投稿日 : 2019.08.22 更新日 : 2021.09.03

【証言で綴る日本のジャズ】大隅寿男| “陸上部のヒーロー” がアート・ブレイキーでジャズに開眼

取材・文/小川隆夫 撮影/平野 明

大隅寿男 インタビュー

連載インタビュー「証言で綴る日本のジャズ」 はじめに

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのは、ドラムス奏者の大隅寿男。

大隅寿男/おおすみ としお
ドラムス奏者。1944年6月23日、福井県坂井郡芦原温泉生まれ。明治大学軽音楽部でドラムスを叩き始める。69年に岸アツシとラテンエースでプロ入り。翌年から、菅野光亮、大野雄二、八城一夫などのグループで活躍し、74年、山本剛トリオで六本木「ミスティ」の専属に。77年に山本が渡米してからは同店でトリオを率いる。前後には、来日したアン・バートンやミッキー・タッカーの録音に参加。83年に初リーダー作『ウォーターメロン・マン』(スリー・ブラインド・マイス)を録音。2002年に悪性リンパ腫と告知されるも、克服。現在までリーダーおよび名脇役としてさまざまな活動を繰り広げ、2019年にデビュー50周年を飾る12枚目のリーダー作『キャラバン』(ポニーキャニオン)を発表した。

大地震と大火に遭った少年時代

——お生まれから。

生年月日は1944年6月23日、昭和19年ですね。終戦の1年前。福井県の、いまはあわら市になっていますけど、福井県坂井郡芦原(あわら)温泉。温泉旅館の息子として生まれました。

——いまも旅館はあるんですか?

もうないです。「ほしや」という旅館だったんです。古い温泉で。ぼくは5人姉弟で、姉が4人です。母親がめでたいからと、「福男」か「寿男」のどっちかってことで、寿男になりました(笑)。それで、昭和23年、4歳のときに大地震があったんです。「福井の大地震」(注1)。うちは古い旅館で、3階建てが潰れて。

(注1)48年6月28日16時13分29秒に発生した都市直下型地震。戦後復興間もない福井市を直撃し、北陸から北近畿を襲った。震源は福井県坂井郡丸岡町(現在の坂井市丸岡町)付近。規模はM7.1。

——建てたのはいつごろ?  

明治時代です。

——そうすると、ご両親は2代目か3代目。

母親が3代目です。

——お母様のおうちで。

そこが23年に潰れて、戦後すぐだったからたいへんだったと思うんですけど、再建して。そのときに、母親から「自分で生きなきゃいけないから、覚悟しろ」といわれました。だから、子供心に、「なんか暗い人生で、終わっちゃったな」と思ったのを覚えています(笑)。

その7年後、昭和30年に、今度は温泉が大火になるんです(注2)。温泉の中心地が火元でしたから、ほとんどの旅館が焼けました。それで、うちが最後だったんです。まさかここまでは来ないだろうと思って、みんなで手伝いに出ていたら、いきなり燃え広がって。着の身着のままで、なにも持ち出せなかったから、小学校以前の写真がない。いきなり暗い青春時代になりました。温泉は再建するけど、うちは、母親がもう再建できなかった。

(注2)本人は昭和30年(55年)としているが、56年4月の 芦原大火のこと。旅館16軒と民家308戸が焼失した。  

地震のときはまだ自衛隊もないし、救援はなにもなくて、ほったらかし。自分で生きなきゃいけなかったです。終戦の3年目だから、それどころじゃないですものね。火事のときは自衛隊が救援に来てくれました。そのときは頭が下がりました。おにぎりをもらったし、火事場の整理もやってくれました。

それで、姉が東京に嫁いでいたことや、学校に行ってたものですから、代々続いたのをぜんぶ整理して、それを頼って。親父は先に東京に出て準備してくれていたんですけど、ぼくは小学校5年生で、そのまま残って小学校を卒業したあと、母親と東京に出ました。姉たちが全員東京にいたもんですから。

——東京はどちらへ?  

事前にいろいろ調べていたんでしょうね。いきなり荻窪で電車を降りたんです。

——お姉さまがいるとか、なにかの縁があったわけではなくて?  

違うんです。姉は東中野と、相模女子大に行っていたから相模大野。それと、原宿にひとり嫁いでいました。

荻窪で降りて、泊まるところがないので、旅館に泊まって。何日経ったか忘れましたけど、そのあとに一軒家の1階を借りました。2階には、大学生のお兄ちゃんとそのお母さんが住んでいて。ぼくは中学校に行かなきゃいけないけど、教科書もないし、文房具も持っていない。母親はたいへんだったでしょうね。いきなり入学の手続きもしなきゃいけないし。

中学、高校は陸上でヒーロー

——じゃあ入学の時期に東京に出てこられた。

そうです。どこに行こうかというのもないから、近くの中学校にってことで、中瀬中学校に入りました。それで、中瀬の近くに住むはずだったのに、鷺宮という、中野のほうに家を買って。

——それがいつごろ?  

