投稿日 : 2018.07.19 更新日 : 2021.09.03

【証言で綴る日本のジャズ】荒川康男|「ジャズで電気ベースを弾いたのは僕が初めてなんですよ」

取材・文/小川隆夫

荒川康男 インタビュー

連載「証言で綴る日本のジャズ」はじめに

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはベーシストの荒川康男。
 近年ふたたび注目される、往年の“邦ジャズ重要作”で多くの演奏を残した名プレイヤーであり、一方では数多のCMソングを手がけてきた作曲家としてのキャリアも持つ。また、1965年に渡米(バークリー音楽院に留学)した、日本最初期の“ジャズ留学者”のひとりであることは、あまり知られていない事実。そんな、これまで語られることのなかった本邦ジャズ史の新事実が、今回も次々と披瀝される。

荒川 康男/あらかわ やすお
ベース奏者。1939年6月12日、兵庫県神戸市生まれ。高校三年で演奏活動を始め、卒業直後に東京進出。ジョージ川口とビッグ・フォア、沢田駿吾ダブルビーツ、三保敬太郎オールスターズ、トシコ=マリアーノ・カルテットなどを経て、65年にアメリカ・ボストンのバークリー音楽院(現・バークリー音楽大学)に留学。68年に卒業し、帰国後は佐藤允彦トリオ、稲垣次郎とソウル・メディアで活躍し、70年代に前田憲男と猪俣猛で結成したWE3で現在も活躍中。

音楽と出会ったころ

——まずは生年月日と生まれた場所を教えてください。

1939年6月12日、生まれは神戸市です。終戦はちょうど小学校に入るときで。なにも遊ぶものがなくて、ラジオをかけると、あの時代ですからFEN(注1)が流れてきて、〈テネシー・ワルツ〉であれ〈ジャンバラヤ〉であれ、みんなジャズって呼ばれていましたよね。そんなのを聴き始めて。

(注1)45年9月に開局した在日米軍向けのAMラジオ放送。当初はWVTRと呼ばれ、その後はFENの名で親しまれ、97年からはAFNに改称。

——それが最初の音楽体験。

そうです。

——戦時中のことで記憶は?

疎開していたんです。

——どちらへ?

兵庫県と鳥取県の境で、諸寄(もろよせ)という浜坂温泉のとなり街に。

——どういういきさつで?

住んでいたのが神戸の御影(みかげ)で、近くに中島飛行機(注2)の工場があって、すごい空襲が来るんです。毎晩、空が真っ赤になる。「これじゃ危ない」というんで、親戚の知り合いかな? 子供だったからよく覚えていないけれど、そこに疎開して。

(注2)中島飛行機株式会社。17年から45年まで存在した航空機、航空エンジン・メイカー。第2次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メイカー。

——怖い思いをしたことは?

疎開先には福知山線の蒸気機関車に乗って行きました。京都からしばらく先が、空襲を受けて、燃えていた。そんなことを覚えています。明かりが漏れないようにって、列車の中はほとんど真っ暗。でも、向こうに着いたら割合のんびりしていました。

——食料はあったんですか?

あそこは漁業でしたけど、土地がよくない。湾になっていて、それに沿った道に家が建っていて、うしろが崖。水田なんかないから、お米ができない。お米は鉄道が寸断されて、なかなか入ってこない。そういうところで、段々畑があるけど、本当に小さくて。そこで野菜を作って、あとは魚を食べている。

——なんとか自給自足で。

ええ。

——終戦の日のことは覚えていますか?

そこで終戦を迎えましたけど、覚えていません。

——それが6歳のとき。いつまでそちらに?

終戦になって、すぐに戻ってきたけれど、うちは燃えてなにもない。「どこがうち?」ですよ。親戚が芦屋に住んでいて、「場所があるから、とりあえず住んでたら」ということで、芦屋川に移ったんです。そこの芦屋山手小学校に三年が終わるまで通って。そこの先輩が、清水閏(じゅん)(ds)さんと木村新弥(b)さん。

