【証言で綴る日本のジャズ】原田イサム/第1話「ジャズが禁止された時代」

インタビュー・文/小川隆夫

2019.05.16

原田イサム/第1話

連載「証言で綴る日本のジャズ3」 はじめに

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはドラムス奏者の原田イサム。


原田イサム/はらだ いさむ

ドラムス奏者。1931年9月28日、神奈川県横浜市中区本牧生まれ。47年、京都の米軍キャンプで演奏するバンドでプロ入り。50年に上京して紙恭輔(かみ きょうすけ)率いるアーニー・パイル・オーケストラ(アーニー・パイル交響楽団)に参加。翌年 “多忠修(おおの ただおさ)とゲイスターズ” に抜擢。53年には “鈴木章治とリズムエース” に移籍し、58年に録音した〈鈴懸の径〉がジャズとして空前の大ヒットを記録。61年に原田イサムとソフト・スティックス結成。その後はスタジオ・ミュージシャンとして活躍し、60年代後半以降は、秋満義孝クインテット、宮間利之ニューハード、世良譲トリオ、ザ・ハーツ、小原重徳とジョイフル・オーケストラなどに参加。現在も現役最長老ドラマーとして達者なプレイを聴かせている。

戦時中の苦労

——まずはお生まれについてお聞かせください。

生まれは横浜の本牧で、昭和6年9月28日、西暦なら1931年です。

——お父様がジミー原田(ds)さんで、弟さんが原田忠幸(bs)さん。ミュージシャンの一家に生まれた。

まあそうですね。

——ご家族は、ご両親がいて、原田さんが長男。

次が妹で、その下が忠幸、さらにもうひとり妹が。

——記憶の中でいちばん最初に聴いた音楽は?

戦後すぐは進駐軍で流行っていた音楽をぜんぶ耳にしたんですけど、戦前でも親父がちょろちょろっと聴いていたのは耳にあったんです。でもなにを耳にしていたかは、記憶にないです。戦争中の4年間はまったく聴けない時代ですから、きちんと聞くようになったのは戦後ですね。

——戦前からお父様はジャズのバンドをやられていた。そういうライヴに行かれたことは?

こっちは子供でしたし、あまりないです。

——家ではジャズのレコードが流れていて。

親父はかけていましたけど。

——原田さん自身は意識していなかった。

ぜんぜん。

——31年生まれということは、41年に戦争が始まりますから、10歳のときが開戦。そのころラジオから流れる音楽を聴かれた体験は?

ジャズとかの洋楽も流れていたんでしょうけど、戦前の日本は洋楽を重視していなかったから、それほど記憶に残るものはなかったです。

——歌謡曲は?

そういうのはいっぱい聴きましたし、いいものもありました。戦前の日本の曲でしたら、なんだろうなあ? 向こうの歌を日本語の歌詞で歌っているディック・ミネ(注1)さんとかね。でも向こうの歌ですから。〈ダイナ〉や〈リンゴの木の下で〉とかはいっぱい耳にしていました。

(注1)ディック・ミネ(vo 1908~91年)34年テイチクレコードと契約。同年みずからが訳詞・編曲をした〈ダイナ〉が大ヒット。47年の〈夜霧のブルース〉も代表曲のひとつ。日活と同社が提携したミュージカル映画をはじめ、多数の映画にも出演。

——楽器はまだやられていない。

やってないです。

——お父様はイギリスと……。

アメリカとのハーフです。だから日本の血は入っていない。

——それで戦争になるじゃないですか。忠幸さんは「スパイじゃないか?」といわれたとおっしゃっていましたけれど。

学校ではずいぶん痛めつけられました。いまのイジメ以上です。でも、その時代はそんなのが当たり前だったから。

——でも、お父様は徴兵されて横須賀の基地におられた。

召集令状で海軍に。私服刑事が家に土足で上がってきて、お袋に、「親父からの葉書を見せろ」というわけですよ。親父は読むのはいいけど、書くのが苦手で。だからカタカナとひらがなで「みんな元気か?」とか、その程度のことしか書かれていない。

——憲兵ではなくて?

私服刑事です。

——相当横柄な感じで?

ひどいですよ。さすがにお袋が可哀想なので、ぼくも子供でしたけど、「血は向こうだけど、日本に帰化して日本人になってる。なおかつ横須賀に兵隊で行ってます。なにが悪いんですか?」と、食ってかかったことがありました。

——お父様は相当苦労されたんでしょうね。

そうですね。でも親父がいってましたけど、「総員罰直」というのがあるそうですね。それ以外はあんまりイジメられた話は聞かなかったです。佐官級以上のひとたちには戦前からジャズ好きなひとがいて、海軍の場合はとくに。

それでダンス・ホールなんかに行っていたから、親父のことを知ってるわけですよ。みんなが一緒のときはできないけど、夜なんか、「ちょっと原田さん」と佐官級のひとに呼ばれて、宿舎で「あなたのことよく知ってる」(笑)。「ここだけの話だけれど、気にしないで、今日は飲んで」。そういうのはあったみたいです。

栃木に疎開

——本牧で生まれて、しばらくはそこで?

