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ザ・ローリング・ストーンズジョン・コルトレーンソニー・ロリンズソニー・ロリンズ橋マイルス・デイヴィスマイルス・デイビス連載「ライブ盤で聴くモントルー」
投稿日 : 2026.01.19
文/二階堂尚
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「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。
「最後のモダン・ジャズ・ジャイアンツ」という称号は、彼にこそふさわしいだろう。モダン・ジャズ最盛期の1950年代に人気を極め、以後半世紀以上にわたって活動を続けてきたテナー・サックスの巨人ソニー・ロリンズ。引退宣言から十余年が経つ彼の歩みを辿る。
筒井康隆の『ジャズ小説』はジャズをテーマした12の小品を集めた短編小説で、その中に「ソニー・ロリンズのように」という一編がある。
「ブルーノーツ」というバンドにソニー・ロリンズ張りのソロを聴かせる工藤というテナー・サックス奏者がいる。そのプレイを聴いた同バンドのアルト奏者の妻は工藤のことが忘れられなくなり、寝ても覚めても工藤のことばかり考えるようになる。夫であるアルト奏者はどうしようもなくなり、俺の女房と一度寝てやってはくれまいかと工藤に頼む。そんな筋の話である。
女を虜にした曲は、よく知られたスタンダード曲「朝日のようにさわやかに」であった。作者の念頭にあったのは、ロリンズの名ライブ盤『ヴィレッジ・ヴァンガードの夜』だっただろう。アルバムに収録された演奏を聴けば、なるほど、薄暗いバーの隣席に座った伊達男から低音の美声で口説かれているような気持ちに、中年男の私でもなる。

スタンダードを独自の流儀で調理するのは、ロリンズが大いに得意としたところであった。村上春樹は、その手腕をこんなふうに表現している。
ロリンズの魅力はいくつかあげられるが、中でも余人の追従を許さないのはスタンダード・ソング(いわゆる「唄もの」)を演奏するときの、すさまじいまでの解像力だ。あっと言うまもなく唄の懐に入り込んで、その中身をひとまずゆるゆるにほどいて、それから自分勝手に組みたて直して、もう一回かたくネジを締めてしまう。
(『ポートレイト・イン・ジャズ』)

初リーダー作である『ウィズ・ザ・モダン・ジャズ・カルテット』の「スロー・ボート・トゥ・チャイナ」、『サキソフォン・コロッサス』の「モリタート」、『コンテンポラリー・リーダーズ』の「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」や「アイヴ・ファウンド・ア・ニュー・ベイビー」と、彼の代表的な作品の多くではスタンダードの名演がアルバムのハイライトになっている。
ロリンズが唄ものを得意としたのは、彼の出生と関係があるように思う。彼の生地はニューヨークのハーレムであり、生年は1930年である。ニューヨークの30年代は、のちにスタンダードとなる曲を大量生産した音楽出版街ティン・パン・アレイの全盛期であり、40年代はブロード・ウェイ・ミュージカルが盛んな時代であった。門前の小僧は習わぬ経を読み、ポピュラー音楽の中心地で生まれ育ったロリンズは習わぬ唄を身体に刻んだ。そういうことだったのではないだろうか。

ソニー・ロリンズの初レコーディングは1949年、初リーダー作を出したのは51年だったが、自分の演奏のスタイルが確立したのは55年頃だったと彼は振り返っている。55年と言えば、マイルス・デイヴィスが初めてレギュラー・クインテットを結成した年であり、そのグループのサックス・プレイヤーがロリンズだった。以下は、マイルスの自叙伝の一節。
ソニー・ロリンズの名は、ハーレムの若いミュージシャンの間に轟いていた。ハーレムはもちろん、ソニーはどこでも愛されていた。既に伝説的で、多くの若いミュージシャンにとっては神様みたいな存在だった。
(『完本マイルス・デイビス自叙伝』)

しかし、ロリンズの在籍期間は長くはなかった。彼はニューヨークを離れてシカゴに向い、ビルの清掃の仕事などをしながら音楽修行に励んだ。その後何度が繰り返される「雲隠れ」のこれが始まりであったとされる。
