投稿日 : 2018.04.26 更新日 : 2023.06.20

【証言で綴る日本のジャズ】森山威男|音楽家人生の原点は、祖父の手づくりドラムスティック

取材・文/小川隆夫

森山威男 インタビュー

山下洋輔との緊張関係の中で

——演奏が始まると、森山さんが流れというか、コントロールする場面が多かったように記憶しています。

そうですね。いまでは考えられないくらい演奏中に次々とアイディアが出てきて、やりながら「ここでこう入ればいいのに」というのがいっぱいありました。「ヤレー」とか、「ヤメロー」とか、言葉で指図したり。「次はこのパターンをやってくれ」というときは、何度もそれをやる。そういうのは譜面に書いてないですから、そうやって知らせていました。とにかくドラムスのスピードとヴォリュームに圧倒されていたんじゃないですか?

どこかでやったときに、アップライトのピアノだったんです。「山下トリオなのに、それじゃぜんぜんピアノが聴こえない。もっとドラムスの音を小さくするかしてくれ」ってことを、主催者が山下さんにいったんです。それになんて答えるんだろうと思って、黙って聞いてたら、「ドラムスの音は大きいからいいじゃないか。森山がオレのピアノの音を消したいと思って叩いているのなら、消えなきゃおかしい。それなのに、わざと音を小さくしてピアノが聴こえたら不自然だ。これでいい」。そのときは主催者に対して怒っていったんじゃないと思いますけど、わたしの味方をしてくれました。

——中村さんの時代もそうだし、次の坂田明(as)さんのときもそうでしたが、戦っているというか、3人でなにかをやり合っていますよね。

妥協はしないで、やり合っていました。

山下洋輔トリオの1975年の演奏中の画像。ARBAN
「山下洋輔トリオ」3度目のヨーロッパツアー(1975年)。ドイツのライブハウスでのひと幕。メンバーは山下洋輔(ピアノ)、坂田明(サックス)、森山威男(ドラム)。このツアーではハイデルベルク(独)のジャズフェスをはじめ西ドイツ(当時)のおよそ20か所でプレイ。

——そこがこのトリオの面白さで、緊張感が堪らなかったし、毎回展開が違っていた。

それが好きで来ている常連のひとたちは、わたしと山下さんの間に入りたいと思っていたかもしれません。「自分だったらこうやる」みたいに思って聴いていたんじゃないかしら? だからドラムスがバーンと決めると、「ヤッター」というときがあるんです。自分が演奏しているつもりで聴いているから。

——毎日のように同じレパートリーを演奏しても毎回違うのは、ジャズだからというのもあるでしょうけど、過去のことはいっさい忘れちゃうから?

わざと「前回はこうやったけど、今日はぜんぜん違うやり方でやってやろう」とか、違う仕掛けをしたり、そういうことをやりました。坂田が「やろう」と思ってサックスを持ったとたんにパッとやめちゃうとか。「どうするんだろう?」。そういう楽しみもありました(笑)。わたしは、お客さんが相手じゃないんです。共演者とやり合うのが楽しくてやっているから、受けようが受けまいが関係ない。

——結果として、それをお客さんも楽しむ。

そうだと思います。いまのジャズにもそれがほしいと思っています。やっているひとが本当にやり合うものがなければ、「どうぞ、これを聴いてください」なんていわれても、聴きたくない。真剣さがないとね。

——森山さんの中ではずっと同じメンバーで長いことやって、マンネリになることはなかった?

なかったです。でも、それは山下さんとわたしの間のことです。サックス奏者が入れ替わっても、音楽的にはそれほど変わらない自信はありました。

——中村さんから坂田さんに替わって、サックス奏者としてはタイプがぜんぜん違うじゃないですか。テナー・サックスとアルト・サックスの違いもあるし。それに坂田さんはいろいろなキャラクターを持っている。だからまったく違うふたりだけど、森山さんの中ではそんなに変わらない。

変わらないですね。山下洋輔とわたしがやり合っていれば、その上にどんな旋律がきても絶対に聴かせる自信はありました。

——だから、誰が来ても音楽や演奏はブレない。

サックス奏者にとっては、やり甲斐があまりなかったかもしれないですね。歌手と同じで、バックのバンドに任せておいて、自分は勝手に歌えばいいし、見せ場を作ればいいんですから。やり合う楽しみはそんなになかったかもしれない。けれど、それはそれで楽しみがあると思うんです。

