【証言で綴る日本のジャズ】市川秀男/第1話「下宿教師との出会いがピアノ人生の始まり」

文/小川隆夫

2018.05.31

連載「証言で綴る日本のジャズ3」 はじめに

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場する“証言者”はピアニストの市川秀男。現在も自身のバンド活動はもとより、椎名林檎の作品にも客演するなど、精力的な活動で知られる同氏。往年の自己名義トリオ(72年結成)や、富樫雅彦、鈴木勲と結成した「ザ・トリニティ」(80年結成)による諸作は、どんな経緯で作られたのか。そして、ジョージ大塚トリオや日野皓正グループといった国内重要ユニットの当事者として、何を語るのか。

クラシックの作曲家を目指した少年時代

——まずは生年月日と出身地を教えてください。

1945年2月22日に、静岡県の、いまは浜松市ですけど、当時は磐田郡龍山村西(さい)川で生まれました。

——小学生のころからピアノを始められたそうですが。

部屋がいっぱいあるから「預かってくれ」ということで、東京から来た小学校の先生がうちに下宿していたんです。たまたまその布山先生が音楽をやっていたんで、ピアノの手ほどきをしてもらいました。

——布山先生は音楽の先生だった?

そういうわけじゃないけど、昔だから代理教師ということで、いろいろな教科を教えていたと思います。先生はうちが好きになって、教員を辞めたあとも自分のうちみたいに出はいりしていたんです。

——どういうきっかけでピアノを習うようになったんでしょう?

なんとなくですよね。小学校の四年ぐらいかな?

——ピアノは家にあったんですか?

放課後に、小学校のピアノで基礎を教わって。真っ暗になると、弾いていないと怖くなる。そんな記憶があります。先生がいなければ、音楽に縁はなかった。そのうちピアノを買ってもらって、うちで練習するようになったんですけどね。そのあとは中学に赴任してきた先生やピアノを教えてくれる音楽の先生がいたので、習いました。

——小学校の名前は?

龍山第一小学校で、たぶんもうないでしょう。中学が龍山中学校。そこに二年までいて、三年のときに、先生が「東京の音大を目指せ」と。ただしぼくのレヴェルがどのくらいかわからないので、三年のときに大塚にある東邦音大(東邦音楽大学)の附属に編入したんです。それで国立音大(国立音楽大学)の附属高校を目指し、作曲科の勉強を始めました。

——音楽学校に行こうと思ったのは、市川さんの意思で?

そうです。「作曲家になりたい」と思ったんです。

 ——ということは、本気でピアノを練習していた?

どうかわからないけど(笑)、まあそうですね。それで東邦に1年間。布山先生が東京に戻っていたので、お宅に下宿をさせてもらいました。そこで受験勉強をして、先生がよく知っていた林原先生という方に音楽のいろいろなことを習いました。布山先生には小学校のときから聴音などを習っていたから、それもよかった。

——音大に入るには、それなりにピアノが弾けないと。

だから「ピアノ科は無理」ということで作曲科。元々、作曲家になりたかったし、ハーモニーの有名な先生にもつきました。

——高校は国立音大附属。

作曲科に入れました。附属中学の先生に、「藝高(東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校)も受けてみろ」といわれて、作曲家の矢代秋雄(注1)さんにも習いに行きました。「1年遅いよ」といわれたけれど、「受けるだけ受けてみろ」。問題がまるでチンプンカンプンのもあり、やはりそこを受けるための勉強をしないといけないことがわかりました。

——小学校や中学校のときに好きだった音楽は?

布山先生が持ってきた本の中にイタリア歌曲の本があって、普通のクラシックと違って、ピアノの伴奏がとても面白い。あとは、バッハの「インヴェンション」とか、ああいうのが好きだったですね。

——自分でも弾かれて。

はい。

——当時はラジオですよね。ラジオから流れてくる歌謡曲やポピュラー・ミュージックは聴かなかった?

