【証言で綴る日本のジャズ】村岡 建/第1話「50’s 邦ジャズ界に現れたスーパー高校生」

文/小川隆夫

2018.06.28

連載「証言で綴る日本のジャズ3」 はじめに

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場する“証言者”はサックス奏者の村岡建。ジョージ川口や白木秀雄、日野皓正のグループで活躍しながら、映画やドラマ主題歌、CM曲、歌謡曲にも数多く参加。とりわけ、加山雄三「君といつまでも」、ガロ「学生街の喫茶店」、山口百恵「横須賀ストーリー」などの“誰もが聞いたことのあるイントロや間奏”は村岡によるものである。ジャズマンとして多様なメディアに関与してきた同氏の発言の端々に、当時のエンタメ界の構図が垣間見える。

メロディを聴けば「ドレミ」がわかった

——生まれた場所と生年月日を。

生まれたのは東京の世田谷区千歳船橋で、経堂のお屋敷町のど真ん中。誕生日は1941年1月12日。

——ということは、生まれた年に戦争が始まった。

親父は材木商で、陸軍に材木を入れている大きな会社の社長。昭和19年に空襲がひどくなったから、「東京にはいられない」というんで、千葉県の印旛沼に疎開したの。そうしたら、翌年の3月10日に深川の大空襲があって。夜中にトイレで起きたら、千葉から見てても、空が真っ赤。それで、母親が「これは怖すぎる」と、次の次の日に秋田県に移るんです。材木の原木を採るところが秋田にあったので、秋田県の田舎に逃げ込んで。そこに戦後もしばらくいて、小学一年生になるときに(46年)、世田谷の家に戻りました。

——世田谷は空襲に遭わなかったみたいですね。

火もなにも、まったく大丈夫でした。ぼくは5人兄弟の4番目で、年の離れたふたりの姉はピアノやヴァイオリンを習っていたんです。ぼくはなにも習っていなかったけれど、姉たちがやっていたコールユーブンゲン(注1)を一緒に歌わされて。4つから7つの間のことだけど、あるとき、姉がお琴で〈さくらさくら〉を弾いたときに、突然音が「ドレミ」に変換されて聴こえてきた。

——ほかの曲はどうだったんですか?

ほとんどがドレミでわかるようになってました。小学三年ぐらいまで、学校ではスペリオパイプ(リコーダーの一種)をやってて、家にはピアノがあったから〈エリーゼのために〉とかそういうのを弾いて。

——村岡さんが?

姉のピアノを横で見て、一緒に指を動かして弾き方は覚えちゃう。五、六年のときに、となりのうちのひとが持っていたハーモニカを吹かされて。ハーモニカでも、知ってるメロディは吹けました。

ぼくは東京に戻って和光学園の小学校に入って、兄は成城学園。成城学園ではウエスタンが流行っていたから、家にいると、兄は朝から晩までハンク・ウィリアムズ(注2)やハンク・スノウ(注3)とか、そういうひとのレコードをかけている。土曜日にはFEN(注4)で8時から「グランド・オール・オプリ」(注5)を聴いて、8時半からは「トップ20」。「トップ20」は30分で20曲かかる。

ハーモニカの楽譜は数字譜だから、勉強しながら「トップ20」を聴いて、〈慕情〉(注6)とか、当時のヒット曲をぜんぶ「1、2、3」の数字で雑記帳に書いていく。それが特技で、学校に行くと、「今度流行るのはこれ」とか「10位はこれ」とかいって、ハーモニカで吹く。小学校、中学校と、ずっと「トップ20」を聴いてました。ところが初めて音が取れなくなったときがあって、それが〈慕情〉のCシャープの音。

——半音だから。

そのときはそれがわからなくて、自分のハーモニカじゃどうしてもその音が出ない。ピアノのところに行けばよかったけれど、その半音を覚えるため、新宿の楽器屋さんに連れて行ってもらって、Cシャープのハーモニカを買って。2段重ねて〈慕情〉が初めて吹けるようになった。

——それが中学生のころ。

そう。高校は日本学園で、明大前にある。そこのブラスバンド部に入るんです。

——ブラスバンド部に入ったのはどうして?

