投稿日 : 2018.03.08 更新日 : 2021.09.03

【証言で綴る日本のジャズ】山本 剛|独学ピアノでプロの道に…欧州ツアーに参加するも逃走!?

取材・文/小川隆夫

山本 剛 インタビュー

「ミスティ」で人気者に

——帰国したあとは?

米軍のキャンプやクラブで仕事を始めて。でもたいした仕事はないし。

——学校は?

休学届を出して、ヨーロッパに行って、そのまま。まだ紛争をやってたもの。親父から「学費を払えって催促が来たけど、どうしたらいい?」「休学だから払う必要なし」。だから、抹消されてるだろうけど、休学のまま終わっちゃった。

 ——「ミスティ」に出るようになったいきさつは?

ヴォーカルとコンガが森山浩二でベースが海野欣児、このひとは松岡直也(p)さんなんかとやってたラテンのひとで、この3人でコンガ・トリオを組んで、銀座の一流クラブとかでやってたの。あとは浩二とふたりで、オレがエレクトーンを弾いてデュエットとか。引っ張りだこだったんだよ。その仕事が終わると、夜中はアイ・ジョージ(注7)さんとか俳優とかがお客さんで来る青山の「仮面」でやって。

(注7)アイ・ジョージ(歌手、俳優 1933年~)本名は石松譲治。香港生まれで、父は日本人、母はスペイン人。59年トリオ・ロス・パンチョス(cho)の前座で注目され、〈硝子のジョニー〉(61年)、〈赤いグラス〉(65年)などがヒット。63年日本人初のニューヨーク「カーネギー・ホール」公演を行なう。

当時は「10万円プレイヤー」が憧れの的で、それくらい稼いでいた。そんなことをやってるうちに、「ミンゴス・ムジコ」や「O&O(オー・アンド・オー)」とかね、あのころは仕事が終わったあとに集まる場所があったんだよ。溜まり場みたいなね。それで、「ミスティ」にもよく行ってたの。仕事が終わって行くと、菅野(邦彦)(p)さんがいつも練習している。そのあと菅野さんが辞めて、レジー・ムーア(p)のトリオが入って。

 ——なんとなく覚えてる。全員が黒人のトリオでしょ? すぐに辞めちゃったけど。

そう。そのあとに、オーナーの三木(道朗)さんから話が来たんだよ。ところが、あそこのピアノはニューヨーク・スタインウェイでしょ。あれが弾きこなせない。ヤマハなんかだったらパアッと弾けるけど、ニューヨーク・スタインウェイは鍵盤が重くて、ぜんぜん違う。じゃじゃ馬みたいに跳ね返されちゃう。

——それはスタインウェイの特徴?

ニューヨーク・スタインウェイのね。いまはわかんないけど、昔のはそうだった。でも、音がぜんぜんいい。それで弾けないから恥ずかしくて、1週間くらいで「辞めよう」と思った。オクちゃんて覚えてない? オクちゃんが、「ヤマは練習もしないで、なんだ?」って秋田弁でいうんだよ。「それもそうだな」と思って、毎日3時ぐらいに行って、練習をするようにした。「ミスティ」には1月(74年)に入ったんだよね。寒いからって、「ミスティ」の加藤さんが石油ストーヴをそばに置いてくれて、それで練習したんだから。20日間くらいやってたら手が慣れてきて、それからは問題なく弾けるようになった。

——やっぱり、あのピアノはいい?

いいピアノだった。あのころ、ニューヨーク・スタインウェイはあそこに1台と、壊れて使えないのがNHKに1台、それぐらいしかなかったんだから。

——「ミスティ」のは、ニューヨークから飛行機で運んできたでしょ。

JAL(日本航空)に三木さんの友だちで慶應(慶應義塾大学)の後輩かな? 野崎さんというひとがいたんだよ。「開店に間に合わないから、飛行機で運べ」って。先輩だから文句をいわせずに、運ばせたらしい。それで地下の店に運び込めないって、できてた壁を壊して、やっと入れたんだから。

——あのピアノ、まだあるんだよね。

お兄さんの会社、三木プーリ(注8)にね。オレも弾きに行こうかなと思ってるけど。 

(注8)三木プーリ株式会社。創業が39年で、事業内容は伝動機器の開発・製造・販売。

——「ミスティ」には毎日出てたの?

