投稿日 : 2019.05.16 更新日 : 2021.09.03

【証言で綴る日本のジャズ】原田イサム|ジャズが禁止された時代に

取材・文/小川隆夫

証言で綴る日本のジャズ 原田イサム
原田イサム インタビュー

自身のコンボを結成

——ここを辞めて、ご自分のソフト・スティックスを結成される。  

ちょっとやってみようかなと思って。

——リーダーになったバンドはこれが初めて。

そうです。

——メンバーは?  

ご存知ないと思うんですけどねえ。アルト・サックスとテナー・サックスが斉藤健二郎といいまして、もう死んじゃいましたけど。オーケストラとコンボ、コンボの場合は吉本栄(ts)と2テナーでやっていたひとです。ぼくのところにはアルトで来たんですけど。

あとは若い連中。ピアノは藤家虹二(cl)のところにいた倉本駿四郎君で、ベースが方波見君といったかな? ギターは御旗(みはた)といって、レイモンド・コンデ(cl)さんのところにいたひとです。このバンドをやったのは5年弱です。それで解散しました。

1961年。最初の自己グループ「ソフトスティックス」

——そのバンドではどういう演奏を?

そのときはモダン・スウィング。そういうのをやりたかったんです。リズムエースの音楽もよかったけれど、ちょっと違うものをやりたいなあと思って。

——ということは、リズムエースよりもう少しモダンなサウンド。

ぼくが目指したものですか? そうです。最近亡くなったけれど、アンドレ・プレヴィン(p)とかシェリー・マンとかレイ・ブラウン(b)とか、ウエストコートの連中のああいうのがやりたいなあと思って。要するに白人系のジャズですよね。

——スウィングするけどモダンな響きのジャズ。  

そうです。バド・シャンク(as)ですとか。

——それでアルト・サックスを入れた。

そうですね。

——ホーンはアルト・サックスだけで。

ギターを加えた4リズムです。

——クインテットですね。割とウエストコート・ジャズっぽい。

それを目指したんです。ならなかったですけど(笑)。

——どういうところで演奏していたんですか?  

リズムエースと同じように、ジャズ喫茶とか。あとは米軍のクラブにもちょっと入りました。しばらく経ってからは、六本木の、昔の「バードランド」、あれの目の前の「瀬里奈」の地下にクラブがあって。

——会員制の「六本木クラブ」。

8人編成のバンドを組んで、入っていました。チェンジのバンドが荒川康男(b)君とかを入れた稲垣次郎(ts)さんのカルテット。ほんのちょっとですけど、そんなこともやってました。

——そのあとはスタジオ・ミュージシャンとして活躍されます。

その前からときどきはやってましたけど、忙しくて行ける状態じゃなかったんです。スタジオ・ミュージシャンになってもスタジオだけをやってたわけではないので、ほんのちょっとだけスタジオに専念した、といったところです。

——どういう音楽を?  

流行歌から、映画から、なんでもやりました。

——どこかのスタジオの専属じゃなくて?  

専属ということでは、その昔、ビクターの専属でしたから。そのときは、多さんはもちろんですけど、オーケストラの中で専属は3、4人だけ。ぼくと、あと2、3人。それ以外は専属じゃなかったです。

——このビクター・オールスターズもなんでもありで、歌謡曲からムード・ミュージックから。  

そうです。

——60年代のときもそういう感じで。  

そうです。美空ひばり(注16)もやりましたし、映画の撮影所にもひと通りは行ってます。松竹がいちばん多かったかな。山本直純(注17)さんの『男はつらいよ』(注18)とか、やりました。松竹、東宝、新東宝、東映、日活……ぜんぶ行ってますね。

(注16)美空ひばり(vo 1937~89年) 8歳で初舞台を踏む。49年に『のど自慢狂時代』でブギウギを歌う少女として映画初出演。同年に〈河童ブギウギ〉でレコード・デビュー。52年、女性として初めて「歌舞伎座」の舞台に立ち、同年、映画『リンゴ園の少女』の主題歌〈リンゴ追分〉が当時最高の売り上げを記録(70万枚)。この前後から歌手および銀幕のスターとしての人気を確立した。

(注17)山本直純(作曲家 1932~2002年)東京藝術大学在学中から多方面で才能を発揮。『男はつらいよ』のテーマ音楽、童謡の〈一年生になったら〉(66年)など、広く親しまれる作品を生み出す。72年小澤征爾と新日本フィルハーモニー交響楽団設立。73年から10年間『オーケストラがやって来た』(TBS系列で放送)の音楽監督。

(注18)主演=渥美清、原作、脚本、監督(一部作品除く)=山田洋次のテレビ・ドラマおよび映画シリーズ。主人公の愛称から「寅さん」シリーズともいわれる。映画は全48作が69年から95年にかけて松竹で制作された。

——スタジオ・ミュージシャンを一緒にやっていた方で、どなたか有名なひとは?

みんな死んじゃったんですよね。それこそさっき話に出た河辺さんとかね。撮影所でやっていたひとでいまも元気なのは、弟の忠幸、アルト・サックスの五十嵐明要(あきとし)、ベースの荒川康男君、彼は松竹によく行ってました。あとは稲葉國光(b)さん。この間亡くなった前田憲男(p arr)や杉原淳(ts)もそうですね。この数年、亡くなられる方が多いですね。これだけはしょうがないです。なんといったって、今度の誕生日が来ると88ですから。

——米寿ですね。お元気で、とてもそうは見えません。  

いやいや、カラ元気ですよ。カラ元気ででもいないと、ねえ。お客さんの前に出て、しょぼくれていてはいけないから。

——ひと前でなにかをやる方は気の持ちようが違いますね。

多彩な活動

——秋満さんのクインテットや宮間利行さんのニューハードに参加するのはこのあとになるんですか?  