音楽がわかるから。それで「どの楽器がいい?」と聞かれて、ベニー・グッドマン(cl)が好きだから「クラリネットがいい」。ところがクラリネットは3本しかなくて、ぼんやりしていたせいか、ぼくは4人目で。だから、ひとがやっているのを「いいな、いいな」と、見てました。

そうしたらしばらくして部費が下りて、先輩が神田の楽器屋さんでサキソフォンを買ってきた。「これがアルト・サックスだ。いままで楽器がなかったけど、今日からはお前がこれだ」といわれて、「エッ、これ、どうやるんですか?」。先輩が「ドシラソ〜」と見本を見せてくれて。

ぜんぜん吹いたことがないのに、指使いがスペリオパイプと同じだったから、吹いてみたら音が出た。それでヒット・パレードのナンバー・ワン、そのころは映画の『黄金の腕』(注7)の主題歌を、渡されてまだ10分くらいのときに吹いたものだから、学校中が驚いて。音楽の先生なんかもみんな部室に来て、たいへんなことになっちゃった(笑)。

ジャズでプロのミュージシャンに

——ジャズを聴き始めたのはいつ?

ジャズは高校一年になってから。中学三年までは「トップ20」とか「グランド・オール・オプリ」とか、そっちでした。高校でサキソフォンになって、初めてジャズを聴くようになる。毎週聴いていたラジオ番組が、ジョージ川口(ds)さんや松本英彦(ts)さんのビッグ・フォアが出ていた『トリス・ジャズ・ゲーム』(注8)。番組では、必ずジョージさんがお客にリクエストを募集して、できない曲があると、そのひとに賞品が渡る。バンドができないような難しい曲をみんないうけど、英彦さんはなんでも吹けちゃう。ぼくが知らない曲を英彦さんが吹くと、数字譜でそれをコピーして。

そんなことをやっていたら、父親から「藝大(東京藝術大学)に行きなさい」と勧められて、藝大に行くため、大橋幸夫(注9)さんというクラリネットの先生につくんです。日本学園のすぐ裏に家があって、そこに毎週通っていました。

——中村誠一(ts)さんも鈴木孝二(cl)さんも、音大に入るため、高校のときに通ったとおっしゃっていました。

ふたりともそうです。

——高校でアルト・サックスをやりながら?

一年から三年まで大橋先生にクラリネットを習って。「藝大を目指すならクラリネットを勉強しろ」といわれていたけど、先生からは「クラリネットではクラシック、サキソフォンではジャズをやりなさい」「うちに来ているときはクラシック・プレイヤーだから、クラリネットを覚えなさい」。

——鈴木孝二さんは、最初、大橋先生から「音楽家にならないでサラリーマンになったほうがよっぽどいい」と断られたそうですが、そんなことはなかった?

先生は、ぼくが一年のときに「見どころがある」といってくれたんです。藝大にいた山本正人(注10)さんというトロンボーンの先生が聴音も教えていて、大橋先生が、「1回、その先生のところに行って、聴音のレッスンを受けて来なさい」。

池袋から東上線に乗って山本先生の家に行きました。2、30人の生徒が来ていて、みんなに五線紙を渡して、先生がピアノを弾く。弾き終わったと同時に、ぼくが五線紙を渡したの。そうしたら先生がパッと見て、「ぜんぶ合っているけれど、キーが違う」。「これ、Cのキーで取っただろう」「それじゃあ、やる前にCの音を出してください」「じゃあ、Cを1回だけ弾くよ」。ポンと音を出して、わざと違うキーで次の16小節を弾いたの。それでも20何人かいる生徒の中で最初に渡したら、先生がビックリして(笑)。

