゃん(山本剛)とはずいぶん古いよね。

いつからだろう?

——「ミスティ」(注1)がオープンしてすぐだから、45年近い? それはそれとして、生まれは新潟県の佐渡でしょ?

うん。佐渡で生まれたけど、佐渡はお袋の実家だから、産みに帰っただけ。

——じゃあ、家はどこに?

新潟市。

——ピアノを始めたのはいつから?

ピアノは小学校の二、三年かな? やらされたんだよ。よくあるパターンで、「妹と一緒にお前も行け」って。

——妹さんとはいくつ違い?

3つかな。

——妹さんは音大に入るんでしょ?

あいつは国立音大(国立音楽大学)に入るの。

——最初はクラシックから……。

クラシックというか、バイエルね。それも半分で辞めたから。

 ——そのあともピアノは弾いていた?

あまり好きじゃなかったから、弾いてないんだよ。それで、トランペットをやったり。

——トランペットでなにをやってたの?

最初はトロンボーンをやって、唇が慣れてきたら、トランペットでいい音が出るようになった。それで、中学の終わりごろにブラスバンド部に入ったの。なんかのときは通りをパレードしたりね。譜面が読めないから、吹いてもらって覚える。それを高校でもやって。

——ピアノは弾いてなかった?

弾いてなかったけど、中学の謝恩会で歌の伴奏をやったのは覚えている。〈いつでも夢を〉(注2)とかを歌うヤツがいたんだね。ズンチャズンチャってコードだけ弾いて。

——ジャズに目覚めるのは?

高校になって、うちに下宿していたお兄さんが〈ダイアナ〉(注3)とかのいわゆるポップスのレコードをいろいろ持ってて、それを夜になると聴きに行ってたの。そうしたら突然アート・ブレイキー(ds)とザ・ジャズ・メッセンジャーズの〈ノー・プロブレム(危険な関係のブルース)〉(注4)を聴かされて。「なに、これ?」。それで「ピアノ、いいな」と思って、ピアノに目覚めたというか。それが高校の二、三年だね。自分の知っているピアノとは違うピアノがあると思ったのがそのとき。「バイエルだ、ツェルニーだ」じゃなくて、もっといいのがあるなと。それで、すぐにコピーを始めた。

レコード針を落として、急いでピアノのところに行ってフレーズを拾うとかね(笑)。譜面が読めないから、コピーするしかない。いまみたいに情報も多くないし。せいぜいあって、『モダン・ジャズ・メモランダム』といったかな? 宇山恭平さんってギタリストが書いた楽譜集。それが700円だったかいくらかで、それを買って。キーがちょっと違ったりするけど、それにスタンダードが何曲か書いてあるから、それを見たりして。

コードはね、『コード表』があるんだよ。500円だったかな? 鍵盤が書いてあって、そこにドッツ(印)がついている。それで真ん中のドッツが半音下がるとマイナーだとか、ドッツの真ん中と上が下がるとディミニッシュだとか。なんでもそう考えればいいというようなことをやっていたのね。

学校で譜面を見てたら、サッカー部の小林というのが「ピアノを弾くのか? オレはドラムスを叩きたい」。そういうことがあって、小林のうちへ、中学校のときの友だちふたりと行って、カルテットを始めるの。そのうちクインテットになるけど。

それで月に2、3回、小林のうちに集まって練習する。そのころにバンドのスコアが売られるようになって、〈ドキシー〉とかの類いだよね。〈モリタート〉も出ていたかな? 何曲もなかったけど、サックスとピアノ・トリオとか、トランペットとピアノ・トリオとかで、それを練習して。

——アドリブはできるようになっていた?

アドリブはいい加減。小節の長さを頭の中で把握していないから、8小節ぐらいのエンディングを作って、〈モーニン〉なんか、それが出てきたらポンと止まるようになってる(笑)。フリー・ジャズと似てるよね。

——ソロはコード進行に則って?

どうだったかなあ(笑)。則ってるとは思うけどね。レコードを聴いても全曲はコピーできないから、雰囲気だけ真似して、いいところや自分の好きなところだけコピーする。それで、高校の謝恩会で「バンドをやらないか」といわれたんだよ。そうしたら、先輩が「どうやってるんだ?」。カラクリを教えてないから、「お前たちすごいな、あれ、ジャズだろ」なんて驚かれちゃって。

——その謝恩会って、先輩の卒業式ってことだよね。

そう。明訓高校(新潟明訓高等学校)。

——野球で有名な。

 一番有名なのは漫画の『ドカベン』(注5)。

——山ちゃんは野球はやらなかった?