メンバーをジローさんと福井(五十雄)(b)ちゃんで固定して、日曜日以外は毎日。それで、歌手は曜日で違うの。ペコ(伊藤君子)ちゃんもいいかなと思って、「世界貿易センタービル」で歌ってたから、話をして、入れて。あとは安田南でしょ。歌手は動いていたけど、トリオのメンバーは変わっていない。それで、旅にもあまり出してくれないから。

——だからずっと東京にいたんだ。

 三木さんに「ミスティに来て、入ったとたんに地下からいつも同じ音が聴こえてこないと意味がない」「お前がいつも弾いていることがいいんだから、旅はダメだ」といわれてたからね。ずいぶん経って、やっと「旅に出ていいよ」といわれるようになった。

——最初のころはほとんど「ミスティ」でしか山ちゃんのピアノは聴けなかった。

でも、仕事が終わってからあちこちに遊びに行ってたし、夜中にみんなが「ミスティ」にも集まってきたし。

——外タレも来てたね。

「ミスティに行ってみろ」って、みんないわれてたみたい。そういう店がほかになかったからね。みんな来て、盛り上がってた。いろんなひととやったり、聴いたりがいい勉強になったよね。

——「ミスティ」で歌伴の腕も磨いたでしょ。

 そうだけど、その前から森山浩二とやってたから歌伴は苦手じゃなかった。

スリー・ブラインド・マイスから次々とアルバムを発表

——それで、いよいよスリー・ブラインド・マイス(TBM)。

「ミスティ」のころに「やらないか?」という話がきたの。

——藤井武(注9)さんから?

オレの噂を聞いたというか、「ミスティ」のお客さんというか、店に来てたんだよね。あと、ジローさんがTBMでやってたから、そういうのもあったと思うけど。でかい声で「イエイ」とかいってるのが藤井さんだった(笑)。

(注9)藤井武(レコード・プロデューサー 1941年~)【『第1集』の証言者】70年スリー・ブラインド・マイス設立(2014年倒産)。約140枚のアルバムを制作。63年録音の音源『銀巴里セッション』を紹介したことも功績のひとつ。

——最初のアルバムが『ミッドナイト・シュガー』(注10)。藤井さんにいわせると、「山本剛はバラードとブルースだけを聴けばいい」となるけど、実際にそういわれたの?

いわれはしなかったけど、「ブルースを入れよう」という話はあったね。というか、オレがスロー・ブルースをやりたかったんだよ。フィニアス・ニューボーン・ジュニア(p)がやってたブルースとか、アンドレ・プレヴィン(p)のライオンのジャケット(コンテンポラリー盤『キング・サイズ!』)に入っていたブルース。あんなのを聴いてたから、これはそのイメージ。〈アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー〉はビリー・ホリデイ(vo)の『レディ・イン・サテン』(コロムビア)を聴いてて、それがあったから。

(注10)山本の初レコーディングにして初リーダー作。『スイングジャーナル』誌の74年度「ジャズ・ディスク大賞」〈最優秀録音賞 第3位〉。メンバー=山本剛(p) 福井五十雄(b) 小原哲次郎(ds) 1974年3月1日 東京で録音

——いつもやってた曲ばかり?

「ミスティ」でやってたと思う。初めてのスタジオ録音だから、いろんなことがあったかもしれないけど、あまり覚えてない。

——山ちゃんはめったにサイドマンをやらないよね。

なんでだろう? 森山浩二のときは3人が集まってドンて感じだったし。

——「ミスティ」以降は基本的にリーダーでしょ。

頼まれてやることはあったけど、そうだね。自分がリーダーならやりたい曲をやればいいから気楽でいい。ふと思い出した曲をバッとやるから、メンバーには「なにやるの?」というのはあるかもしれない。だけど、黙ってやっちゃう。

——このころは「ミスティ」の専属だから、「ピットイン」や「ジャンク」とかのジャズ喫茶にはあまり出ていなかった。

「ピットイン」はたまにやったかな?

