投稿日 : 2026.05.18

【デクスター・ゴードン】欧州に新天地を求めたテナー・サックスの巨人─ライブ盤で聴くモントルー Vol.67

文/二階堂尚

ライブ盤で聴くモントルー Vol.67_デクスターゴードン
「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。

ジャズの歴史を変えたわけではないが、強烈な印象と確かな足跡を残した忘れられないプレーヤーがジャズの世界には数多くいる。デクスター・ゴードンもそんなミュージシャンのひとりだ。モダン・ジャズ黄金期を刑務所の中で過ごし、名門ブルーノートで黄金期を築き、欧州に移住して精力的にライブ活動を行い、晩年は映画俳優としても名を成した男。その無類の魅力を掘り下げる。

収監されていた刑務所での映画出演

「史上最大の経済学者は誰か?」との問いへの答えが「J・K・ガルブレイス」であるのは、彼が203cmの長躯の持ち主だったからで、これは経済学に多少通じている者の間のジョークだと思っていたら、ウィキペディアに「2メートルを超え、偉大な業績とも相まって『経済学の巨人』と評された」と大真面目に書かれていて笑った。

ソニー・ロリンズの『サキソフォン・コロッサス』「サックスの巨人」という意味だが、ガルブレイスにまつわるジョークに倣うなら、真のサックスの巨人はデクスター・ゴードンということになるだろう。彼の身長は198cmであった。

その長身は映像によく映えた。デクスターはいくつかの映画に出演しているが、中でも1986年の『ラウンド・ミッドナイト』がよく知られている。彼はこの作品で米アカデミー賞の主演男優賞にノミネートされたのだった。

デクスター・ゴードン_ラウンド・ミッドナイト_ライブ盤で聴くモントルー Vol.67

その遥か以前、1950年代に出演したのが『情熱の狂想曲』(1950年)と『アンチェインド』(1955年)の2本の映画である。前者は、白人コルネット奏者ビックス・バイダーベックをモデルにした小説『ヤング・マン・ウィズ・ア・ホーン』を映画化したもので、これにデクスターはバンドの一員として出演していた。

『アンチェインド』でも役どころはバンドの一員だったが、このバンドは刑務所の受刑者バンドであり、撮影はカリフォルニア州のチノ刑務所、つまり実際の刑務所内で行われている。撮影時、デクスターはヘロイン所持の罪状によって同刑務所で服役していた。収監された身のままで映画に出演したということで、これは数あるジャズのエピソードの中で最も面白い逸話のひとつだと思うのだが、どうか。

ヘロインでジャズ最盛期を棒に振った男

小川隆夫の『ブルーノートの真実』によれば、デクスター・ゴードンがヘロイン中毒になるきっかけは、チャーリー・パーカーからギャラの代わりに大量のヘロインをもらったことだったという。それが初めてのヘロイン体験だったわけではなかったが、パーカーから渡されたブツがあまりに極上だったために、彼はそこから一気にヘロインにのめり込んでいったのだった。

1940年代に新進のビ・バッパーとしてデビューしたデクスターだったが、40年代後半から50年代にかけて10年以上の間音楽活動を停滞させることになったのはすべてヘロインのせいで、チノ刑務所には2年間にわたって収監され、その後もいくつかの刑務所に出入りし、フォルサム刑務所から1959年に釈放されるに至ってようやく長い「お勤め」を終えた。ちなみにフォルサム刑務所は、ジョニー・キャッシュが名高いライブ盤『アット・フォルサム・プリズン』を収録したあの刑務所である。

デクスターをヘロイン禍が襲う前、1940年代の彼の演奏の素晴らしさを小説の中で表現したのが、ジャック・ケルアックだった。『路上(オン・ザ・ロード)』はビートニク小説を代表するあまりに有名な作品だが、その中にこんな一節がある。

ディーンは、サンドウィッチを手に、大きな蓄音機の前で背中を丸めて跳ねまわりながら、ぼくが買ったばかりのワイルドなバップの「ザ・ハント」に集中していたが、デクスター・ゴードンとウォーデル・グレイがいっしょにブッとんでいるそのレコードは、ぎゃあぎゃあ騒ぐ聴衆のせいもあってすばらしく狂熱的なものだった。(青山南訳)

登場人物たちが聴いているのは、1947年の7月にロサンゼルスでライブ・レコーディングされた音源で、この頃デクスターは同じテナー奏者のワーデル・グレイ(この表記が日本では一般的である)と一緒に活動していた。この時期のデクスターの演奏は、チャーリー・パーカーがレコーディングしたダイアル・レーベルに残されていて、まさしく「ブッとんでいる」デクスターのビ・バップ・プレイを味わうことができる。