マイルスは、ロリンズの代わりにアルト・サックス奏者のキャノンボール・アダレイをグループに加えようと考えたが、当時フロリダで音楽の教師をしていたキャノンボールがレギュラー・メンバーになることは難しかった。そこで次に候補に挙がったのがジョン・コルトレーンだった。マイルスのバンドへの起用が彼の輝かしいキャリアの事実上の出発点であり、その道がロリンズの不在によって拓けたとすれば、ロリンズは間接的にコルトレーンの飛躍を後押ししたことになる。ロリンズはのちに、「俺があいつを出世させたってわけだ」と冗談めかして語っていた。
ロリンズとコルトレーンは、マイルスを師匠とする兄弟弟子のようなものであり、ライバルであり、また親友でもあった。あとからやってきたコルトレーンに道を譲る格好になったロリンズだったが、コルトレーンを正式メンバーとした50年代の第一期マイルス・クインテットにときおりロリンズが加わり、2テナーの布陣でジャズ・クラブに出演したこともあった。56年になると、コルトレーンのドラッグと飲酒癖が悪化して、マイルスはコルトレーンをクビにするほかなくなったが、そのときにもロリンズが代わりを務めている。
60年代に入って、マイルスはそれまでのハード・バップのスタイルを脱して、今日ではモード・ジャズと呼ばれている新しい表現に取り組んだが、その時期にもマイルスは、ロリンズ、J・J・ジョンソン、ウィントン・ケリー、ポール・チェンバース、ジミー・コブというメンバーでツアーに出ていた。このあたりの経緯は録音史からは見えない事実であり、ディスコグラフィがジャズ史の半面しかあらわしていないことがよくわかる。いずれにしても、ソニー・ロリンズに対するマイルスの信頼は長く続いたのだった。

なかなかモントルーのライブの話にならずに恐縮だが、先に触れた「雲隠れ」の件を整理しておきたい。ロリンズについて語る際には欠かすことのできないエピソードだからである。
ロリンズは折に触れ姿を消す癖があって、それがジャズ界では有名な「ロリンズの隠遁」ないしは「雲隠れ」である。一般に、雲隠れは3回あったとされている。事実の記述は資料によって異同があるので確かなことは言えないが、私見では、雲隠れは実際には都合6回に及んだと見るべきであると思う。
最初の雲隠れは1949年で、これは自発的なものではなく、ドラッグ所持の罪科で刑務所に8カ月間収監されたのだった。ロリンズとマイルスがヘロインを始めたのは同時期で、デクスター・ゴードン、アート・ブレイキー、J・J・ジョンソン、ジャッキー・マクリーンといった当時の若手プレイヤーもみな同じ頃にヘロインに熱中するようになったという。「三ドルのヘロインのカプセルを買って、打ちまくっていた」とマイルスは振り返っている。
ソニーとヘロインを買いにぬかるみをアップタウンに向いながら、「もし、この常習癖さえやめられれば、すべてうまくいくのになあ」と思ったのを記憶している。
(同上)
マイルスは53年に故郷に帰って苦しいヘロイン抜きを断行するが、ロリンズはその後もクスリをやめられなかったようだ。一念発起してケンタッキー州レキシントンの麻薬更生施設に4カ月間入所したのは54年の秋になってからで、これが2回目の雲隠れである。
55年には、先述のように、マイルスのバンドを脱退してニューヨークからシカゴに移った。一般には、これが雲隠れの始まりとされることが多い。続く59年の隠遁は、ロリンズの雲隠れ歴において最も有名なもので、これはロリンズがコルトレーンの成長に脅威を感じたためだったとマイルスは語っている。
トレーンはますますすごくなって、偉大なスタイルを持っていたソニーでさえ、トレーンに影響されてしまうほどだった。トレーンを聴いたソニーは、自分のスタイルを変えることを強いられて、また雲隠れしてしまった。
(同上)
「トレーン」はコルトレーンの愛称である。実際にロリンズがコルトレーンをどの程度意識していたかは不明だが、彼が自分の演奏に行き詰まりを感じていたのは確かで、サックスにあらためて向き合い、かつ作曲と編曲を一から学び直したいというのがその頃の彼の思いであったらしい。この隠遁期に、ニューヨークのイースト・リバーにかかるウィリアムバーグ橋の上で一日中サックスの練習をしていたという逸話は、ジャズ・ファンなら知らぬ人はいないだろう。
