投稿日 : 2020.02.11 更新日 : 2020.02.12

【はじめてのチェット・ベイカー】知っておきたい5つのポイント


チェット・ベイカー(1929-1988)はアメリカのジャズ・ミュージシャン。トランペット奏者として、またシンガーとしても優れた個性を発揮し、多くの名作を遺しています。

① 生い立ちとキャリア

16歳で “兵隊バンド” 入り

チェット・ベイカーは、1929年に米オクラホマ州イェールで生まれました。本名はチェズニー・ヘンリー・ベイカー・ジュニア(Chesney Henry Baker Jr.)なので、“チェット” は愛称にちなんだ通名です。

チェットの父親はプロのギタリストで、母親もアマチュアながらピアノに親しむ音楽一家。そんな環境で育った彼が、最初に “音楽的キャリア” をスタートさせたのは、教会の聖歌隊でした。その後、彼は父親からトロンボーンを与えられます。しかし、子供の体には大きすぎるという判断ですぐにトランペットに変更。こうして10代前半の頃から、トランペット奏者への道を歩み始めます。

彼がはじめて“職業的”にトランペットを吹いたのは16歳のときでした。陸軍へ入隊し、軍楽隊のメンバーとしてドイツのベルリンに配属されます。2年ほどで除隊し、ロサンゼルスの大学で音楽を専攻しますが、20歳でふたたび従軍。このときの拠点はサンフランシスコだったため、地元のジャズクラブにも頻繁に出演し、演奏の腕を磨いたようです。

西海岸ジャズシーンの寵児に

1951年に除隊後、彼は本格的にミュージシャンとしてのプロ活動に入ります。このとき22歳。最初に訪れた大きなチャンスは、スタン・ゲッツ(注1)との共演でした。さらに同時期、チャーリー・パーカー(注2)のバンドメンバーにも抜擢。順調にキャリアを積み重ねます。

注1:サックス奏者(1927−1991)。テナー・サックスで多彩なジャズのスタイルを吹きこなす名手として知られ、ボサノヴァを取り入れた演奏でも名を馳せる。

注2:サックス奏者・作曲家(1920−1955)。モダンジャズの礎となる「ビバップ」スタイルを創出したプレイヤー(アルトサックス奏者)として知られる。ジャズ史上最大の偉人のひとり。

その後、ジェリー・マリガン(注3)のバンド加入し、アルバムがリリースされると知名度は一気に上昇。ライブの動員数も急増し、50年代半ばには時代の寵児として注目されます。

注3:サックス奏者(1927−1996)。ジャズ界では数少ないバリトン・サックス奏者で、ピアニストとしても知られる。米西海岸で興ったウエストコースト・ジャズの中心人物の一人。

② 人気の要因は3つの武器

彼のブレイクを決定づけたのは、1954年のアルバム『チェット・ベイカー・シングス』でした。本作は、ジャズの定番曲「マイ・ファニー・バレンタイン」など、センチメンタルなバラードを歌い上げた一枚。この作品によって、チェット・ベイカーはトランペット奏者としての実力と、シンガーとしての魅力を世に知らしめます。

この頃、彼は音楽雑誌の人気投票で「人気トランペッター」の首位を獲得。当時すでに “若手スーパースター” として知られていたマイルス・デイビスクリフォード・ブラウンを抑えての王座でした。

この人気は、彼の容姿も大きく作用したようです。演奏家として、また歌手としての魅力に加え、 “ルックスの良さ”も大きな評判を呼んでいたのです。結果、ハリウッドのスタジオは彼を俳優デビューさせ、瞬く間にアイドル的な人気を獲得。

●1955年公開の映画『ヘルズ・ホライゾン』。朝鮮戦争を舞台に、米空軍(爆撃隊員)の人間模様が描かれる。チェット・ベイカーは「トランペット奏者の米兵」という役柄で出演。

若き日のチェット・ベイカーは、当時の写真家たちにとって格好の被写体でした。写真家のウィリアム・クラクストンもその一人。彼が撮ったチェットベイカーの姿は、のちに写真集『Young Chet』として発売されています。本作は、50年代当時の “ヒップスター” であったジャズマンを捉えたファッション写真としても高く評価されています。

