投稿日 : 2021.09.03

【特集】日本のジャズ

アメリカで生まれた「ジャズ」という音楽を、日本人が演奏しはじめたのは100年近くも前。大正時代のことだったという。その後、社交場のダンス音楽として親しまれ、レコードを鑑賞できる“ジャズ喫茶”が各地にオープン。こうしてジャズは、ときに大衆の娯楽やユースカルチャーの一角を担い、ときにはその芸術性が他ジャンルのクリエイターにまで刺激を及ぼしながら、日本でも親しまれてきた。

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じつはその間、国家がジャズを規制したこともある。戦時中は “敵性音楽”として演奏や鑑賞が禁止されたのだ。もちろん、レコードを所持することもできない。それでもジャズの魅力に抗えない愛好家は隠れてレコード聴き、音楽家たちもあの手この手でジャズを奏で、まさに“命がけ”だったという。

戦争が始まったのは横浜の小学校に通っているときで、四年生でした

と語るのは、ドラム奏者の原田イサム氏。彼の父親は戦前からジャズ奏者として活躍していたが、戦中はスパイ容疑までかけられ家族もひどい目に遭った。それでも父は「ジャズ」を演奏し続けたという。

日本の民謡をアレンジして、アドリブになったらジャズをやる。検閲に来ている人はなにもいえないし、わからない。それで楽しんでいたみたいです

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証言で綴る日本のジャズ/原田イサム

これはジャズという音楽の特性がよくわかるエピソードだ。演奏曲がなんであろうとジャズに変換できるのだ。そのときの閃きやノリで、いかようにもアドリブで展開できる。

そもそもジャズは、ある日突然「この新しい音楽はジャズです」と始まったものではない。系統の異なる複数の音楽が混合し、収斂していく過程で、いつしか「ジャズ」と呼ばれはじめた。それが100年ほど前のことである。以降、現在に至るまで、絶えず新たなアイディアや他ジャンルの音を呑み込み、緩やかな変態を続けている。

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世界中の音楽を取り込みながらアメリカで生まれたジャズは、交易や戦争や電波を介して、あたかもウイルスのように伝播し、あっという間に世界中に熱病者を生んだ。先述のとおり日本もその一つだが、とりわけ戦後の進駐軍施設は、邦人ミュージシャンたちの研鑽の場となり、この施設によるラジオ放送も本邦ジャズファンを虜にしていった。

さらにこの時期(1940年代)には、まったく新しい演奏スタイル「ビバップ」がアメリカで登場し、次第にジャズの主流をなしていった。日本の演奏家たちもこのビバップを体得しようと躍起になっていたが、なかでもその理論やフィーリングをもっとも早く正確に身につけたのが、ピアニストの守安祥太郎だといわれている。守安は天才的な採譜能力で、レコードや米軍放送から流れる楽曲を譜面化。抜群の演奏能力も備えていた守安は誰よりも早く「ビバップ」の奏法を身につけたという。同じピアニストで、龝吉敏子も同時期にビバップを理解し演奏していた一人だ。

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ちなみに彼女は、日本人として初めて米バークリー音楽院で奨学生として学び、その後ニューヨークを拠点に演奏活動を展開。おそらく彼女が最初の「国際的に活躍する日本人ジャズミュージシャン」である。

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それから約半世紀を経た現在。アメリカの音楽大学で学び、国際的に活躍する日本人ジャズ奏者はもう珍しくない。特にバークリー音楽大学は世界最大の “ジャズミュージシャン供給元” で、日本人の著名ミュージシャンもバークリー出身者が多い。ただし近年、同校の日本人留学生は減少しているという。

日本人が最も多くバークリーに留学していた時期は1990年代で、これは年間、何百人といった人数です。現在はその10分の1ぐらいなのかな。アジア系だと、いまは韓国人と中国人が多いんですね。つまり、その国の経済的な地位とバークリー入学者の人数は比例しているんです

