投稿日 : 2017.10.12 更新日 : 2021.09.03

【証言で綴る日本のジャズ】康 芳夫|伝説のプロデューサーが語った昭和のエンタメ裏話

取材・文/小川隆夫

康 芳夫 インタビュー

「五月祭」でジャズ・フェスティヴァルをプロモート

——音楽との出会いはどんなものでしたか?

聴き始めがなにかは覚えていませんが、当時はモーツァルトが好きで、よく聴いていました。

——ジャズとの出会いは?

東京大学に入って三年の(60年)「五月祭」で企画委員長をやることになって、そのときに久保田二郎(注17)君、俗称クボサンを司会に使って、モダン・ジャズのフェスティヴァルを東大で初めて開いたんです。高校時代から新宿のジャズ喫茶に入り浸っていたけれど、あれが本格的な関わりの最初です。あのときは三保敬太郎(p)君とか宮沢昭(ts)さんとかを呼んで。

(注17)久保田二郎(評論家・文筆家 1926~95年)大学時代はドラマーとしてグラマシー・シックスなどで活躍。50年代からジャズ評論の執筆を開始し、キング・レコードで「日本のジャズ・シリーズ」監修者も務める。60年代以降はエッセイストに転身し、ベストセラーを連発した。

久保田君はちょっと厄介な男だったけれど、立教ボーイで、ジャズがわかっているということではたいしたもんでした。あのころは植草甚一(注18)さんや、評論家では野口久光(ひさみつ)(注19)さんとかがいましたけど、久保田二郎は本格的にジャズがわかっていた最初の男だったとぼくは解釈しているんです。ほかのひとがどう取るかは別にしてね。そばで見ていたから知ってるけど、植草さんなんかは彼から教えられた部分が非常に大きい。大橋(巨泉)(注20)君もそう。

(注18)植草甚一(評論家・エッセイスト 1908~79年)大学在学中から劇団のポスターやイラストに才能を発揮し、『ヴォーグ』『ハーパース・バザー』などを翻訳。35年東宝入社と同時に映画評論を書き始め、58年『スイングジャーナル』誌の連載がスタート。独特の文体と嗜好で人気を呼ぶ。

(注19)野口久光(評論家 1909~94年)東京美術学校(現在の東京藝術大学)卒業後、東和商事合資会社に勤務し欧米映画のポスター制作のかたわら、ジャズ、軽演劇、レヴュー、ミュージカルなどの評論で活躍。ジャズでは戦前・戦後を通じて第一人者のひとり。

(注20)大橋巨泉(ジャズ評論家・司会 1934~2016年)50年代半ばから評論家として活動し、60年代にテレビタレントに転身。『11PM』『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ』などの司会で名を馳せる。パイロット万年筆のテレビコマーシャル「ハッパフミフミ」や「野球は巨人、司会は巨泉」のキャッチフレーズも流行語に。

——久保田さんとはどうやって知り合ったんですか?

彼は『スイングジャーナル』誌の編集長だった岩浪洋三(注21)君の紹介だったかな? 久保田君を司会に使ってフェスティヴァルは開いたけど、その提案に対して教授会が拒否してきたんです。「ジャズは社会的に認められていない」というのが理由です。

(注21)岩浪洋三(ジャズ評論家 1933~2012年)大学卒業後、愛媛県の労音事務局長代理を務めたのち、57年に上京して『スイングジャーナル』編集長となる。65年からはフリーランスのジャズを含むポピュラー音楽の評論家として活躍。

——アート・ブレイキー(ds)のジャズ・メッセンジャーズが初来日して、日本中がジャズ・ブームになるのは翌年(61年)ですものね。ちょっと早すぎた。

まだジャズのコンサートを開催した大学祭がどこにもなかったんです。教授会は「クラシックだけだ」ですからね。当時の総長、茅(かや)誠司(注22)にいわせれば、「日本を代表する国立大学の東大でジャズなどもってのほか」ということでした。そこで教授会に乗り込み、「それは黒人の作った素晴らしい芸術に対する冒涜で偏見だ」と押し切って。

(注22)茅誠司(物理学者・第17代東京大学総長 1898~1988年)31年北海道帝国大学教授、43年東京帝国大学教授、54年日本学術会議会長、57年東京大学総長(63年まで)などを歴任。

——会場は?

