【証言で綴る日本のジャズ】川崎 燎/第1話「興味深い両親のもとで育つ」

文/小川隆夫

2017.09.12

証言で綴る日本のジャズ 3 #1

【はじめに】

戦後のジャズ黎明期から関わってきたミュージシャンや関係者26人に聞いたお話を紹介した『証言で綴る日本のジャズ』が上梓できたのは2015年のことだった。当然のことながらご高齢の方が多く、貴重なお話を語っていただけたとの思いを強くした。

しかしお元気な方はまだまだいらっしゃるし、そうした方にしか語れない興味深いお話もいろいろとあるに違いない。そこで、最初に登場していただいた方の続編的なお話も含めて28人のインタヴューを紹介したのが2016年に出版した『証言で綴る日本のジャズ 2』だった。

これで打ち止めにするつもりだったが、この本が世に登場するころにはさらにインタヴューを続けたい気持ちが膨らんできた。諦めが悪いというか、懲りない性分というか。最初の本を出す前から、「これをライフワークにしよう」と考えていたことも、気持ちのあと押しになった。

理由はなんとでもいえるが、ともあれ「いろいろなひとから話を聞きたい」——これが最大の原動力だ。それというのも「ひとに歴史あり」で、どの方の人生も興味深い出来事に満ちているからだ。

ジャズ・ミュージシャンや関係者のインタヴューではあるが、このシリーズではそのひとの歩んできた道を知ることで、ジャズにどのような関わりをもってきたか、あるいはジャズにどのような貢献を果たしてきたかが見えてくる。そこが話を聞いていていちばん面白く、かつ興味深い部分でもあった。

これまでの二冊では終戦後の米軍キャンプや銀座を中心としたキャバレーなどで、日本人の演奏するジャズがどのように育まれていったかがメインの話題だった。1960年代に入ってからのジャズ・シーンにも触れてはいるが、中心はあくまで戦時中から50年代にかけての話である。

今回は、その時代を生き抜いたミュージシャンにも触れることになるが、それよりは次の時代、すなわち60年代末から70年代初頭にかけて巻き起こった日本のジャズの大ブームに主眼を置きたいと思っている。

今年(2017年)は戦後72年である。その前後に生まれたひとたちが今回の主役になるだろうか。これまでの二冊とは違い、この『証言で綴る日本のジャズ 3』は、すべてのインタヴューを終えてから発表するのではなく、インタヴューと同時進行でWEB上で発表されていく。したがって、この先、どのような方のインタヴューが実現するかは現時点で不透明な部分も多い。

いずれは出版を計画しているが、それまでは読者のみなさんも筆者と一緒にジャズの歴史をたどっていただければと思っている。さて、いかなる展開になるのか。それは誰にもわからない。

2017年9月12日

小川隆夫

 

——生い立ちから聞かせてください。

生まれた病院は高円寺だけど、育ったのは世田谷の梅ヶ丘で、誕生日は昭和22年(1947年)2月25日。男性です(笑)。

——ご両親についてもうかがってよろしいですか?

父(寅雄)(注1)は岡山県西大寺市(現在は岡山市)の出身で、明治23年生まれ(1890年)。十代のころ貨物船でハワイに渡り、英語を学ぶんです。それから本土のマサチューセッツ州にある、バスケットボールを考案したスプリングフィールド大学で英語を勉強して。卒業後は、1910年代にアメリカで活動を始めたというんだけど。

なにをやったかというと、外交官ですね。サンフランシスコの日本領事館に勤務して、外務省の関係でその後に日米協会(注2)を設立したひとりです。要するに、日米の交流を図る作業をしていた人物。あちこちの領事館や大使館を渡り歩き、30年代くらいになると北京や上海に行って、満州国を設立したひとりでもあったんです。

——ということは、ずっと外務省で働いて。

母(熙子:ひろこ)から聞いた話では、上海で戦犯の刑務所所長もやっていたということで。それで第二次世界大戦が終わって、戦犯みたいになってシベリアにちょっと抑留されて。母は下関の生まれで、父より二十歳若いんです。彼女は下関からすぐ満州に渡った、満州育ちの女性で。

いままでの話でわかると思うけど、父は日本では英語の第一人者として認められていて、政治的な交渉があるときは通訳でいつも同席していたらしい。それで、瑞宝章をもらってます(笑)。満州の言葉はチャイニーズとロシア語なんです。だから、母は両方がペラペラ。

当時の上海は「リトル・ニューヨーク」と呼ばれていて、両親はそこにあるブロードウェイ・マンション・ホテルというすごいホテルに居住して。母は英語もできたから、盗聴のエージェントとしてドイツの秘密情報部で働いていたそうです。その辺は面白くて、映画にでもなりそうな話だけど。

戦後、母はかなり汚い船に乗せられて強制送還。父がシベリアから帰るまではファッション・モデルと英語の教師をして、生計を立てていたそうです。父がどれくらい抑留されていたかわからないけど、長くても2年ぐらいだったと思います。

父は青山に邸宅というかマンションを持っていたらしいけど、爆撃でなくなって。それで日米協会には社宅があったから、それの最初が梅ヶ丘だったんです。そこが豪勢な社宅で、女中さんやメイドもいて。

父が聴くラジオはFENで、友だちはアメリカ人ばっかり。母の友だちはロシア人。ぼくが育ったのは、そういう言葉の中でした。だから、そこがぼくの生い立ちの中で最初の記憶です。

——気がついたら、外国語や外国文化の中にいた。

それもあってか、ぼくはどこに行っても日本人を意識することがまったくない。「自分」という人物であることを意識するするしかないんです。

——最初から外国のひとには抵抗がなかった。

抵抗がないというより、ファミリアな感じですね。

——ご兄弟は?

ひとりっ子です。父が57か58歳のときに生まれた子供ですから。

——しばらくは梅ヶ丘に住まわれて。

小学校の四~五年までは梅ヶ丘小学校にいて、社宅だから移されるんです。若林に移って、若林小学校といったかな? そのあとは深沢。中学は青山学院の中等部で、高等部まで行きました。そのころは父が青学の大学で英語の講師をしていたから、ぼくは試験もなにもなく、入れちゃった(笑)。

 

第2話へ続く

(注1)川崎寅雄(外交官 1890~1982年)岡山生まれ。16年、米国スプリングフィールド大卒。ホノルル市日本基督教青年会主事、外務省嘱託(サンフランシスコ総領事館勤務・奉天総領事館勤務)、リットン調査団派遣時には通訳を務める。その後も満洲国国務院外交部外交部宣化司長などを歴任。戦後は日本競馬会参事、農林省勤務、日本中央競馬会参事、青山学院大学英語講師、社団法人日米協会評議員、日本倶楽部理事、日本ハワイ協会監事なども務める。
(注2)一般社団法人日米協会は大正6年(1917年)、激動する国際情勢の中、日米両国の有識者たちによって創立された日本でもっとも古い日米民間交流団体。

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