投稿日 : 2017.11.09 更新日 : 2021.09.03

【証言で綴る日本のジャズ】増尾好秋| 米軍の将校クラブで味わった「音楽とコカ・コーラ」

取材・文/小川隆夫

増尾好秋/第1話

ニューヨークでのレコーディング、そして活動を中断

——ラリー・ヤングに話を戻すと……。

彼はそのあとすぐに亡くなっちゃったんです。そのころにぼくは初めて自分のバンドがやりたいと思って、自分で仕事を取ってバンドを始めたんです。

最初はジャズ・ミュージシャンを集めてやってたけど、どうも違う。そんなときに出会ったのがベースのT・M・スティーヴンス。若いドラムスもいたし、まったく違うジャンルのひとたちと音楽をやるようになったんです。同じころに、日本の若いひとたちから「アルバムを作りませんか?」というアプローチがあったんです。そのときにいろいろありまして、「スタッフのメンバーを使わないか?」とかね。

——レコーディングの話が出たので、順にお聞きしますが、ニューヨークに行って最初に作ったアルバムが75年録音の『111 サリヴァン・ストリート』(注27)。

日本でイースト・ウィンドというレコード会社ができましたよね。それで「アルバムを作らないか」となって。ソニー・ロリンズとやっている最中の録音ですから、ロリンズのリズム・セクション、ボブ・クランショウ(b)とデヴィッド・リー(ds)に、チンさんと、ソニーを紹介してくれたボブ・ムーヴァーとジミー・ラヴレス(ds)。ジミーはウエス・モンゴメリーとやっていたひとで、サンフランシスコから来て、そのままニューヨークに住んでいたドラマーです。このふたつのバンドでレコーディングしました。

(注27)渡米後の初リーダー作。ソロ、アルト・サックスとのデュオ、ギター・トリオ、カルテット編成でスタンダードからオリジナルまでを演奏。メンバー=増尾好秋(g) ボブ・ム—ヴァー(as) ボブ・クランショウ(b) 鈴木良雄(b) デヴィッド・リー(ds) ジミー・ラヴレス(ds) 1975年9月27日、28日 ニューヨークで録音

『111 サリヴァン・ストリート』(1975)

——その次が、先ほど話に出たレコーディングで、これが『セイリング・ワンダー』(キング/エレクトリック・バード)(注28)。

そうです。だけど、最初はレコード会社もなにも決まっていませんでした。彼らがそれをキング・レコードに持っていって、それならキング・レコードは新しいレーベルを作ろうということで、エレクトリック・バードというレーベルを作ったそうです。キング・レコードではぜんぶで6枚(注29)吹き込みました。それが自分のバンドを作っていった過程でのレコーディングです。あの6枚は、だから自分としては充実しています。

(注28)スタッフの主力メンバーやデイヴ・グルーシンとセッションしたエレクトリック・バード第1弾作品。メンバー=増尾好秋(g syn per) エリック・ゲイル(g) リチャード・ティー(p org) デイヴ・グルーシン(syn) マイク・ノック(syn) ゴードン・エドワーズ(elb) T・M・スティーヴンス(elb) スティーヴ・ガッド(ds) ハワード・キング(ds) アル・マック(ds) バッシーニ(conga) ウォーレン・スミス(per) 1977年6月25日、11月15日 ニューヨークで録音

(注29)『セイリング・ワンダー』(77年録音)、『サンシャイン・アヴェニュー』(同79年)、『グッド・モーニング』(同79年)、『マスオ・ライヴ』(同80年)、『ソング・イズ・ユー・アンド・ミー』(同80年)、『フィンガー・ダンシング』(同80年)

最初の『セイリング・ワンダー』はスタッフのメンバーとレコーディングしましたが、2枚目の『サンシャイン・アヴェニュー』(注30)と3枚目の『グッド・モーニング』(注31)は、ぼくが出会ったミュージシャン、T・M・スティーヴンスと若いドラマーが入って、完全に自分のバンドでのレコーディングです。