「安田講堂」です。よその大学からもひとが来て、立ち見どころか窓から覗こうとするひとまで出て、大成功。このことでジャズがそれまで以上に身近なものになりました。あのころはピアノの八木(正生)ちゃんにもお世話になったなあ。彼はその後、〈網走番外地〉を作曲してすっかりポピュラーになる。当時は日本のセロノアス・モンク(p)と呼ばれていた。

——八木さんもそのときに出たんですか?

「安田講堂」のときは出てないです。そのほかのときにいろいろやってもらいました。

——「五月祭」のフェスティヴァルの人選は康さんが?

久保田君とぼくで。

——それ以前から康さんはジャズ喫茶やライヴに行かれていたんですか?

大学時代に聴き出して、「ヨット」や「キーヨ」によく行きました。「ヴィレッジ・ヴァンガード」ではビートたけし(注23)がウェイターをやっていたんですよ。新宿だけでジャズ喫茶が10軒くらいはありましたから。ライヴ・ハウスなんてまだなくて、ジャズ喫茶の延長みたいなところで名もないグループですけどいろいろ聴いていました。

(注23)ビートたけし/北野武(お笑いタレント・俳優・映画監督 1947年~)80年代初頭にツービートで人気を獲得。90年前後から司会業や映画監督業を中心に活躍。

——新宿はジャズの街ですよね。

いろいろあったなあ。「ジャズ・コーナー」が歌舞伎町にあって、これはぼくの弟分がやっていてね。

——学園祭でジャズ・フェスティヴァルをやろうと思った動機は?

それはジャズが好きだったのと、もうひとつ、さっきも話しましたが「大学にジャズを持ってきちゃいかん」という風潮を打ち破ってやろうという反発心です。

——そのときは、「アジア・アフリカ諸国大使の講演会」と「新しい芸術の可能性」と題したティーチインも開催しています。

「アジア・アフリカ諸国大使の講演会」も大問題になって(笑)。キューバで革命が起きてたでしょ(59年に革命政権が成立)。カストロ(注24)とゲバラ(注25)の。教授会には「インド大使などです」と話しておいたけれど、講演会のパンフレットに「インド大使、ガーナ大使、キューバ大使」と印刷したんです。それを見たとたん、学長が「インド大使はOKだけどキューバ大使はダメだ。キューバは困る」と。「それは差別じゃないか」と厳重に抗議して、『朝日新聞』とかで問題になりました。そのことから、ぼくは厄介者扱いになって(笑)。結局、インド大使だけを呼んでやりました。

(注24)フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(キューバの政治家・革命家 1926~2016年)59年のキューバ革命でアメリカの傀儡政権だったフルヘンシオ・バティスタ政権を倒し、キューバを社会主義国家に変えた。同国の最高指導者となり、首相に就任。65年から2011年までキューバ共産党中央委員会第一書記を、76年から2008年まで国家評議会議長(国家元首)兼閣僚評議会議長(首相)。

(注25)エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ(政治家・革命家 1928~67年)アルゼンチン生まれで、54年 メキシコに亡命。56年メキシコ亡命中のフィデル・カストロ、弟のラウル・カストロと出会い意気投合、従軍医として反独裁闘争に参加。59年キューバ革命成立し、キューバ国立銀行総裁に就任。

ティーチインは、石原慎太郎(注26)、岡本太郎(注27)、谷川俊太郎(注28)、武満徹(注29)とか、みんな売り出し中のときですよ。慎太郎は「芥川賞」を獲って4年目だったかな? 谷川俊太郎もやっとブレークしたころ。武満さんもまだ若くて、映画音楽なんかをやっていた時期で。

