投稿日 : 2020.11.04

戦後エンターテイメントの「二卵性双生児」─モダン・ジャズ界と芸能界、その宿命的関係【ヒップの誕生 ─ジャズ・横浜・1948─】Vol.18

文/二階堂尚

ヒップの誕生_Vol.18
ヒップの誕生 ─ジャズ・横浜・1948─ Vol.18
戦後、占領の中心となった横浜は「アメリカに最も近い街」だった。1948年、その街に伝説のジャズ喫茶が復活した。それは、横浜が日本の戦後のジャズの中心地となる始まりでもあった──。そんな、日本のジャズが最も「ヒップ」だった時代をディグする連載!

「芸能」の歴史は古代までさかのぼるが、私たちが知る「芸能界」が生まれたのは戦後になってからである。モダン・ジャズ同様、それは進駐軍クラブを母体に生まれ、戦後の経済発展とともに成長していった。モダン・ジャズ界と芸能界。その二つの業界は、出自を同じくする「二卵性双生児」のような関係にある。戦後の混沌の中から生まれたエンターテイメントの二つの潮流の成り立ちをあらためて整理する。

半世紀以上のときを経ての共演

渡辺貞夫〈クレージーキャッツ〉の犬塚弘「ぼくと一緒にやらないか?」と声をかけたのは2010年のことである。きっかけは、映画『ふたたび swing me again』での共演だった。ハンセン病にかかって50年にわたって療養所で隔離生活を送ってきた元ジャズ・トランペッターが、出所してかつてのバンド・メンバーを訪ね歩くという物語である。半世紀ぶりに再会したメンバーたちがライブを行うジャズ・クラブのオーナー役が渡辺貞夫、バンドのベーシストが犬塚弘だった。

映画のラスト近く、バンドのリハーサルに渡辺が参加するシーンがある。出演者中本職のミュージシャンは渡辺と犬塚の二人だけで、二人は実際にセッションをしたという。その共演の感触に好感を得た渡辺が犬塚に声をかけたというわけである。80歳になっていた「最後のクレージー」は年齢を理由に断ったが、渡辺の申し出に「天にも昇る思いでした」と振り返っている(『証言で綴る日本のジャズ2』)。

渡辺は映画のタイトルにあやかって、誘いの言葉に「ふたたび」とつけ加えてもよかったかもしれない。映画の登場人物たちと同じように、二人には半世紀以上前に共演した経験があったからである。

レジェンドたちから学んだジャズのビート

話は日本におけるモダン・ジャズ黎明期の1954年にさかのぼる。当時、犬塚弘は〈萩原哲晶とデュークセプテット〉というバンドのベーシストだった。リーダーの萩原哲晶がのちに作曲家に転身し、青島幸男との鉄壁のタッグで「スーダラ節」「ハイ それまでョ」など〈クレージーキャッツ〉の数々の名曲を世に送り出すことになることは、この時点ではむろん誰も知らない。このバンドがレギュラーで出演していたのが、当時築地にあったクラブ「華僑会館」だった。店の営業は夜中の2時までだったが、1時を過ぎるとジャズ・ミュージシャンたちが楽器をもってよく遊びに来ていたという。その中に渡辺貞夫の姿もあった。渡辺はバンドが演奏するステージにしばしば飛び入りしてプレイしたと犬塚は振り返っている。

もう一人、犬塚がその店でよく姿を見かけた「レジェンド」がいた。当時からミュージシャンの仲間内で別格の天才と見なされていた守安祥太郎である。

「守安さんが現われると、ステージ上のプレイヤーは必ず頭を軽く下げて、挨拶をする。尊敬しているんです。守安さんはステージに上がると、ピアニストの右側に座る。すると、そのピアニストが左にずれる。それで守安さんが右手をヒョイと上げて、弾き出すんです。途中からでも、なんの曲だかわかっちゃう。奇麗なタッチでしたよ。一緒に演奏しながら、聴き惚れていました」(前掲書)

守安祥太郎の写真
守安祥太郎

犬塚は守安からベースの手ほどきも受けている。犬塚のプレイを聴いた守安は、ポジションや音はいいがビートが遅れ気味だと指摘し、店の控室でジャズのノリについて懇切丁寧に教えてくれたという。「これが、ぼくにとってジャズ・ベースマンとしてのスタートです」と犬塚は語っている。

