【証言で綴る日本のジャズ】水橋 孝/第1話「“初めてベースを触った日”にステージ・デビュー」

インタビュー・文/小川隆夫  写真/平野 明

2019.07.25

水橋 孝/第1話

連載「証言で綴る日本のジャズ」 はじめに

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのは、ベース奏者の水橋孝。

水橋 孝/みずはし たかし
ベース奏者。1943年3月2日、北海道夕張市生まれ。63年に偶然からキャバレーでベースを弾き始める。64年にキャバレーのバンドでリーダーに。66年から2年間は市川秀男カルテットで市ヶ谷の「フラミンゴ」に出演。その後は、西村昭夫セクステット、藤井貞泰トリオ、大沢保郎カルテットなどを経て、69年、ジョージ大塚トリオに参加。71年、ジョージ川口ビッグ・フォアに移籍し、川口がこの世を去る2003年まで在籍。その間に、ハービー・ハンコック、ミッキー・タッカー、アーチー・シェップ、マリオン・ブラウンなど、アメリカのトップ・プレイヤーとレコーディング。81年にはシェップに招かれ、彼のカルテットで3か月のヨーロッパ・ツアーにも参加。97年から20年間、日本赤十字社、日本ユニセフ協会、あしなが育英会に寄付を続け、79年から2019年まで「JAPAN BASS PLAYER’S CLUB」の会長を務めた。

歌手になりたかった青春時代

——みなさんにお聞きしているのですが、生年月日と出身地から教えてください。

生年月日は1943年3月2日、北海道で生まれました。いまでは夕張といえばわかりやすいでしょうけどね。親父が炭鉱の爆発事故で死んじゃって。それで内地に来ました。

——おいくつのとき?

2歳か3歳のときです。学歴もないし、義務教育をやっと出た、中学しか出ていません。ほんとに悲惨な時代で、幼いころのことは思い出したくないんです。

それで17、8のころかな? 大田区の大森に住んでいて、そういうところでフラフラしていたんです。「なにをやろうか?」といっても、別に夢も希望もないけれど、できれば、恥ずかしいけれど、歌手になりたかったんです。

そのころは、やっぱりね、エルヴィス・プレスリー(注1)ですよ。ああいうのにシビレましてね。その前は歌謡曲です。三橋美智也(注2)、春日八郎(注3)、美空ひばり(注4)とか、そういうひとたちが全盛時代だったから。そういうのを「いいなあ」と思っていたけれど、そのうちエルヴィスが出てきて、「あ、すごいな、カッコいいな」。それからレイ・チャールズ(注5)が出たりしてね。「あ、オレがやるのはこれかな?」と思ったわけですよ。思っただけね(笑)。

(注1)エルヴィス・プレスリー(ロック・シンガー、俳優 1935 ~77年)「キング・オブ・ロックンロール」と呼ばれ、ロックの原型を作ったアメリカのシンガー。全世界の総レコード・カセット・CD等の売り上げは6億枚以上。56年に〈ハートブレイク・ホテル〉〈アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラヴ・ユー 〉〈冷たくしないで〉〈ハウンド・ドッグ〉〈ラヴ・ミー・テンダー〉で連続全米1位を記録し、以後もヒット曲を多数残す。
(注2)三橋美智也(歌手 1930~96年)民謡で鍛えた伸びのいい高音と絶妙のこぶし回しを持ち味に、昭和30年代の歌謡界黄金期をリードし、数多くのミリオンセラーを連発した。代表曲に〈リンゴ村から〉(270万枚、56年)、〈古城〉(300万枚、59年)、〈星屑の町〉(270万枚、62年)がある。
(注3)春日八郎(歌手 1924~91年)48年キングレコードの「第1回歌謡コンクール」合格。54年〈お富さん〉が爆発的人気を呼び、最終的に125万枚の売り上げを記録。55年〈別れの一本杉〉もヒットさせた。
(注4)美空ひばり(歌手、役者 1937~89年)8歳で初舞台。49年『のど自慢狂時代』でブギウギを歌う少女として映画初出演。同年に〈河童ブギウギ〉でレコード・デビュー。52年女性として初めて「歌舞伎座」の舞台に立ち、同年、映画『リンゴ園の少女』の主題歌〈リンゴ追分〉が当時最高の売り上げを記録(70万枚)。この前後から歌手および銀幕のスターとしての人気を確立した。
(注5)レイ・チャールズ(歌手、ピアニスト 1930~2004年)盲目のハンディキャップを背負いながら、59年〈ホワッド・アイ・セイ〉が6位のヒットとなり、人気が定着。61年〈我が心のジョージア〉がミリオンセラーを記録。以後、R&B、ジャズ、ゴスペル、黒人霊歌など、幅広い歌でアメリカを代表する黒人シンガーのひとりになる

——歌は得意だったんですか?  

