【証言で綴る日本のジャズ】増尾好秋/第1話「ギターとの出会いは偶然から」

文/小川隆夫

2017.11.09

連載「証言で綴る日本のジャズ3」 はじめに

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはギタリストの増尾好秋。1971年に渡米後、ソニー・ロリンズのバンドに6年間在籍するなど、世界的な活躍を続けてきたスーパー・プレイヤーである。現在もアメリカを拠点に活動する同氏に“あの頃”の話を聞いた。

ギターとの出会いは偶然から

——出身地と生年月日を教えてください。

1946年10月12日に東京の中野区新井薬師で生まれました。なんで新井薬師かっていうと、母の姉が住んでいたから。戦争が終わって、みんな疎開先からそこに帰ってきて、ぼくはその伯母の家で生まれました。そのあと、近くにうちを建て、住むようになったんです。実家はいまでもあります。東京に帰ってくると、そこにいます。

——いまはどなたが住んでいるのですか?

94歳の母です。弟もそこに住んでいます。

——お父様がピア二ストの増尾博(注1)さん。ナット・キング・コールがお好きだったそうで。増尾さんのご兄弟は、弟さんがギタリストの元章(注2)さん。

ほかに姉がふたりいます。4人姉弟で、ぼくが3番目。ふたりの姉は亡くなりましたが、ひとつ上の姉はピアニストで、「プリンスホテル」とかのラウンジで弾いていました。

弟の増尾元章と。1980年頃。

——お父様がピアニストだったから。

そうですね。下の姉はピアノを習って、上の姉はバレエをやっていました。

——増尾さんは中学でギターを始めたということですが、いちばん古い音楽の記憶は?

父が米軍キャンプの「オフィサーズ・クラブ(将校クラブ)」でも仕事をしていたので、小さいときから連れていってもらって。そこでコカ・コーラを初めて飲んだとかね(笑)。基地のPX(注3)で買ってきたり、将校にもらったりとかで、ジャズのレコードがうちでかかっていたんです。最初は竹針を使ったモノラルのレコード・プレイヤー。ナット・キング・コール、テディ・ウィルソン(p)、ジョージ・シアリング(p)、あとはビッグバンドとか、そういう音楽を聴いて育ちました。

——それが物心のついたころ。

そうですね。父は歌謡曲とかはかけなかったんで、そういう音楽をまったく知らないで育ちました。

父、増尾博のバンド(1950年代)

——ギターとの出会いは?

ぼくは伯母と仲がよかったので、よく遊びに行ってたんです。彼女は下宿やアパートを経営していて、入っていた学生さんか誰かが出るときに置いていったギターがあったんです。質屋さんなんかで売ってる箱のギターで、弦がスティールの。それが面白いのでちょっといじって。それで、「これ、もらっていい?」。そこからです。

——音楽の素養はまったくないままに?

まったくないけれど、うちにピアノがあったから、遊びで弾いてはいました。でも、レッスンは受けたことがありません。姉は習っていましたけど。

それで、父がギターのチューニングとかを少し知っていたんで、古賀政男(注4)の曲とか(笑)、そんなのを弾いたりして。そこから見よう見まねで始まりました。

——お父様から教わったこともない。

ないです。レコードでギターが入っていると、「どうやってるんだろうな?」と思って、弾くようになったのがギターとジャズとの繋がりです。ぼくもナット・キング・コールが好きだったから、そうするとギターが入っているでしょ。和音はわからないけど、聴いて、「こうかな?」とかやって。そういう感じですよ。

——最初からジャズだった。

ええ。それが中学の一年か二年のころ。そうするともっと興味が出てくる。本屋さんに行くと、ギターの本とかコードが書いてあるものとかがあるでしょ。その中に、「ブルースはこういうコード進行だ」って書いてあったんです。それを一生懸命に覚えて(笑)、帰って弾いてみたら、「この曲もそうじゃない、あの曲もそうじゃない」。

そういう感じで、自分で発見したというか、ちょびっとずつ探っていったというか(笑)。友だちで音楽をやるひとがいなかったから、学校から帰ってくるとレコードと一緒にギターを弾くのがいちばんの楽しみ。ぼくがそんなことをやってることも誰も知らなかった。

独学でギターをマスター

そのころになると、父もモダン・ジャズにすごく興味があったから、セロニアス・モンク(p)やフィニアス・ニューボーン・ジュニア(p)とか、そういう硬派のジャズのレコードがうちで流れていたんです。同時に父がハモンド・オルガンを買ったもんだから、ジミー・スミス(org)やブルーノートのレコードもかかるようになりました。ぼくも自然とそういうモダン・ジャズも聴くようになって。

それで、ぼくがジャズ・ギターに興味を持っていることを知った父がバーニー・ケッセル(g)の『ポール・ウィナーズ・スリー』(コンテンポラリー)を買ってくれたんです。それが、買ってもらった自分のレコードの最初です。そのレコードにドップリ浸かって。そのころになると『スイングジャーナル』(注5)も読み始めています。

そこに、「ウエス・モンゴメリーというギタリストがいて、『ジ・インクレディブル・ジャズ・ギター・オブ・ウエス・モンゴメリー』(リバーサイド)というレコードを出した」という記事が載っていたんです。自分でお金を出して買った最初のレコードがそれ。

でもその前に、ウエス・モンゴメリーがすごいギタリストだっていうことを読んで、『バグス・ミーツ・ウエス』(リバーサイド)を買っていたんです。ところが『ジ・インクレディブル~』のほうがいいと聞いたんで、交換しに行って(笑)。レコード屋さんもよく交換してくれたと思います。

——それがいくつのころ?