1時間のレッスンの間に、それが一声だけじゃなくて、二声になって、三声になって、五声になって、最後は肘でバーンと弾いて。それが最後までぜんぶ回答できた。レッスンが終わったら、「ここに名前と住所と電話番号と、ぜんぶ書きなさい」。「見どころがあるから、英語も数学も、なんの勉強もしないで、音楽の勉強だけしなさい。そうしたら死んでも藝大に入れてあげる」「わかりました。ぼくもそういうつもりです」って、高校一年ですから、喜んで帰って。

——そんな村岡さんですが、高校三年でクラブの仕事をしていたとか。

ぼくは高校三年を2回やってて、最初の三年のころによく通ったのが渋谷にあったジャズ喫茶の「デュエット」。そこで、夏休みにホレス・シルヴァー(p)のクインテットにハンク・モブレー(ts)が入っている〈ノー・スモーキン〉(注11)を数字譜でコピーしてたら、横で見てたひとが「なにやってるんだ?」。「コピーしてる」といったら、「今日、神田のキャバレーで仕事があるけど、来ないか?」。アルト・サックスを持っていたので、一緒に行ったら、出ていたのがスウィング・バンドで、「吹いてくれ」。

——すぐに吹けたんですか?

ワン・コーラス聴けばメロディを覚えるから、次のコーラスから吹ける。コード進行もある程度わかっちゃうし。

——アドリブも吹けたんですか?

なんか、いろいろできたんだよね。そのひとはプロのギタリストで、そのキャバレーを辞めることになって、そのままサキソフォンで入っちゃった。

——それが、ギャラももらった初めての仕事。

1か月で3000円だから、1日100円。千歳船橋から神田まで電車で往復すると60円かかる。40円にしかならないけど、〈ベサメ・ムーチョ〉とか〈マイアミ・ビーチ・ルンバ〉とか、毎日いろんな曲を吹けるのが楽しくて。うちに帰るとそれを数字譜にしてたから、『1001』(注12)みたいなものを自分で作ってた。

そういうことをやっているうちに、ドラムスのひとから「新宿のキャバレーで一緒にバンドをやろう」といわれて。「ジャズ・コーナー」というジャズ喫茶の裏にある「クラブ・フジ」という未亡人サロン(笑)。そこのテストを受けて、ドラムスのひととバンドを組んだんです。最初に入ってきたピアノが山下洋輔さん。そのときのベースが滝本国郎さんで、トランペッターが山木というひと。

——最初の三年のときだから、58年か59年の話で。やっていたのはスウィング・ジャズ?

そのときはジャッキー・マクリーン(as)とかのモダン・ジャズ。

——山下さんはどんなピアノを弾いていたんですか?

ハンプトン・ホーズ(p)の曲とか。でも1か月くらいで山下さんは辞めちゃった。そのあとに入ってきたのが、マッコイ・タイナー(p)みたいな感じでピアノを弾く慶応ボーイの竹村さん。このひとも1か月くらいで辞めて、そのうち大阪に帰って、関西のテレビの副社長になった。次に入ってきたのがコルゲン(鈴木宏昌)。彼も1か月で辞めて、次がプーさん(菊地雅章)(p)の弟で菊地雅洋。

——米軍のキャンプやクラブで演奏したことは?

新宿のクラブでやってるときに、渡辺文男(ds)さんと寺川正興(b)さん、ピアノが板橋さんというひとの3人にぼくが入って、厚木にあった米軍のEMクラブによく行ってました。それでハッと気がついたら、アルト・サックスは渡辺貞夫さんが段違いに上手いけど、テナー・サックスならまだ潜り込めそうだと。それで、母親にセルマーのテナー・サックスを買ってもらって。だから新宿のクラブはアルトで仕事をしてたけど、テナー・サックスも持っていた。

——アルトとテナーではキーが違うけど、問題はなかった?