ビ・バップ革命のさなかにシーンに登場したサックス奏者であったデクスターは、ほかのプレーヤー同様パーカーから大きな影響を受けたが、ついでにドラッグ癖という余計なものを授かってしまった。彼のキャリアにとってそれがあまりに大きな損失であったのは、ビ・バップ、クール・ジャズに続いて、ハード・バップという新しい表現が生まれ、モダン・ジャズが歴史上最も白熱していた1950年代を丸まる棒に振ってしまったからだ。この時代にデクスターが残したリーダー・アルバムは、わずか2枚にとどまる。

野原の真ん中にそびえる大きな樫の古木

デクスターの復活劇の幕開きとなったのは1960年で、まずは肩慣らしのような一枚をリヴァーサイド・レコードの新興子会社であったジャズランドでレコーディングしたのち、ブルーノートに当時は未発表だった作品を含め計9枚のアルバムを残した。61年から65年までのこの時期をデクスターの黄金期と見る人も少なくない。

しかし、ジャズの世界はこのときすでに、モードやフリー・ジャズという次の段階に進んでいた。だから、「遅れて来たハード・バッパー」であったデクスターの音楽は決して新しくはなく、ジャズ評論家のリチャード・クックは、デクスターのアルバムを「六〇年代ブルーノートのアナクロニズム」と呼んだ。「たとえばハンク・モブレーなどと比べると、彼のブルーノート作品は長い年月に耐えるものではない」と(『ブルーノート・レコード』)。

クックのデクスター評は手厳しいが、かたや正鵠を突いた表現も見られる。デクスターは「バップの複雑なハーモニーを好むと同時に、スイングの優しく単純なリズムにも惹かれるといった、時代のはざまにいるスタイリスト」であり、「印象的な音色を出しながら眠り込んでしまい、自分の霧笛を思わせる大きな音を目覚ましがわりに、再び目を覚ますようなところがある」と彼は書いている。デクスターのプレイ・スタイルとあの音を知っている人は即座に膝を打つ表現ではなかろうか。これに村上春樹の言葉を加えれば、デクスター・ゴードンというテナー・サックス奏者の像がはっきり結ばれる。

デクスター・ゴードンは、僕にいつも樹木のイメージを抱かせる。それも野原の真ん中にそびえる、大きな樫の古木だ。
(『ポートレイト・イン・ジャズ』)

ポートレイト・イン・ジャズ_ライブ盤で聴くモントルー Vol.67

新たな活動の舞台としてのヨーロッパ

1962年、デクスターはヨーロッパに本拠を移した。移住の理由はいくつかあったようだ。先ごろ公開されたキース・ジャレットを題材にした映画『1975年のケルン・コンサート』では、ジャレットが「なぜニューヨークを離れて、ヨーロッパで活動しているんだ?」とジャーナリストから尋ねられ、「デクスター・ゴードンがデンマークに移住した理由を知っているか? 気候だよ」と返す場面があった。

面倒なジャーナリストを煙に巻いたといったところだろう。実際にデクスターが欧州に移住するにあたって最も大きかった理由はむろん気候ではなく、キャバレー・カードが発行されなかったことだと言われる。当時のニューヨークでは、州の酒類局が発行するライセンスであるキャバレー・カードがなければジャズ・クラブで演奏することができなかった。ドラッグ保持で逮捕された経歴のある者やドラッグ常習者にはこのカードが発行されないことがしばしばあり、それを最も得にくいミュージシャンのひとりがデクスターだった。

だから彼は演奏する場を欧州に求めた。移住に先立って体験したロンドン、コペンハーゲン、パリの三都市での長期公演に彼はかなりの手ごたえを感じていたというから、欧州は彼にとって新天地と感じられたはずである。デクスターの欧州生活は、何度かの帰米をまじえながら、14年の長きに及んだ。

デクスター・ゴードン_ライブ盤で聴くモントルー Vol.67
1978年トロントでのコンサート

生活の拠点としていたのは、デンマークのコペンハーゲンであったが、ライブ活動は欧州各地で盛んに行い、数々のライブ・アルバムも残している。1970年のモントルー・ジャズ・フェスティバルの記録『アット・モントルー・ウィズ・ジュニア・マンス』もそのひとつだ。

「ソウル・ピアニスト」とのモントルーでの共演

モントルーでのデクスターのステージは、やはりこの年のモントルーに出演していたジュニア・マンス・トリオと共演したもので、トリオの演奏後にデクスターがステージにジョインしたという記録と、演奏は別日であったという記録があって、どちらが正しいのかよくわからない。

 