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そう語るのは、音楽評論家の村井康司氏だ。この事実はすなわち「日本人ジャズ奏者のレベル低下」を示しているのかというと、決してそうではない。ただし、国内のマーケットが縮小している感は否めない。良くも悪くも “熱心なマニア” によって支えられるシーンである。「すべてのジャンルはマニアが潰す」という有名なフレーズがあるが、これは日本のジャズシーンにも当てはまるのかもしれない。

そうした「熱心な古参のジャズマニア」と「新規ファン」の両方を満足させる。この課題に情熱的に取り組むのがレコード会社の “ジャズ担当者” だ。

現在もCDが売り上げの中心ではありますが、もはやそれのみを商材とする時代は終わりました。我々が扱っているのは “ジャズ”そのものです。この素晴らしい音楽を、いかに幅広い層に伝えて、後世まで残していくか。そのために、サブスクはもちろん、映画やイベント、他業種とのコラボレーションなど、あらゆる角度から生活の中でジャズに触れてもらえる機会を作ることも、とても重要な仕事です

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そう語るのは、ユニバーサルミュージックの日本法人でジャズの編成部門を統括する斉藤嘉久氏。世界最大の音楽企業として知られる同社が “メジャーの作法” でジャズをマーケティングする一方で、日本にはいくつもの優良なインディペンデント・レーベルが存在し、こちらも精魂込めた作品づくりでファンを喜ばせている。今年3周年を迎えるジャズレーベル「Days of Delight(デイズ・オブ・ディライト)」もそのひとつだ。レーベル発足の経緯を、代表の平野暁臣氏が説明する。

もちろん単純にジャズが好きだしリスペクトしているからですが、もうひとつあるのは、僕が(ジャズと)出会った70年代と比べて日本のジャズシーンの熱量が大幅にドロップしていること。はっきり言って、もはや風前の灯火です

さらにこう続ける。

そんな状況なので、僕の微々たる力でもなんらかの貢献ができるかもしれないと思ったんです。もし僕にできることがあるとすれば、日本のシーンで真摯にジャズと向き合うミュージシャンたちを、社会に送り出すお手伝いをすること。だから〈Days of Delight〉は海外モノはやりません

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国内外の市場に向けて「日本人のジャズ」を発信する。しかも “かつて(70年代)の日本人ミュージシャンたちが持っていたアティチュード” を込めて。そんな平野氏のレーベルは、当時から活躍するベテランをはじめ、中堅〜若手まで多彩なミュージシャンが作品を発表している。

ちなみに「70年代の日本人のジャズ作品」そのものを、熱心にコレクトする外国人のマニアも存在する。イギリスの音楽レーベルBBEは、日本のジャズを集めたコンピレーション・アルバムを2018年に発売。本作はシリーズ化され、すでに3作がリリースされている。監修者のトニー・ヒギンズは、往年の日本のジャズをこう評価する。

60〜70年代の日本のジャズミュージシャンを観察して気づいたのは、彼らが “多様なジャズのスタイルを横断している“ということ。しかも、どのスタイルでも演奏がうまい

その理由を、こう分析する。

当時、多くの日本人プレイヤーは、仕事を得るためにあらゆるスタイルを学ばなければならなかった。さまざまなタイプのステージに立ち、たくさんのレコーディング仕事に呼ばれるために、幅広いスタイルで演奏できるよう備えていたんだ

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さらに彼は「忘れてはならないことがもう一つある」と前置きして、こう続けた。

戦後、米軍が日本を占領したときに、多くの米軍基地で日本人ミュージシャンがジャズを演奏する機会を得た。米兵に向けてプレイする彼らは、クール・ジャズ、ビバップ、ジャンプ・ブルースなど、あらゆるスタイルをこなす必要に迫られ、実際にそれらを習得していった。その器用さと多彩さは60年代以降、さらに発展していったんだ。日本人プレイヤーの技術力は並外れている。特にドラマーは別次元にいるよ。本当に素晴らしい

戦後の日本で、ジャズ奏者たちがどう立ち回り、自分の表現を獲得していったのか。その実態は、本誌の連載記事『証言で綴る日本のジャズ』で、当事者たちが語っている。また、連載記事『ヒップの誕生』でも様々な角度から本邦ジャズ史を考察しているので、是非ご一読いただきたい。

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