投稿日 : 2019.08.22 更新日 : 2021.09.03

【証言で綴る日本のジャズ】大隅寿男| “陸上部のヒーロー” がアート・ブレイキーでジャズに開眼

取材・文/小川隆夫 撮影/平野 明

大隅寿男 インタビュー

自身のトリオを結成

——これがきっかけで、自分のトリオを立ち上げる。でも最初のうちはピアニストがけっこう替わりましたね。  

いろんなひととやりました。辛島文雄も九州から出てきたときだったし、大徳俊幸もいたなぁ。青木弘武(ひろむ)とか、石井彰君、関根敏行君。

——その後にやっていくひとたちですね。

彼らとはこのときに会ってるんです。ぼくが32、3歳のころですかね。

——ある程度、経験を積んで、よくなってきたころ。

なんとなくわかってきたときです。わかんないとメンバーも集められませんから。スタンダートとかが勘で上手くやっていけるようになったころです。

——それまでは特定のひととやることが多かった。それで山ちゃんまできて、山ちゃんが「ミスティ」を抜けたあとは、自分でピアニストを集めて、いろいろなタイプのひととやるようになった。

そうです。それで、青木弘武で落ち着くんです。7、8年は一緒にやりましたかね。

——「ミスティ」はいつまで?

山ちゃんが帰ってきて、しばらくしたらオーナーが亡くなるんですよ(81年)。

——ニューヨークで。ぼくも、そのときにいましたから。

あ、いたの。

——あのときはいろいろたいへんで。その話は、別の機会にするとして。

山ちゃんは帰ってからそんなに「ミスティ」ではやらなくなって、「ボディ&ソウル」にも出るようになった。ぼくも、自分のトリオを始めていたから、そこでちょっと別れるんです。

——山ちゃんはニューヨークで一緒だった岸田恵士(ds)さんなんかとよくやっていました。

そうでした。ベースが岡田勉とかね。ぼくは青木と自分のトリオで。

——「ミスティ」以外でも?

いろんなところでやりました。そのころはシンガーとのおつき合いが多かったですね。

——六本木のクラブで?

全国ツアーも多かったです。阿川泰子、マリーン、中本マリ、金子晴美とか、みんな売れ出したころで。そのひとたちに頼まれたもんで、延々と仕事になりました。

——初リーダー作の『大隈寿男トリオ・フィーチャリング青木弘武/ウォーターメロン・マン』(スリー・ブラインド・マイス)(注18)が83年の録音。

「ミスティ」にはもういなくて、ほかのところでの仕事が多くなりました。なにせ、ツアーが多かったですから、あのレコードは、そのときの青木弘武と山口彰(b)のトリオで録音しました。

(注18)『大隈寿男トリオ・フィーチャリング青木弘武/ウォーターメロン・マン』メンバー=大隈寿男(ds) 青木弘武(p) 山口彰(b) 83年3月6日 東京で録音

——その前に、1枚、リーダーレスのトリオでレコーディングしていますが(注19)

それは、「ミスティ」でやってるときに、ぼくの知り合いが東宝レコードにいて、「レコード、作ってやるよ」といわれて。ギャラもどうなっているのか忘れちゃいましたけど、録音できることが嬉しくて。自分はリーダーでもなんでもないです。「やりたいのをやれ」といわれて、そのころは大口純一郎(p)とやっていたこともあって、彼と福井ちゃんと3人で、誰がリーダーということでなく、やらせてもらったんです。

(注19)『ザ・キャッツ/フレッシュ』(東宝レコード)のこと。メンバー=大口純一郎(p) 福井五十雄(b) 大隈寿男(ds) 76年 東京で録音

——これは、「ミスティ」でやっていたトリオ。

「ミスティ」でもやりましたし、ほかでもやってました。

——その流れの中で、このレコーディングをしたと。  

そのころはボサノヴァのソニア・ローザ(vo)ともよくやっていたんです。彼女とレコーディングはしなかったですけど、彼女抜きのこのトリオでもやっていて。ソニアは、ぼくが「キャラヴァンサライ」に入ったとき、弾き語りで出ていましたね。あのころは『11PM』(注20)とかにも出ていましたかね。

(注20)日本テレビとよみうりテレビ(現在の読売テレビ)の交互制作で65~90年まで放送された日本初の深夜ワイドショー。前者は大橋巨泉、愛川欽也、後者は藤本義一が主に司会を担当。

海外のシンガーやミュージシャンとも共演

——シンガーでは、アン・バートンとレコーディングしています。

あれは「ミスティ」に彼女が遊びに来たんです。オールアート・プロモーションの石塚(孝夫)さん(注21)が日本に呼んで。仕事が終わって、帰りに来たんですよ。そうしたら、いきなり石塚さんが「大隅ちゃん、レコーディングにつき合ってくれない? アン・バートンが『あのドラマーがいい』っていうんだよね」。真相はわかりませんけどね。石塚さんがそういってくれたんで、ツアーをやっていたひとを外して、ぼくが行ったんです。知ってるひとだったし、自分としてはちょっと行きづらかったですけど(注22)。

(注21)石塚孝夫(プロモーター 1932年~)【『第1集』の証言者】ドラマーとして活動し、61年ユニバーサル・プロモーョン、63年オールアート・プロモーション設立。キャノンボール・アダレイ(as)、アート・ブレイキー(ds)、モダン・ジャズ・カルテット、ビル・エヴァンス(p)、オスカー・ピーターソン(p)など、多くのミュージシャンを招聘。86年からは「富士通コンコード・ジャズ・フェスティヴァル」を毎年開催した。
(注22)『アン・バートン/雨の日と月曜日は』(トリオ)のこと。メンバー=アン・バートン(vo) ケン・マッカーシー(p) 稲葉國光(b) 大隈寿男(ds) 77年6月1日、2日 東京で録音

——「ミスティ」に来て、アン・バートンは歌ったんですか?  