周りがぜんぶ山ですから、電波がほとんど入ってこない。「ブー」となって、聴こえなくなっちゃう(笑)。お袋の兄弟で戦死したひとがふたりいて、どちらかがクラシック好きだった。それでうちにもシンフォニーとかのSP盤が残っていて、そういうのは聴いていました。あとは流行りで、ラジオから聴こえてきたのがペレス・プラード(注2)とか。それからうちにあったのが、ポピュラーではタンゴ関係のSP盤。

——タンゴやラテンが流行っていた時代ですものね。そういうのは、聴いてそれほどピンとこなかった?

いや、なんとなく残っていますよ。

——でも、市川さんがやりたかったのはクラシック。

そうですね。それで高校では作曲科の先生にあまり習っていなくて、外の先生からいろいろ個人レッスンを受けていました。

〈ジス・ヒア〉で人生が変わる

——ジャズとの出会いは?

調律科に浜松出身の先輩がいて、「ジャズ喫茶に連れて行ってやる」。新宿の「ポニー」だったか「汀(なぎさ)」だったかは覚えてないけど、そこで聴いたボビー・ティモンズ(p)の〈ジス・ヒア〉(注3)にショックを受けて、それでこうなっちゃった(笑)。それが一年の春休み。

——クラシックとはまったく違いますよね。

違います。初めて聴くものばかりだから、面白かった。当時、布山先生はキャバレーのフルバンドでピアノを弾いていたんです。〈ジス・ヒア〉を聴く前、中学三年か高校に入ったころですが、そこに遊びに行って。譜面だったらぜんぶ読めて弾けちゃうから、やったことがあります。やっていたのはダンス・ミュージックでしたけど。

——それがひと前で弾いたポピュラー・ミュージックの最初?

でしょうね。それからジャズ喫茶通いになるんです。そのころはモダン・ジャズ・カルテットが流行っていて、そうすると、イコール・バッハでしょ。

——ジャズとクラシックを融合させていたのがモダン・ジャズ・カルテット。

だから、聴きやすい。それでどういうふうになっているかが知りたくて、レコードからアドリブをコピーしようと。ところがスタンダードの形式を知らない。AABAとかの形式とコードを知っていれば簡単にできるけど、「これはぜんぶやるの、無理だな」と思いました。「面倒臭いからやめよう」(笑)。

——そのころは自分でもジャズ・ピアノを弾きたいなと。

その気分になっているんですね。高校一年の終わりか二年になったころ、友だちの横田年昭(fl)さんに誘われて、タンゴ・バンドですけど、エキストラをやらせてもらって。

——横田さんが入っていたタンゴ・バンドに?

そうです。横田さんは東邦の先輩。ぼくが東邦にいたのは中学三年のときだけだから、学校では会ったことがない(笑)。あとは峰厚介(sax)さんも東邦の高校生で、このころに知り合って、仲間になった。このタンゴ・バンドは藝大の学生がピアニストで、自分の作曲が忙しくなって「代わりを探している」。そういうことで、横田さんから「ちょっと助けてよ」と。高校生でも譜面は強いですから(笑)。エキストラでやってたけど、しばらくしたら飽きてきた。でも、次のひとを探さないと辞められない(笑)。

——それはどういうところで?

御徒町のキャバレーです。「コスモポリタン」といったかな? それがギャラをもらった初めての仕事です。

——譜面は初見で弾けるんですか?

はい。難しい譜面はなかったから。そこで出会った先輩に、「これからの若いひとはジャズをやりなさい」「ジャズってなんですか?」「モダン・ジャズ」。昔は「ダンモ」といってましたけどね。「どんなのを聴いたらいいですか?」「まずスウィングするやつ」「誰ですか?」「ウイントン・ケリー(p)とかオスカー・ピーターソン(p)を聴きなさい」。それでジャズ喫茶に行って、ウイントン・ケリーを聴きました。

——〈ジス・ヒア〉は、それ以前に聴いていたんですよね。

そうです。その前からジャズ喫茶には行ってました。当時はビート族みたいなひとたちがスピーカーの前でレコードに合わせてアドリブを歌っている。ミュージシャンじゃないのに、そういうひとがたくさんいて。ぼくは音楽を目指していたから、それができないのが悔しい(笑)。「通えばこれができるな」と思って、ジャズ喫茶に通いだしたんです。譜面なんかないですから、そうやって耳で覚えて。

——ジャズをきちんと習ったことは?