(注26)石原慎太郎(作家・政治家 1932年~)一橋大学在学中(56年) にデビュー作『太陽の季節』が「第34回芥川賞」受賞。同作品の映画化で弟の裕次郎をデビューさせた。68年参議院議員となり(95年まで)、環境庁長官、運輸大臣を歴任。99年から4期連続で東京都知事(2012年まで)。

(注27)岡本太郎(芸術家 1911~96年)父親の赴任に伴い30年から10年間パリに滞在。この間にピカソの作品に衝撃を受ける。代表作は70年大阪万博の「太陽の塔」。テレビにも積極的に登場し「芸術は爆発だ」の言葉で親しまれた。

(注28)谷川俊太郎(詩人・絵本作家・脚本家 1931年~)48年詩作を始める。52年処女詩集『二十億光年の孤独』刊行。62年〈月火水木金土日のうた〉で「第4回日本レコード大賞作詞賞」を受賞。64年からは映画製作に、65年からは絵本の世界に進出。

(注29)武満徹(作曲家 1930~96年)現代音楽の世界的な作曲家。多くの映画音楽も手がけ、『不良少年』(61年)、『切腹』(62年)、『砂の女』(64年)で、『他人の顔』(66年)で、それぞれ「毎日映画コンクール音楽賞」受賞。60年代中盤には若手だった日野皓正(tp)がその映画音楽にしばしば起用されている。

——でも、いまにしてみればすごい顔ぶれですね。

結果としてね。

——人選は康さんが。

企画委員長として、ぼくが。

——そのころから見る目があった。

そういわれればそういうことでしょうけど(笑)。

——石原慎太郎さんとはそのときが最初?

まったく面識がないのに連絡をして。それでこのイヴェントも大成功。ところが終了後に仲間たちと寛いでいたら、慎太郎から電話がかかってきたんです。そのときに、講師に払った謝礼が五百円。いまの価値にしたら一万円ほどですか。

電話に出たら、いきなり「ふざけんな、このヤロー。学生だからといってもこの金額は失礼にもほどがある。俺に何時間も話をさせておいて、どういうつもりだ。これなら、最初からノーギャラといってもらったほうがはるかに納得がいく。こんな金額で納得しては、自分の価値をはずかしめてしまう」。

これで成功の気分がいっぺんに吹っ飛びました。そういわれてみればたしかにその通りだと思い、すぐに彼がいる四谷の「フランクス」というステーキ・レストランに向かいました。慎太郎は岡本太郎や武満徹たちと食事をしていたんですが、そこで平身低頭、心からお詫びをしたんです。

でもこの一件で、慎太郎はぼくを気に入ってくれたみたいです。彼にはずけずけとものをいうところがありますが、さっぱりした気性もあって、そういうところでウマが合ったのかもしれません。それで逆に親しくなって、彼にはずいぶんお世話になりました。

——それで、このときはいくら払ったんですか?

五千円です。

プロモーターの初仕事がソニー・ロリンズ

——こういうイヴェントを成功させたところにプロデューサーの資質が認められます。

「五月祭」を自分流に企画して成功させた経験が大きいですね。高校時代からひとをまとめたり動かしたりするのが好きでしたから。いろいろなひとの間を泳ぎ回って、ときにはさまざまなひとと駆け引きもする。それで無から有に物の形を整えていく。そんな仕事に魅力を感じていました。

——就職活動は?

岩波映画と日活には受かっていたけど、直感的にいちばんぴったりだと思ったのが神彰(じんあきら)(注30)さんのアート・フレンド・アソシエーション(AFA)。

(注30)神彰(興行師 1922~98年)54年アート・フレンド・アソシエーション(AFA)設立。ドン・コサック合唱団、ボリショイ・バレエ団、ボリショイ・サーカス、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団などを招聘・興行。冷戦時の鉄のカーテンをこじ開けたことから〈赤い呼び屋〉と称される。62年作家の有吉佐和子と結婚するも、64年離婚。同年AFA倒産し、66年アート・ライフ設立。晩年は居酒屋チェーン「北の家族」を立ち上げた。

——映画会社を受けたということは、映画が好きだったんですか?