——上田剛(b)さんも芦屋で、東京に出てから清水さんと一緒にやられていたとおっしゃっていました。

上田さんは知りません。神戸で演奏されていたんじゃないでしょうか? そのあとは夙川(しゅくがわ)に住んで、夙川小学校、大社中学と進んで、高校は西宮高校。

——音楽の話に戻りますが、戦後にラジオから流れてきた洋楽を聴いて。

そういう音楽が好きで、「いいなあ」と思って、毎日聴いていました。どっちかといえばスポーツが好きだったけれど、中学に入ったときにたまたま担任が音楽の先生で、ブラスバンドを指導していて。小(こ)バス(サクソルン・バス)といってチューバの小さな楽器、それを「お前、やれ」って無理矢理にやらされたのが楽器との出会いです。

ふたりの姉がピアノをやっていたんで、うちにピアノがあって。以前から、〈テネシー・ワルツ〉を真似したりはしていました。あと、近所にギターを持っている年上のひとがいて、そこのうちに遊びに行ってはギターを触らせてもらっていた。だけど、音楽的にちゃんとやったのは中学に入ってから。

ところがコーチがいなくて、ブラスバンドではなにもできなかった。先生も管楽器のことはわからないので、ピアノで「ぽん」と音を出して、「この音を出せ」(笑)。そういう状態でしたから。

——それが中学一年から?

そうです。トランペットをやっている同級生がいて、その友だちが大阪のキャバレーで吹いているプロ。そのひとに「教わってきた」「ジャズはこうやるんだ」といって、彼がそれらしく吹くんです。そういうのに影響を受けて。ジャズまではいかないですけど、それを「いいなあ」と思った程度です。

高校で演奏活動をスタート

——そこからジャズに興味を持って。

それで、レコードを探したんです。ところが、そのころは洋楽のLPがなかなか手に入らない。なんで見つけたのか、誰かに譲ってもらったのか、ベニー・グッドマン(cl)のレコードを手に入れて、それをよく聴いて。それが、高校に入ってから。

そのころですけど、卒業した先輩がいろんなところで演奏していたんです。当時はいわゆるジャズ喫茶、クリームパフェとかあんみつとか、なんでもあるんですけど、そういうのを食べながら生演奏を聴く。銀座の「テネシー」なんかがそうでしたよね。

——そういうのが神戸にもあって。

神戸、大阪、いっぱいありました。先輩がそういうところに出ていて。ある日、その先輩がやっているグループのベースが、ほかのグループに行っちゃったとかで、ベースがいない。「お前は中学校で小バスを吹いていたから低音部記号が読めるだろう」「お前、やれ」。そこからですね。

——それまでベースは弾いたことがなかった?

触ったこともなかったです。

——ベースはあったんですか?

ひとのを借りて。

——それが高校何年?

三年になったころです。

——ブラスバンドはやっていなかった。

ぼくの高校にはなかったんで、柔道をやっていました。

——高校に入ってから楽器はやっていなかった。

はい。

——「ベースをやれ」といわれても、わからないですよね。

それで先輩の家に日曜ごとに呼ばれて、「こうだ」「ああだ」と猛特訓。

——譜面は読めたんですか?

いま考えたら、ぜんぜん読めていない(笑)。

——じゃあ、手取り足取りみたいにして。

習いました。

——先輩の楽器は?

ギターで、やっていたのはハワイアン・バンド。でも、ハワイアン・バンドといっても純粋なハワイアンだけじゃなくて、当時はジャズの曲もハワイアンでやっていたんです。だから簡単な曲、〈オール・オブ・ミー〉とか〈テネシー・ワルツ〉とか、そういう曲も演奏する。それができるから大喜びで。

——ギャラはもらえたんですか?

途中からもらえるようになりました(笑)。初めはボーヤ、見習いで。でもジャズ喫茶に出たり、それからクラブなんかでも演奏して。

——進駐軍のクラブでもやりましたか?

それはビッグバンドとかがやる仕事で。ビッグバンドといっても当時はナイン・ピース(9人編成)ですけどね。そういう編成でダンス音楽をやるバンドが出ていました。当時のクラブでは、ひとつがそういうジャズ風のバンドで、もうひとつがたいていはタンゴ・バンド。それが交代で演奏して。だいたい30分ずつですけど、そういう形態で。

——荒川さんもそういうところで演奏はされた?

一緒にやってたギターのひとが米軍の高官の運転手をやっていたんです。そのひとが持ってくる仕事は滅茶苦茶ギャラがいい。当時でひとり1ドル。360円ですからね。コーヒーが30円とかの時代でしょ。1ドルもらったらたいへんな話で。それが途中で何人か入って、安くなる(笑)。

——仕事はジャズ喫茶が多かった?