オレはやってない(笑)。

——それで、受験して東京に。

日大(日本大学)を受けたら、教養学部は世田谷と三島に校舎があって、静岡とは書いてない。オレにしてみれば引っかけ問題みたいなもんだよ。日大だから、東京にあるとばかり思ってるじゃない。世田谷は東京の端だからみたいに考えて、三島に印をつけちゃった。それで静岡県の三島に1年いたけど、それもよかった。

——音楽はやってたの?

合唱部に入ったんだよ。

——似合わないなあ(笑)。

いや、部活には出ないで、終わったころに行って、ピアノばっかり弾いてたの。それで、校歌とかを弾いてると女の子が集まってくるんだよ。「山本君、ピアノ弾けるじゃない」。女の子が「あれ弾いて、これ弾いて」「知らないよ」というような感じで。

あとは下宿で、みんなは麻雀なんかをやってるけど、オレはステレオを持ち込んで、ジャズを聴いてた。そうしたら、周りのヤツもだんだん好きになってきて。三島時代はそういう感じ。それで東京に出て、経緯は覚えてないけど、すぐに仕事をやってたなあ。

——どういう音楽を?

ジャズを。

——じゃあ、ジャズ・ピアニストになっちゃったんだ。

まあねえ。

——どういうところで?

池袋の「JUN」(JUN CLUB)とか。

——洋服のVANジャケットとかJUNとかのJUNがやってたジャズ喫茶でしょ。

ジローさん(小原哲次郎)(ds)とかに誘われてね。

——その時点で、ジローさんとは知り合ってたんだ。

青山にあった時代の「ミスティ」にも行くようになって、そこで「ボーヤ、弾くか?」「はい」みたいなことをやっているうちに、声をかけてもらえるようになったんだよね。あそこがすごく勉強になった。オマさん(鈴木勲/b)は来るし、菊地のプーさん(菊地雅章/p)は来るし、不思議な場所だった。

ミッキー・カーチスのバンドでヨーロッパに

——ミッキー・カーチス(注6)さんのバンドに入るのがそのころ?

それはもう少しあと。飯倉に「ニコラス」ってあったじゃない。あそこに小さなハモンド・オルガンがあったんだよ。たまたま誰かにトラ(エキストラ)を頼まれて。そのときにお客さんで来てたのがミッキーのマネージャー。マイクというアメリカ人で、奥さんが日本人だから、赤坂の「ホテル・ニュージャパン」とかで日本語の漫才ができるくらい日本語がペラペラ。

彼に呼び止められたのが「ニコラス」。「なんでしょう?」「ヨーロッパに行かない?」。ヨーロッパなんて、そのころ誰でも行けるわけじゃない。「行きたいなあ」という気持ちはあったけど、「一晩考えさせてくれ」。それで、次の日に銀座の「ヤマハ」の前で待ち合わせて、「行きます」。日大紛争だったんだよ。渡りに船だと思って。

——それが二十歳のとき?

 大学二年のとき。アンカレッジ経由で、まずはスイスに行くの。ところがアンカレッジでエンジンの調子が悪いって、飛行機から降ろされちゃった。待ってたけどぜんぜんダメ。ウエスタン航空に乗ったけど、今度は「凍ってて車輪が入らない」。「もう1回やってみる」とやったけど、「ダメだから1度引き返す」。それでも機長が「もう1回やる」と。そうしたらブーンって音がして、入ったんだよ。「ヤッホー」みたいな感じで、全員拍手(笑)。「さあ、飲んでくれ。みんなタダで出しちゃえ」みたいな。それでシアトルに行って、デンマークに行って、翌日チューリッヒ経由でジュネーヴ。宿泊先はモーテルで、それから音楽生活。

——編成は?

エレクトリック・ベースとギターとピアノとドラムス、それにミッキー。ミッキーはギターも弾くでしょ。曲によってはフルートも吹いて。

——それでポップスとかボサノヴァを?

それもやるけど、日本の曲とかビートルズとか、いろいろだね。ショウみたいにして作るから。

——どういうところで?

泊まっていたのはジュネーヴからけっこう離れたフェルネーってところで、そばにフランスの国境がある。国境を越えると、すぐのところに有名なカジノがあるの。小さな村だけど、毎日国境を越えて、そこの「カジノ・デ・ヴァン」でやってた。

——どのくらいの期間?

