戦争が生んだ「Vディスク」という宝箱(後編)【ヒップの誕生 ─ジャズ・横浜・1948─】Vol.2

取材・文/二階堂尚 撮影/高瀬竜弥 協力/一般社団法人 ジャズ喫茶ちぐさ・吉田衛記念館

2019.07.02

ヒップの誕生 ─ジャズ・横浜・1948─ Vol.1

横浜の小さなジャズ喫茶に残されたVディスク。その音に必死に耳を傾けたのが、当時の若いジャズ・ミュージシャンたちだった。そこから戦後の日本のジャズは勃興していくことになる。Vディスクと日本の戦後のジャズをめぐる物語。その後編をお届けする。 (前編はコチラ

「命がけ」でレコードを聴いていた

Vディスクから戦後のジャズが生まれた──。やや大げさな物言いだが、事実のある側面を表していることは確かだ。 戦後、ジャズ喫茶ちぐさのマスター、吉田衛は、1000枚のレコードと電気蓄音機をもってジャズ喫茶の営業を再開した。当時決して安くはなかったはずの蓄音機やレコード針を吉田がどのようにして手に入れたかはわからない。今後関係者の証言を得たいところだが、いずれにしてもちぐさは敗戦後の窮乏期にあって音楽を楽しめる数少ない場所であった。音楽に飢えた人たちは、それらのレコードを聴くためにちぐさに参集した。

店にはジャズファンも訪れたが、米軍の兵士・軍属、そしてジャズ・ミュージシャンも多かったようだ。戦後の横浜には米軍専用クラブが林立し、日本人ミュージシャンに演奏の機会が与えられた。彼らは、仕事の前後にちぐさに立ち寄り、レコードに真剣に耳を傾け、ときには写譜をしながら本場のジャズを学んだ。当時のちぐさの常連で、のちにクレージーキャッツのメンバーとなるピアニストの石橋エータローは、「命がけ」でレコードを聴いたと後年振り返っている(『横浜ジャズ物語「ちぐさ」の50年』)。

店にあったレコードの多くは戦前のものだったが、Vディスクだけは戦中から戦後にかけて録音された最新の音源だった。ミュージシャンたちは、必死になってその音とリズムを自分たちの血とし、肉とし、骨とした。日本のジャズマンたちにとって、Vディスクはまさに教師であり、教科書であり、宝箱であったのである。

国家事業としてのレコーディング

戦後の焼け跡の小さな喫茶店でVディスクを聴くことができたことが、どれほどの僥倖だったか。それは戦中戦後のアメリカ本国のジャズの状況を見ることでいっそう明らかになる。

Vディスクが製作された1943年10月から49年5月という時期は、アメリカにおいて2度の大規模なレコーディング・ストライキが行われた時期と完全に重なっている。アメリカのミュージシャンの組合であるAFM(米国音楽家連盟)が著作権料の増額などを求めて1回目のストライキに入ったのが42年8月。このストライキは44年11月まで27か月という長期に及んだ。2回目のストライキは47年12月からのおよそ1年間である。それぞれの期間、ミュージシャンたちはレコーディングの機会を完全に失うことになった。ただ一つの例外を除いて。

その例外が、Vディスクのレコーディングだった。Vディスク製作は国家事業であったから、ミュージシャンは声がかかれば「お国のため」に参加しなければならなかった。国家事業に所属レーベルや契約は関係ない。数々の大物ミュージシャンがレーベルの垣根を越えて集められ、結果、ほかのレコードでは見られない共演が残されることになった。

ジャズの録音史に生じたふたつの大きなエアポケット。それを埋めたのがVディスクであった。しかもそれは、のちに公開されるまで、アメリカでも軍人・軍属以外は耳にすることができなかった音源である。それを戦争が終わってほどなくして日本のジャズマンたちが聴くことができたことは幸運というほかない。

ストライキの陰で進行したビ・バップ革命

もう一つ、見逃せない史実がある。大手レコード会社がストライキに入った機に乗じてジャズのインディペンデント・レーベルが続々と誕生したことである。すでにライブ・ハウスなどで演奏されていた新しいジャズであるビバップの動きに最もビビッドに反応したのがそれらのレーベルだった。例えば、ビバップの最大の牽引者であったチャーリー・パーカーの初期のレコーディングは、42年に設立されたサヴォイと46年に設立されたダイアルの2レーベルに集中している。これらのインディレーベルがなければ、初期のビバップの貴重な音源が残されることはなかっただろう。

Vディスクに収められた演奏が当時のジャズの「表」だったとすれば、新興のビバップは「裏」であった。その関係はその後まもなく逆転し、ビバップがジャズの主流となっていく。それはのちに加速することになる「ジャズのアート化」の始まりでもあった。

Vディスクに収録されているのは、ビバップ以前のジャズ、つまりアートではなく、ダンスミュージックだった時代のジャズである。ジャズが純粋なエンターテインメントであった頃の最後の輝きの記録としても、Vディスクは貴重な音源であると言っていい。

現在も資料として残されている当時の看板。

 日本のジャズを蘇らせたい

戦時下の日本において、ジャズは「敵性音楽」として徹底的に弾圧された。「レコード供出令」が出され、ジャズのレコードが没収されたのは43年。ダンスホールなどでジャズの演奏が禁止されたのも同じ年だった。

大正時代に輸入されたジャズは、戦争によって一度滅んだ。そこからもう一度、日本のジャズを蘇らせようとした人たちがいた。それがちぐさのマスターである吉田であり、ちぐさに集った若いミュージシャンたちだった。吉田が店を再開したのは35歳の時。常連のミュージシャンの多くは20代だった。目をギラギラさせながら、スピーカーにかぶりつくようにして音とリズムを貪った彼らの情熱がなければ、のちの日本においてジャズがサブカルチャーの中心の位置を占めることはなかっただろう。ちぐさにはほどなく、秋吉敏子、渡辺貞夫、日野皓正といった日本のジャズの立役者たちが頻繁に足を運ぶようになり、横浜は戦後のジャズの聖地となっていく。

横浜を中心に勃興した戦後のジャズ文化。そのいわば「地の塩」となったのが、米軍が残していった50余枚のVディスクだったのである。

(敬称略)

二階堂 尚/にかいどう しょう
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーの編集・ライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムやさまざまなジャンルのインタビュー記事のほか、創作民話の執筆にも取り組んでいる。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。