参考記事

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③ チェット・ベイカーの重要アルバム

キャリア前期のおすすめ作

チェット・ベイカーがそのキャリアの中で発表したアルバムはおよそ80枚ほど。なかでも圧倒的な人気を誇るのが、『チェット・ベイカー・シングス』(1954年)、『チェット・ベイカー&クルー』(1956年)といったキャリア初期の作品。前者は彼のボーカルが大々的にフィーチャーされ、メロウでロマンティックな内容。対して、後者はインスト作品。たくましいトランペッターとしての彼と、バンドメンバーのタイトな演奏を堪能できる1枚です。

同じくインスト作品で、50年代の最後に発表された『チェット』(1959年)も人気作。日本でもファンの多いピアニスト、ビル・エヴァンスが参加した作品としても注目です。

ロマンチックなボーカルとトランペットの音色。しかも容姿端麗。そんな彼は一方で、多くの醜聞も抱えるスキャンダラスな存在でもありました。詳しくは後述しますが、彼は音楽家として多くの苦難に見舞われます。とくにキャリア中期(60年代半ば)以降は、活動拠点を転々とし、幾度かのスランプにも陥り、衰退と復活を繰り返しています。

キャリア後期のおすすめ作

したがって、晩年の作品に対する評価は賛否が分かれるところ。ただし、晩年の “枯れ” や “悲哀” をたたえたプレイを魅惑的に感じるファンも多くいるようです。そんな彼のキャリア中期以降の人気作を3枚。

1974年に発表された『シー・ワズ・トゥ・グッド・トゥ・ミー(邦題:枯葉)』は、ジャズの有名曲がカバーされ、ボーカルとトランペットの両方を堪能できる作品。晩年に発表された『キャンディ』(1985年)、『ダイアン』(1985年)などのアルバムも非常に味わい深い作品として知られています。

④ 麻薬常用と謎の死

たび重なる不祥事

チェット・ベイカーの音楽人生には、いつも「薬物」が付きまとっていました。前出の “華々しいデビュー作” の頃にはすでに、常習の兆しが見え始め、50年代の半ばには麻薬所持で2度の逮捕。その後、活動拠点をニューヨークに移すも、ドラッグはやめられず療養施設送りになります。

その頃に、イタリアのプロモーターから声がかかり渡欧。59年から64年までヨーロッパで活動することになります。しかし、ここでもヘロイン所持で逮捕され服役。出所後しばらくはヨーロッパで活動しますが、ドイツとイギリスでもドラッグに関連する罪で国外追放。

1964年の演奏

 

アメリカに戻ってからも、麻薬がらみのトラブルが絶えず、ついに暴力沙汰で前歯を失ってしまいます。これはトランペット奏者としては致命的な事故。以前のようにトランペットを吹くことができず、音楽活動の中断を余儀なくされたベイカーは数年間の沈黙期間に入ります。

ホテルの窓から転落死

70年代の半ば、チェットは活動拠点をふたたびヨーロッパに移し、ときおりアメリカや日本を訪れて演奏(86年に初の来日公演。87年にも実施)。初めての日本公演で歓待を受けたチェットは、ふたたび創意を漲らせたといいます。ところが、1988年5月13日、チェット・ベイカーは58歳で突如その生涯を終えます。

オランダ滞在中、アムステルダムのホテルの窓から転落。路上で遺体が発見されました。直接的な死因(頭蓋骨の骨折など)は転落によるものであることが分かっていますが、転落の原因や死の直前の状況などは未だに明らかになっていません。

⑤ 映像で観るチェットの人生

こうした波乱の人生は、映画の題材にもなりました。近年では伝記映画「Born to Be Blue〈邦題:ブルーに生まれついて〉」(2015年)が公開(詳しくはこちら)。ベイカー役を演じたのは俳優のイーサン・ホーク。

 

また、2018年には、チェット・ベイカー最後の数日間を描いた映画『マイ・フーリッシュ・ハート』も公開。チェット・ベイカーの生誕90年を記念して制作された本作は、アイルランドのロックバンドThe Wallsのボーカルであるスティーヴ・ウォールがベイカー役を演じています。

 

晩年のベイカー本人をとらえた作品もあります。ファッション・フォトグラファーのブルース・ウェーバーが撮影した映画『レッツ・ゲット・ロスト』は、1987年から1988年にかけてチェット・ベイカーを追った、自伝的ドキュメンタリー作品。本作は、彼の死後まもなく公開され、アカデミー賞ドキュメンタリー部門にノミネートされるなど、高い評価を受けています。