1991年、ジャズ評論家の児山紀芳のインタビューの中でロリンズは59年の隠遁生活について述懐していて、その内容が当時の事情とロリンズの人柄をよく表していて興味深い。その頃ロリンズは、マンハッタンのダウンタウンに位置するローアー・イーストサイドのアパートに住んでいた。
「ローアー・イーストサイドのアパートはみんな小さくて、狭い部屋ばかりなんだ。サックスを大きな音で吹くのは問題なんだ。たまたま私の隣のアパートには女性が住んでいて、赤ちゃんが産まれたばっかりだったんだ。こういう環境だからますます部屋ではサックスが吹けなかった。それで、ある日、散歩していたら、ウイリアムスバーグ橋のたもとのところに上に昇れる階段があるのがわかったんだ。上がってみると広々とした歩道になっているんだ。そのままイーストリヴァーをわたればブルックリンまで通じるこの橋はひとっ気のないトラックみたいだった。それを発見して、翌日から、私は橋の真ん中で、だれに遠慮することもなく思い切りブロウすることができるようになった」
(「ジャズ批評」No.85)
橋の下をときおり船が通り、汽笛を鳴らす。それに合わせてよくサックスを吹いていたとロリンズは振り返る。それは「密かな素晴らしい練習場」であったと。
そのおよそ10年後の69年9月に彼は5度目の隠遁生活に入るが、これは心身の疲労が原因であったとされている。雲隠れは72年3月まで3年弱に及んだ。
こうして整理してみると、ロリンズのキャリアはある時期までマイルスのそれと相当にパラレルであったことがわかる。一緒にヘロインを打ち始めたことは措いておくとして、最初のマイルスのクインテットのメンバーとなり、マイルスにとって大きな転機となった『カインド・オブ・ブルー』のレコーディングとほぼ同じ時期に、次の音楽人生を模索してロリンズは雲隠れをした。その次の雲隠れも、やはりマイルスの一大転機となった『ビッチズ・ブリュー』のレコーディングと同時期であった。
次の段階に進まなければならないという焦燥を同じタイミングで共有していた点で、マイルスとロリンズは、当時のモダン・ジャズ界にあって最も懇ろな魂の友であったのだと思う。
ソニー・ロリンズが69年の雲隠れから復帰したのは72年で、復帰第一作『ソニー・ロリンズ・ネクスト・アルバム』ではエレキ・ピアノやエレキ・ベースを導入して新しいサウンドに挑戦している。彼がモントルー・ジャズ・フェスティバルのステージに立ったのは、その復帰から2年後の74年であった。
ライブは計8曲、1時間半に及んだ。スイスでステージを見たジャズ評論家の青木啓は同作のライナーノーツで、ロリンズ・バンドの演奏の素晴らしさと、観客の熱狂の様子を熱く語っている。彼自身あまりに興奮して、ホテルの部屋に帰ってもなかなか寝つけなかったという。
バンドは、ピアノ、エレキ・ベース、ドラムに、ギターの増尾好秋、パーカッションのエムトゥーメを加えた6人編成で、さらに1曲ではバグパイプ奏者のルーファス・ハーレーが参加している。ライブ盤『ザ・カッティング・エッジ』には、当日の演奏から5曲が収録された。
ロリンズ作の「ザ・カッティング・エッジ」と「ファースト・ムーヴス」は、わかりやすいテーマをもったソウル・ジャズもしくはジャズ・ファンク風の曲で、会場は大いに盛り上がっただろうと思う。
アメリカのクラシック作曲家エドワード・アレクサンダー・マクダウェル作の「野ばらによせて」と、多くのミュージシャンに取り上げられてきたスタンダード「ア・ハウス・イズ・ノット・ア・ホーム」は、ロリンズの朗々たるサックスが味わえるバラードである。「野ばらによせて」の後半にはかなり長尺の無伴奏ソロがあって、ジャズ・マニアとして知られる九代目林家正蔵は、ロリンズのソロの中でこれが一番好きだと語っていた。こぶ平時代のことである。
アルバムの最後に収録された「スウィング・ロウ、スウィート・チャリオット」では、バグパイプとテナー・サックスの珍しい絡み合いを聴くことができる。よく知られたスピリチュアル・トラッドだが、無伴奏の導入から一転、ロリンズが一貫して得意としていたカリプソ風味を加えたダンス・アレンジとなる。これも観客を沸かせたに違いない。
ロリンズの代表作は50年代と60年代に集中しているが、70年代の一名作として記憶されるべき優れたライブ盤であると思う。
