2019.08.15

【はじめてのマイルス・デイビス】知っておきたい5つのポイント

文/大門 炭

史上もっとも有名なジャズ・トランペッターのひとりとして知られるマイルス・デイビス。ジャズの歴史において、彼はどんな偉業を成し遂げたのか。5つのポイントで振り返る。

1.生い立ちとキャリア
2.バンド・メンバーの変遷
3.変容を続ける演奏ジャンル
4.マイルスと日本
5.現代に息づくDNA

1.生い立ちとキャリア

裕福な家庭に生まれて

マイルス・デイビスは1926年、アメリカ合衆国イリノイ州生まれ。歯科医の両親を持ち、裕福な少年時代を過ごします。小学生でトランペットを始めると、18歳のとき(1944年)ツアーでイリノイ州にやってきたビリー・エクスタイン楽団に急遽参加。

同楽団で、当時のスーパースターであるアルト・サックス奏者のチャーリー・パーカーやトランペット奏者のディジー・ガレスピーらと初めて共演。マイルスはその感動が忘れられず、彼らを追ってニューヨークへ移り住みます。

左よりトミー・ポッター(b)、チャーリー・パーカー(as)、マイルス・デイビス(tp)、デューク・ジョーダン(p)。パーカーの影に隠れているが、ドラムはマックス・ローチ。1947年、ニューヨークのライブハウス”スリー・デューセズ”にて。

いざニューヨークへ進出し、憧れていたチャーリー・パーカーのバンドに加入(1945年)。徐々に頭角をあらわすと、メジャー・レーベル(コロムビア)と契約を交わし、あふれるアイディアを実現するために多くのバンドを結成。ライブやレコーディングを精力的におこないました。

2.バンド・メンバーの変遷

第一期、第二期クインテット

1955年、マイルスは当時の名プレイヤーたちを誘って自身のレギュラー・バンドを結成しました。5人編成のこのグループは、のちに「第一期クインテット」(注1)と呼ばれます。

注1:メンバーは、ジョン・コルトレーン(ts)、レッド・ガーランド(p)、ポール・チェンバース(b)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)

第一期クインテットにより1955~56年にレコーディングされた名盤『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』。

マイルスのバンドは、1958年にアルトサックスのキャノンボール・アダレイをメンバーに迎えてセクステット(6人編成)になるなど、自分よりも若いプレイヤーの情熱やアイディア、柔軟性に着目。積極的に若手を採用するようになります。1964年には、のちに「第二期クインテット」と呼ばれるバンドを結成。このバンドには、いまもジャズ界で大きな影響力を持つミュージシャンたちが在籍(注2)。このクインテットでは、彼らのキャリア初期における、初々しくも過激な演奏を聴くことができます。

注2:ウェイン・ショーター(ts)、ハービー・ハンコック(p)、ロン・カーター(b)、トニー・ウィリアムス(ds)

1960年代後半から70年代前半にかけてはジョン・マクラフリン(g)、ジョー・ザビヌル(kb)、チック・コリア(p)、キース・ジャレット(p)、デイヴ・ホランド(b)、ジャック・ディジョネット(ds)、アイアート・モレイラ(perc)といった面々が加入。1980年代にはマーカス・ミラー(b)、マイク・スターン(g)といったメンバーがマイルスバンドに参加し、やがて巣立っていきました。

ここに名前を挙げた全員が自分のリーダー・バンドを結成し、そのすべてが成功を収めていると言えば、マイルスの「能力のある若手を見抜く力」の凄さが伺えるでしょう。

3.変容を続ける演奏ジャンル

モードから生まれた最大のヒット作

ジャズ、と一口に言ってもさまざまなスタイルがあります。1940〜50年代にかけて流行した「ビバップ」というスタイルは、要約すると「指定されたコード(和音)進行に沿って、独自のメロディを演奏する」というルールの音楽でした。そしてミュージシャンたちは、そのルールの中でできるだけ速く多くの音符を演奏することで自らの音楽を表現していました。

しかしゆったりと美しいメロディを表現したいマイルスにとって、ビバップは適したスタイルではありませんでした。自分に適したスタイルを模索するマイルスは、ビバップの命とも言えるコード進行を捨てることを決意。スケールと呼ばれる一定の音階(例えばドレミファソラシド)を使って自由にメロディ・ラインを奏でる「モード・ジャズ」というスタイルを生み出しました。

モードという手法で制作され、大ヒットを記録した『カインド・オブ・ブルー』。

このモード・ジャズのスタイルで作られた最初のアルバムは『カインド・オブ・ブルー』と名づけられ、1959年に発売。これまでに累計で1000万枚以上を売り上げる、ジャズ界最大のヒット作となりました。またこの作品は「モード・ジャズの完成形」とまで言われ、この作品を境に多くのミュージシャンがモード・ジャズを演奏するようになったのです。