そうそう。あと、講談社も一次試験は受かったのかな?

——どちらかといえば文科系の仕事がしたかった。

もちろんそうです。

——それで、AFAに入社します(62年)。

ぼくがプロモーターになったのも慎太郎のおかげですから。作家の有吉佐和子(注31)さんの旦那が神彰さんで、有吉さんと慎太郎が知り合いだったんで、彼から有吉さんを通じて神さんを紹介してもらったんです。初対面で神さんいわく、「君はなかなか面白そうだな。うちに東大出は企画部長ひとりしかおらんけど、いらっしゃい」。彼はそういうところがおおらかだった。

(注31)有吉佐和子(作家 1931~84年)日本の歴史や古典芸能から現代の社会問題まで広いテーマをカバーし、多数のベストセラー小説を発表した。代表作は『紀ノ川』(59年)、『華岡青洲の妻』(66年)、『恍惚の人』(72年)など。

それ以前に、神さんがアート・ブレイキー(61年)とホレス・シルヴァー(p)(62年)を呼んでいたのは知っていたんです。それでいきなり「君、ソニー・ロリンズ(ts)って知ってるか?」「もちろん知ってます。大ファンですから」。そうしたら、「それをやるから、契約書からなにから全部君がやれ。東大出なんだから英語は読めるんだろ」ですよ。それで契約書からやりました。

——神さんのところに入ったのは62年ですよね。そのころの日本で、プロモーターとか呼び屋さんの仕事は確立されたものだったんですか?

音楽では、のちにビートルズを呼ぶ永島達司(注32)さんがいました。

(注32)永島達司(コンサート・プロモーター 1926~99年)父の赴任に伴い少年時代はニューヨークとロンドンですごし41年帰国。戦後アメリカ軍基地のクラブでフロア・マネージャーから出発し、57年協同企画(現在のキョードー東京)設立。ビートルズの日本公演(66年)を実現させるなど、外国人ミュージシャンの招聘に実績を残した。

——永島さんはもともと米軍のキャンプなんかの仕事でしょ。

彼はロンドンで育っているからバイリンガル。なかなかの紳士でね。キャンプの出入りをやって、そこから発展していった。音楽専門ですよね。

——神さんはキャンプの仕事はやらなかった?

いっさいやってないです。彼は満州浪人の最末端だから、あっちでウロウロしてたの。いわゆる一発屋ですよ。満州浪人は、全部じゃないけど、彼は典型的な一発屋なんです。

——根っからのプロモーターなんですね。

なかなか面白い男でね。ぼくとは20歳は違わないかな(実際は15歳)? それで神さんは、永島さんとはまったく別で、サーカスも呼べば、ジャズもやる。なんでも来いで、最初に手がけたのがドン・コサック合唱団(56年)。ソヴィエトと日本の国交回復が56年ですから、その時代に、ボリショイ劇場バレエ団(57年)、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団(58年)、ボリショイ・サーカス(58年)と立て続けに呼んで大成功しました。

——それで神さんはソ連と太いパイプができたんですね。

ぼくも、その何年後かのボリショイ・サーカスをやりました(63年)。馬を何十頭、ゴリラ、それと大蛇とか(笑)。千駄ヶ谷の体育館でチンパンジーが屋上に逃げちゃうとかね。新聞社と組んでるから、興行成績はいいんですけど、たいへんな作業です。移動が夜中で、トラックを10台くらい連ねて、まるでキャラヴァン。いま、ぼくは映画俳優で映画に出てるけど、プロモーターに比べたら監督業は肉体的にはおもちゃですね。

——どういう経緯でロリンズをやることになったんですか?