得意じゃないけど、好きでした。それで、英語も喋れないのに、レコードを聴いて、カタカナ英語の見様見真似で、カッコつけて、まあやってたわけです。ひと前で歌うわけじゃなくて、ひとりでね。  

そのうち、よく行ってた近くの蕎麦屋の出前持ちのあんちゃん、そのひとと友だちになって。あんちゃんが、休みの日にはギターを抱えて遊びに来るんです。当時はポール・アンカ(注6)の〈ダイアナ〉とかね。これ見よがしに、ギターを抱えて歌うわけですよ。「なんだよ、オレにも教えろよ」。そんなことでちょっとかじったりして。

(注6)ポール・アンカ(ポピュラー・シンガー 1941年~)カナダ出身のシンガー・ソングライターで、〈ダイアナ〉(57年)、〈マイ・ホーム・タウン〉(60年)、〈電話でキッス〉(61年)などのヒットで人気者に。68年フランク・シナトラに〈マイ・ウェイ〉、71年トム・ジョーンズに〈シーズ・ア・レイディ〉を提供。現在も高い人気を誇っている。  

それではたちのときですかね、可愛がってもらっていた兄貴分みたいなひとがいて、そのひとが「知り合いでキャバレーのバンドをやってるヤツがいる。そこのベース弾きがいなくなったから、お前、やる気はないか?」っていってくれたんです。  

ぼくは機会があれば、音楽のほうに行きたいと思っていたから、行って、立ちん坊ね。弾けるわけがないから、ベースを持って立ってるだけ(笑)。

——まったく弾いたことがなかった?  

ベースを初めて見た日に仕事したんですから(笑)。

——どこにあったキャバレーですか?  

五反田。行ったら、1か月でそのキャバレーが潰れて。そうしたらよくしたもので、最終日に、すぐ近くのキャバレーのバンドのひとが来て、「ぜひ、わたしどものバンドに来てください」。スカウトされて。

——バンドごと?  

ぼくだけ。

——じゃあ、そのころはもう弾けるようになっていた?  

ぜんぜん弾けない。だから弾くと怒られてね。「邪魔になるから、お前、弾くな」。

——最初に入ったキャバレーのバンドは何人編成?  

ピアノとギターとベースです。

——それじゃ、ベースも目立つじゃないですか。  

そりゃあ、目立ちます。ピアノ、ギター、ベースのトリオといったら、いまならカッコいいですよ。ただ、当時は員数合わせで、ベースはいればいいっていうだけ。だから弾いてるふりをして(笑)。

キャバレーで荒稼ぎ

——どんな音楽をやっていたんですか?  

最初のステージはお客さんが来ないから、そういうときに彼らはジャズをやって楽しんでいる。ぼくもなにかやってないとカッコ悪いから音を出すと、「頼むから弾かないでくれ」「邪魔になって、なんにもできないから」といわれて。

それでもよくしたもので、たしかそのときは63年ですよ。64年が東京オリンピックで、街が盛り上がっている。景気もよかったし。立ちん坊でも、大学卒の初任給ぐらいはくれたんです。1万2000円だったかな? 「こんな世界があったのか」と思ってね。ひと月で終わったけれど、次のバンドのひとがスカウトしてくれて。

——店の名前は覚えていますか?

「銀馬車」でした。

——最初の店の名前は?  

覚えていません。

——「銀馬車」はどういう編成で?  

クインテットです。テナー・サックスにアルト・サックス、それとスリー・リズム、ピアノ、ベース、ドラムスでね。そこは譜面コンボだったんです。なにせ、最初はドラムスのおじさんに、「水橋君、ベースはこうだよ。これがCで、Dは開放弦」とかね。ドレミファソラシド、ベースのスケールを教わって。いろんな曲をやるけど、ぼくはどの曲でもドレミファソラシド(笑)。滅茶苦茶でした。だけど「歌も好きなら歌わせてやる」というんで、ピアノのバンマスが、「レコードを持っておいで」。レコードを持っていくと譜面に起こしてくれて、歌わせてくれたりね。

——どんな歌を?  