守安はさらに、秋吉敏子からも教えを乞うよう犬塚を促し、秋吉に犬塚を紹介したのだった。秋吉もまた「自分の手で拍子を取りながら」ジャズのビートについて詳しく解説してくれたという。この後、犬塚は秋吉トリオのベーシストを一時期務めることになる。トリオのドラマーは清水閏で、54年7月に横浜・伊勢佐木町で開催されたモカンボ・セッションは、麻薬取締法違反で逮捕されていた清水の出所祝いとして企画されたのだった。企画者の一人は、のちの〈クレージーキャッツ〉のリーダーにしてドラマーであったハナ肇である。

秋吉敏子の写真
秋吉敏子

モダン・ジャズと芸能界を分けた分水嶺

「55年体制」という言葉があるように、戦後日本政治の基本的な形が決まったのは1955年だった。同じように、1954年から55年を中心とする前後数年間は、日本のモダン・ジャズ・シーンの形成期であったばかりでなく、戦後芸能界の胚胎期でもあった。その最も象徴的なイベントこそがモカンボ・セッションだった。

モカンボセッションの写真
モカンボ・セッションの様子

セッションの中心にいたのは、守安祥太郎、秋吉敏子、渡辺貞夫の3人。セッションのきっかけを期せずして用意することになったのが清水閏。一方、セッションの企画者の一人がハナ肇であり、完全な下戸であるという理由にもならないような理由でハナ肇からセッションの「受付係」に指名されたのが植木等だった。植木がリーダーを務めるトリオ〈ニューサウンズ〉は、当時のモカンボのレギュラー・バンドのひとつだった。言うまでもなく、ハナと植木は、のちに一世を風靡する〈クレージーキャッツ〉の二枚看板となる。

作曲家として戦後歌謡界に一時代を築くことになる浜口庫之助が主催するバンドのドラマーであったハナ肇にしても、シンガーとしてはペリー・コモ、ギタリストとしてはタル・ファーロウを目指していた植木等にしても、れっきとしたプロのミュージシャンだったが、彼らがセッションに参加しようとした形跡はない。ハナは一切ドラムを叩かず、ステージに上がって曲ごとにメンバーを選定する役割に徹していた。

ここからはいくぶん想像となるが、ハナと植木は、守安、秋吉、渡辺らのまさしく真剣をもって斬り結ぶような演奏に圧倒されて、のちの植木のギャグ・フレーズを借りるならば「お呼びでない?」と感じたに違いない。ハナ肇が自分のバンド結成を思い立って犬塚弘を誘ったのはモカンボ・セッション後、同じく、植木等が日本最初のコミック・バンド〈フランキー堺とシティ・フリッカーズ〉に加入したのもモカンボ・セッションのあとである。ハナが結成したバンド名は〈ハナ肇とキューバンキャッツ〉。これが、ほどなくして〈ハナ肇とクレージーキャッツ〉と改名されることになる。

モカンボ・セッションの一夜こそは、混沌とした戦後の大衆音楽シーンから「モダン・ジャズ」と「芸能界」という2つの流れが生まれる分水嶺であった──。そう見ることも不可能ではない。守安、秋吉、渡辺の3人が日本初のモダン・ジャズ・プレーヤーだったのと同様、〈クレージーキャッツ〉こそは、事実上、戦後日本の最初の「芸能人」であったからである。

クレイジーキャッツ『クレイジー伝説』

「ジャズマン救済」から始まった戦後の芸能界

戦後、進駐軍クラブに出入りするようになり、松本英彦中村八大らと〈渡辺晋とシックス・ジョーズ〉を結成したベーシストの渡辺晋が、「日本初の近代芸能事務所」といわれる渡辺プロダクションを設立し、マネージメント業に転身したのが1955年である。彼は、バンド・マスターの頃から「とくに仕事の契約を交渉することに手腕を発揮した」(『進駐軍クラブから歌謡曲へ』)らしい。経営者としての才覚が元来あったということなのだろう。芸能プロダクションを立ち上げたのは、一種の「救済事業」だったと渡辺は語っている。

「昭和三十年というとジャズブームの下火で、仕事にあぶれてる連中も多かった。そんななかで、私も二十代でロマンみたいなのがあったんですね。ヨシ、みんな俺んとこにこいっていって、胸を張ってたわけです」(『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』)