ぼくが会社に入ったときは、ロリンズとのコネクションがすでにできていたんです。

——交渉はロリンズのマネージャーと?

当時、マイルスのコンサート・マネージャーでもあったジャック・ウィットモアと交渉しました。その前にホレス・シルヴァーを呼んでいたでしょ。そのときにウィットモアと繋がったんです。会社に入る前のことでいえば、ブレイキー、これが大ブレークしましてね。正月(61年)ですよ。「サンケイホール」ってあったでしょ、あそこで当時人気絶頂だった白木秀雄(ds)とドラム合戦をやるわけ。

アート・ブレイキーとホレス・シルヴァーを呼んだのは神の直感で、あれが当たったんです。シルヴァーはプエルトリカンでラテン・フレイヴァーのいいピアノを弾くから、ぼくはとても好きでね。それで「もう一度どうしても来たい」といってきたけれど、ロリンズもあったし、マイルス・デイヴィス(tp)とか、ほかにも呼びたい候補がいろいろいたんで、呼ばなかったんです。

——契約書はどちらが用意するんですか?

このときは向こうから送られてきました。

——その内容を康さんがチェックして。

そうです。

——でも、契約書は使ってる言葉も法律の専門用語だし。

だからそこらへんの国際弁護士に負けないくらい契約書については勉強して、ちゃんとやりました。このあと、独立してモハメッド・アリ(注33)も極東で初めて招聘しましたが、契約に関してはこのときの勉強と経験が役立っています。

(注33)モハメッド・アリ(ボクサー 1942~2016年)。本名はカシアス・クレイ。60年ローマ・オリンピックでボクシング・ライト・ヘヴィー級金メダル獲得。プロに転向し、64年ソニー・リストンを倒し、WBA・WBC統一世界ヘヴィー級王座獲得。その後イスラム教に改宗し、モハメッド・アリに改名。ヴェトナム戦争への徴兵を拒否したことで(最終的に無罪)王座をはく奪されるも、74年ジョージ・フォアマンを破り返り咲く。王座を3回奪取し防衛は19回。76年にはアントニオ猪木と異種格闘技戦も行なった。

——当時は連絡のやり取りもたいへんだったでしょ?

そのときは主にテレックスでした。電話でもやりましたけど、電話だと通訳を使わないと細かいところまでできないから。面と向かって話すなら意思の疎通もできますが、相手の顔が見えない交渉は慣れていないと難しい。そのうちにそういうこともこなせるようになりましたけど。

——契約成立までにはどのくらいの時間がかかったんですか?

ロリンズのときは半年くらいかな?

——それって時間がかかったほうですか?

いや、短いです。たいした問題はなかったけど、強いていうならクスリの問題。彼はそれで雲隠れしていた時期がありますから(注34)。〈モリタート〉や〈セント・トーマス〉を吹き込むのがそのあとでしょ(56年)。

(注34)最初の雲隠れ。このときは54年から55年にかけてシカゴで療養と練習を兼ねてシーンから姿を消していた。

——日本への入国は問題がなかったんですか?

「問題がある」とはいわれていたけど、当時は法務省の審査が甘かったの。

——じゃ、ロリンズの来日は大きなトラブルもなく。

そう。それで公演も大成功。ジャズが盛り上がって、ジャズ喫茶がいっぱいできたときだったし。

——そうとう儲かったんですか(笑)?

いまのお金にしたら5千万くらいはいったかもしれない。

——それがロリンズの初来日。

そう。そのときは来日記念にジャム・セッションをやったの。いまは東京駅の前に移った「丸ノ内ホテル」で。当時、あのホテルはちょっと奥にあったんだよね。彼、4時間吹きましたよ。前座が猪俣猛(ds)君と西條孝之介(ts)君のグループ。そのときの仕込みを全部やってくれたのが出井(いずい)君という、慶応で西條君なんかと同期のドラムスで、慶応のジャズ・クラブのマネージャーをやっていた男。銀座にあった「出井」という高級料理屋のドラ息子ですよ。

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