2017.10.12

【証言で綴る日本のジャズ】康 芳夫〈第1話〉 中国人医師の父親と

取材・文/小川隆夫

康 芳夫/第1話
証言で綴る日本のジャズ【はじめに】

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのは康芳夫。1960年代初頭から“興行”の世界で名を馳せ、数々の大物ジャズマンを招聘した「伝説の“呼び屋”」の登場である。

康 芳夫/こう よしお
プロモーター・俳優。1937年5月15日、東京都神田区(現在の千代田区)生まれ。駐日中国大使侍従医の中国人父と日本人母の次男として誕生。東京大学卒業後の62年、興行師神彰のアート・フレンド・アソシエーションに入社。大物ジャズメンなどの呼び屋として活躍。64年の同社倒産後は神彰とアート・ライフを設立。インディ500レースやアラビア大魔法団などを呼ぶ。同社倒産後も、三島由紀夫が戦後最大の奇書と絶賛した小説『家畜人ヤプー』のプロデュース、モハメッド・アリ戦の興行、トム・ジョーンズ招聘、ネッシー捕獲探検隊結成、オリバー君招聘、アリ対アントニオ猪木戦のフィクサーなどをこなし、最近では俳優業にも進出。映画『渇き』『酒中日記』、テレビドラマ『ディアポリス 異邦警察』などで怪演。最新作は『干支天使チアラット』。

中国人医師の父親と

——まずはお父様のことから聞かせてください。

父(康尚黄:こうしょうこう)は中国人で、小川さんと同じで医者だったんです。母親の巽(たつみ)は日本人です。ぼくは1937年5月15日に父親がやっていた神保町の「西神田医院」で生まれました。わかりやすいんで神保町といってますが、正確にはその境、西神田2丁目10番地。そこで戦前に父が内科と小児科の医院をやっていて。戦後は昭和通りの「三笠会館」のとなりで「東銀座診療所」を開業していました。

——中華民国駐日大使の侍従医もされて。

厳密にいいますと、蒋介石(注1)政権最後の駐日大使が許世英(きょせいえい)(注2)というひとで、父とは同郷だったので、大使の侍従医になったんです。当時、中国人の医者って日本にほとんどいなかったもんですから。

(注1)蒋介石(中華民国の政治家 1887~1975年)孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国統一を果たし、最高指導者となる。28年から31年と、43年から75年まで国家元首。しかし国共内戦で毛沢東率いる中国共産党に敗れ、49年より台湾に移る。なお蒋介石政権は中華民国における政権のひとつ。中国国民党の蒋介石を事実上の指導者とした南京国民政府の異称。

(注2)許世英(清末、中華民国の政治家・外交官 1873~1964年)北京政府では安徽派に属し、国務院総理も務めた。国民政府時代の駐日大使(36~38年)。

父の父親は陶器の仕事で成功していたんですが、血気盛んで、当時勃興してきた孫文(注3)派の革命運動に身を投じて。それで、清王朝の女帝(西太后)(注4)に追われて日本に逃げてきた。日本では法律学校、いまの法政大学に留学生として籍を置いていましたが、父が七つのときにお金だけ置いて、祖父は帰ってしまったんです。これは「可愛い子を獅子が千仭(せんじん)の谷に突き落とす」やり方だったようです。それで父は慶応の幼稚舎に入って上までいき、医学部を出て、昭和6年(31年)に「西神田医院」を開業します。

(注3)孫文(中華民国の政治家・革命家 1866~1925年)初代中華民国臨時大総統。中国国民党総理。中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。

(注4)西太后(清末期の権力者 1835~1908年)清の咸豊帝の側妃で、同治帝の母。

そのあと駐日大使の医者になりましたが、蒋介石政権と日本政府が断交して、国民政府が引き揚げちゃった。新しくできた南京政府(注5)、これは勝手な呼び方だけど、中華民国の、日本が認める政府の大使館の医者になって。父はそうとう悩んだと思うけど、断れば日本政府に逮捕されるのは明らかで、選択権などなかったから、そうしたんでしょう。

(注5)正式には中華民国維新政府。日本の中支那派遣軍が日中戦争時に樹立した地方傀儡政権で、38年3月28日に南京で成立。江蘇省、浙江省、安徽省と、南京および上海の両直轄市を統括していた。