それはぜんぜん関係ない。なんだってできちゃうんだから(笑)。クラリネットの下のキーがEフラットでアルトのキーだし、オクターブ・キーを押すとBフラットで、テナーがBフラットだから。

第2話(7月5日掲載予定)に続く

 

注1)ドイツの音楽家フランツ・ヴュルナーが1876年に刊行した『ミュンヘン音楽学校の合唱曲練習書』。
注2)ハンク・ウィリアムズ(カントリー・シンガー 1923~53年)カントリー音楽において最重要人物のひとり。29歳で亡くなるまでに『ビルボード』誌の「カントリー&ウエスタン・チャート」で11枚のナンバー・ワン・ヒットを含む35枚のトップ10シングルを残す。ヒット曲に〈アイ・ソー・ザ・ライト〉(48年)、〈ラヴシック・ブルース〉(49年)、〈ヘイ・グッド・ルッキン〉(51年)、〈ジャンバラヤ〉(52年)などがある。
注3)ハンク・スノウ(カントリー・シンガー 1914~99年)カナダ生まれで、33年にデビュー。ヒットに恵まれず、50年にテネシー州ナッシュヴィルのショーで自作の〈ムービン・オン〉を歌ってスターの座につく。
注4)45年9月に開局した在日米軍向けのAMラジオ放送。当初はWVTRと呼ばれ、その後はFENの名で親しまれ、97年からはAFNに改称。
注5)テネシー州ナッシュヴィルのラジオ局WSMが毎週土曜の夜に放送しているカントリー・ミュージックの公開ライヴ。グレート・アメリカン・カントリー(GAC)ネットワークでTV放送化もされている。25年11月28日に放送が開始され、現在まで続くアメリカ最古の番組。
注6)55年に公開された同名アメリカ映画の主題歌。サミー・フェイン作曲による主題歌は「第28回アカデミー賞」で〈歌曲賞〉を受賞。
注7)55年公開のオットー・プレミンジャー監督によるアメリカ映画。麻薬中毒のドラマーの話で、「第28回アカデミー賞」の〈主演男優賞〉にフランク・シナトラ、〈作曲賞〉にエルマー・バーンスタイン、〈美術賞〉にジョセフ・C・ライトとダレル・シルヴェラがノミネートされたが、いずれも受賞は逃した。
注8)文化放送がキーステーションとなり全国ネットで54年12月26日放送開始(57年2月末終了)。壽屋(現在のサントリー)がスポンサーで、制作が「ビデオホール」。毎週ジョージ川口とビッグ・フォアが出演し、司会はロイ・ジェームス。サントリー製品が賞品として授与された。
注9)大橋幸夫(cl 1923~2004年)NHK交響楽団首席クラリネット奏者として活躍し、国立音楽大学の教壇にも立つ。日本クラリネット協会永久名誉会長、国立音楽大学名誉教授、N響団友。
注10)山本正人(指揮者、トロンボーン奏者 1916~86年)39年東京音楽学校本科を卒業し、45年同校研究科修了。62年から東京吹奏楽団創立以来の常任指揮者。東京藝術大学音楽学部器楽科トロンボーン助教授を経て、同音楽学部ソルフェージュ科教授で学生部長、聖徳学園短期大学の教授を歴任。
注11)『ザ・スタイリングス・オブ・シルヴァー』(ブルーノート)に収録。メンバー=ホレス・シルヴァー(p) アート・ファーマー(tp) ハンク・モブレー(ts) テディ・コティック(b) ルイス・ヘイズ(ds) 1957年5月8日 ニュージャージーで録音
注12)著作権など無視して作られた海賊版で、戦後に日本のミュージシャンが愛用したスタンダード・ナンバーの楽譜集。

※記事内のカタカナ表記について。仮名づかいは著者の解釈を尊重して掲載しているため、一般的な表記および、他ページ(同サイト内)の表記と異なる場合があります。

関連記事


PICKUP EVENTオススメのイベント