投稿日 : 2026.03.18
【マッコイ・タイナー】ジョン・コルトレーンの片腕だった男が達した境地──ライブ盤で聴くモントルー Vol.66
文/二階堂尚
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「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。
偉大なジョン・コルトレーン・カルテットのピアニストとして本格的なキャリアをスタートさせたマッコイ・タイナーにとって、カルテット脱退後の人生はいっときいばらの道であった。そこから抜け出すきっかけとなったのが、1973年のモントルー・ジャズ・フェスティバルである。そのステージで彼は、新たな境地に達したのだった。
よく似合う素敵な手袋
「わたしにとって、彼はたんに偉大なミュージシャンというだけではなかった──まるで兄貴のような存在だった。彼に会ったのはわたしが十七歳のときだった。音楽好きということで、わたしたちはすぐに親しくなった。よく彼の家のポーチに坐り、いろんな話をしたよ」
(『ジョン・コルトレーン『至上の愛』の真実』)
マッコイ・タイナーが故郷フィラデルフィアでジョン・コルトレーンと初めて会ったのは1955年の夏で、当時のコルトレーンは、まさに始動しようとしていた50年代のマイルス・デイヴィス・クインテットのメンバーに加わったところだった。コルトレーンがジャズの歴史に名を残す最初の一歩を歩み始めた時期に、マッコイとコルトレーンは出会ったことになる。マッコイが「黄金のカルテット」とのちの呼ばれるようになるコルトレーンのグループのメンバーになる5年前のことである。
10代のマッコイが地元で「バド・モンク」と呼ばれていたのは、バド・パウエルとセロニアス・モンクの強い影響下にあるプレイで知られていたからだ。1960年に彼が参加したザ・ジャズテットは、アート・ファーマーとベニー・ゴルソンを双頭のリーダーとするセプテットだったが、その最初のアルバム『ミート・ザ・ジャズテット』では、パウエル風のマッコイのプレイを聴くことができる。同作のジャケットには、ファーマー、ゴルソン、カーティス・フラーのフロント陣の後ろでピアノを弾く細身の若いマッコイの姿が見られる。彼は22歳だった。
そのザ・ジャズテットを彼がごく短期間で辞めることになったのは、マイルスのバンドを抜けて自己のグループを結成しようとしていたコルトレーンに呼ばれたからで、そのカルテットの最初のメンバーとなったのがマッコイであった。
「マッコイとの共演は、よく似合う素敵な手袋をはめるようなものだ」とコルトレーンは語っている(『ジョン・コルトレーン『至上の愛』の真実』)。しかし、「手」と「手袋」の関係は対等ではない。12歳年長であり、マイルスのグループでの確かな実績を持つコルトレーンは、マッコイにとって付き従うべき師のような存在だった。
「ジョンとやり始めた時、僕は伴奏者としての責任を果たそうと思った。もしその役目を精一杯果たせば、きっと何か学ぶものがあるだろうと思ったんだ。自分のやりたいものをジョンに伝えることは考えなかった。彼が表現しようとしているものをみつけたかったからね」
(『ザ・グレイト・ジャズ・ピアニスト』)
ポスト・バップの基礎を築いたピアニスト
モダン・ジャズの歴史において、最も際立った存在感を持つカルテットを挙げよと言われれば、多くのジャズ・ファンの頭に真っ先に浮かぶのはモダン・ジャズ・カルテット(MJQ)とジョン・コルトレーン・カルテットではないか。MJQの活動は断続的に45年の長きにわたって続いた。一方のコルトレーン・カルテットの活動期間は1962年から65年のわずか4年間である。ある時期からは、4人以外のメンバーもスポットで加わるようになったので、純粋に4人だけの活動期間を見れば3年程度ということになる。それは短く濃厚な3年間であった。
その4人、すなわちジョン・コルトレーン、マッコイ・タイナー、ジミー・ギャリソン、エルヴィン・ジョーンズからなるカルテットの終わりの始まりとなった作品が『至上の愛』である。ジャズの歴史で最も有名な作品のひとつと言っていいこのアルバムでのマッコイのプレイをめぐって、コルトレーンはこう語っている。
「マッコイは最高だろう? 彼は何でもやれるし、わたしから彼にあれこれ言う必要はないんだ。このときも、わたしは何も言わなかった。彼のソロを聴いたとき、まさに思い描いていたとおりの演奏だと感じた」
以下は同じく、コルトレーンの次男でサックス・プレイヤーのラヴィ・コルトレーンの言葉(ともに『ジョン・コルトレーン『至上の愛』の真実』より)。