(注30)強力なリズム・セクションを得て結成した増尾グループによる1作目。メンバー=増尾好秋(g solina per) ヴィクター・ブルース・ガッジ—(p elp clavinet vo) ホルヘ・ダルト(p) T・M・スティーヴンス(elb piccolo-b) ロビー・ゴンザレス(ds) カールス・タレラント(per) パポ・コンガ・プエルト(conga) シャーリー・マスオ(per) マイケル・チャイムズ(hca) 1979年1月27日~2月12日 ニューヨークで録音

(注31)当時のワーキング・バンド+増尾元章他で吹き込んだ2作目。メンバー=増尾好秋(g syn vo) 増尾元章(g syn) ヴィクター・ブルース・ガッジ—(p elp) デリー(org) T・M・スティーヴンス(elb piccolo-b) ロビー・ゴンザレス(ds conga) マーガレット・ロス(harp) ジョザン(vo)シャーリー・マスオ(per) 1979年9月 ニューヨークで録音

そのあと、自分のバンド(アニマル・ハウス・バンド)で日本のツアーをして録音した『マスオ・ライヴ』(注32)があります。5枚目の『ソング・イズ・ユー・アンド・ミー』(注33)ではまたスタジオ・ミュージシャンが入って。最後にヤン・ハマーとツアーして吹き込んだのが『フィンガー・ダンシング』(注34)。

(注32)レギュラーのアニマル・ハウス・バンドに弟の元章を加えたライヴ盤。メンバー=増尾好秋(g syn per vo) 増尾元章(g) ヴィクター・ブルース・ガッジ—(elp org) T・M・スティーヴンス(elb) ロビー・ゴンザレス(ds conga) シャーリー・マスオ(per syn) 1980年2月9日 東京・新宿「厚生年金会館大ホール」でライヴ録音

(注33)ブラス・セクションやストリングスも加えてレコーディング。作編曲は増尾と横倉裕。メンバー=増尾好秋(g p per vo) 横倉裕(elp) ホルヘ・ダルト(elp) ヤン・ハマー(elp syn) マイケル・ブレッカー(ts) デヴィッド・トファニ(as fl) ランディ・ブレッカー(tp fgh) アラン・ルービン(tp fgh) T・M・スティーヴンス(elb) ラッセル・ブレイク(elb) ロビー・ゴンザレス(ds) ペッカー(per) ストリングスほか 1980年9月9日~10月17日 ニューヨークと東京で録音

(注34)前作で共演したヤン・ハマーとの日本ツアーを実況録音。メンバー=増尾好秋(g) ヤン・ハマー(key) ラッセル・ブレイク(elb) トニー・シントン・ジュニア(ds) 1980年10月15日、16日 東京・芝「郵便貯金ホール」でライヴ録音、10月19日、21日 東京で録音

——弟の元章さんとも『グッド・モーニング』と『マスオ・ライヴ』で共演しています。元章さんは増尾さんの影響でギターを弾くようになったんですか?

それもあるんじゃないでしょうか? でも、彼は始めた時点でビートルズとかエリック・クラプトンでしたから、ぼくとはジャンルが違います。ギターも弾くけど、ベースも弾くし、作曲家としても才能がある。

——70年代後半、『セイリング・ワンダー』を作ったころから自分のバンドで活動をするようになりました。

 ニューヨークでいうなら「ミケールズ」とか「セヴンス・アヴェニュー・サウス」とかのクラブで演奏していました。それまでずっとサイドマンだったでしょ。自分がリーダーになってみると、サイドマンのメンタリティじゃ成り立たない。そこで「自分はこうだ」と、初めて主張するようになりました。

自分がリーダーになると、メンバーにいうことはちゃんといってフォローしないとダメなんです。日本の場合は「いわなくてもわかるだろう」みたいなところがあるけど、こっちではいわなきゃわからない。いままでだと、そういうところでいうすべを知らないから、みんながいうことをきかなくても、「なんでわからないんだろう?」とか、自分の中でイライラして、怒ってた。でもそれはダメだってことがわかったんで、怒らずにちゃんと伝える(笑)。

