2019.06.13

【証言で綴る日本のジャズ】外山喜雄・恵子/第1話「古書店で出会った“サッチモ自叙伝”に導かれ…」

インタビュー・文/小川隆夫

外山喜雄・恵子/第1話

連載「証言で綴る日本のジャズ」 はじめに

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのは、外山喜雄(トランペット/ボーカル)外山恵子(バンジョー/ピアノ)夫妻。

外山喜雄/とやま よしお
トランペット奏者、歌手。1944年3月5日、東京都港区芝生まれ。中学二年でトランペットを吹き始め、早稲田大学時代はニューオルリンズジャズクラブで活躍。卒業後は損害保険会社に就職し、66年に結婚。
外山恵子/とやま けいこ
バンジョー、ピアノ奏者。4月15日生まれ。早稲田大学のニューオルリンズジャズクラブで外山喜雄と出会う。
67年、夫婦で移民船に乗りニューオーリンズに渡る。老舗ジャズ・スポット「プリザェーション・ホール」の裏に住み、国際色豊かなメンバーとバンドを結成。69年に一時帰国し、この間は外山喜雄とニューオーリンズ・セインツで活動。71年に再びニューオーリンズに移り、73年まで滞在。途中、イギリス人のバンド・リーダーに誘われ、ヨーロッパ各国とアメリカ国内をツアー。75年に外山喜雄とデキシー・セインツ結成。83年の東京ディズニーランド開業から2006年まで人気バンドとして演奏。94年にルイ・アームストロング・ファウンデーション日本支部(98年から日本ルイ・アームストロング協会)を設立。「銃に代えて楽器を」をスローガンに、ニューオーリンズ市の子供たちに楽器をプレゼントする運動に取り組み、05年に外務大臣表彰を受ける。こうした楽器の活動と、半世紀を超えるデキシーランド・ジャズの演奏と普及活動により、12年「国家戦略大臣感謝状」、18年「文部科学大臣表彰」、17年「ジャズ大賞」、18年アメリカで「スピリット・オブ・サッチモ賞生涯功労賞」を受け、19年夫婦連名で「ミュージック・ペンクラブ音楽賞」を受賞した

 

洋楽に目覚めた中学時代

——まずは喜雄さんから、奥様との出会いまでをお聞かせください。その前に、生年月日と生まれた場所を。

昭和19年、1944年の3月5日、父の家は芝の魚藍坂下で、お米屋さんをやっていたんです。親父は米屋が性に合わず、製粉会社(日清製粉)に入るんです。会社の移動であっちに行ったりこっちに行ったりですね。四歳くらいのときに宇都宮に転勤して、小学校五年まで宇都宮でした。

だから芝で生まれて、すぐ大田区の雪ヶ谷に引っ越して。3、4年して、小学校五年まで宇都宮にいて。そのとき宇都宮で行った幼稚園がキリスト系の愛隣幼稚園。バプティストの教会で、歌をよくうたわされるんです。アメリカのミュージシャン、サッチモなども、そういう体験をしていて、おかげでぼくも、歌をうたうことがとても自然になりました。だから、よく小学校や中学校で独唱させられたりしてました。

——それで音楽に親しみを持った。

うちにSPレコードがあって。小学校前は、ジャズはまったくなくて、軍歌がいっぱいあったんです。小学校時代は、なぜかベートーヴェンの〈運命〉とシューベルトの〈未完成(交響曲第8番))がありました。大判のSPレコードです。音楽はよく知らないけど、なぜかお袋が小さな本になったスコアを買ってきて、家族で譜面を追いかける(笑)。そういうことがありました。

——お父様は?

親父はそうでもなかったけど、お袋がけっこう好きだったですね。そうこうしているうちに九州へ転勤になる。

——これが小学校五年生。

それから中学三年までいました。

——九州はどちらに?  