ただし中国大使館からバターとか牛乳、ウィスキー、牛肉とか、なんでも自由に手に入ったから、戦時中はいい思いをしました。「揚子江」ってわかります?  いまは集英社の近くにありますけど、当時はうちの一軒おいてとなりで。それと神保町すずらん通りの「維新號」。みんなうちの患者さんだったんです。あの時代ですから、中華料理屋に材料がない。父が肉とか魚を持っていき、料理したものの半分をもらって帰ってきた、なんてことがよくありました。

——ところが戦後になって、たいへんなことになる。

漢奸(かんかん)って、これは中国語でいちばん嫌な言葉だけど、売国奴、あるいはスパイですね。戦後、蒋介石政府は南京政府関係者をいっせいに重要戦犯として逮捕するんです。中華民国政府にすれば、父も漢民族に対する売国奴です。

——まずは巣鴨プリズン(注6)に入って。

巣鴨プリズンに入ったのは中国政府からの委託抑留ということで。面会は週1回で15分くらいしかできない。嫌な思いしかないです。いまは池袋のサンシャインシティになっていますが、どうしてもやむを得ない場合を除いて、あそこは絶対に行かない。

(注6)第二次世界大戦後に設置された戦争犯罪人の収容施設。東京都豊島区西巣鴨(現在の豊島区東池袋)の東京拘置所施設を接収、使用した。

戦後は、そういうことで戦犯になって。巣鴨プリズンには一時的に入れられて、そのあとは上海で軍事法廷が開かれるんです。でも上海は内乱で、実際の裁判は香港で開かれたと思うんですけどね。そこで判決を受けて、大使館員は全員が銃殺されたけど、コックと医者は中立の立場を取っていたということから無罪になりました。

——だけど、すぐには帰国しなかった。

父とは空白期間が6年間ありました。国民党に徴用されて、中国大陸に行かされたんです。日本できちんと医学教育を受けた父は、国民党軍にとって貴重な存在だったんでしょう。当時は医者が圧倒的に不足してて、軍医として優遇されたようです。だけど、そのあとは戻ってくるまで音信不通。

当時のことは死ぬまで詳しく話さなかったけれど、国民党側にいた父が、そのあとは毛沢東率いる共産党。いわゆる八路軍の従軍医になるんです。蒋介石率いる国民党は徹底的に腐敗していて、アメリカからの援助物資の横流しは当たり前。そんな中で、父は国民党から抜け出し、共産党軍で働いていたそうです。だから蒋介石と毛沢東の両方で(笑)。いろんな理由があったと思います。前線にはあまり行かなかったみたいだけど、ある意味で命は危なかったんでしょう。そのあと、蒋介石が台湾に逃れるのとほぼ同時期に国民党軍に戻り、命からがら日本に逃げ帰ってきました。

——だから突然、日本に戻られた。

父は神戸港に着いたんですよ。ぼくが中学一年のときかな? ボストンバッグを10個くらい抱えて。中身は全部アメリカの最新医療品。最新式のメスとか、ペニシリンとか。アメリカから最新式の医療品が来ると、蒋介石軍が前線で取り引きしちゃう。父はそれを横目に見てて、ボストンバッグにそれらをしこたま入れて、持ち帰ってきました。でも、6年間の穴は大きかったなあ。いちばん苦しいときでしたからね。

ふたつの祖国

——お母様は日本の方で。

そうです。恋愛結婚でね。山崎豊子(注7)の小説『二つの祖国』(注8)じゃないけど、ぼくはまさにあのケースですよ。父はノンポリはノンポリだけど、「中国は勝つ」というし、お袋は「とんでもない、日本が勝つ」ですから(笑)。「夫婦でなにやってるんだ」ですよ。

(注7)山崎豊子(小説家 1924~2013年)旧制女専卒業後、毎日新聞社入社。大阪本社学芸部勤務のかたわら、57年生家の昆布屋をモデルに、親子二代の船場商人を主人公とした『暖簾』で作家デビュー。『白い巨塔』(65年)、『華麗なる一族』(73年)、『不毛地帯』(76~78年)、『沈まぬ太陽』(99年)など話題作多数。

(注8)80年6月26日号から83年8月11日号まで『週刊新潮』に連載。日系2世を主人公に、太平洋戦争によって日米ふたつの祖国の間でアイデンティティを探し求めた在米日系人の悲劇を描いた作品。