デクスターのオリジナルである「フライド・バナナズ」「ザ・パンサー」(配信のボーナス・トラック)を除けば、デューク・エリントンの「ソフィスティケイテッド・レディ」、セロニアス・モンクの「リズマニング」「ブルー・モンク」、さらに「ボディ・アンド・ソウル」と、よく知られたスタンダードが並ぶところを見ると、簡単なリハと打ち合わせのみでの共演だった可能性もある。この時期のデクスターは、「ボディ・アンド・ソウル」をジョン・コルトレーンのモード・バージョンを参考にプレイしていたが、この曲にしても、「マンス、“ボディ”はマッコイみたいに弾いてくれるか」「OK、コルトレーンのところにいたあいつだな」くらいのやりとりのみで演奏したのではないかと推察する。

ジュニア・マンスはジャズ・ピアニストというよりもソウル・ピアニストと呼ばれるべきプレーヤーで、彼の代表作である1959年の『ジュニア』は、ブルースやソウルの感覚が横溢する名盤であった。彼は60年代にR&Bの名門アトランティック・レコードにも何枚かのアルバムを残している。『ハーレム』『アイ・ビリーヴ・トゥ・マイ・ソウル』といった作品は、ジャズ・ファン以外にもアピールする最高のソウル・インストルメンタル・アルバムである。

マンスは1970年に、バディ・ガイとジュニア・ウェルズの名ブルース・コンビに加わって、『バディ・アンド・ザ・ジュニアズ』というアルバムをレコーディングした。珍しくアコースティック・ギターだけを弾くバディ・ガイに伴奏するマンスは、完全なブルース・ピアニストと化している。

『アット・モントルー』におけるマンスのベスト・プレイは、「ブルー・モンク」で聴くことができる。それまで小出しにしてきたブルース・フィーリングを一気に解放した濃厚な演奏が素晴らしい。一方、主役であるデクスターのベストの演奏は、「ボディ・アンド・ソウル」の最後の2分超に及ぶ無伴奏ソロだろう。聴く者のため息を誘うような達意のプレイである。

デクスターのアルバムにはほかのホーン・プレーヤーを招いた作品も多いが、やはりワン・ホーンのアルバムがいい。彼のテナーの魅力をひとたび知った者は誰しも、まさしく夜の港に響く霧笛のようなあのダンディな音だけをひたすら聴いていたいと願うはずである。

パリのジャズ・マンたちの肖像

『アット・モントルー』を欧州におけるデクスターのライブ盤の代表作のひとつとするとして、同じく欧州におけるスタジオ・アルバムの代表作を一枚挙げよと言われれば、パリで録音されたブルーノートの『アワ・マン・イン・パリ』が真っ先に思い浮かぶ。

映画『ラウンド・ミッドナイト』では、ブルーノート・パリの入り口にこのアルバムのジャケットが飾られていた。映画の舞台は1959年のパリであるから、1963年にレコーディングされた『アワ・マン・イン・パリ』のレコードが存在するはずはないと設定上は言える。しかしこれは、映画のつくり手から観客への明確なメッセージであったと見るべきである。

映画のクレジットにもあるように、『ラウンド・ミッドナイト』は、1959年に妻と息子とともにフランスに移住して、以後1964年までパリを拠点として活動したバド・パウエルをモデルとした作品だった。パウエルのイメージをデクスターに投影することによってこの映画は成立している。『アワ・マン・イン・パリ』は、その2人がパリで共演したアルバムであり、『ラウンド・ミッドナイト』という虚構の物語を現実につなぐいわば鍵のような作品である。

『アワ・マン・イン・パリ』に参加しているのは、バド・パウエルのほかに、やはり1956年からパリに住んでいたドラマーのケニー・クラークと、フランス人ベーシストのピエール・ミシュロである。この3人は「スリー・ボッセズ」というトリオ名でパリで活動していた。『ラウンド・ミッドナイト』の劇中で、ブルーノートに長期出演しているデクスターのバンドのベーシストがミシェロである。クラークとミシェロは、マイルス・デイヴィスの『死刑台のエレベーター』のレコーディングにも参加していた。

天才ピアニストの倦怠と衰弱

パリで活動していたころのバド・パウエルは、アルコール依存、肥満に加えて、長年の宿痾であった統合失調症の薬の影響で往年の輝きを完全に失っていたようだ。その様子を1961年に渡仏した大江健三郎がエッセイに記していることを、私は宇田川悟の『パリの空にジャズは流れる』という大著によって知った。

そのエッセイは『厳粛な綱渡り』という本で読むことができて、その中で大江は、バド・パウエルを「運動不足の老いたるセイウチ」と表現している。『パリの空にジャズは流れる』からの孫引きにて。