歌いません。お客さんで来てくれて。それで、いきなりレコーディング。「今度ツアーで来るから、一緒にやろうね」といってくれて、そのまま亡くなりました。乳がんだったのかな? 残念だったですよ。

静かなひとで。当時は、わけもわからず、どういう方かも知らず、「オランダのひとなんだな」というだけで、会話もなく、「ナイス・トゥ・ミート・ユー」といっただけ。ただ、「スウィングしてくれ」とはいわれました。「余計なことはしないでちょうだい」ということで。

——スウィングするのは、大隅さん、得意だから。

それしかなかったですから。

——それで気に入ってくれたんでしょうね。

あの歌ですから、インタープレイとかはいやなんでしょう。

——ミッキー・タッカー(p)とは?  

アート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズで日本に来たんです。その前から、ブレイキーは何度も来ているし、「ミスティ」にも遊びに来てくれて。ぼくも憧れていましたから、通訳を通して、よく話をしました。それで、何回目かのときにミッキー・タッカーが来たんです。最初の日はベースのキャメロン・ブラウンと来て、次の日にも来た。

2日目には徳間音工(徳間音楽工業、現在の徳間ジャパンコミュニケーションズ)の方も来てくれて、「大隅さん、ミッキー・タッカーのレコーディングをするんですけど、つき合ってくれませんか?」「なにかの間違いじゃないの?」(笑)。「そうしてくれっていわれてるんで」。レコーディングはその3日後ぐらいですかね(注23)。こっちは舞い上がりましたけど(笑)。1日、ヤマハで練習日を取って。すごく悩んでいたときなんで、あとになってみれば自信になりました。

(注23)『ミッキー・タッカー/ダブレット』(DAN)のこと。メンバー=ミッキー・タッカー(p) キャメロン・ブラウン(b) 大隅寿男(ds) 76年11月15日 東京で録音

——なにに悩んでいたんですか?  

ほかのひとのほうが上手く思えるんです。30いくつで、これからもこの世界でやっていけるのかなあ、という。なにもわかっていないときは、イケイケでよかったけど、少しわかってきたときだから。

活躍しているひとが店に遊びに来て、ぼくと替わると、山ちゃんのプレイも変わる。聴いていると如実にそれがわかるんです。「こうやって展開していくんだ」とかね。ソロは上手いし、トレード(小節交換)したあとフリー・ソロにいったり、上手く解決するし。ぼくがやっているときの倍ぐらい拍手が来ちゃう。

「すごいなぁ、いつもやっていないひととでもこんなにできるんだ」。ノイローゼになりそうなくらい悩みました。そういうときだから、ミッキー・タッカーみたいな素晴らしいひとに声をかけてもらったことがとても励みになりました。でも、レコーディングしているときは、「オレって駄目だなぁ」「マイッタ、申し訳ない」と思っていましたけど。

そのときに、キャメロン・ブラウンが「トシオ、お前のレガートはジミー・コブみたいだ」といってくれたんです。マイルス・デイヴィスのレコードは聴いてましたけど、ジミー・コブってあまり聴いたことがなかった。「エッ?」と思って、マイルスのレコードを聴き直したら素晴らしい。「よかった、やってたことでたいした間違いはしてない」と思いました。これで吹っ切れました。自慢話になるんで、あまりいわないようにしているんですけど、本当に嬉しかったですね。「よし、これで突き進んじゃえ」。

あと、ハーヴィー・メイソン(ds)が「ミスティ」に来たんです。アルファ・レコードのプロデューサーが連れてきてくれて。ぼくの押しの弱いところで、自分より上手いひとが来たらすぐに代わっちゃう(笑)。そうしたら、プロデューサーがぼくのところに来て、「『なんであんなにスウィングしてるのに代わるんだ。あのドラマーに代わるなといってきて』と、ハーヴィー・メイソンにいわれた」って。

リップ・サーヴィスにしても嬉しかった。「ハーヴィー・メイソン、ありがとう」って感じです(笑)。ハーヴィー・メイソンとは話もできなかったし、挨拶をしたぐらいで、どういうひとかもあまり知らなかったんです。あとからすごいひとだとわかって、びっくりしたぐらいで(笑)。

こういうのは自慢になっちゃうからいわないようにしているんですけど、本当に嬉しかった。なんか岐路、わかれ道というか、自信がなくて、やっていけないんじゃないかと思っていたときですから。でもこういうことで吹っ切れて、「よし、これでいこう。あまりみっともないことはしてないな」というのはありました。

——「ミスティ」でやってたことが大きいですね。  

大きい、大きい。だから、山ちゃんには大感謝です。恩人というか。彼と出会わなかったら、こんなにならなかったと思います。あそこでやってると、素敵なミュージシャンにも会えるじゃないですか。普通だったら、そんなことないですもん。

山本剛(写真左)と。

——いい年代でもありましたね、30前後というのは。  

まったくそうですね。

——ということで、このインタヴューはだいたい70年代ぐらいまででまとめているんです。大隅さんのキャリアはこのあとさらに花開きますし、大病をされたこともあって波乱万丈ですが、そちらはまたの機会とさせてください。本日は長い時間どうもありがとうございました。

こちらこそ、久々にお会いして、いろいろなお話ができて嬉しかったです。ありがとうございました。

取材・文/小川隆夫

2019-05-26 Interview with 大隅寿男 @ 六本木「ポニーキャニオン」

1 2 3 4

その他の連載・特集