——「ミスティ」に行っても、いない日があったからね。

毎日やってるから、気持ちの中にいろんなものが溜まってくる。ジローさんと福井ちゃんは、「オレはお前の伴奏をしてるんじゃない」というし。そんなこんなで「辞める」となって。夜は飲んでるから、「わかった。じゃあ、明日の昼間に会おう」。昼間に「ミスティ」のそばで会って、話をして。そんなに嫌なら仕方がないんで、「いままでお世話になりました、ありがとう。でも代わりを探さなきゃいけないから、1か月くれ」。

それで大隅(寿男)(ds)ちゃんと大由(だいよし)彰(b)さんになるけど、大由さんは横浜の「ストーク・クラブ」に出てたから、そこに行って、「ミスティに来てくれないかな?」。店の看板ベースだった大由さんを引っ張ったから、「ストーク・クラブ」には悪いことしたけどね。そのことは重々わかった上で「来てくれないか?」と。それで、第2期が始まった。

——大由さんのベースが豪快で、これでまたガーンときた。

ああいうベースは世界でひとりだね。

——それで、これは覚えてる? 「5デイズ・イン・ジャズ」(注11)のライヴ盤(注12)。

オマさん(cello)とやってるんだよね。それで、和田直(すなお)(g)さんが入って。よく覚えてる。TBMの看板のひとたちを集めたコンサートでしょ。ジョージ大塚(ds)さんとかね。

(注11)TBMが74年から始めたコンサート(77年に終了)。連日複数のアーティストが出演し、実況録音盤もいくつか発売された。

(注12)デビュー作から25日後に録音された『鈴木勲&和田直+山本剛トリオ・ジョージ大塚クインテット+2/ナウズ・ザ・タイム』のこと。メンバー(A面)=山本剛(p) 福井五十雄(b) 小原哲次郎(ds) 鈴木勲(cello) 和田直(g) (B面)ジョージ大塚(ds) 植松孝夫(ts) 山口真文(ts) 大徳俊幸(elp) 古野光昭(b) 大友義雄(as) 森剣治(as) 1974年3月26日 東京「日本都市センター・ホール」でライヴ録音

——それで次が『ミスティ』(注13)。

これは、アレンジなりなんなりをいろいろ考えたんだよ。

(注13)『ナウズ・ザ・タイム』と同時に発売された2作目。これで人気に火がついた。『スイングジャーナル』誌の74年度「ジャズ・ディスク大賞」〈最優秀録音賞〉。メンバー=山本剛(p) 福井五十雄(b) 小原哲次郎(ds) 1974年8月7日 東京で録音

——すごいなあと思うのは、いまだに〈ミスティ〉を弾いてて、それこそ何千回ってやってるでしょ。毎回、違うんだよね。そのアイディアがすごい。

いやいや(笑)。その日の気分で演奏するから。決まったことをやってると自分が煮詰まるじゃない。アバウトなところしかないから、却っていいんだよ。その日の流れを決めてじゃなくて、ブルースをやって、それから考えようって感じなの。だから、慣れているひとじゃないとサイドは務まらない。

——なにかフレーズを弾きながら、そのうちにメロディが出てくるスタイルだよね。

それに慌てふためいちゃうひととはできない。いまは香川(裕史)(b)がいるし、大隅ちゃんは昔から一緒にやっているし。

『ミスティ』の大ヒットで人気者に

——影響を受けたのがエロール・ガーナー(p)とか。

ほかにもレッド・ガーランド(p)やザ・スリー・サウンズのジーン・ハリス(p)とかボビー・ティモンズ(p)とか。

——バックビートを強調してスウィングするピアニストが好きなんだ。

そうだね。マッコイ・タイナー(p)も好きだけど、自分の中に取り入れる音とは違う。だから、あまり器用じゃなくてよかった。譜面が読めて、書いてあるものをバリバリ弾いたり、誰のコードでも弾けちゃうとか、そういうのがないから。自分の音で特徴が出せるんで、却ってよかった。

——山ちゃんの魅力は間(ま)だよね。

それはわからないけど、どっちにしろ誰かとおんなじに弾くことはできない。それがいいんだろうね。

——『ミスティ』は大ヒットしたけど、実感はあった?