久留米のちょっと南の羽犬塚(はいぬづか)に製粉工場があったんです。それで九州に行ったころに、〈テネシー・ワルツ〉のようなレコードがだんだん増えてきて。あのころはテレビもないし、ラジオも『NHK紅白歌合戦』(注1)を会社の寮でみんなで聴くぐらいで。

(注1)NHKが51年から放送(52年まではラジオのみ)している男女対抗形式の音楽番組。テレビ放送開始以降、大晦日の夜に公開生放送されている。

だから映画が文化の窓になっていて。ぼくよりちょっと前の世代だとミュージカルの『雨に唄えば』(注2)とかで、ぼくのときはドリス・デイ(vo)の『ティーチャーズ・ペット』(注3)、『カラミティ・ジェーン』(注4)、『知りすぎていた男』(注5)とか。あそこら辺のドリス・デイの歌にすごくシビれました。

(注2)52年製作のアメリカのミュージカル映画。監督=ジーン・ケリー、スタンリー・ドーネン、音楽=レニー・レイトン、出演=ジーン・ケリー、デビー・レイノルズ。
(注3)邦題『先生のお気に入り』で知られる58年製作のロマンチック・コメディ。クラーク・ゲーブルとドリス・デイの共演で、ドリス・デイが歌った同名主題歌は日本でもヒットした。監督はジョージ・シートン。
(注4)53年製作のアメリカ映画。監督=デイヴィッド・バトラー、出演=ドリス・デイ、ハワード・キール。
(注5)56年に公開されたアメリカのサスペンス映画。監督=アルフレッド・ヒッチコック、出演=ジェームズ・ステュアート、ドリス・デイ。劇中でドリス・デイが歌った〈ケ・セラ・セラ〉が「アカデミー歌曲賞」を受賞。

——〈ケ・セラ・セラ〉ですよね。

自分でも歌ってました。曲名がわからないからレコード屋さんで「こういう歌です」って歌ったら、「ああ、これです」って出てきた。ドーナツ盤(45回転のシングル盤)だったと思うんですけど、うちはSPのプレイヤーしかなくて。ドーナツ盤は真ん中に大きな穴があるんで、どうやって乗っけるんだろう? 針を乗っけたらグラグラに動いてダメにしちゃった、とかね。そんな時代です。

——記憶に残っている中で最初に聴いた洋楽は覚えていますか?

〈テネシー・ワルツ〉かなあ?

——だんだん洋楽が好きになっていく。

映画の影響と合わせて、ですね。

中学二年でトランペットを手に

九州にいると、東京から東大を出たひととかが新入社員で来るわけです。そのひとたちがいちばん新しい文化を持ってくる。遊びに行くと、万年床の周りにレコードが転がっていて、それがたまたまルイ・アームストロング(vo, tp)の『サッチモ大使の旅』(コロムビア)。あとは、ベルト・ケンプフェルト楽団のムード音楽〈真夜中のブルース〉とか、メキシコのトランペッターのラファエル・メンデスのレコード。そういうのに興味を持って。

——ルイ・アームストロングを聴き始めたのがそのころ。

そのころはまだ難しくてピンとこなかった。

——それが中学の……。

一、二年だったと思います。ルイはよくわからなかったけれど、ジャケットがユニークで(燕尾服姿でボストン・バッグを持っている肖像写真)、それをすごく覚えています。

——まだ楽器はやられていない。  

楽器は、中学二年のときに始めるんです。久留米までバスで通っていて、帰りにバスを降りると町役場があって、そこにブラスバンドがあったんです。10人か12人か。窓からそれを見ていてやりたくなったのと、映画でラッパ手が吹いているのを観て、「トランペットってカッコいいな」と。それで買ってきて、見よう見まねです。

——最初からトランペットだったんですね。

当時は3千円だったかな? 教則本も買って、どうやって覚えたかわからないけど、吹けるようになりました。

——そのときはどんな曲をやっていたんですか?

〈セレソ・ローサ〉みたいなムード・ミュージックですかね。

——その時代、巷ではエルヴィス・プレスリー(注6)なんかのロックが流行っていたじゃないですか。興味はなかったですか?  