ないです。当時のキャバレーは、スウィング・バンド、要するにジャズをやるバンドと、タンゴ・バンドもしくはラテン・バンドとがチェンジになるんです。タンゴ・バンドだってジャズをやらないわけじゃない。ちょっと軽いものとかはね。亡くなった演歌の井沢八郎(注4)さんともそこで出会いました。歌手になろうとしていたけど、食えないから、当時はベーシストだったんです。彼はタンゴ・バンドにいて、「レイ・ブラウン(b)のなにかをコピーして」といわれて、コピーしたことを覚えています。

——チェンジのジャズ・バンドのピアニストには教わらなかった?

教わらなかったですね。

——それはどのくらいの期間?

数か月ですよ。そのあとは、だんだん学校に行かなくなって、いろんなバンドで仕事をするようになりました。銀座のクラブとかで、小編成のバンドですね。銀座だと昔のベニー・グッドマン(cl)スタイルで、クラリネットとヴァイブ(ヴィブラフォン)の入ったコンボ。

——このころになるとジャズのバンドで。

スウィング・ジャズで、スタンダードを演奏してました。これが高校三年のころ。前後するけど、モダン・ジャズが好きなアマチュアっているんですよ。誰かに紹介してもらって、貸スタジオで練習する。そのころに出たモダン・ジャズばっかりの楽譜集があったんで、それをみんなで練習して。

 ——仕事はたくさんあったんですか?

ひとつのところにいるのが好きじゃなくてフラフラしてたから、あったんでしょうね。ぼくはひとに仕事を紹介するのが好きで。キャバレーの仕事があると、峰厚介さんとかに、「厚ちゃん、仕事があるよ」。ぼくがマネージャーみたいになって、このころからいろいろなミュージシャンとのつき合いができて。

——高校のときからジャズが演奏できるあちこちのクラブに出て。

そのあと、東京オリンピックのころの話ですけど(64年)、九段に「フラミンゴ」というナイト・クラブがあったんです。上が料亭で、その料亭が経営しているホステスさんのいないナイト・クラブ。早い時間はお客さんが少ないから好き勝手なことができる。昔だからオープンリールのテープレコーダーをステージに持ち込んで、演奏して、録音して、毎日休憩時間に控室でそれを聴いていた。それが勉強になりました。

——そのときの編成は?

最初は、ぼくが雇われたカルテット。そのあとはピアノ・トリオで、のちにカルテットになりました。夜中の12時からはダンス・ミュージックを演奏する。ダンス・ミュージックでもみんなアドリブをしますから、あのころだとハービー・マン(fl)の曲をやったり。スタンダードの〈ティー・フォー・トゥ〉でも、ラテンにすれば踊れるし。あまりモダンなジャズをやると怒られちゃう。黒服が「ジャズ、やったでしょ」「やってないよ」とかね(笑)。しょっちゅう喧嘩してたけど、そのときのひととはいまだにつき合っています。

 

第2話(6月7日掲載予定)に続く

 

注1)矢代秋雄(作曲家 1929~76年)東京藝術大学研究科卒業後、パリ国立高等音楽院留学。和声法で「一等賞」受賞など、優秀な成績を修めて卒業。晩年は作曲家として活動する一方、東京藝術大学音楽学部作曲科の主任教授として後進の指導にあたった。
注2)ペレス・プラード(キューバのバンドリーダー  1916~89年)49年に〈エル・マンボ〉を初ヒットさせ、これは文化放送『S盤アワー』(52年4月から69年11月まで放送)のオープニング・テーマ曲にも使われた。50年には〈マンボNo.5〉と〈マンボNo.8〉を連続ヒットさせて名声を確立。マンボ・キングと呼ばれ、56年に初来日。日本にラテン音楽の大ブームをもたらし、17回の来日公演を行なう。
注3)『ボビー・ティモンズ/ジス・ヒア』(リバーサイド)に収録。メンバー=ボビー・ティモンズ(p) サム・ジョーンズ(b) ジミー・コブ(ds) 1960年1月13、14日 ニューヨークで録音
注4)井沢八郎(歌手 1937~2007年)63年レコード・デビュー。次の〈あゝ上野駅〉が大ヒット。娘は女優の工藤夕貴。

 

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