この後の時代のエピソードをもう一つだけ。1981年8月にリリースされたローリング・ストーンズの『刺青の男』は、その後ライブのレパートリーに定着した「スタート・ミー・アップ」で始まる彼らの80年代の代表作で、表ジャケットのミック・ジャガーならびに裏ジャケットのキース・リチャーズの刺青メイクがたいへん印象的なアルバムであった。
その中に「ネイバーズ」という曲があって、その曲には「テレビからはサックスの唸るような歪んだ音が聞こえてきて、悩みと争いをもたらす」という一節がある。アルバムのレコーディングにサックス奏者を呼ぶことにしたのはミック・ジャガーの発案だったが、私の想像ではそのアイデアの発端はこの歌詞にあったのではないかと思う。
ストーンズのサックス奏者と言えば、「ブラウン・シュガー」以来のボビー・キーズか、「ミス・ユー」でソロを吹いたメル・コリンズということになるが、今まで共演したことがないプレイヤーを呼ぼうと考えたジャガーは、ジャズに詳しいチャーリー・ワッツに「なあチャーリー、いいジャズ・サックス・プレイヤーはいないか」と問い、ワッツは言下に「ソニー・ロリンズがいいぜ、ミック」と答えた。
実際にそういうやり取りがあったかどうかはわからないが、ジャガーに聞かれてロリンズを推薦したのがワッツだったことは事実である。しばらくして、歌録りをしていたスタジオにロリンズが実際にやって来たときに一番驚いたのはワッツだった。まさか、あのジャズ界の大御所が本当にレコーディング・セッションに来てくれるとは思ってもいなかったからである。
ロリンズは、先の「ネイバーズ」のほか、「奴隷」「友を待つ」の3曲でテナー・サックスを吹いているが、とりわけ「友を待つ」のソロは絶品である。入りのタイミングも、得意のカリプソのフレーズを交えたエンディングの展開もほとんど完璧と言ってよく、ロリンズの参加がなかったら「友を待つ」はあれほどの名曲になったかどうか。ロック・ファンの中にも、この曲でロリンズの存在を知った人は少なくなかったと思う。
さて、ロリンズは現在6回目の雲隠れの中にある。2014年、呼吸器の障害を理由に演奏活動を退くことを表明し、以来隠遁生活は10年以上続いている。95歳という年齢を考えれば、これが最後の、そして永遠の雲隠れとなる可能性が高いと思われる。2006年の『ソニー、プリーズ』が彼の最終作となるか。
1950年代に日本で初めてロリンズに関する本格的な文章を書いたのは、J・Jの愛称で知られる評論家の植草甚一だった。彼はステージでのロリンズの印象を「彼のソロは自分勝手にテナー・サックスの練習をやっているみたい」であり、「サックスが口に吸いついたようになり、ついに一度も離れない」と表現していた(『バードとかれの仲間たち』)。
私は1990年代半ば、当時新宿にあった厚生年金会館でロリンズのライブを見たが、そのときの印象はまさしくJ・Jが語ったとおりであった。自由に、歌うように、気の向くままに吹き続けるテナー・サックスの巨人。ロリンズはまっすぐなキャリアを歩み続けたミュージシャンでは決してないが、その自由闊達で堂々たる演奏スタイルは一貫していた。早熟の天才と呼ばれた男は、静かな晩節を迎えた今、激しく過ぎ去った日々をどのように振り返っているだろうか。
〈参考文献〉『ジャズ小説』筒井康隆著(文藝春秋)、『ポートレイト・イン・ジャズ』和田誠、村上春樹著(新潮文庫)、『完本マイルス・デイビス自叙伝』マイルス・デイビス、クインシー・トループ著/中山康樹訳(宝島社)、『マイルスvsコルトレーン』中山康樹著(文春新書)、「ジャズ批評」No.85(ジャズ批評社)、『バードとかれの仲間たち』植草甚一著(晶文社)
文/二階堂 尚

『The Cutting Edge』
ソニー・ロリンズ
■1. The Cutting Edge 2.To a Wild Rose 3.First Moves 4.A House Is Not a Home 5.Swing Low, Sweet Chariot
■ソニー・ロリンズ (ts)、増尾好秋(g)、スタンリー・カウエル(p)、ボブ・クランショウ(elb)、デイヴィッド・リー(ds)、エムトゥーメ(perc)、ルーファス・ハーレー(bagpipe)
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