父には大使館から情報が入ってきますから、「日本が負ける」のがわかっていたんです。でも、それを口にしたら逮捕されちゃいますから。憲兵に厳しく監視されていましたし。ミッドウェー海戦(注9)のときだって、日本は完敗したの。その情報が全部大使館には無線で入ってくるでしょ。だから「この戦争は負ける」と。お袋は「とんでもない」。愛国心と恋愛感情が入り混じって、その間にぼくが挟まれて(笑)。

(注9)42年6月5〜7日のミッドウェー島付近での海戦。日本海軍は航空母艦4隻とその艦載機多数を失う大損害を被り、この戦争における主導権を失った。

——小学校に入るのが戦争も末期のころ。

父は自分が出た幼稚舎にぼくを入れようとしたんですけど、落ちちゃったんです。いまでも幼稚舎のある天現寺界隈はトラウマであまり近寄らない。それで暁星の初等部に入りましたが、集団疎開に行ったので辞めざるを得なくなり、二年のときに辞めました。

——暁星といえばフランスのカソリック系ですが、戦時中にそういう学校はどうだったんですか?

フランス人教師もいましたが、当然のことながらフランス語は禁止で、憲兵も校門のあたりをうろつくなど、不思議な緊張感があったことを覚えています。

——康さんがお生まれになった年には日中戦争も始まりました。生まれたころのことは記憶にないでしょうけど、そのあとは第二次世界大戦が始まって、そういう時代にすごされた少年時代はたいへんだったんでしょうね。

はっきりいうと差別ですよ。父は日本政府からはどうってことなかったですけど、近所とか一般のひとたちからはいろいろ嫌な目に遭わされました。学校でも差別がありましたし。だから、あまり考えたくないです。

——それは申し訳ないことを聞いてしまいました。

ぼくの場合は、半分ずつの血が流れているから、厄介といえばやっかいなの。

——康さんの国籍はいまも中華民国?

いわゆる台湾ですね。帰化しようと思えばできるけど、なんだかんだ忙しくてね。この間の蓮舫(注10)のようなケースもあるから、帰化しようとは思っているんです。

(注10)蓮舫(政治家 1967年~)本名:は村田レンホウ。台湾人の父と日本人の母の間に生まれる。88年クラリオンガールに選ばれ芸能活動開始。2004年から参議院議員。民主党時代に内閣府特命担当、公務員制度改革担当大臣、民主党幹事長代行を歴任。16~17年民進党代表。

——終戦の日のことは覚えていますか?

覚えているけど、小学校の一年か二年のときだから、明確ではないです。日本が負けたっていうね、子供心になんともいえない気がしました。だって、それまでは毎日竹槍で「B29が落ちてきたらやっつけろ」とやっていたんですから。田舎に疎開してたんですけど、一種独特の空虚感があったなあ。

——疎開はどちらに?

母親の親類がいた静岡県です。ちょっと体を悪くして長引いちゃったけど、小学校一年のときに疎開して、中学三年ぐらいのときに戻ったのかな?

——じゃあ、戦後もしばらくはそちらにいて。

そこで運動をしすぎて肋膜炎になっちゃったとか。肺ジストマにも罹りました。あれは伊豆の風土病で、ちょっときつかったですね。

——高校は東京で。

ぼくは新大久保の海城高校に入るんです。歌舞伎町から歩いて10分くらいのところ。そこに入ったけれど、当時は最悪の高校でした。いまは受験校として名門でしょ。東大に60人くらい入りますから。ところが、当時はせいぜいひとりかふたり。早稲田にも数人。いまは早稲田だけで150人くらい。スーパー・スクールですよ。卒業して30年くらいしたら突如ランキングに入ってきたの。「へえ、ホントかよ」です。本格的な受験校にするため、鹿児島のラサール高校ってあるでしょ。あそこから校長を引っ張ってきたんです。そこらへんから受験校としてスタートした。そのとなりにあったのが安田保善商業(現在の保善高等学校)という高校。創立者の安田(善次郎)(注11)はヨーコ・オノ(注12)のひいおじいさん。東大の「安田講堂」もこのひとが寄付したの。

(注11)安田善次郎(実業家 1838~1921年)安田財閥の祖。1858年奉公人として江戸に出て、玩具屋、鰹節屋兼両替商に勤めた。25歳で独立し、乾物と両替を商う安田商店開業。 やがて安田銀行(現在のみずほフィナンシャルグループ)、損保会社(現在の損害保険ジャパン日本興亜)、生保会社(現在の明治安田生命保険)、東京建物などを設立。保善高等学校の前身である東京植民貿易語学校は1916年に安田の寄付で開校。校長は新渡戸稲造。