うーん、なんだったんだろう?

——あのころ、年に何枚もアルバムを出して、すごかったじゃない。

そうだけど、あまり気にしないでやってたんじゃないかな?

——そういうこと、意識しないひとだから(笑)。

アッハッハ(笑)。

——「オレ、すごいな」とか、思わなかった?

あったかもしれないけど、「なんなんだろうな?」というほうが強かった。

——そうとうな売れっ子だったよ。

ついてるな、ラッキーだなとは思ってた。

——自分で弾いてて「いいなあ」と思うことはあるの?

あるよ。泣いたりさ。泣き女って知らない? 「ミスティ」でピアノを弾いていると、オレのうしろの席にいるんだよ。

——泣き女? いたっけ?

月に1、2回、来てたみたい。

——覚えてない。

背の高いモデルみたいな娘(こ)で、綺麗だったんだよ。綺麗だったって、オレはそんなにまじまじと見たことはないけど。みんなが「山ちゃん、泣き女が来たぞ」っていうんだよ(笑)。

——ひとりで来るの?

うん。それでピアノを弾き始めると「グスッ」、だんだん泣き始める(笑)。そうすると、オレもそれにはまって泣いちゃうの(笑)。漫画だよ。「泣き女が来たぞ」っていわれると、「嫌だなあ、また泣かされるのかなあ」って(笑)。上手に泣くから、ピアノを弾きながらオレも感情が入って、いい音が出せる。

——泣きたい気分のときに来てたのかも。

「今日は泣きたいから泣かせてくれ」って? こっちとしては、「オレを泣かせに来なくていいよ」みたいな。もらい泣きして、気分が入っちゃうんだよ(笑)。弾いてて、自分で気持ちが高まることもある。センチになりやすいときがあったり。なんだろう? 急にくるんだよね。そういうのが一番いいけど。しょっちゅうはならないし。どっちにしろ、気を入れるようにして弾く。それを一番大事にしてるから。

——それって、歌伴をやってることにも関係があるんじゃない?

そうかもね。

——自分の気持ちを歌の世界に込めるとか。

あるだろうね。歌伴だけでなく、トリオでもそうだよね。

——山ちゃんは歌手と同じだもの。

ピアノで歌ってるから。サーカスみたいなことは、やることないんだよ。それをやると、オレの場合はなにもなくなっちゃう。余計な音はなるべく排除して、心のままに音を出す。「こんなに指が動いたっけ?」って、たまに弾きながら自分の手を見ることがあるよ。不思議だよね。「今日はどうしたの?」「オレ、こんなこと弾けるんだ」。

——いまだにそういう発見はあるの?

あるある。そういうときっていろんなことを思い出すんだよ。曲を覚え始めていたときに、バラードをぜんぜん違うふうにやってみたこととか。それがいいか悪いかは別にして、やってみる。毎日が実験室みたいなもので、その演奏がはまると、「やっぱり、オレが考えたのでよかったんだ」って。

——やってて、自分で発見するわけだ。

自分で「へええ」と思うことがあるよ。いつもとおんなじことはやらないで、「今日はこうやってみよう」みたいなのが多いかな。

——違うことをやりたいタイプ?

そうだと思う。元のをぶっ壊して、別のことをやろうとか。そういう考えが強いから。

——オリジナルはどうなの?