アメリカのポップスです。そういうのをやったり、そのうち、店のショーの司会をやったりとかね。そんなことをやって、楽しかったですよ(笑)。周りがほんとにいいひとばかりでね。最高の出だしでした。

——バンドマンのいじめはなかったんですか?  

まったくなかったです。コンサート・マスターがテナー・サックスのひとで、すごくいいひと。「ミズ、ミズ」って、可愛がってくれて。「お前なあ、新橋のキャバレーでトリオのバンドを探してるから、行くか?」なんていってくれたりして。「ありがとうございます」。それで行ったら、その時点で収入が7、8倍ですよ。10万円くらいですから。「あ、これもありだな」と思って(笑)。だけど、まったく出鱈目の世界。

——まだちゃんとは弾けなかった。  

ぜんぜん。それでも、社長とか部長クラスの給料をもらって。

——これが……。  

64年ごろです。そんなことで、「こんな幸せなこともあるんだ」。烏森口のガードの下だったかな。狭いんだけどね。

——ここの編成は?  

ピアノ、ベース、ドラムスのトリオ。なんにもできないリーダーですよ。

——え? リーダーで雇われたんですか!  

そうなの。それで1年ぐらいいたのかな? そこがまたぽしゃって。「銀馬車」のコンサート・マスターに電話したら、「お前、またくればいいだろ」といってくれて、そこにいたベースをクビにして、戻してくれたんです。収入は下がりましたけどね(笑)。

市川秀男との出会い

「銀馬車」のバンドはバンマスがピアノで、そのひとが月に1回かふた月に1、2回抜けるんです。そのときのトラ(エキストラ)が市川秀男という名ピアニスト。それでなんとなく知り合って。当時の彼はまだはたちくらい(市川は45年生まれ)だったけど、バリバリで。これもぼくにとっては不思議な縁。市川がね、ぼくの前に3回現れるんです。これが最初。

そのあと、五反田のキャバレーがまたぽしゃって。「じゃあ」っていうんで、市川のところに電話をしたんです。「ちょうどよかった、ゴンさん」。ゴンさんていうのは、彼がぼくにつけたニックネームだけど。「いまベースがいなくて困ってるんだ。おいでよ」。そうはいうけど、まだなんにも弾けない。

彼はカルテットのバンマスで、オスカー・ピーターソンみたいなピアノをナイト・クラブで弾いている。そこに入るんだけれど、クビになったベーシストがすごく上手いひとで。上手いけど、手癖が悪くてクビになっちゃった。それで、ぼくが一緒にやることになった。これが66年だったかな? そこで2年ぐらいやって。

——そのときはジャズ?  

ナイト・クラブだからジャズ。

——どこのナイト・クラブ?

市ヶ谷の「フラミンゴ」。一口坂のそばにあった最高級のナイト・クラブです。

——それが66年ごろの話。そのときのメンバーは?

唐木洋介(とうのき)さんというアルト・サックス。のちにシャープス&フラッツに行って、テナー・サックスに転向しましたけどね。ドラムスが川上達郎といったかな? 「たっつあん、たっつあん」といってたんだけど。歌が市川の奥さん。そのころはまだ結婚してなかったから、ガール・フレンド。チェンジのバンドもいたけど、そっちは覚えていない。ギターがリーダーのカルテットでした。

——このバンドなら、ジャズといってもかなり本格的なものをやっていたんじゃないですか?

本格的だけど、ぼくは出鱈目。

——もう、そんなことはないでしょう。

いや、ほんと。まったくわかっていなかった。それでも、Q.いしかわ(ts)、峰厚介(as)、紙上理(しがみ ただし)(b)、亡くなった萩原栄次郎(b)、あとは軍楽隊で日本にいたルーファス・リード(b)なんかとも演奏をするようになって。ルーファスの関係で、GIとも盛り上がっていたのがこのころ。 「フラミンゴ」で2年くらいやって、バンドが解散になるんです。そのあとは、富山で1か月の仕事があるというんで、友だちのテナーとピアノとドラムスとぼくの4人で「行くか?」。そのころはコテでチリチリにしたパンチパーマで。だから、「黒人のハーフのバンド」という触れ込みでね(笑)。それで総曲輪川(そうがわ)にあったジャズ・ハウスの「ACB(アシベ)」という店に出ていました。

第2話(8月1日 公開予定)に続く

関連記事