中学のときは、ロックがちょっと不良っぽくて抵抗感があったから、あまり好きじゃなかったです。それで、三年のときに宇都宮に転勤になるんです。そのときに、早稲田の学院(早稲田大学高等学院)を受けたら受かって。宇都宮は友だちも多かったから、そっちの学校に行きたかったんですけど、親父に「ダメだ」といわれて東京に。家族は宇都宮で、ぼくは雪ヶ谷のそばにあったおばあちゃんのうちに住んで。

(注6)エルヴィス・プレスリー(ロック・シンガー、俳優 1935 ~77年)「キング・オブ・ロックンロール」と呼ばれ、ロックの原型を作ったアメリカのシンガー。全世界の総レコード・カセット・CD等の売り上げは6億枚以上。56年に〈ハートブレイク・ホテル〉〈アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラヴ・ユー 〉〈冷たくしないで〉〈ハウンド・ドッグ〉〈ラヴ・ミー・テンダー〉で連続全米1位を記録し、以後もヒット曲を多数残す。  

高校にブラスバンド部があったんですよ。そのころ『ベニイ・グッドマン物語』(注7)や『グレン・ミラー物語』(注8)がヒットしていて、いまみたいに上手じゃないけど、ブラスバンドでジャズもやっていたんです。リード・トランペットの一年先輩、奥山康夫さんが非常に上手で、いろいろ教わりました。このひとはのちにオリエンタルランドの専務になられて、日本にディズニーランドを誘致した立役者です。

(注7)56年公開の米ユニバーサル映画。監督=ヴァレンタイン・デイヴィース、出演=スティーヴ・アレン、ドナ・リード。
(注8)グレン・ミラー(tb)の半生を、アンソニー・マンが監督、ジェームズ・ステュアートとジューン・アリソンが主演で描いた54年公開のアメリカ映画。

奥山さんはモダン・ジャズも好きで、油井正一(ジャズ評論家)(注9)さんの『ジャズの歴史』(東京創元新社刊)を教えてくれて。あと、渋谷の「スウィング」や恵比寿の「ブルー・スカイ」といったジャズ喫茶にも連れていってくれました。上手いことに両親は宇都宮で、うちにはおばあちゃんしかいない。ブラスバンドの練習が終わったら渋谷の「スウィング」に寄って、10時までいて。それで帰っても、おばあちゃんは文句をいわない(笑)。そんな生活で、渋谷の「スウィング」に入り浸っちゃった。そこでぜんぶ覚えたんです。

(注9)油井正一(ジャズ評論家 1918~98年)【『第1集』の証言者】大学在学中から執筆を始め、日本を代表するジャズ評論家のひとりに。東京藝術大学、桐朋学園大学、東海大学などでジャズに関する講義も担当。96年には勲四等瑞宝章を受ける。

——それが外山さんの高校時代。  

高校時代はジャズ・メッセンジャーズが大ヒットですよね。八百屋さんの店先でも〈モーニン〉がかかっていたぐらいだから(笑)。ブラスバンド仲間はアート・ファーマー(tp)とかソニー・ロリンズ(ts)とかをやってました。ジャズはやらなかったけど、KADOKAWAの角川歴彦(つぐひこ)(注10)氏もフルートでいました。政治評論家の高野孟(はじめ)氏(注11)も同期でテナー・サックスを吹いていたんです。〈モリタート〉をやったりね。ぼくはなぜか古いほうへ古いほうへといって。

(注10)角川歴彦(株式会社KADOKAWA取締役会長他 1943年~)角川書店創業者の角川源義の子。のちに角川書店社長になる角川春樹は兄で、歌人の辺見じゅんは姉。大学卒業後、角川書店入社。71年にNHKで放送されていた『日本史探訪』の書籍化で大成功を収める。92年に副社長を辞任したが、93年に復帰し、社長に。
(注11)高野孟(ジャーナリスト 1944年~)大学卒業後「ジャパンプレスサービス」(JPS)に入社。退社後、広告・PR会社「麹町企画」勤務を経て、75年からフリーランスでジャーナリスト活動を開始。ニューズレター「インサイダー」創刊に参加。

——じゃあ、〈モーニン〉のリー・モーガン(tp)のソロはコピーしなかった。  

ちょっと難しかったですね。「ブルー・スカイ」で聴いたクリフォード・ブラウン(tp)の〈煙が目にしみる〉、ああいうのは覚えています。これも難しい感じがしました。

——あまりモダン・ジャズに興味はなかった。

しばらく「ブルー・スカイ」にも通ったから、興味がなくはなかった。

——でも、そっちを熱心にやろうとは思わなかった。  

そうですね。

1 2