曲としてはけっこうあるんだよ。あるけど、バラード系が多い。あと、ミディアムくらいの曲もあるけど。〈ガーナー・トーク〉なんていうのは〈ミスティ〉と同じコード進行で、メロディがまったく違う。そういうのが勝手に出てくるんだよ。

——「ミスティ」でライヴ・レコーディングをしたでしょ。

1日で録音して、3枚出してる(注14)。

(注14)『ライヴ・アット・ミスティ』『ブルース・フォー・ティー』『ジ・イン・クラウド』のこと。メンバー=山本剛(p) 大由彰(b) 大隈寿男(ds) 森山浩二(conga) 1974年12月25日 東京「ミスティ」でライヴ録音

——このレコードのピアノがまたいい音をしている。このときは森山(浩二)さんがコンガを叩いて。

何曲かで「コンガ、叩いてくれよ」って頼んでね。

——あの日演奏したほとんどの曲が3枚のアルバムに収録されて。

何曲かは残ってるんだろうけど。

——テープ・チェンジのときの演奏がね。録音テープを交換するときに、短い演奏をして、それは途中でテープが終わっちゃうからアルバムに収録できない。だからちゃんと録音された演奏はぜんぶ入っているって、藤井さんがいってたけど。

〈ジ・イン・クラウド〉が入っているでしょ。これが売れたんだよ。

——ラムゼイ・ルイス(p)のレコードと同じで(注15)、いい雰囲気で手拍子が入っている。

そういう感じになる曲だよね。

(注15)『ラムゼイ・ルイス/ジ・イン・クラウド』(アーゴ)に収録。メンバー=ラムゼイ・ルイス(p) エルディ・ヤング(b, cello) レッド・ホルト(ds) 1965年5月13~15日 ワシントンD.C.「ボヘミアン・キャヴァーンズ」でライヴ録音

——次がヤマ&ジローズ・ウェイヴの『ガール・トーク』(注16)。

これ、トコちゃん(日野元彦)(ds)が名前をつけてくれたの。「山ちゃんね、ヤマ&ジローズ・ウェイヴ……いいでしょ? これにしなさいよ」。それで、決まり。トコちゃんともけっこう長くやってたかな? このレコードはそのころに作ったの。ドラムスはトコちゃんじゃなくてジローさんだけどね。1曲目に入っている〈追憶〉は、譜面をポンと置いて、ワン・コーラスかツー・コーラス。すごく短いんだよね。でも、こういうのがいい。

(注16)メンバー=山本剛(p) 小原哲次郎(ds) 大由彰(b) 1975年12月17日 東京で録音

——76年の『サマータイム』(注17)も「5デイズ・イン・ジャズ」のライヴ盤。

これもいいんだよ。〈ミスティ〉やってるでしょ。イントロに〈スプリング・キャン・リアリー・ハング・ユー・アップ・ザ・モスト〉をやって、それから〈ミスティ〉になる。それが面白い。

(注17)メンバー=山本剛(p) 大由彰(b) 守新治(ds) 1976年5月17日 東京「銀座ヤマハ・ホール」でライヴ録音

——次の『スターダスト』(注18)はストリングス・アルバム。

これはトリオで録って、あとからストリングスを被せたの。「こんな感じにしてください」と、編曲してくれた横内章次(g)さんに頼んで。だけど、ストリングスを入れなくてもいいように出来上がってる。だから、トリオだけの演奏も出せばいいと思うけど。

(注18)『山本剛ウィズ・ストリングス/スターダスト』メンバー=山本剛(p) 川畑利文(b) 大隈寿男(ds) ストリングス 横内章次(arr) 1977年8月2、3、18日 東京で録音

——これはエロール・ガーナーに捧げた作品?

ガーナーがやってる曲をね。それで1曲、ガーナーに捧げた〈ブルース・フォー・エロール〉を書いて。うなぎの「野田岩」に予約して、座敷に上がって、「今日はレコーディングよろしく」って、みんなで一杯引っかけてからスタジオに入った。

——これも基本はワン・テイク?

だったと思う。

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