高校になってたかな?

——ウエスのギターは難しいでしょ?

難しいもなにも、ぜんぶ難しいんだもの(笑)。バーニー・ケッセルだってすごいし。

——でも、レコードに合わせてけっこう弾けたんですか?

なんとなくね。

——最初はグラント・グリーン(g)も好きで。

シンプルだけどノリのいいフレーズが好きでした。あとでわかったけど、彼はチャーリー・パーカー(as)やソニー・ロリンズ(ts)のフレーズをずいぶん弾くんです。だからギターで細かくなりがちのところを、そういうフレーズでドーンと出てくる。そこに強く惹かれました。

——バンド活動はしなかった?

高校の最後のころになると、クラスにジャズ喫茶でタバコを吸っているようなワルがいるじゃないですか。ぼくがジャズを聴いているのをそういう連中が知って、うちに来るようになったのね。そのころ、ジャズのレコードを持っているヤツなんかあまりいなかったから。

彼らがうちに来るようになって、たまに父と一緒に演奏させてもらったりとか。そのへんでやっと音楽の友だちができるようになって。学校にもね、ドラムスを叩くヤツとか、ちょっとギターをやっているヤツとかがいたんで、高校三年の文化祭でやったことがあります。

——ジャズの演奏を?

ジャズというか、ぼくが選んだ曲を教えて、勝手にやっただけですけど(笑)。ぼくは早稲田中学、早稲田高校。それで早稲田大学に行って。そのときだって、どこの大学でなにが勉強したいかなんてまったく考えていなくて。早稲田には「モダン・ジャズ研究会」があるから、「そこに行こう」と思って、入ったんです。

クラブに入ったら、1年先輩に鈴木良雄(b)、チンさんがいたんです。そのころ、チンさんはピアニストだったけど、ベースもちょいちょい弾いていました。ベーシストはいつでもクラブの中で数が少ないから、みんな兼任で弾くようになるんです。ぼくも弾きました。そこで、初めてぼくとおんなじようなことを考えているおんなじような歳のひとと出会ったんです。音楽でコミュニケートができるひと、それがチンさんでした。

——おんなじようなこととは?

レコードを聴いて、「あのコードはなんだろう?」とか、「あそこは3連のなにでやってる」とか、そういう細かいことに意識がいってるひと。そのころは教則本もなにもないし、理論もわからないから、自分で研究するしかない。それで、高校時代にいろいろコピーすることはやっていたから、その音が頭の中で鳴っていて、「あのサウンドはこうだ」とかはだいたいわかっているわけですよ。

そういうことをチンさんも考えていたんです。チンさんはクラシックの鈴木バイオリン(注6)出身ですから、ぼくとは違うところから音楽にきています。でも、チンさんも大学ぐらいからジャズに興味を持つようになって。デイヴ・ブルーベック(p)をコピーしたりとか、いろいろやっていたわけです。以来、ぼくたちはずっとライヴァルです。

第2話(11月16日掲載予定)に続く

(注1)増尾博(p 1913~87年)戦前からジャズやタンゴのピアニストとして活躍。戦後はヘップ・キャッツ・セヴンを結成し、76年からはオールド・ボーイズに参加。
(注2)増尾元章(g 1951年~)73年に『ファースト』発表.。77~78年にはS-KENの初代ギタリストとして活躍。84年に井上尭之(g)、竹田和夫(g)と共演した4作目『ハピネス』を発表。85年右手の指4本の神経を断裂。90年代初頭にカムバックするもすぐに中断。2005年に2度目の復帰。
(注3)post exchange(アメリカ軍基地内の売店)。駐屯地、施設、艦船内などに設けられ、軍人や軍属などに日用品や嗜好品などを安価で提供。
(注4)古賀政男(作曲家 1904~78年)マンドリン、ギター、大正琴を演奏したのち、国民的な作曲家に。代表作は〈酒は涙か溜息か〉〈影を慕いて〉〈人生劇場〉〈東京五輪音頭〉〈柔〉など、枚挙にいとまがない。
(注5)47年から2010年まで発刊された日本のジャズ専門月刊誌。
(注6)46年に長野県松本市でヴァイオリニストの鈴木鎮一が開設した「松本音楽院」が母体。音楽を通じ心豊かな人間を育てることが目的の教育法で、日本、アメリカなどで活動を展開。

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