「マッコイの左手の動きはすべてにわたってじつに個性的だしオリジナリティにあふれている。いま多くのピアニストがそれを模範にしているほどだ。ピアニストだけじゃない。そこでの演奏を最後まで聴くと、あらゆるミュージシャンがとりこになる。ホーン奏者であっても、このピアノを聴けば、”ああ、おれもサックスで同じようにやってみたいな”と思うだろう。本当にすばらしいよ」
マッコイの左手のプレイに個性を見る人は多く、それはしばしば「四和音を使った独自のヴォイシング」と説明され、ときに「インとアウトを自由に行き来するコード・プレイ」などとも表現される。
ジャズピアノの歴史は、ある程度、左手の使い方の変化で語ることができる。そして、エヴァンスとタイナーがそれぞれ開拓した左手の使い方こそ、ポストバップピアノの基礎を築いたと言っても過言ではない。
これは、日本のジャズ喫茶に関する著作などでも知られるマイク・モラスキーの言葉だ(『ジャズピアノ』)。エヴァンスとはビル・エヴァンスのことで、ともに左利きだったこの2人のピアニストが、1960年代のポスト・バップ、つまりハード・バップ以降のジャズを牽引したのだとモラスキーは言う。マッコイは「ビル・エヴァンスとは全くサウンドやアプローチの異なるピアニストではあるが、この二人が現代のジャズピアノ界の源流をつくり上げた」のであり、「その源流から遠く離れたように思える支流も、遡ってみればエヴァンスまたはタイナーに合流することになろう」と。
コルトレーン・カルテット在籍中のマッコイのベスト・プレイを聴くなら、『至上の愛』の数カ月前に録音され、このマスターピースに先立つスケッチ集とも言われる『クレッセント』がよい。ジャズ・ミュージシャンやコルトレーン・ファンには、この『クレッセント』こそがコルトレーン・カルテットの最高傑作であるとする人も多い。
私もそう考えるひとりで、しかも私はこの作品をほとんどマッコイのアルバムとして長く聴き続けてきたように思う。5曲中、マッコイのソロがない曲が1曲(「クレッセント」)、マッコイが参加していない曲が1曲(「ザ・ドラム・シング」)あるのにそう言えるのは、ため息が出るほど美しい「ワイズ・ワン」と「ロニーズ・ラメント」、およびブルース曲「ベッシーズ・ブルース」におけるマッコイのピアノの存在感があまりにも大きいからだ。はじけた水滴が陽光にきらめくような「ワイズ・ワン」のイントロや、「ロニーズ・ラメント」における抑制の効いた長尺のソロには、ピアノで表現しうる最上の詩情が充溢していると感じる。
タクシー会社の面接を受ける
先ほど私は、『至上の愛』を「終わりの始まりとなった作品」と言った。コルトレーン・カルテットの頂点と見なされるこのアルバム以降、コルトレーンは傍からは混沌と見えた無調の音楽を志向するようになり、それに追走し続けることを苦痛としたマッコイが最初にグループを脱退して、短くも激しく稠密(ちゅうみつ)であったカルテットは終焉を迎えた。最初にカルテットの一員となったマッコイは、その4年ののちに最初にコルトレーンの元を去ったメンバーとなった。1965年、27歳のときである。
なぜバンドを離れたのかという質問に対し、マッコイはこう答えている。
「もう音楽的にそれ以上には進まないと感じたんだ。グループを去るべきだと思った。ジョンがセカンド・ドラマーを雇ったとき、肉体的な限界が来た。もう聴くに堪えなくなったんだ」
(『ジョン・コルトレーン『至上の愛』の真実』)
雇われたセカンド・ドラマーはラシッド・アリで、エルヴィンとアリのツイン・ドラムの音があまりにうるさく、自分のピアノの音が聞こえないのが大きなストレスだったとマッコイは別のインタビューで語っている。
カルテットを脱退したのち、彼はブルー・ノートで名盤『リアル・マッコイ』をはじめとする計7枚のアルバムをレコーディングしているが、生活は苦しかったようだ。
「じっくりと続けられるほど充分な仕事がなかったから、このまま音楽をやっていくべきなのかどうか、迷ったよ。実際、昼間働くことすら考えた。そこまで追いつめられてたんだ」
(『ザ・グレイト・ジャズ・ピアニスト』)
運転手になろうとタクシー会社の面接を受けたところ、面接担当者は面識のある男だった。コルトレーン・カルテットにいた頃、マッコイをよく空港まで乗せてくれた男である。彼は、自分がよく知る人気ピアニストが職探しをしていることを信じてくれず、結局タクシー会社への就職は叶わなかった。
ベニー・グッドマンのツアーに参加するという話もあった。フュージョンやロックで稼げば、あるいは生活も成り立つかもしれなかった。しかし、いずれの道もマッコイは選ばなかった。