——森山さんの中ではフロントが誰であろうと、山下さんがいて、それでふたりでやり合えれば、それがいい。

ええ。求めているのは一生懸命やってくれることだけです。一生懸命やらないひとがたまに「やらせてくれ」って来るけど、クスリをやりながらとか酒を飲んで来るとか。そうするとバカにされている気がして。こっちは一生懸命にやってるから、それは嫌でした。

——体力的にはまったく問題はなかった? かなり消耗するでしょ。

まだまだあれじゃ甘いぐらいです。「早くドラムス・ソロがくればいい」といつも思っていました。目立ちたかったし、やりたいことがいっぱいあったので、長くピアノやサックスがソロを取るのは嫌でした(笑)。

——それを無理やり奪い取っちゃうとかはなかったんですか?

いちおうは3人でやってますから。申し合わせみたいにして、持ち場はちゃんと作らないといけない。

——山下洋輔トリオでヨーロッパ・ツアーに行くじゃないですか。ヨーロッパのお客さんにも大受けで。でも、山下洋輔トリオのジャズは独自のもので、ヨーロッパやアメリカのフリー・ジャズとはまったく異質でしょ。行く前から受ける確信はありました?

ありました。どこでも、出させてくれたら絶対に自分たちが一番になると思っていました。なるべく大きなところに出してもらえればもっと目立つと思って。それが嬉しかったし、見事、その通りになりました。山下トリオは小さなホールでやるジャズじゃないんです。それこそ野外の大きなところでやる音楽ですから。

1975年に西ドイツ(当時)のメールスジャズフェスティバルに出演。写真はリハーサル中の様子。

——日本でも野外のロック・フェスティヴァルに出ています。

箱根(注15)でやったし、中津川(注16)のフォーク・フェスティヴァルとかでもね。大きな会場では「武道館」(注17)もありました。

(注15)71年8月6日と7日に箱根芦ノ湖畔にある成蹊大学所有の広大な敷地で開催された日本初の野外フェスティヴァル「箱根アフロディーテ」のこと。国内からは、赤い鳥、トワ・エ・モワ、南こうせつとかぐや姫、ダークダックス、成毛滋&つのだ☆ひろ、ハプニングス・フォー、モップス、渡辺貞夫、佐藤允彦、山下洋輔らが、海外からは、ピンク・フロイド、1910フルーツガム・カンパニー、バフィー・セント・マリーなどが出演。2日間で約4万人を動員。

(注16)中津川フォーク・ジャンボリー。69年から71年にかけて岐阜県恵那郡坂下町(現・中津川市)にある椛の湖(はなのこ)湖畔で3回開催された日本初のフォークとロックの野外フェスティヴァル。3回目はジャズ・ミュージシャンも出演。吉田拓郎のステージで観客が暴動を起こし、それがきっかけで翌年からは開催されず。山下トリオは暴動のため出演不可能に。

(注17)72年4月22日に開催されたフォーク・コンサート「音搦大歌合(おとがらみだいうたあわせ)」のこと。50音順に登場した出演者は、五つの赤い風船、井上尭之バンド、遠藤賢司、岡林信康、加川良、かまやつひろし、ガロ、高田渡、はっぴいえんど、武蔵野たんぽぽ団、三上寛、山下洋輔トリオ、吉田拓郎、六文銭。

——森山さんはそういう場も好きで。

目立ちますから(笑)。

——ロックやフォークのフェスティヴァルに異色のバンドが出て、受けちゃう。

快感ですね。ロックのドラマーなんかが目を見張ってわたしのプレイを観ていると、いい気分で(笑)。

思うところがあってトリオを脱退

——山下トリオ時代に自分でバンドを作る気は?

まったくなかったです。

——当時、フェスティヴァルなんかでほかのバンドを聴く機会もあったと思いますが、興味は?

まったくなし。ただ、エネルギッシュという意味では日野皓正(tp)さん、ピアニストなら大野雄二さん、このひとたちは生きがよくて好きでした。なよなよっとした、雰囲気で聴かせるジャズは、自分に合わない。

——ハードで勢いがあるジャズ。

体育会系ですから(笑)。

 ——そういえば、運動はやっていたんですか?