自分のバンドを解散して、秋満ちゃんのところに行ったんです。これが昭和でいうと41、2年(66、7年)。そこに2、3年いて、ニューハードに入ったのが70年か、その1年ほどあと(71年から翌年にかけて在籍)。ニューハードには1年くらいしかいなかったんですよ。

1970年。ニューハード・オーケストラ

——70年前後のニューハードは実験的なジャズを始めた時期ですよね。  

やってました。リーダーの宮間さんがフリー・ジャズが好きでね。

——そういう時代に入られて。

そうそう。ぼくと、あと一緒に入ったのが、当時は新人だった土岐英史(as)君。ビッグ・ネームになりました。大阪から来てね。それで、別々のバンドに行くんですけど、一緒に辞めて。

——そのころからニューハードは海外でも演奏するようになります。外国には行かなかったですか。

行かなかったです。そのあとに行ってるんですよね。

——世良譲(p)さんのトリオにもいました。

栗田八郎(b)とのトリオで。そのあとが忠幸の結成したザ・ハーツとかグルーヴィン・エイト。フリーランスになっていましたから、このあたりは行ったり来たりをしています。グルーヴィン・エイトには小川俊彦(p)と小西徹(g)、そういうひとと五十嵐明要、福島照之(tp)なんかがいて、小川ちんがメンバーをまとめて譜面を書いてたグループです。コマーシャルなバンドではないですよね。

世良譲トリオ。1975年、名古屋のライブハウスにて。

——小川さんがやってたから、いい譜面があって。

そうですね。楽しかったです。

——小原重徳(指揮)さんのジョイフル・オーケストラは「ホテルニューオータニ」に出ていらした。

これはできたときから解散までいました。ぼくと五十嵐明要と……。

——稲葉さんも。

稲葉ちゃんもいました。あと、伏見哲夫君というトランペットも。77、8年にできたんじゃないですか? 少なくとも10年はやりました。ジョイフル・オーケストラは週末だけで。ジョイフルは解散するちょっと前に小原さんが亡くなって、山屋(清)(p)君が引き継いで。

そのあと、オーケストラはなくなりましたけれど、「残ってて」といわれて、3管の小編成でしばらくやってました。ウィークデイにもポツンポツンとやり出したのは3管になってからです。

——このバンドが80年代に入っても続いていた。それで現在にいたるわけですが、プロになって70年以上。原田さんにとって、音楽とはどんなものでしょうか?

そうですねえ。いい面と悪い面があるんですけど、楽しかったこともいっぱいありますし、苦しいことも。最初の何年かは、お話したように先輩が怖かったですから、怒られ、怒鳴られ、蹴っ飛ばされ。

それはよかったんですけど、そういうことじゃなくて、音楽で行き詰まって、「できないなあ」となって。「どうやったらいいんだろう?」とかね。そういうんで、何回か「辞めようかなあ」と思ったことはありました。でも、だいたいが楽しかったですね。

——いろいろな意味で先輩は厳しかったと思うんですが、ミュージシャンとしてはいい時代だったですか?  

戦後のどさくさから始めて、まあ恵まれていたと思います。仕事の内容は別にして、困らないだけのお金を稼がせてくれて(笑)。米軍に行けば食べるものに困らないし。だから、そのへんは幸せだったと思うんです。

——ジャズは、戦前からいまにいたるまでいろいろ変遷してますよね。原田さんは、基本的に終始一貫ウエストコースト・ジャズの流れを汲んだスタイルで。

そうですねえ。小編成でいくときは、いまも心しているのが、清水のキンちゃん(清水閏)みたいな大ビバップはできないんで、ウエストコーストのモダン・スウィング。そういうのがいちばん好きですね。ただしオーケストラは決まりがありますから、「ああだ、こうだ」とはいえません。

——それはそれで面白い。

面白いですよ。最近、オーケストラをやると体力的に疲れるんですよ(笑)。

——いままでいろいろなミュージシャンと共演して、強く印象に残っているひとは?

日本のプレイヤーだったら、アーニー・パイルのころから一緒だった厚母雄次郎、河辺さんもそうです。そのちょっとあとになると、いまでも元気な五十嵐明要とか。モダン・スウィングではないけど、いまも一緒にやってる秋満ちゃん。あと、世良ちんや稲葉ちゃん。たまにしかやるチャンスはなかったですけど、前田憲男もね。まだいっぱいいますけど。

——アメリカのミュージシャンともいろいろやりました。

強烈に覚えているのはズート・シムズ(ts)ですね。ツアーをしましたけど、彼はすごかった。

1974年。赤坂のホールにてズート・シムズと。

——原田さんと共通の音楽性を持ってますものね。

そうです。上手いですよ。あと、ズートさんみたいに長いツアーはやってないけど、ハンク・ジョーンズ(p)とかね。ちょっとタイプが違いますけど、マル・ウォルドロン(p)ともやりました。 「クラリネットとは凄まじいな」と思ったのがピーナッツ・ハッコー。〈鈴懸の径〉がヒットしたあと、コンサートもご一緒しましたし、ツアーもやりました。でも、グッドマンとは1回だけ。

——グッドマンが来たときにジャム・セッションがありました。

やらなかったですけど、行きました。そのときじゃなくて、ほかで彼とは1曲やりました。

——そういうご体験が原田さんの血となり肉となっているんですね。今日は貴重なお話をどうもありがとうございました。

こちらこそありがとうございました。

取材・文/小川隆夫

2019-04-13 Interview with 原田イサム @ 大森「Tully’s Coffee

 

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