中瀬中学に1学期いて、2学期に入るときに中野に引っ越して。中野から中瀬中学に通うのはけっこうたいへんなので、近くの中野八中に2学期から転校したんです。田舎から出てきたので、言葉で笑われて。一種のいじめですよ。悪気はないんでしょうけど、やり玉に挙げられました。「はい、大隅君、読んで」。国語の先生までそうでしたから(笑)。でも、ノー天気だったから乗り越えられました。

——昔は、そういうのが問題にならなかった。

吊るし上げというか、みんなの笑い者で。ところが、「最悪の人生で、いやだなあ」と思っているときに、最初の運動会があったんです。ぼくは足が速かったから、いきなり人気者になっちゃった(笑)。それが転機になりました。馬鹿にされていたのが、女の子たちも「大隅君、大隅君」って(笑)。

徒競走でも一着だし、マラソンも断トツ。中野区の駅伝大会、その上に東京都の駅伝大会があって、3年間、都の駅伝大会に出ていました。皇居を7周、7人で回る駅伝大会があって、その代表になったんです。いきなりヒーロー(笑)。

——中学、高校でクラブ活動はしていたんですか?

ヒーローですから(笑)、先生に「入れ」といわれて、3年間、陸上部に入っていました。中学校3年生のときの東京都陸上競技大会では、オリンピックのためにできた赤土の「国立競技場」に3千メートルで出てるんです。

ぼくは区立でしょ。都の大会になると、私立で本格的にやっている生徒も来る。着てるものも道具も違うんです。スパイクをはいて。ぼくらはスニーカーというか、ズック靴です(笑)。スタート・ラインに並んだときに、威圧を感じるんです。「いやだな、これ、ぜんぜん違う」と思ったけれど、走らないとしょうがない。

3千メートルだど、1周4百メートルを7周半。ぼくら区立の生徒は「よーい、ドン」でタッタッタッて走るけど、向こうは本格的だから、「ドン」てスタートした瞬間、真ん中のいい位置を取る。そんな練習もしてないので、いきなり倒されちゃって。転んだら、赤土だったから、真っ赤になっちゃった。

それで、ぼくはまだ2周あると思っていたんですけど、「カーン」って、「あと一周」の合図の鐘が鳴ったんです。1周遅れですよ。それくらい実力に差がありました。その時点で、陸上競技の気分は失せてました。「これはぜんぜん違う。全国大会になったらもっとすごいんだろうな」と思って。

中野区では強かったんですけどね。高校に入ってからも強かったんです。都立に入って、最初の運動会のマラソン大会では先頭を切ってましたから。このときもヒーローになりました。その運動会が終わって、健康診断のときに、いま思うと誤診だと思うんですけど、医者から「大隅君、心臓、気にならないか?」「激しい運動は控えたほうがいい」といわれて。先生にそういわれちゃったもんで、学校としても「陸上部は控えたほうがいい」。それで陸上部を辞めたんです。国立競技場の件もあったし。

——高校1年で陸上部を辞めて。

ぶらぶらしてたら、バレーボール部の友だちに、「来ないか?」と誘われて。だから高校の後半は9人制のバレーで前衛をやりました。バレーボール部はぜんぜん弱かったです。それでも運動神経がよかったから、練習もしないのに、なんとなく勘が働くというか。やったこともないのに、「こうやるんだ」といわれて、やりながら覚えて。

それで、大会に出たんです。1回戦は日本大学櫻丘高校。恥ずかしくなっちゃうくらいコテンパンにやられて。向こうが打ったボールが怖くて取れないんだから(笑)。ところが、ワン・セット目、最後に得点したのがぼくなんです。

ぼくのはへなちょこアタック。向こうはバッシーンでしょ(笑)。ぼくのかすったアタックを向こうがミスって。「イエー」なんてやってたら、向こうは監督が全員を並ばせて、平手打ち。びっくりしました。都立高校のへなちょこに取られたっていうんで、気合を入れたんですね。そのあとの攻撃がすさまじかった。

最初にいじめに遭ってどうなるかと思いましたけど、運動会のおかげでなぜかヒーローになっちゃって。勉強はダメだったけど、なんかモテましたよ(笑)。

ジャズとの出会い

——中学や高校のころは音楽に興味がなかった?  

