2018.04.26

【証言で綴る日本のジャズ】森山威男〈第1話〉 原点は“祖父の手づくりドラムスティック”

インタビュー・文/小川隆夫

森山威男/第1話

連載「証言で綴る日本のジャズ」はじめに 

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が “日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場する証言者はドラマーの森山威男。東京藝術大学在籍中から山下洋輔トリオの一員として演奏活動を始め、3度の欧州ツアーに参加。自身のカルテット結成(1977年)後もドイツやイタリアでのツアーを敢行するなど国内外で精力的に活動。近年は国内ツアーで演奏する傍ら、居住地(岐阜県)で毎年公演を行うなど地元の文化活動にも力をいれている。

森山威男/もりやま たけお
ドラムス奏者。1945年1月27日、東京都品川区生まれ。生後すぐに山梨県甲州市で育つ。東京藝術大学音楽学部器楽科卒業。在学時からジャズのセッションに参加し、67年から山下洋輔と共演。69年に結成された山下洋輔トリオに初代ドラマーとして参加し、壮絶なフリー・ジャズ・ドラミングで大反響を呼ぶ。3度のヨーロッパ・ツアーを大成功させたのちの75年に退団。77年からは森山威男カルテットなど、自己のグループで4ビート・ジャズに回帰。国内はもとより、ドイツ、イタリアでも演奏。2001年『渋谷毅&森山威男/しーそー』で「第56回文化部庁芸術祭賞レコード部門〈優秀賞〉」「第35回ジャズ・ディスク大賞〈日本ジャズ賞〉」、2002年「第27回南里文雄賞」受賞。2001年からは岐阜県「可児(かに)市文化創造センター主劇場」で「MORIYAMA JAZZ NIGHT」を毎年開催。2017年には著書『スイングの核心』も発表している。

ドラマーの道を志す

——みなさんにお聞きしているのが生年月日と生まれた場所です。

1945年1月27日に東京で生まれて、すぐあとに山梨県の東山梨郡勝沼町、いまは甲州市といっていますが、そこで育ちました。

——東京はどちらで?

正確には知らないんですよ。五反田に家があって、父が歯医者をやっていました。戦争で疎開することになって、生まれたばかりの赤ちゃんのわたしを抱えて勝沼、母方の田舎に疎開したんです。

——それで、そのままずっと。

そうです。昭和20年ですから、戦争の末期で。そのあと、小学校の六年までは勝沼にいて、中学校で甲府市に出て、藝大(東京藝術大学)に入るまで、そこに。

——森山さんが東京に出るのは藝大に入ってから?

両親は東京に戻らず、甲府にずっといましたけどね。わたしは大学のときに東京に出て、そのまま。

——初めてのジャズ体験が勝沼小学校時代だったとか。

小学四年生くらいのときに生演奏を聴いたんです。

——どんなジャズだったんですか?

カルテットで歌手がいたと思います。いまになって考えると、イメージとしてはジャズのグループっぽいけど、その時点でジャズの意識はなかったです。ただドラムスがカッコよくて、そればかり見ていたことが記憶に残っています。それで、「あれが叩きたい」。

そこは「勝沼劇場」といって、週に1度だけ映画を上映していたんです。となりが森山歯科医院。子供だからしょっちゅうズルして入れてもらって、映画でも音楽でもなんでもタダで観させてもらいました(笑)。小学校の何年生かは覚えていないけど、「今日は映画がありますよ」と、町内に知らせるのに、演歌ですけど、そのレコード係をやらせてもらって。だから、古い演歌が好きなんです。

——そこで初めてジャズと思(おぼ)しき演奏を目にしましたけど、それ以前から演歌とかは聴いていた?

演歌か浪曲ですよね。

——ドラムスはいつから始めるんですか?

直後から。お爺ちゃんに木を削ってスティックらしきものを作ってもらい、それを叩いていました。本格的にやるようになったのは高校二年から。一年のときにブラスバンドに入ったけれど、トランペットだったんです。それが嫌で、すぐに辞めちゃった。ところが二年になったらやらせてくれるというんで、戻って。嬉しくて、ものすごく練習しました。

あまりにも夢中になっていたら、音楽の先生に「将来はそういう道に進みたいのか?」と聞かれて、「進みたい」「じゃあ、藝大の先生を紹介してあげよう」。そこから東京に通って、藝大の先生につくようになるんです。

——でも、ブラスバンドなら大太鼓とか小太鼓でしょ? ドラムスも叩いていたんですか?

小太鼓です。ドラム・セットはまだ叩いていません。

——中学のころは演劇に熱中していたとか?

