投稿日 : 2017.04.26 更新日 : 2019.02.12

【マイルス・エレクトリック・バンド】マイルス・デイヴィス門下生たちが語った…知られざるマイルス伝説

撮影/Masanori Naruse 小泉 健悟

今年4月上旬、マイルス・エレクトリック・バンドが来日公演をおこなった。その名の通り、マイルス・デイヴィスの“エレクトリック期”に着想を得たグループ(総勢10名)で、メンバーも超一流。なかでもコアメンバーとしてバンドを牽引する3名はマイルス本人との関係も深い。

まずは、マイルスの甥でもあり、『デコイ』(84年)、『ユア・アンダー・アレスト』(85年)といったアルバムにドラマーとして参加したヴィンス・ウィルバーンJr.

同じく80年以降、マイルスバンドに在籍し、マイルス最長のコラボレーターのひとりとして知られるロバート・アーヴィング3世

さらに同時期、ベーシストとしてバンドに参加し、現在もローリング・ストーンズのサポートメンバーとしても知られるダリル・ジョーンズ

彼らは“あの当時”を最もよく知るマイルス門下生であり、とりわけ「エレクトリック期のマイルス作品」への再評価の機運が高まる現在において、重要な証言者ともいえる存在。そんな彼らが語る「いま、なぜエレクトリック・マイルスなのか?」そして「マイルス・デイヴィスとは何者だったのか」。聞き手は、マイルスに最も接近したジャーナリストのひとりとしても知られ、みずからも、エレクトリック期のマイルスに触発されたバンド“Selim Slive Elements”を率いる小川隆夫

マイルスの音楽を前進させるために…

小川隆夫 まず始めに、このバンドの結成の経緯を教えてください。

ヴィンス・ウィルバーンJr. ロスのサンセット・ジャンクションっていうフェスティバル。それが最初だ。

ダリル・ジョーンズ あれはたしか2010年だったな。

ヴィンス 結成当時はマイルスのトリビュート・バンドではなく、マイルスの音楽を俺たちなりに解釈して演奏する、っていうテーマでスタートした。この2人(ダリル・ジョーンズとロバート・アーヴィング3世)は俺にとって兄弟同然だから、最初は彼らのようなコアなメンバーで話し合ったんだ。実際に俺たちはマイルスと一緒にプレイしてきたからね。彼の音楽を最高の解釈で表現できる方法とはなんだろう? と、一緒に話し合った。その過程も楽しかったよ。みんなが素晴らしいアイディアを持っていて、全員が提案してきたんだ。すべては「マイルスの音楽を前進させるため」という気持ちでね。

小川 具体的にはどんな話し合いを?

ダリル サウンドに関することは、すべてさ。

ヴィンス 例えば、どの曲をプレイするか? ってところから、どの町(国)で、どのトランぺッターをフィーチャーしようかってことまで徹底的に話し合う。ニコラス・ペイトンのときもあれば、ウォレス・ルーニーのときもある。今日はエティエンヌ・チャールズ。オーストラリアではクリスチャン・スコット。ハワイに行けば(マイルス映画の)サントラでも吹いているキーヨン・ハロルド。ダリル・ジョーンズがトランペットをやる可能性だってある。

ダリル はぁ!?

ヴィンス 冗談だよ。ははは。

小川 でもほとんどのメンバーは固定しているんだよね?

ヴィンス 固定っていうより、コアメンバーがいる、って感じかな。

ダリル 俺が(2010年の)サンセット・ジャンクションで気づいたのは、かなりの数のバンドが、マイルスのそれぞれの時代の音楽を演奏していたってことだ。そのとき思ったのは、俺たちがマイルスと演奏していた時期(のマイルスの音楽)は敬遠されることもあるから、そんな状況の中でどう演奏するか? ってことだった。

向かって右から、ロバート・アーヴィング3世、ダリル・ジョーンズ、ヴィンス・ウィルバーンJr.。

ダリル それともうひとつ。俺たちがなぜ若い世代のミュージシャンを使うのかというと、音楽を前進させるためなんだ。「俺たちがマイルスと一緒に演奏したときはこういう感じだった」という表現方法や形式を、若い世代に理解してもらうためなんだよ。いまのエレクトリック・ミュージックは『ビッチェズ・ブリュー』あたりのサウンドの延長線にあるわけだろ? あの頃のマイルスが発展したんだよ。

ロバート・アーヴィング3世 そうだね。あれは音の変換期だったといえる。まるで化学反応のように、純粋なアコースティックから変換したわけだよ。現在ではみんながエレクトリカを高貴なサウンドにするために生楽器を取り入れようとしてる。でもそれはマイルスがすでにやったこと。マイルスがドラムマシーンと生楽器の音を、シーケンサーもだけど、融合してただろ? たぶんそんなことをしたのはマイルスが最初だったんじゃないか?