寝そべっているセイウチが危険を感じて上体だけまっすぐに起した、という風に、かれはピアノに向かっていた。

パウエルのこの倦怠と衰弱をデクスター・ゴードンがよく表現しえたのは、映画撮影時に晩年の境にあったデクスターにもまた、同様の倦怠と衰弱があったからかもしれない。パウエルを太ったセイウチと言うのなら、演奏を終えてホテルのベッドに横たわる劇中のデクスターの姿は、疲れ果てた巨大なトドのようであった。バド・パウエルが死んだのは『アワ・マン・イン・パリ』のレコーディングの3年後、デクスターが死んだのは、『ラウンド・ミッドナイト』公開の4年後である。

デクスターに加えて、ハービー・ハンコック、ウェイン・ショーター、ボビー・ハッチャーソン、フレディ・ハバードといった現役ジャズ・ミュージシャンが登場し、ラジオからチェット・ベイカーの歌声が流れている『ラウンド・ミッドナイト』は、ジャズ・ファンならば何度も見返したい映画であるが、一映画として見たときには決して傑作と呼べるような作品ではない。ジャズに興味がない人が見ればかなり退屈すると思われるが、それにしても怪演と言うべき、あるいは演技を超越していると言うべきデクスターの佇まいは別格である。彼の存在感だけでもっている映画と言って言い過ぎではない。

デクスターが演じたのはデイル・ターナーという架空のミュージシャンで、ライブ・レコーディングされたという演奏以外にセリフを話す場面もかなり多いが、そのセリフ中には多くのアドリブが含まれていたらしい。「一度でいいからカウント・ベイシー楽団で演りたかった」というのもそのひとつだ。

しかし映画を見れば、実はすべてがデクスターの地の言葉だったのではないかと思える。例えば、路地裏に坐り込んでサックスを吹きながら「ダメだ、歌詞を忘れた」とデイル・ターナーが呟くシーンがある。忘れたのは「ニューヨークの秋」の歌詞で、これは、歌うわけではなくても歌詞を知らなければサックスを吹けないというデクスターの信念の表明であると見える。

ジャズ界随一の名優の「遺作」

デクスターは1976年に欧州から帰国し、ヴィレッジ・ヴァンガードで収録したライブ盤『ホームカミング』で本国のジャズ・ファンを大いに沸かせた。その後もメジャーのCBSレコードから何枚かのアルバムを発売したが、彼の名を冠した最後の作品となった『ジ・アザー・サイド・オブ・ラウンド・ミッドナイト』はブルーノートからリリースされている。タイトルどおり、映画『ラウンド・ミッドナイト』に出演したメンバーによる演奏集である。

しかし、デクスターの遺作と呼ぶべき作品はほかにあって、それはアルバムではなく映画であった。ロバート・デ・ニーロとロビン・ウィリアムズが主演した『レナードの朝』である。

レナードの朝_ライブ盤で聴くモントルー Vol.67

慢性神経病患者が入院する閉鎖病棟を舞台にしたこの物語の中で、デクスター・ゴードンは入院患者を演じていた。院内の大部屋にあるグランド・ピアノを弾く姿が印象的ではあったが、セリフはひと言もなく、病者の群れに紛れるひとりの老人としての演技を彼はただ黙々とこなしていた。スクリーンの隅にときおり現れる長身の男があのデクスター・ゴードンであると気づかなかった観客もおそらく少なくはなかったと思う。

卓越したプレーヤーであったばかりでなく、モダン・ジャズ界きっての名優であった男は、そうして自分の存在を空気に溶け込ませるようにして晩節の静寂を保った。『レナードの朝』がアメリカで公開されたのは1990年の暮れだったが、デクスター・ゴードンはそのときすでにこの世にいなかった。テナー・サックスの巨人が死んだのは、映画撮了の2カ月後である。67年間の波乱に満ちた人生であった。

文/二階堂 尚

〈参考文献〉「ジャズ批評 No.217」(ジャズ批評社)、『改訂版ブルーノートの真実』小川隆夫著(東京キララ社)、『オン・ザ・ロード』ジャック・ケルアック著/青山南訳(河出文庫)、『ブルーノートJAZZストーリー』マイケル・カスクーナ、油井正一著(新潮文庫)、『ブルーノート・レコード』リチャード・クック著/前野律訳/行方均監修(朝日文庫)、『ポートレイト・イン・ジャズ』和田誠、村上春樹著(新潮文庫)、『パリの空の下ジャズは流れる』宇田川悟著(晶文社)


ライブ盤で聴くモントルー Vol.67_At Montreux With Junior Mance

『At Montreux with Junior Mance』
デクスター・ゴードン

■1.Fried Bananas 2.Sophisticated Lady 3.Rhythm-A-Ning 4.Body and Soul 5.Blue Monk
■デクスター・ゴードン(ts)、ジュニア・マンス(p)、マーティン・リベラ(b)、オリヴァー・ジャクソン(ds)
■第4回モントルー・ジャズ・フェスティバル/1970年6月18日

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