いや、生まれたときだけだと思うんですよ。

——京都にも行かれたとか。

京都はいくつぐらいのときかな? 忠幸は京都で生まれましたから(36年)。京都には数回行ってるんです。親父が「東山ダンスホール」と契約しまして。あとは、戦後も京都に行きましたし。親父は戦争が終わると、米軍の仕事ですぐ京都に行っちゃったんです。どういうことで行ったのか、そのへんは聞いたことがないのでわからないですが。

——忠幸さんのお話では、関西で吉本興業みたいなところに入って、花菱アチャコ(注2)さんと仕事をしていたとか。

(注2)花菱アチャコ(漫才師 1897~1974年)関西新派の山田九州男一座を振り出しに、その後漫才師に転向。26年吉本興行の専属となる。30年横山エンタツとのコンビで会話による新形式の漫才を確立。

それは戦争中です。ジャズができない時代ですから。それで親父が、トランペットがリーダーのバンドで吉本興業の専属になって、コミック・バンドみたいなものをやっていたんです。なんていったかな? あひる艦隊(注3)だ。クレイジー・キャッツとかの前身ですね。

(注3)40年に木下華声がに中心になって結成され、「あきれたぼういず」などのボーイズと人気で肩を並べていたコミックバンド。

そういうので日本の民謡をアレンジして、アドリブになったらジャズをやる。検閲に来ているひとはなにもいえないし、わからない。それで楽しんでいたみたいです。ジャズなんて「ジャ」の字もできなかった時代ですから。

——原田さんは戦前戦中は音楽をやるつもりではなかった?

つもりもなにも、なんにも考えてないですから(笑)。

——終戦のときが14ですもんね。

そうです。

——開戦のときは横浜ですか? それとも京都?

始まったのは横浜の小学校に通っているときで、四年でした。たまたま12月8日は、全体だったかは記憶にないですけど、学校から『川中島合戦』(注4)という映画を「横浜宝塚劇場」に観に行ったんです。

(注4)41年11月29日に封切られた東宝映画。演出=衣笠貞之助、作曲=山田耕筰、作詞=西條八十、出演=大河内伝次郎、市川猿之助ほか。

——観た時点では、戦争が始まったというニュースは入っていなかった。

終わって、帰ってきてからじゃないですかね。

——それまではいつもの日常で。

そうです。

——始まった次の日も普通に学校はあったんですか?

はい。

——戦争が始まったときって、どんな思いでしたか?

開戦のときは、みんなと一緒にワイワイ、ペースに巻き込まれてやってましたけど、何年か経ってから、「(ハワイの)奇襲攻撃って、ずいぶん卑怯なことをやるなあ」とは、子供心に思っていました。

——そういう時代ですから、だんだん戦火の足音が近づいてきて、ついに戦争になったという感じですか?

昭和16年からの1年間くらいは周りのひとと一緒になって、こっちも子供ですし、「それ勝て」「やれ行け」といってましたけれど、そのうちだんだん落ち着いてきて、今度はガダルカナルですとか、日本側がガンガンやられてきた。そういうことになって、そのうち「こんな戦争、なんで始めたんだろう?」と。

——子供同士でそういう話はできたんですか?

いや、してないです。自分で思っていただけです。

——そのあとに京都に移られて、京都から栃木に疎開される。その途中、掛川の駅で機銃掃射に遭われたとか。

ひどい目に遭いました。駅員さんが機銃掃射でザクロみたいになっていて。敵から見えるといけないから、「(列車の)鎧戸を閉めろ」といわれるんですよ。だけど、隙間からその光景が見えて。みなさんお気の毒でした。それが疎開するときです。

——どうして栃木だったんですか?

横浜にいたときは東横線沿線の妙蓮寺に住んでいたんです。そのとき、親父が仲よくしていたとなり組の方が栃木にある古河電工の偉いひとだったんです。

たまたま古河電工の敷地に海軍の兵隊たちが、まあ小隊ぐらいが入っていたらしいんです。その中に親父がいて、ご近所にいらした方もいたわけです。「やあ、しばらく」「自分はこっちに来ているけど、家族は京都にいるんです」「じゃあ、ここには社宅がいっぱいあるから、よければいらっしゃい」。それで疎開したんです。

第2話(5月23日掲載予定)に続く

関連記事