リハ現場にマイルスからの電話

小川 ところで、みなさんはシカゴ出身で、マイルス・デイヴィス・バンドに加入する前から、お互いを知ってたわけですよね。

ヴィンス そうだね。ダリルがいちばん年下。ベイビーってことだな(笑)。ロバートと俺は昔から一緒にファンクバンドをやっていたり……、ほら、俺たちはそういう関わり方なんだよ。一緒にバンドやったりもするし、各々が街のどこかでプレイしてて、ライバルではなく、どこかで繋がってる……そんな関係だったね。

小川 マイルス(との関係)以前に、お互いを知っていた?

ヴィンス 知ってたよ。ドラマーもキーボーディストもみんな一緒にツルんでた。

ロバート もちろん、一緒にプレイすることもあった。

ヴィンス そういえば当時、ロバートと俺が一緒にバンドをやってて、マイルスがリハーサル現場に毎日電話してきてたよな。電話越しに意見をあれこれ言うんだ。そして、ある日マイルスが「お前たちレコード作らないか?」って言い出した。それが『マン・ウィズ・ザ・ホーン』(マイルス・デイヴィス/81年)になったんだ。

ダリル いま、ふと思いだしたんだけどさ、2人がマイルスと会った夜、町に戻って来て、俺と一緒に過ごしたよな。

ヴィンス あのとき、お前はキース・ヘンダーソンとギグやってたよな。

ダリル 場所はストーニー・アイランド……だっけ?

ヴィンス いや、あの隣だよ。

ダリル ヘラルド・チキンの隣? っていうか、そんなことはどうでもいいんだよ(笑)。俺たちは古くからの仲間だったってことを言いたかったんだ。

ヴィンス お前の家の前で車を停めたのは覚えてるんだ。あのとき誰が一緒に車に乗ってた?

ダリル お前らは俺の家の前にしょっちゅう車を停めて話してたじゃないか(笑)。それより、俺はロバートに訊きたい。ロバートは俺のことをいつ知った?

ロバート いい質問だ。

マイルス作品への参加経緯

ダリル その前にひとつ言わせてくれ。俺をここまで仕込んでくれたのはロバート、あんただ。初めてのレコーディング・セッションのときも一緒だった。それにたぶん、俺が初めてクラブでギグをやったときも一緒だったはずだ。クラブで(法的に)演奏できる年齢に達してなかったからね。たしか俺がまだ16歳だか17歳ぐらいのとき。

ヴィンス ロバートはきっと噂で聞きつけたんだぜ。若くてホットなヤツがいる、って。そうだろ?

ロバート そうさ、俺はどこかでお前の噂を聞いたんだ。

ダリル そういえば、高校1年のときに、オーケストラのディレクターにこう言ったのを覚えてる。「今日のオーケストラのリハーサルには参加できません。23rd通りとコッテージ・グルーヴ・アベニューの角にあるブーチーズ・ブルーズ・クラブの2階でレコーディング・セッションがあるから」って(笑)。それが俺にとっては最初のレコーディングだ。あの頃からずっと一緒にいるんだな……。

小川 それって70年代の話だよね。

ダリル そうだね。77年くらいか? ヴィンスと俺が一緒にプレイし始めたのは……あれは俺が大学から戻ってきたときだから……79年か80年だね。ギグに向かうときは、いつもヴィンスが俺を迎えにきて、帰りも送ってもらってた。で、うちの前に車を停めて、シートに座り込んで考えるんだ。「俺もいつかマイルスとプレイしたい」って。そんなことを夢見てた。彼とライブで演奏できたらどんなにクールだろう、ってね。

小川 その時にはすでに、彼(ヴィンス)がマイルスの甥だってことは知ってた?

ダリル あぁ。もちろん。彼らが『マン・ウィズ・ザ・ホーン』をレコーディングしてた時だからね。

小川 『マン・ウィズ・ザ・ホーン』のレコーディングは1980年の5月だったよね。

ヴィンス 1979。

ロバート そう。1979年だよ。

小川 本当に? 僕が持ってる資料では80年になってたな。

ヴィンス あれは長いプロセスを経て完成したものだからね。79年の夏から80年にかけてレコーディングして、レコードが発売されたのが81年。「1980s」って曲があったぐらいなんだから。

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