(注12)小野洋子(芸術家・音楽家 1933年~)59年からニューヨークを拠点に前衛芸術家として活動開始。66年拠点をロンドンに移し、同年ビートルズのジョン・レノンと出会い、69年結婚。以後、レノンと数々の創作活動や平和運動を行ない、レノン亡きあとも「愛と平和」のメッセージを発信し続け、音楽活動とともに世界各地で個展を開催。

——安田財閥の創始者ですね。

そのひとの作った学校に安部譲二(注13)君がいたんです。安部君はもともと麻布なの。秀才なんです。高校時代のぼくは海城で番長のマネージャーをやってたから、保善の生徒とは毎日喧嘩をして。その中に譲二がいたかどうかは知らないけど、同級生だったからね。あとになって、「お前、保善か、俺、海城」っていう話をしました。譲二とは、裏社会の厄介なこともいろいろやったけど(笑)。

(注13)安部譲二(作家 1937年~)ロンドンやローマで育つ。麻布中学在学中から安藤組舎弟となり、麻布高校進学が認められず、イギリスの寄宿制学校に進む。その後、慶應義塾高校に入学。しかし他大学の学生たちとの喧嘩により除籍。安藤組組員だった時期に保善高校定時制課程に入学。中央大学法学部通信教育課程中退。以後は日本航空のパーサーなどを務め、複数回の服役もしている。87年『塀の中の懲りない面々』がベストセラーとなり映画化され、人気作家の地位を築く。

——高校では文芸部を作るんですね。

名前だけですよ(笑)。

——だけど、同人誌の編集長をやられていた。

そうだけど。

——のちに康さんは『家畜人ヤプー』(注14)とか、文芸の世界でも活躍しますが、小さなときから文芸には興味があったんですか?

一般的な意味ではね。『家畜人ヤプー』との遭遇は、いってみれば必然的偶然です。つまり、澁澤龍彦(注15)を責任編集者として超高級エロ雑誌『血と薔薇』をプロデュースしたことが決定的要因となったということ。ただし『家畜人ヤプー』は澁澤龍彦が「第3号」で責任編集者を辞めたあと、平岡正明(注16)の責任編集「第4号」に掲載されたんです。運命づけられていたと考えれば、話としては面白いですけど(笑)。

(注14)56年から『奇譚クラブ』に連載され、その後断続的に多誌で発表された沼正三の長編SF・SM小説。70年康のプロデュースで都市出版社から単行本化。

(注15)澁澤龍彦(小説家・フランス文学者 1928-87年)ジョルジュ・バタイユ、マルキ・ド・サドの翻訳、紹介者として知られる。晩年は小説を発表するようになり、『唐草物語』(81年)で 「第9回泉鏡花文学賞」、遺作の『高丘親王航海記』(88年)で「第39回読売文学賞」受賞。

(注16)平岡正明(評論家 1941-2009年)『韃靼人宣言』(64年)で評論家デビュー。『ジャズ宣言』(67年)でジャズ評論に進出。69年、康芳夫の誘いで天声出版に入り、澁澤龍彦の後任として『血と薔薇』第4号を編集。評論家として幅広い分野で健筆を振るい、『山口百恵は菩薩である』(79年)で大きな話題を呼ぶ。

『血と薔薇』第4号(1969年)

——大学は東大の教育哲学科。どういう理由で?

行くところがないから(笑)。

——もともとは医者になろうと思っていたとか。

精神科の医者になろうと思っていたんです。父にいわせれば、「精神科じゃメシが食えない」。いまじゃ精神科は大流行ですけど、当時はね。ところが東大の医学部は極端に難しいし、京大に行こうと思ったら京都も同じように難しい。慶応だったら入れるかなとも思ったけど、幼稚舎で落とされているし、やはり難しい。東北大も考えたけど、あっちまで行くのは面倒臭い。それ以外の医科大学なら入れる自信はあったけど、結局、医学部系に進学せず横浜国立大学に1年いて、辞めて東大に入り直して(58年)、本郷に行って。かっこいいからってことで教育哲学。だから、授業なんかほとんど出ていません。

——だけど東大に入れちゃうから、すごい。

受験勉強はいちおうやりました。ああいうのって周りのレヴェルが高くないとダメです。通っていた高校のレヴェルが低いんで、やむをえず自分で勉強してね。

第2話に続く

写真提供:康芳夫