ジャズではご法度のエレクトリック楽器を導入

1960年代後半に入るとマイルスはジェイムズ・ブラウン、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ジミ・ヘンドリックスといった、ロック、ファンク、R&Bに関心を持つようになります。

その影響から、自分のバンドにもエレクトリック・ギター/ピアノ/ベースを取り入れるようになります。自身のトランペットにもワウ・ペダル(音色を加工する装置)を取り付けるなどして、ロック・バンドさながらの音楽を作るようになりました。

こうして、“世紀の問題作“と呼ばれる『ビッチェズ・ブリュー』を1970年に、ファンク色を濃厚に取り入れた『オン・ザ・コーナー』を1972年に発表。

ジャズ界のトップランナーとして、ビバップ〜モードへとシーンを導いてきたマイルスが、いきなりロックだ、ファンクだと言い始めたので、世のジャズ・ファン、そしてジャズ・ミュージシャンまでが「これはジャズだ!」「ジャズじゃない!」と喧々囂々、意見を二分して論争が巻き起こりました。

“スライ&ザ・ファミリー・ストーン”の影響もあり、ファンク色の強いサウンドとなった『オン・ザ・コーナー』。

1980年以降になると、マイルスはポップスに急接近していきます。マイケル・ジャクソンやシンディ・ローパーの楽曲を取りあげ、プリンスと交流を持つなど、ジャズ・ミュージシャンを超えたポップスターになるべく奮闘。

最晩年となる1991年には、当時世に広まりつつあったヒップホップの要素を取り入れ『ドゥー・バップ』を発表。この作品が、マイルスの遺作となりました。

4.マイルスと日本

マイルスは1964年の第二期クインテットの頃に(一部メンバーは異なるものの)初来日し、そのライブの様子は『マイルス・イン・トーキョー』というライブ・アルバムとなって残されています。初めて訪れた極東の地にもかかわらず、どの会場も満員で、毎回熱烈に歓迎してくれる日本のジャズ・ファンにとても驚いたということです。

1964年7月14日、東京”新宿厚生年金会館”で残された日本でのライブ録音

それからというもの、スタイルを変えて何度も来日をしています。その中でも1975年に大阪でおこなわれたライブは、昼公演の『アガルタ』、夜公演の『パンゲア』という2対のライブ・アルバムとして残され、当時の熱狂を今に伝えています。

ライブ以外でのマイルスと日本の関わりで忘れてはならないのが、晩年のマイルスに対するタモリによるインタビューでしょう。

これは当時(1985年)放送されていた「今夜は最高」というテレビ番組の中での一企画。自らもジャズ・トランぺッターで、マイルスに憧れていたというタモリは始終緊張しています。それでもマイルスへのプレゼントに食品サンプルを渡すあたり、さすがは日本を代表するコメディアンというところ。一方マイルスは、インタビュー中に絵を描いてタモリにプレゼントしています。

5.現代に息づくDNA

マイルスのバンドで育った若手ミュージシャンたちは、リーダーの強烈な音楽性に刺激を受け、バンドを卒業すると次々に自分のリーダー・バンドを立ち上げ、ヒットを飛ばすようになります。

一部例を挙げると、ウェイン・ショーターとジョー・ザヴィヌルの“ウェザー・リポート”、ハービー・ハンコックの“ヘッド・ハンターズ”、チック・コリアの“リターン・トゥ・フォーエバー”、キース・ジャレットとジャック・ディジョネットの“スタンダーズ・トリオ”、ジョン・マクラフリンの“マハヴィシュヌ・オーケストラ“など、枚挙に暇がありません。

マイルスの死後も、彼の残した音楽的要素は、モード・ジャズ、エレクトリック、ロック、ファンクなどそれぞれがジャズのひとつのジャンルとして細分化されながら現代に引き継がれています。特にマイルスが最後に残した「ヒップホップとの融合」という要素は、ロバート・グラスパー(p)を中心とする若いミュージシャンが受け継ぎ、マイルスとは異なる手法で現在に花開かせています。

マイルスのDNAを現在に引き継ぐミュージシャンのひとり、ロバート・グラスパー(p)。2015年には、マイルスを題材にした映画『マイルス・アヘッド』の音楽監督も務めた。劇中でもマイルスの楽曲が全編で使用され、グラスパー自身も演奏者として出演。

ここまででわかるように、マイルスは現状に留まることなく常に変化を続けてきました。ビバップと呼ばれるジャズの標準的な演奏方法を脱し、より自由にアドリブを取ることのできる「モード・ジャズ」を完成させた功績は、ジャズのみならず周辺の音楽へも大きなインパクトを与えました。音楽のルールを打ち破る型破りな活動を貫き、生前・死後を問わず各方面に大きな影響を及ぼしていたことから、マイルスは今もなお「ジャズの帝王」と呼ばれているのです。