ひと前でなにかをやるのが好きだったんです。お笑いが好きで、ひとを笑わせたり、そういうことを子供ながらにしてたんです。それが楽しくて、演劇部で中学巡りみたいな劇団を作って、やっていました。高校でも入ろうと思っていたけど、高校になると難しい演劇をやるようになる。それが嫌でブラスバンドに入ったものの、トランペットで挫折して、二年から太鼓に。

硬派のイメージ

——想像するに、森山さんの中学・高校時代はガキ大将というか、強面(こわもて)のイメージ。だから、お笑いが好きで演劇部にも入っていたのは意外です。

模範的ではない友達もいました。でも、不良ではなかったです。自由な生活の仕方をしていたので、喧嘩好きな連中からも一目置かれていました。そういうことがよその学校にも伝わり、「森山さん、森山さん」と呼ばれていました。ドラムスを叩いていたこともあるでしょうけど、逆に慕ってくれるようになっていました。

——失礼なこととは思いますが、風貌からいくと喧嘩に明け暮れていた学校生活のイメージが(笑)。

喧嘩は1回だけありますけど、殴られて倒れちゃいました(笑)。あとは1回か2回殴られたくらいで、喧嘩はしなかったです。

——硬派のすごく怖いひと、というのが外見からはありました。

いまでもそういわれます。笑うとか、そういうことをすると自分がダメになる気がして。

——だけど、演劇で面白いことをやっていらした。

ドラムスをやるようになってから、わざと変えていったんです。ふざけた話はいっさいしないし、冗談もいわない。

——高校の時点でそういう意識を持って。

そうです。間違った考えでしたけど、ヘラヘラしていると力が抜けて、音楽がダメになってしまうんじゃないかと思って。感情の中で怒りはきっといちばん強いものだから、これひとつに懸けて突き進むにはいつもそういう強い感情を維持していかなきゃいけない。そう思い、無理やり怒るようにしていました(笑)。

——ご実家が歯医者さん。「歯医者になれ」とはいわれなかった?

いわれませんでした。勉強ができなかったからでしょう(笑)。兄貴がものすごく勉強ができて、医者になりました。

——ふたり兄弟?

妹がひとりいます。

——高校のころは学生服も着なければ帽子も被らずに。

とくに目立とうということでもないけど、首が短かったんで学生服が似合わない。それと顔が大きいもんだから、帽子を被ると似合わない。高校に入ってから制服は着たことが一度もなかったです。

——似合わないことが優先されたんであって、反抗心とかではなかった。

授業中にふざけてタバコを吸ったこともありましたが、面白がってやってるだけで、反抗してるわけじゃない。先生から、とくに嫌われてはいなかったです。「ドラムスを練習するなら、受験科目にない授業は受けなくても出席にする」と、先生からいってくれました。

——ということは、学校でも森山さんの藝大受験を応援してくれていた。

そうです。悪さはしませんでしたから。

——高校二年で藝大を目指そうとなって、どういう日常を送っていたんですか?

学校に行きますよね。受験科目の英語とかそういうもの以外はぜんぶ先生に頼んで受けずに、練習していました。それが教室で聴こえるらしいんです。音が聴こえていれば「OK」ということで。

——それは学校の音楽室で?

はい。自宅は歯医者ですから、ラバーを敷いた板の上で少し叩くぐらいで、大きな音が出せません。

——週に1回、東京で習って、それを家で復習したり練習したり。

毎回かなり難しい課題曲が出されて、出来上がると次の曲にいける。それを1回でも逃したくないから、完璧に仕上げていく。だから上達度はそうとう早かったと思います。

——その時点で、ジャズをやろうとはまだ思っていなかった。

思っていません。ジャズがどういうものかもよく知らないし。そのころ、高校の友だちが「ジャズを聴きに行こう」といって、ジャズ喫茶で聴いたのがマックス・ローチ(ds)。そんなに好きになるものではなかったです。好きになったのはデイヴ・ブルーベック(p)の〈テイク・ファイヴ〉とかを聴いてからで、これも高校のころです。

——高校のころはそれほど熱心にジャズは聴いていなかった。

ええ。とにかくドラムスが叩きたい。ドラムスのことをいうなら、スポーツ選手みたいに、いかに力を少なく、スピードを上げて、長時間叩けるか。そういうことに熱中していました。

——それは誰かにいわれたのではなく、自分の考えで?

そうです。

第2話に続く

森山威男 著
『スイングの核心』

森山威男みずからが語る、音楽家人生。ドラムを実演しながらテクニックなどを解説したDVDも付属。