コルトレーンは1967年に肝臓癌で急逝し、「伝説のコルトレーン・カルテットのピアニスト」という称号が残された。「わたしの演奏を聴くと、必ずジョンを思い浮かべる人たちがいる」とコルトレーン死後のインタビューでマッコイは語っている。「コルトレーン・カルテットにいたことは誇りに思うけど、いまのわたしは昔とは違う。わたしたちは前に進まなくてはならないんだ」と(『ジョン・コルトレーン『至上の愛』の真実』)。
マッコイの活動が軌道に乗ってきたのは、1970年代に入ってからである。しかし、死してなおコルトレーンの存在感は巨大だった言うべきか、マッコイが進んだのは、コルトレーンから遠ざかる道ではなく、コルトレーン亡き後にモダン・ジャズのひとつのサブ・ジャンルになったと言ってもいい「コルトレーン・ミュージック」という領野の上を開拓していく道だった。

これが、俺が表現したかったものだ
コルトレーンも追求していたアフリカ音楽へのアプローチが実を結んだのが、1972年の名作『サハラ』で、マッコイは日本の琴を自ら演奏し、アジア的な楽想もアルバムに持ち込んでいる。
その翌年、彼は初めてモントルー・ジャズ・フェスティバルに出演した。そのステージを完全収録したアルバムが、アナログでは2枚組、トータル70分の大作『エンライトンメント』である。
『エンライトンメント』は、複雑でパーカッシブなサウンドと高速ピアノのリフを多用した、彼が作り出そうとしていた新しい音楽の導入部となった。
のちに発売されたコンピレーション『ザ・モントルー・イヤーズ』のライナーノーツでそう振り返っているのは、マッコイの息子であり、共同マネージャーのひとりでもあったディーン・タイナーである。「俺はここにいる。これが俺だ。これが俺の新しいスタイル、これが俺のカルテットだ。これが、俺が表現したかったものだ」とマッコイ自身は語っていたという。
このライブがコルトレーンを意識したものであったことは、メンバー構成や曲目などから明らかである。バンドはカルテットで、サックスのエイゾー・ローレンスは、コルトレーンと同じくテナーとソプラノを演奏する。ちなみに、ローレンスはこのライブ後にマイルス・デイヴィス・バンドに加入したプレーヤーで、その演奏は『ダーク・メイガス』で聴くことができる。
ベースのジョーニー・ブースは、トニー・ウィリアムズのライフタイムのライブ・メンバーだったプレーヤー、ドラマーのアルフォンス・ムゾーンはウェザー・リポートの初代ドラマーであり、マッコイの『サハラ』にも参加していた。
ライブは大きく3つのパートに分かれている。最初のパートは、3つの曲からなる「エンライトメント組曲」である。Enlightenmentには「教化」「啓発」といった意味があり、それぞれの曲には「起源/Genesis」「供物/The Offering」「内なる洞察/Inner Glimpse」という副題がつけられている。この宗教色の強いコンセプトが『至上の愛』を意識したものであることは間違いなく、さらに1曲目のソプラノ・サックスをフィーチャーしたワルツはコルトレーンの「マイ・フェイヴァリット・シングス」を彷彿とさせる。
組曲は、ところどころセシル・テイラーを思わせるソロ・ピアノの2曲目に続いて、一点急速の3曲目に流れていく。続く「プレゼンス」もセシル・テイラー風のソロ・プレイから入る曲で、この10分程度のバップ・ナンバーが2つ目のパートに当たる。
続く3つ目のパートは、マッコイによるパーカッション演奏で始まるサンバ風の「ネビューラ」から、間を置かずにつながる25分の長尺曲「ウォーク・スピリット、トーク・スピリット」までで、これで1時間10分の演奏は大団円を迎える。
アナログでは、最初の組曲がA面とB面に、最後の「ウォーク・スピリット、トーク・スピリット」がC面とD面に分割されている。ライブの臨場感を味わうなら、CDもしくは配信で通しで聴くのがよい。
彼がそれ以前に成し遂げたことを否定するつもりはないが、『エンライトンメント』は、彼をめぐる物語を本当の意味で変えた。このアルバムによって、彼は個人として、そしてアーティストとして確立した。彼自身の力によって。
そうディーン・タイナーは言う。マッコイをめぐる物語は、まったく真新しい物語ではなく、コルトレーンとともにあったかつての物語の続編であったが、それは恥ずべきことではない。人は自分に真に影響を与えたものを認め、その事実を受け入れることによって成長する。音楽の歴史が継承の歴史であってみれば、なおさらである。
マッコイをめぐる毀誉褒貶