戦後の第一次ジャズ・ブームが起きたのが1952年。きっかけは、ベニー・グッドマン楽団で名を成したドラマー、ジーン・クルーパがトリオで来日したことだった。海外のジャズ・ミュージシャンが一般の日本人オーディエンスを前にして演奏したのは、これが戦後初である。そこから日本人のジャズ熱に火が点いた。「日本人があれほどジャズに熱中した時代はありません」と犬塚弘は語っている(『最後のクレイジー』)。しかし、熱狂は長くは続かなかった。翌53年をピークにジャズ・ブームは徐々に下火になっていく。以下の渡辺の発言は、『植木等伝』からのもの。

「ブームがだんだん下り坂になってきたでしょう。そうすると、マーケットがなくなってくる。ジャズマンがみんな失業してきたので、『うん、これはマネージャーが必要だな。よし俺がやろう』と思ったわけです。それで渡辺プロをつくったんです」

渡辺が最初の「救済」の対象としたのがハナ肇だった。

「店の前でハナとばったり会って、ヨオ、どうしてる、一度会社に来いよって声をかけたのがクレージーのきっかけ」(『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』)

「店」とは、有楽町にあったジャズ喫茶〈コンボ〉のことである。この店の最初期の客がハナ肇で、ほかに数多くのジャズ・ミュージシャンがここを根城にしていたことはこの連載で以前に書いた。渡辺貞夫も秋吉敏子も守安祥太郎もこの店の常連であり、モカンボ・セッションはこの店の常連ミュージシャンが中心になって行われたものだった。そう考えれば、〈コンボ〉とそのマスター、ショーティ川桐もまた、モダン・ジャズと戦後芸能界生成の「共犯者」だったことになる。

『ハナ肇とクレイジーキャッツ物語』著・山下勝利/刊・朝日新聞社(1985年)

戦後エンタメ界の「55年体制」

資料を見ると、渡辺プロダクションが会社として設立されたのは1955年1月、〈ハナ肇とキューバンキャッツ〉が結成されたのは、同年4月である。〈ハナ肇とキューバンキャッツ〉、その後の〈ハナ肇とクレージーキャッツ〉こそ、「日本初の近代芸能事務所」に所属した第一号ミュージシャンであった。戦後日本最初の「芸能人」が〈クレージーキャッツ〉であったというそれが理由である。

結成当初の〈キューバンキャッツ〉の中で、のちの〈クレージーキャッツ〉のメンバーとして残るのは、リーダーでドラマーのハナ肇とベースの犬塚弘のみである。萩原哲晶も初期メンバーに名を連ねているが、この後作曲家に転身したことは前述のとおりである。翌56年、〈フランキー堺とシティ・フリッカーズ〉のメンバーであったトロンボーンの谷啓と、ジャズ喫茶〈ちぐさ〉の常連であったピアノの石橋エータローが加入。さらに57年になってギター、ボーカルの植木等が〈フランキー堺とシティ・フリッカーズ〉から移籍。〈ハッピー・フリーナンス〉というバンドでサックスとクラリネットを吹いていた安田伸も加わって、ようやく〈クレージーキャッツ〉の6人のオリジナル・メンバーが揃うことになる。あらためて顔触れを整理しておく。

ハナ 肇(ドラマー/リーダー)
植木 等(ボーカル、ギター)
犬塚 弘(ベース)
谷 啓(トロンボーン)
安田 伸(サックス、クラリネット)
石橋エータロー(ピアノ)

クレージーキャッツが米軍キャンプやジャズ喫茶回りを続けて、徐々に「ジャズもできるコミック・バンド」に変化を遂げていく一方、ジャズ界では55年9月に守安祥太郎が山手線に身を投げて自殺し、56年には秋吉敏子が渡米している。秋吉が率いていた〈コージー・カルテット〉の二代目リーダーとなり、日本のビバップを切り拓いたツートップなきあとのモダン・ジャズ界をひとり牽引することになったのが渡辺貞夫だった。
(次回に続く)

〈参考文献〉『進駐軍クラブから歌謡曲へ』東谷護(みすず書房)、『証言で綴る日本のジャズ』『証言で綴る日本のジャズ2』小川隆夫(駒草出版)、『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』山下勝利(朝日新聞社)、『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」』戸井十月(小学館文庫)、『最後のクレイジー 犬塚弘』犬塚弘/佐藤利明(講談社)

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