はい。われわれが出ても、当時のジャズ喫茶は満杯になりました。ほかに遊ぶところがないから、並んで待っている。それがいくつもあって、みんな満員。

——1日に何セットやるんですか?

昼の部と夜の部があって、30分がワン・セット。だいたいふたつのグループが出て、入れ替えですから、昼夜2回ずつとか。当時は東京からもいろいろなグループが来てました。ジャズ喫茶回りがあって、鈴木章治(cl)とリズム・エースとかジョージ川口(ds)とビッグ・フォアとか、そういった有名グループだけでしたけど。

ジャズ以外では、ウエスタン・バンドで鹿内孝(注3)とかね。坂本九(注4)が初めて出てきたときは京都で一緒になって。大受けに受けたって、涙を流してうちに電話をしている姿を見たこともあります。

(注3)鹿内孝(歌手、俳優 1941年~)59年、鹿内タカシ&ブルーコメッツ結成。61年、渡辺プロに入り「ロカビリー歌手」として売り出す。66年から68年までアメリカに音楽留学。その後は俳優としても活躍。

(注4)坂本九(歌手 1941~85年)59年、ダニー飯田とパラダイス・キングに参加。60年、〈悲しき六十才〉でスターに。61年、〈上を向いて歩こう〉が全米1位。その後もヒットを連発し日本を代表する歌手になるも、85年、日航機墜落事故で死去。

——そういうポップス系のバンドとの組み合わせもあって。これは高校卒業後?

高校が終わってです。三年のころは先輩のバンドでやって。大学を受けて、入学はしたんですけど、ミュージシャンに絶対になるつもりで、辞めて。ひとに「関西でやっていたんじゃダメだ」といわれて、「じゃあ」というんで、東京に出たんです。

——それがいくつのとき?

18です。高校を出て、すぐですね。

上京直後からビッグ・フォアに参加

——関西時代に、のちに有名になったひとと一緒にやったことはありますか?

すでに有名だったひとですが、鍋島直昶(なおてる)(vib)(注5)さん。東京にいたひとで、鍋島男爵の子孫です。いまも健在で、今年92かな? お元気で、自分で楽器を運んで。親戚もみんな亡くなって、このひとが正式な鍋島家の後継。北村英治(cl)さんの慶應(慶應義塾大学)の先輩にあたるひとです。一緒にやっていたこともあるみたいです。

(注5)鍋島直昶(vib 1926年~)曽祖父は肥前佐賀藩10代藩主鍋島直正。17歳で海軍航空隊員となり、復員後慶應義塾大学予科に入学するも中退し、ドラマーとして活躍。25歳のとき、仙台米軍キャンプでエミール・リチャーズ(vib)と出会い、2年間ヴァイブの教えを受ける。40歳のころに神戸市内のクラブと契約したことをきっかけに兵庫県へ移住。2008年に大塚善章(p)、宮本直介(b)と「ゴールデン・シニア・トリオ」結成。2015年、ギネスブックに「世界最高齢のバンド」として認定される。

——前田憲男(p)さんと猪俣猛(ds)さんも関西ですけど、そのときはやっていない。

前田さんはいち早く東京に出ていました(55年)。イノさん(猪俣猛)は関西のジャズ喫茶に出ていましたが、昼と夜で入れ違い。顔を合わせることはあったけれど、関西時代は一緒にやったことがないです。

——それで、荒川さんは東京に出てきますが、仕事のアテはあったんですか?

ないです。宮本直介(b)さんが、ぼくより一足先に東京に出ていたんです。ジョージ川口とビッグ・フォアに入っていたんですけど、ぼくが行ったころはそこを辞めて、ピアノの大沢保郎(やすろう)さんと銀座の「サンボア」というクラブでやっていました。

それで、東京に来るといったってホテルに泊まるようなことはできない。そうしたら、宮本さんが「うちに泊まっていいぞ」といってくれたんで。アパートでしたけど、すごく面倒を見てくれました。「居るならいてもいいけど、代わりにメシを作れ」(笑)。「わかりました」といって、買い物に行って、オカズを作ったり。

——宮本さんからは習わなかった?

そういうのはぜんぜんなしで。

——荒川さんは、それまでまったく独学?

その当時は、ですね。多少は先輩から習ったぐらいで、ちゃんとしたレッスンは受けてないです。

——宮本さんとはどうして知り合ったんですか?

