2019.03.28

【証言で綴る日本のジャズ】村上 寛/第1話「ロックバンドでコンテスト出場。審査員には渡辺貞夫が…」

インタビュー・文/小川 隆夫

村上 寛/第1話

連載「証言で綴る日本のジャズ3」 はじめに

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはドラムス奏者の村上寛。


村上 寛/むらかみ ひろし
ドラムス奏者。1948年3月14日、東京都中央区日本橋浜町生まれ。高校時代から活動を始め、67年に本田竹彦(のちの本田竹曠・本田竹広)トリオでプロ・デビュー。69年、菊地雅章セクステットに参加。72年、渡辺貞夫カルテットに短期間参加したのち菊地セクステットに復帰し、解散する73年まで在籍。この間、ゲイリー・ピーコック、マル・ウォルドロン、ジョー・ヘンダーソンなど、来日したミュージシャンと共演・レコーディングをする。一時帰国も含めて73年から約3年間ニューヨークに滞在。78年に初リーダー作『Dancing Sphinx』(トリオ)を発表。同年ネイティヴ・サンに参加し、81年まで在籍。以後は現在までさまざまなグループや自己のコンボで活動している。

最初の洋楽体験はビング・クロスビー

——まずはお生まれから。

東京の日本橋、浜町で1948年3月14日に生まれました。

——日本橋ですから中央区。浜町で生まれたということは、ご両親がそこで商売をされていた?

親父が呉服屋、叔母が料亭をやっていたんです。呉服屋といっても芸者さん相手で。

——当時、あのあたりは盛んだったから。

そういうのをずっとやっていて。

——小学校は地元で。

はい。小学校が久松小学校(中央区立久松小学校)。久松警察の裏のあたりで、中学が久松中学校(現在の中央区立日本橋中学校)。隅田川の川っぷちにあって、両国橋のすぐそば。

——じゃあ、小・中学は地元で。音楽との出会いは?  

うちは兄貴が歌をやっていたから。外国の音楽で最初に聴いたのが、小さなときに蓄音機で聴いたビング・クロスビー(vo)の〈ホワイト・クリスマス〉。あとは、家族でいろいろ聴いていました。ぼくはいちばん下なので、姉兄が聴いているのを耳にしていただけですけど。

——何人姉弟ですか?

ぼくを入れて5人。女・女・男・男・男です。

——〈ホワイト・クリスマス〉を聴いたのはいくつぐらい?

5歳とか、もうちょっと上だったかな? それで、歌をやっていた長男の友だちにドラマーの長谷川昭弘さんがいて、うちによく遊びに来ていたんです。あのひとが来て、なにか叩いている(笑)。いま考えればブラシでなにかを叩いていたんでしょう。それがカッコよくて。自分もそのうちやってみたくなって、長谷川さんのところに習いに行ったのが、ドラムスを始めるきっかけですね。

——そのお兄さんとはいくつ違い?  

6歳違います。

——長谷川さんが来てたのは、お兄さんが高校のころ?

そう。

——そのとき村上さんは小学生で、「いいなあ」と思って。

というか、「なにやってるんだろう?」ですよね。

——小学生や中学生のころはどんな音楽を聴いていたんですか?

エルヴィス・プレスリーとかリトル・リチャードとか、あの辺のレコードがうちにけっこうあったんです。

——それはお兄さんのレコード?

兄弟の影響ってすごいじゃないですか。いちばん上の兄貴がやっていなかったら、ぼくはなにもやっていなかったかもしれない。

——ドラムスとの出会いもなかったでしょうし。

それで、レコードをしょっちゅううちでかけていたら、自然にそういう音楽が身についた。

——じゃあ、最初から楽器はドラムスだったんですね。  

ほかに楽器がなにもなかったから、ただなっちゃったというだけで。

——最初に叩いたのはいくつぐらいのとき?  

高校生のときかな? 長谷川さんのところに習いに行ったのが高校に入ってからです。

高校時代にバンド活動をスタート

——高校は成城学園(現在は成城学園中学校高等学校)ですよね。日本橋から成城ですか?  

そのころは三軒茶屋に引っ越していたので。

——それじゃ、バス1本で行けますね。実は、村上さんはぼくの先輩なんです。成城ってバンドが盛んじゃないですか。

あのころはウエスタンがすごかったですね。

——バンド活動もしていましたか?

森山良子(注1)とは同級生だったからやったことがあります。最初は一緒にやっていたけど、そのうち彼女はプロになっちゃった。

(注1)森山良子(歌手 1948年~)父親がサンフランシスコ生まれの日系2世でジャズ・トランペッターの森山久、母親が元ジャズ・シンガーの浅田陽子。高校時代からさまざまなコンサートで歌い、19歳のときに〈この広い野原いっぱい〉でレコード・デビュー。以後は多くのヒット曲を残し、日本を代表するシンガーのひとりとして現在も活躍中。

——自分たちでバンドを組んで、というのは?

高校二年までバンドはやってなかった。そのあと、成蹊(高校)の友人ふたりと成城のベースでスージーQというロック・バンドを作って、ヤマハの「ライト・ミュージック・コンテスト」(注2)の1回目に出て。そのときは「ロック部門」の優勝狙いで、本田竹彦(p)さんに入ってもらいました。

本田さんは、武田和命(かずのり)(ts)さんのバンドでやっていたプロだから、審査員がサダオさん(渡辺貞夫)(as)とわかって、「ヤバイ、オレ、行けない」。こっちは「お願いだからやって」。そのときは、1位が該当者なしの2位になりました。

(注2)「ヤマハ音楽振興会」主催の音楽コンテスト。67年から71年まで開催。

——そのバンドで、村上さんは歌はうたわなかった?

歌わなかった。

——コピー・バンドですか? それともオリジナル?

ローリング・ストーンズとかアニマルズとかのコピーです。

——ちょっと黒っぽいバンドなんだ。

それでヴォーカルがいて、ギターとベースとぼくで。

——そのころって、ディスコみたいなところでやっていたんですか?

茅ヶ崎のどこかでやったり、赤坂にあった「MUGEN」(注3)でやったり。そういうところでちょこちょこやってました。

(注3)68年から87年まで港区赤坂3-8-17パンジャパンビルB1で営業していた。通説「日本で初のディスコ」。欧米で流行していたサイケデリックで強烈な色彩空間が特徴で、主に黒人バンドによる生演奏が売り物。

——それが高校二年とか三年。

三年のときかな?

——本田さんとはどこでどう知り合ったんですか?

一緒にやっていたギターの原さんの兄貴が国立(国立音楽大学)で本田さんと一緒だったんです。その関係で練習に誘って。来たら、「わぁ、野獣みたいなひとだな」(笑)。

——スージーQという名前は、当時流行っていたクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(注4)のヒット曲から取って?  

たぶんそうじゃないかな? ぼくはその辺、知らないです。成蹊のひとたちがその名前をつけていたから。

(注4)68年にデビュー曲の〈スージーQ〉が大ヒットしたアメリカの4人組ロック・グループ。

——ギターとヴォーカルが成蹊のひとで。高校の音楽活動はそのバンドがメイン。

そうこうしているうちに、本田さんが「今度、トリオでやるから来ないか」となって、「ピットイン」なんかでやるようになるんです。67、8年のころだから、大学の一、二年かな?

第2話(4月4日 掲載予定)に続く