そのころはフュージョン・ブームとかいわれて、それで音楽界は成り立っていたんです。ぼくの中ではフュージョンもなにもなかった。ただ自分で思った曲を作って、このメンバーでやってみるということで。ですから、目標になる音楽がぜんぜんなかった。

スタッフとかが流行っていたでしょ。ぼくはマハヴィシュヌ・オーケストラにノックアウトされていたから、スタッフなんかジジイのバンドでエネルギーがないし、「どうでもいいや」と思っていました。だけどスティーヴ・ガッドも素晴らしかったし、リチャード・ティー(key)もエリック・ゲイル(g)も素晴らしかった。『セイリング・ワンダー』を一緒に作れたのはよかったと思います。

でも、目指している音楽はそういうものではなかった。このベースがいたから、このキーボードがいたから、このドラムスがいたからということで、そのときはほかに例のない音楽を作ったと思っていました。ジャンルにハマる音楽じゃなかった。だから、いま聴いてもぜんぜん古くなっていない。すごくピュアで、誇りを持って自分たちのサウンドが作れたと自負しています。

——ロリンズとかのグループを辞めたところで、タイミングもよかったんでしょうね。

 辞めて、ジャズのギターの音じゃないものでやろうと。その10年前からそういうことはやりたかったんですよ。でもロリンズで一回ジャズに戻って、考える時間もできたし。

——エレクトリック・バードでスタジオ録音4作とライヴを2作、82年にポリスターから『メロー・フォーカス』(注35)を出したあとは、89年の『MASUO』(EPICソニー/ア・タッチ)(注36)までレコーディングが途絶えます。

スタジオで何枚かアルバムを作って、バンドは解散する時期に来たと思います。解散して、「これからなにをやろうか?」という時点で、一回立ち止まっちゃったんです。そのころが、MIDIとかシークエンサーとかヤマハのDX7とか、ああいうものが出てきた時代ですよ。それをいじっていたら面白くて、それにハマって。

(注35)増尾グループのメンバーを中心に吹き込んだ最後の作品。メンバー=増尾好秋(g b key) ジェフリー・カワレック(syn) ヤン・ハマー(syn) ケニー・カークランド(key) ビル・オコネル(p) ウィル・リー(elb) T・M・スティーヴンス(elb) ボブ・クランショウ(b) トミー・キャンベル(ds) バディ・ウィリアムス(ds) トニー・スミス(ds) ロビー・ゴンザレス(conga) シャーリー(per) 1981年12月~1982年1月 ニューヨークで録音

(注36)89年に発表した初のソロ・アルバム。メンバー=増尾好秋(g) 1986~89年 ニューヨークで録音

そのころ友だちの作ったスタジオをテイクオーヴァーすることになって、今度はレコーディングに興味を抱き始めたんです。ギタリストはアンプで音を作るでしょ。レコーディングも同じです。それが面白くて、「ひとりでアルバムを作ろう」となって、なんだかんだ5年くらいやってたんです。それでライヴから遠ざかってしまいました。

——それがソーホーにあった「The Studio」という増尾さんのスタジオで、完成したアルバムが『MASUO』。この時代以降も面白い話がたくさんあると思いますが、今日はここまでということで、最後にプロで50年やってきて思うことを聞かせてください。

 ぼくは、父がミュージシャンだったけれど、「ダンモ研」でチンさんと出会った、それから貞夫さんと出会い、アメリカに行ってソニー・ロリンズと出会った。これら4つで人生が決まってしまった。ひとつでもなければ違う人生だったと思います。ぜんぶがまったくの偶然で。いま考えてみると、どうして繋がったのか、本当に不思議ですね。

——いいお言葉をありがとうございました。

こちらこそ。

取材・文/小川隆夫

2017-10-21 Interview with 増尾好秋 @ 新宿「珈琲西武」

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