同じ関西ですから。あのひとは関西学院大学のグループでジャズ喫茶に出ていました。あのころは学生バンドが流行っていて、「すごいな」「上手いな」と思っていたひとです。

——東京に行くころには、荒川さんはジャズのベースをやっていた?

その前に、少しだけ伊藤隆文(tp)というひとのディキシーランド・ジャズ・バンドでやってました。

——それがジャズ・バンドで演奏した最初のころ?

そうです。そこで譜面を読んだり、いろいろなことを覚えました。

——これが高校を卒業したあとで。高校のときは毎日は演奏していなかった。

学校がありますから、先輩が出ているところに行ったりして、週に1回とか。

——自分のベースを買ったのはいつごろ?

ディキシーをやり始めたころです。

——高校を卒業したちょっとあとで、東京に行くちょっと前ぐらい。

そうです。

——その時点で、ミュージシャンになろうと。それで宮本さんのところで、まあ居候ですよね。

そうしたらある日、ジョージ川口さんから宮本さんに電話がかかってきて、そのときは鈴木勲(b)さんがいたんですけど、「オマスズ(鈴木勲のニックネーム)が辞めたから、戻ってこないか?」。宮本さんは銀座のクラブで毎日やっていたから「無理です」と。この電話は、ぼくが東京に出て2、3日ぐらいのときですよ。それで、「ここにオレの友だちがいて、ちゃんと弾けるから、大丈夫だと思う」といって、紹介されて。テストかたがたビッグ・フォアに行ったら、「ずっとやってくれ」。

——東京に出て、すぐにビッグ・フォアに入られて。ピアノは佐藤允彦さん?

渋谷毅さん。トランペットが林鉄雄さん、サックスが宮沢昭さん。

——ビッグ・フォアはツアーが多かったんですか?

都内のジャズ喫茶もやってました。

——専属ではなくて、あっちこちで。旅もあって。

でも、そんなに忙しい感じではなかったです。御徒町のなんとかというジャズ喫茶、あとは銀座と新宿の「ラ・セーヌ」。名前は忘れたけれど、渋谷のジャズ喫茶にも出ていました。

——どんな曲を?

〈ドラム・ブギ〉とか、有名なスタンダードです。ジョージさんがリーダーですから、テンポの速い曲が多かった。〈ダーク・アイズ(黒い瞳)〉は、初代メンバーの松本英彦(ts)さんの持ち曲だから、ぼくのときはやりません。

——ギャラはよかった?

よかったけど、条件つきみたいなもので、ポーカーでだいたい巻き上げられる(笑)。

——誰が強いんですか?

ジョージさん。滅茶苦茶な賭け金でくるから、われわれ兵隊はついていけない。給料は15日ずつ出るんです。「先に渡しておく」といって、それも取り上げられちゃう。ジョージさんとしては、メンバーに辞められないように先払いをしておく。それにまんまとやられて(笑)。

入って2、3か月したら、宮沢さんが「辞める」といい出した。「宮沢さんが辞めたらなにもないな」と思っていたところに、また宮本さんから「沢田駿吾(g)さんのバンドがベースを探しているから、お前、テストに行って来い」(笑)。

当時、沢田さんのバンドには徳山陽(p)さんがいて、素晴らしい知識のあるひとだから、「これは勉強になるな」。それで沢田さんに「お願いします」と話したら、「オーディションだ」となって、行ったら「明日から」と。すぐに移りました。

——ビッグ・フォアには3か月くらいいて、次が沢田駿吾さんのグループ。ダブル・ビーツですよね。メンバーは?

渡辺文男(ds)ちゃんがいたカルテット。サックスはいなかったです。

——どういうところに出ていたんですか?

新宿の「コスモポリタン」というクラブです。前は「ローズハウス」といって、それが有名だったんで、名前が変わっても「ローズハウス」といえば、みんなわかる。メンバーズ・クラブで、クラブは2階ですけど、1階の入り口を入ったところにクロークがあって。そこで、メンバーだと入れてもらえる。

——専属でやっていたんですか?

そうです。「コスモポリタン」は、元は青山一丁目にあったんです。青山の店には遊びに行ったことがあります。当時は宮沢昭さんがやっていたのかな? 六本木の「クラブ88」が宮沢さんだったかな? ソニーのビルがあったところ。

——狸穴(まみあな)の交差点のところですよね。

あそこは八木正生(p)さんが出ていたのか。

——経営者がアメリカの危ないひとだとか。

マフィアだとかいってましたけど、実際のところはわかりません。

——東京に出て、米軍のクラブではほとんどやっていない?