柔道をやってましたから、体力には自信がある。

——それはいつのころ?

町の道場で、小学校の低学年から。中学のときに辞めました。

——日野さんのバンドでドラムスを叩きたいとは思わなかった?

思わなかったです。弟の(日野)元彦さんが上手すぎました。速い曲をやっているときでも、当時はあんなふうに速くは4ビートが叩けませんでしたから。それができない上に、ほかのこともできるかといえばできない。それに追いつこうと思っても無理だなと。

山下洋輔が病気から戻ってきて、「自分のやり方でやるしかない」となったときに、彼が感じた挫折と同じことを思っていたんです。あれに打ち勝つには、フルパワーでぜんぶ自分を出して勝負する。

——森山さんの身上はスピード感やパワーで、ポリリズムというか、4本の手足がぜんぶ違うリズムを奏でる。

相反するものが好きなんです。静かな曲をやっていると急にとんでもないことを始めるとか。そういうのをいつも空想していたので、そこはロックのミュージシャンぽいかもしれません。綺麗に作品を作る、みたいなことに興味はなかったです。

——そういう音楽を聴くのも好きじゃない。

お酒を飲んでいるときならいいけれど、一生懸命に聴こうとは思わなかったですね。マイルス・デイヴィス(tp)も聴いたことがないですし。みんなが知ってるものを知らないでジャズ・ミュージシャンとは、ひと前ではいえないような(笑)。

——ジャズのミュージシャンになりたくてなったのとは違いますものね。

たまたまやったのがジャズでしたから。

——75年に山下さんのトリオを辞めますが、いちばんの理由は?

その前から生き方について考え始めたんです。わたしはなんでも考えが先行して、あとから行動がついてくる。だから、ものすごくギャップがあるんです。山下トリオでヨーロッパに行って、2度目、3度目くらいのときに、「有名になるのはこういうことなのか」「好きなことが思いっきりできるのはこういうことなのか」、100万円くらいのお金も入ってくるわけですから、「急に金持ちになるのはこういうことなのか」。それがわかったら、人生がぜんぶわかった気がして、「たいしたことないな」。これをただやり続けて終わるのかと思ったら、虚しくなって。それだったら、なにも命懸けでやるほどのことはない。それで挫折したんです。

そのころ、妻が聖書を学んでいたので、宗教はわからないけれど、聖書に答えがあるんじゃないかと。それで山下さんに、「1年か2年か、とにかく自分の気持ちがはっきりするまではどうしても演奏に打ち込めない」と話したんです。「こうじゃないんじゃないか」とか、不安を抱きながらやりたくないので、「いっぺん辞めさせてくれ」。

山下さんは、わたしに不満があると思ったみたいで、辞めさせまいと必死でした。せっかくこれから世界に出て行こうというときですもんね。ヨーロッパでのギャランティもよくなってきたし。そこで急に辞められたから、辛かったでしょうね。わたしにしてみれば、どうしても一度ゼロにして、「改めて、これでいいのか?」と確認したかったんです。

有名になって、そのことだけで人生を終わっていくのが怖くて。ちょこっとは有名にはなりたい。でも、たとえば何十億円、急にあるとかいうと「エエッ」と思うでしょ。100万円ぐらいだったらもらってみたいけど、億単位のお金になるとね。大袈裟に考えすぎるのかもしれないけど、それと似たことが自分の中で起きたんです。

1975年。ヨーロッパ・ツアーから戻り、三重県で開催される「合歓ジャズ・イン」に山下洋輔トリオとして出演。空き時間にトランプゲームに興じる3人。写真中央で寝そべっているのが森山威男。

——でも、75年ということは30歳ですよね。30歳で、ある意味、いろいろな人生を見てしまった。

極端だから、愚かだったかもしれない。けれど、とにかくやってみないと気が済まない。藝大を目指したのもそう。あんな時期から始めて受かるわけないのに、やると決めたら絶対にやる。藝大に入って、せっかく日フィルが雇ってくれるというのにぜんぶ辞めて、いちからジャズの世界に飛び込む。だけど、「ジャズ」といった割にはなにもできない。結局、山下さんとまたゼロからの出発ですよね。それで山下洋輔とこうなったのに、また自分で選んだ道を行く。引き返したのかどうか、生き方ですからわかりませんけど、どうしてもその答えがほしくて辞めました。

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