1か月くらいかな? そのあとはイギリスに行くの。ショウであちこちを回って、あとはテレビにも出たし。着物を着てさ。だから初めは着物を畳むのが下手だったけど、スッとできるようになっちゃった(笑)。

——日本から来たバンドということで。

バンドの名前がザ・サムライズだからね。ビートルズの曲とかもやるんだよ。あとは日本の民謡とか。「金毘羅船々、お池にはまってしゅらしゅしゅしゅ〜」とかね。それをオレが大正琴で弾くと、受けるわけだよ。でっかいナイト・クラブみたいなところで、そういうショウをやるバンドだったの。「ビートルズよりいい」とかいわれるんだから。

——じゃあ、向こうでけっこう話題になったんだ。

なってたみたいよ。マキシのパンタロンが流行ってたでしょ。イギリスの女の子はみんなマキシのパンタロンを履いてて。「サインしてくれ」って来るけど、でっかい女ばかりで、驚いちゃって、半分怖くてさ(笑)。「いいな」って感じはぜんぜんなかった。

——イギリスのあとは?

スイスに戻って。そのころまでに何回かホームシックにかかってたの。そのときはトンズラしたくて、「航空券を送ってくれ」って、家に電話したんだよね。「ダメだ、ダメだ」といわれてたけど、あるときお袋が『週刊新潮』かなにかの記事を見たんだよ。「ミッキー・カーチスのバンドはヨーロッパで貧困生活を送っている」「宿の下に流れている河で魚を釣って、それを食べている」みたいなことが書いてあったの。それで、「たいへん」となって、「これはお金を送らなきゃ」(笑)。日航(日本航空)に話をつけて。それで「カジノ・デ・ヴァン」の仕事が終わったある夜、車がないからヒッチハイクでジュネーヴまで着の身着のままで戻って、帰ってきた。

——「辞める」といって帰って来たの?

なにもいわないで。

——じゃあ、ピアノがいなくなってたいへんだったんじゃない?

ミッキーが帰って来たときに、「あのときはごめんなさい」って、すぐに電話を入れたんだよ。「ヤマか、バカヤロー。でも、いいよいいよ、終わったことだから」。それでまた会うようになった。

——ヨーロッパにはどのくらい?

半年ぐらいかな?

——給料はよかった?

微妙だね。1日で、タバコ代か手紙を出す切手代、そんなもんだよ。金回りもよくなかったんだろうけどね。それがあったからチケットを送ってもらったの。片道のチケットで来てるから帰れない。パスポートを取り上げられなかったからよかったけど。親父は「みんなはいるんだから、お前だけどうのこうのはダメだ」といってたけど、お袋が見た記事のおかげで帰ってこれた(笑)。

——ザ・サムライズはそのあとプログレ系のロック・バンドになったじゃない。

ハモンド・オルガンを買ってくれるっていってたけどね。オレが発つ日にハモンド・オルガンが着いているんだよ。

——そのままいたら山ちゃんもロック・ミュージシャンになってたね。

そのあとは、イギリスからジョンとかなんとかっていうキーボード奏者が来たみたい。

 

第2話(3月15日掲載予定)に続く

 

 

注1)73年から82年まで六本木にあったジャズ・クラブ。それ以前は青山で営業していた。
注2)作詞が佐伯孝夫、作編曲が吉田正で、62年9月20日に日本ビクターから発売された橋幸夫と吉永小百合のデュエット曲。「第4回日本レコード大賞」で〈大賞〉受賞。累計売上は260万枚。
注3)57年に歌手のポール・アンカが自作自演したヒット曲。『ビルボード』誌「トップ100」では最高2位。のべ900万枚を売り上げた。
注4)『アート・ブレイキーとザ・ジャズ・メッセンジャーズ/危険な関係』(フォンタナ)に収録。メンバー=アート・ブレイキー(ds) バルネ・ウィラン(ts) リー・モーガン(tp) ボビー・ティモンズ(p) ジミー・メリット(b) 1959年7月28、29日 ニューヨークで録音。
注5)『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)に72年から81年まで連載された、水島新司の野球漫画。
注6)ミッキー・カーチス(歌手、俳優 1938年~)日英混血の両親の長男。50年代末からロカビリー歌手として人気を集め、その後は司会や役者をこなし、67年にはミッキー・カーチスとザ・サムライズでヨーロッパ巡演。プログレッシヴ・ロックのバンドとして70年に帰国。以後も多彩な活動で現在にいたる。

写真提供:©︎Sony Music Direct(Japan)Inc./小川隆夫著『スリー・ブラインド・マイス コンプリート・ディスクガイド〜伝説のジャズ・レーベル〜』(駒草出版刊)より一部転載

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