ありますよ。横浜とか埼玉とか、遠いところでは岩手とか。

——そういうのはジャズのバンドで行くんですか?

沢田さんのバンドが多かったです。

——日本のクラブと比べてギャラはどうだったんですか?

沢田さんのところは給料制ですから、変わらない。

——沢田さんはスタジオの仕事も多かったでしょ?

当時、ビッグ・フォアの月給が6万円。沢田さんのところは半分の3万円。ビッグ・フォアの給料は、当時の水準からいけばよかった。スタジオの仕事は「しょくない(ミュージシャン用語で内職のこと)」といってたんです。沢田さんが「あとはしょくないで補填するから」といって。スタジオ仕事の口入れ屋みたいな事務所を紹介してくれて、やるようになりました。

——それは映画とか劇伴の仕事?

劇伴やコマーシャルが多かったですね。小林亜星(注6)さんが出てくる前で、三木鶏郎(とりろう)(注7)と「冗談工房」とかね。亜星さんは、渡辺貞夫(as)さんがアメリカ留学から帰ってきて、ヤマハでジャズ教室をやったときに来ていて、理論を勉強していた。そのころはいずみたくさん(注8)がスタジオで主流だったんです。1日に3、4本、新しいコマーシャル、違う会社のコマーシャルを録っていましたから。

(注6)小林亜星(作曲家 1932年~)慶應義塾大学医学部入学、経済学部に転部して卒業。作曲を服部正に師事。69年〈イエイエ〉〈エメロンシャンプー〉他のCM音楽作曲に対し「第6回放送批評家賞(ギャラクシー賞)」受賞。ドラマ、ヴァラエティ番組、CM出演などでお茶の間の人気者に。

(注7)三木鶏郎(作詞、作曲家、放送作家 1914~94年)46年三木鶏郎楽団結成。47年開始のラジオ番組『日曜娯楽版』(NHK)の「冗談音楽」や52年『ユーモア劇場』(同)で人気に。51年日本初のコマーシャル・ソング〈僕はアマチュアカメラマン〉創作。仲間を集めた「冗談工房」からはさまざまな人材を輩出。

(注8)いずみたく(作曲家 1930~92年)50年舞台芸術学院卒業。直後から幅広いジャンルの作曲を開始。代表作は〈世界は二人のために〉(67年)、〈恋の季節〉(68年)、〈夜明けのスキャット〉(69年)など。ミュージカル制作や後進の俳優を育てた活動でも有名。

——じゃあ、いずみさんの曲のレコーディングもして。

ええ。いずみたくファミリーの坂本九とか、あのへんのひとのレコーディングもやりました。映画でいうと、あまり思い出せないけれど、佐藤勝(注9)といって、『椿三十郎』(注10)のね、あのひとの音楽をやるため、京都まで一緒に行って、なんてこともありました。

(注9)佐藤勝(作曲家 1928~99年)映画音楽の巨匠のひとりで、『用心棒』(61年)、『椿三十郎』(62年)、『天国と地獄』(63年)など、黒澤明作品を多数担当。

(注10)62年1月1日に監督=黒澤明、主演=三船敏郎で封切りした東宝映画。

——タイトルは覚えていますか?

毎日、次から次へとやっていましたから、なにがなんだかさっぱりわからない(笑)。よく覚えているのは〈寅さんのテーマ〉。あれは、ぼくがやっているんです。山本直純(注11)さんが書いて。直純さんとはズッとやっていたから、『男はつらいよ』(注12)シリーズは何本もやりました。

(注11)山本直純(作曲家 1932~2002年)東京藝術大学在学中から多方面で才能を発揮。『男はつらいよ』のテーマ音楽、童謡の〈一年生になったら〉(66年)など、広く親しまれる作品を生み出す。72年小澤征爾と新日本フィルハーモニー交響楽団設立。73年から10年間『オーケストラがやって来た』(TBS系列で放送)音楽監督。

(注12)主演=渥美清、原作、脚本、監督(一部作品除く)=山田洋次のテレビ・ドラマおよび映画シリーズ。主人公の愛称から「寅さん」シリーズともいわれる。映画は全48作が69年から95年にかけて松竹で制作された。

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