興味はあったんですけど、食べるのが精いっぱいでしたから。

——でも、ラジオで聴いていたとかは。  

それはありました。母親は、もともと買おうと思っていた中瀬中学のそばに土地を買って、そこに安アパート、下宿屋みたいなのを建てて。それが、東京に移って2年目ぐらいですかね。

——短い間に住むところは転々としていたんですね。  

親は計画していたんでしょう。60近いから仕事にはつけないし、母親は旅館の女将さんだったんでご飯も炊けない。だから、ご飯がひどかったですよ(笑)。「お母ちゃん、ご飯が炊けないんだ」と思って。でも、まあ、明るい親だったんで、ぼくもノー天気で。

——ジャズを最初に聴いたのは?

下宿をやっていたときに、登別温泉の老舗旅館のご子息が明治大学の学生さんで、うちに下宿していたんです。その部屋を見たらすごいんです。電蓄(電気蓄音機)があって、レコードがダーって並んでいた。ジャズが好きで。

——そのひとと出会わなかったら……。

聴いてないですね。「寿男君、これ知ってるかい?」「いや、知らない」「じゃあ、聴いていいよ」といわれて聴いたのが、アート・ブレイキー(ds)の『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』(RCA)(注3)。衝撃でした。

(注3)『アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ/サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』メンバー=アート・ブレイキー(ds) リー・モーガン(tp) ベニー・ゴルソン(ts) ボビー・ティモンズ(p) ジミー・メリット(b) 58年12月21日 パリ「クラブ・サンジェルマン」で実況録音

——それが……。

高校2年のときです。そのお兄ちゃんは4年間、明治大学に行って。それで、ぼくが「聴かせて、聴かせて」って、行くもんですから、聴かせてくれました。夏休みのいないときには、「聴いてもいいけど、ほかは触るなよ」とか。だから、夜はその部屋で聴かせてもらっていました。

——ラジオとか、いろんなところから流れてくる音楽は別にして、レコードで聴いた音楽はそれが最初?  

そうでもないんです。姉たちが、普通のアメリカン・ポップスとか、タンゴとか、ジャズだったらグレン・ミラー(tb)とかのレコードを持ってたかなあ?

——そういうのは自然に入ってきて。

グレン・ミラーの〈茶色の小瓶〉とか、あのへんの曲はずっと聴いていました。

——いわゆるモダン・ジャズを聴いた最初が『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』で。  

ジャズっていうとグレン・ミラーでしたから、そういうサウンドは聴いたことがなかったんです。ジャズがなんだか、ポップスがなんだか、そういうのもあんまりわかっていなかった。でも、「絶対、こっちのほうが好きだな」と思いました。そのころでは、ソニー・ロリンズ(ts)の『サキソフォン・コロッサス』(プレスティッジ)(注4)の青いジャケットと『サンジェルマン〜』のジャケットが印象に残っています。

(注4)『ソニー・ロリンズ/サキソフォン・コロッサス』メンバー=ソニー・ロリンズ(ts) トミー・フラナガン(p) ダグ・ワトキンス(b) マックス・ローチ(ds) 56年6月22日 ニュージャージーで録音  

そういうのを30枚ぐらい、君島さんが持っていたんです。そればっかり聴いていました。あのころ、夜中に、ジャズの特集をラジオでよくやっていたんで、うちにはラジオもなかったから、君島さんの部屋で夜中に聴かせてもらったのも覚えています。それくらい、わーってなりました。なんか聴きたくて、聴きたくて。

——そのころにジャズ・メッセンジャーズの日本公演に行かれて。61年ですから、16歳のころ。

母親に、「今度ジャズ・メッセンジャーズが来るんで、レコードを買うか、コンサートに行かせてくれないか」といって、行かせてもらったんです。「産経ホール」(現在の「大手町サンケイプラザ」)でした。

——それがジャズのライヴを観た初めて。

初めてです。

——行きたいと思ったのは、よっぽどだったんでしょうね。

よっぽどだったです。アート・ブレイキーというのは頭の中にあったし、そのお兄ちゃんのレコードも聴いたから、「来るよ」という話を聞いて、「わー、行きたい」。

——そのお兄ちゃんと一緒に?

いや、ひとりで行きました。お兄ちゃんは行かなかったですね。彼はそこまでのめり込んでいなかったかもしれません。

——大隅さんのほうが熱かった。

そうですね。なにせ行きたくて。

——正月ですよね。

そうです。「東京体育館」のコンサートにも行きました。

——日米交流のジャム・セッションですか?

あれ、ジャム・セッションでしたっけ? なにせ寒かったです。ソロになるまで、ボビー・ティモンズ(p)が手をポケットに入れてました。そのとき、プログラムを買って、全員からサインをもらいました。リー・モーガン(tp)かウェイン・ショーター(ts)かどっちかに、頭をなでられたことを覚えています。

——まだ持ってます?  

なくしちゃいました(笑)。

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