コルトレーン・カルテットの活動中、このグループに対するマッコイの貢献はジャズ評論家からかなり過小評価されていたと言われる。ピアノ・トリオ、ザ・バッド・プラスの元メンバーだったピアニスト、イーサン・アイヴァーソンはそれが許せないようで、極端と言っていい筆致でマッコイを擁護している。
「ジャズピアノ界に対し、マッコイ・タイナーほど大きな衝撃を与えた人はいない──アート・テイタムも、パウエルも、モンクも、ビル・エヴァンスも含めて。つまり〈マッコイ以前〉と〈マッコイ以後〉、それしかない」
(『ジャズピアノ』)
一方、これもやはり極端と言っていい口調でマッコイを否定したのがマイルス・デイヴィスだった。
「マッコイはまったくダメだ。やつはピアノをガンガン叩いているだけだ。それしかできないんだ。演奏なんていえる代物じゃない。性格はいいが、オレが聴くかぎり、なんにも弾けないやつだ。オレはトレーンにもそう言った。だがトレーンはやつが気に入っていた。で、やつを使いつづけた。オレに言わせれば、マッコイは一生かかってもなにもできないだろうよ」
(『マイルス・アンド・ミー』クインシー・トループ)
トレーンとはジョン・コルトレーンの愛称である。そこまで言うかという完膚のない酷評で、いっときは自分の半身のように感じていたコルトレーンの、その後欠かすことのできない相棒となったマッコイに対する妬心の暴発と見ることもできそうだが、これを嫉妬とするのは早計であると音楽評論家の中山康樹は言っている。「マイルスとコルトレーンの音楽に対するセンスと本質的な相違点を浮き彫りにする」のがこの辛辣な発言なのだと(『マイルス vs コルトレーン』)。
この毀誉褒貶の激しさにマッコイの個性があらわれているとも言えて、先に触れた左手のヴォイシングやリズムに加えて、右手のペンタトニック・フレーズにマッコイの演奏の新奇性があったが、それはときにパターンをなぞっているようにも聞こえた。その単調さを嫌ったのがマイルスであったとマイク・モラスキーは言う。また、「タイナーはあまりにも独自かつ消化しにくいピアノスタイルを築き上げたという意味では、セロニアス・モンクに似ているかもしれない」とも。
ポスト・バップのジャズを築いたピアニストの2人がビル・エヴァンスとマッコイ・タイナーだったとして、エヴァンスの揺るぎない評価に比べれば、マッコイのジャズ史における存在感が不当にも希薄であることは確かである。あらためて評価されるべきピアニストのひとりであることは間違いないと思う。

彼は本当に演奏したがっているのよ
その後、マッコイ・タイナーは何度かモントルーに出演していて、現在は編集盤である『ザ・モントルー・イヤーズ』でその代表的な演奏を聴くことができる。生前のマッコイの最後のアルバムとなったのは、2007年にサンフランシスコで録音されたソロ・ライブ盤だが、『ザ・モントルー・イヤーズ』にはその2年後の2009年の演奏が3曲収録されている。その点でこれは貴重なコンピレーションと言える。最後に収録されているのは、2009年のステージでプレイされた「バラード・フォー・アイシャ」という曲である。アイシャは、彼に長く連れ添った妻の名だ。
父が演奏活動をやめたときのことを憶えている。母は私に「彼は本当に演奏したがっているのよ」と言っていた。彼はまさに演奏を恋しがっていた。彼にとって重要だったのは、レコーディングよりもライブ・パフォーマンスだった。彼の血の中にはその喜びが流れていた。それが彼の生きる目的であり、楽しみであり、すべてだった。
ディーン・タイナーはそう語る。マッコイ・タイナーは2020年、81歳で死んだ。死因は明らかにされていない。
文/二階堂 尚
〈参考文献〉『ジョン・コルトレーン『至上の愛』の真実』アシュリー・カーン著/川嶋文丸訳(音楽之友社)、『ザ・グレイト・ジャズ・ピアニスト』レン・ライオンズ著/塩川由美訳(音楽之友社)、『マイルス・アンド・ミー』クインシー・トループ著/中山康樹監修/中山啓子訳(河出書房新社)、『ジャズピアノ』マイク・モラスキー(岩波書店)

『Enlightenment』
マッコイ・タイナー
■1.Presenting the McCoy Tyner Quartet 2.Enlightenment Suite, Part1 3.Enlightenment Suite, Part2 4.Enlightenment Suite, Part3 5.Presence 6.Nebula 7.Walk Spirit, Talk Spirit
■マッコイ・タイナー(p)、エイゾー・ローレンス (ts,ss)、ジョーニー・ブース(b)、アルフォンソ・ムゾーン(ds)
■第7回モントルー・ジャズ・フェスティバル/1974年7月7日


