投稿日 : 2019.05.16 更新日 : 2021.09.03

【証言で綴る日本のジャズ】原田イサム|ジャズが禁止された時代に

取材・文/小川隆夫

証言で綴る日本のジャズ 原田イサム
原田イサム インタビュー

戦後

——終戦の日は覚えていますか?

ホッとしました。いちばん嬉しかったのはうちの中が明るくなったことです。灯火管制というのがあったんですよ。一年中電灯に黒い布を被せて。それをぜんぶ外して明るくなった。それがなにかわからないけど、嬉しかったですね。気持ちが明るくなりました。

——そのときは栃木の中学校に通われていた。

そうです。

——栃木にはいつまでいらしたんですか?

その年の秋か冬の近いときに京都に行きました。

——横浜の家は焼けちゃったんですか?

残っていたと思いますが、借家ですから。ですから戦争中に京都から疎開して、終わったらまた京都に戻った。

——終戦になって、「このあと、どうなるんだろう?」といった不安はなかったんですか?

それはなかったです。ほんのちょっとあとに親父が帰ってきて。ただし帰ってはきたけれど、すぐひとりで京都に行っちゃったんです。家族全員が京都に移るのはそれから数か月後です。親父がぼくたちのことを忘れちゃってるんですよ(笑)。わからないでもないですけど。

戦争中に嫌な思いをしたでしょうし、軍隊で辛かったこともあったんでしょう。それが、戦争が終わったとたんに米軍がガッーと来て、ジャズがガンガンできる。嬉しくなっちゃったんでしょう。

それで、米軍にはいろいろ宿舎があるんですが、軍属(注5)の宿舎の一部屋をあてがわれて。そこに住んで、米軍の仕事、オーケストラとコンボのふたつを持って。それをやってたから、一瞬ね、家族のことを忘れちゃったんです。

(注5)軍人(武官または徴集された兵)以外で軍隊に所属する者のこと。軍の組織に所属しない民間の米軍関係者をそう呼称する場合もある。

あとの話ですけど、シャンソン歌手の石井好子(よしこ)(注6)さん、あのひと親父ともけっこう仲がよくて、仕事で一緒になると、お客さんに受けるから、ステージで必ず「親父が忘れちゃった」話をするんです。実際は3、4か月だったんですけど、だんだん話が大きくなって、いつの間にか3年になっちゃった(笑)。

(注6)石井好子(vo 1922~2010年) 東京音楽学校卒業後、渡辺弘とスターダスターズの専属歌手などを務めたのち、サンフランシスコ留学を経て52年に渡仏。パリでシャンソン歌手としてデビューする。日本シャンソン界の草分けであり、日本シャンソン協会初代会長。 

でもその3、4か月の間、連絡がないんで、お袋が「イサム、京都まで行ってきておくれ」。戦後の列車は、客車だけじゃなくて、貨物からなにからなんでも繋げて。それで、京都まで真っ黒になって行ってね。そうしたら親父がビックリして、「イサム、なにしに来た?」「なにしに来たって、あんまり連絡がないから、お母さんが心配して。だから来たんだ」。それで親父はハタと気がついて、慌てて京都に全員呼び寄せてくれたんです。

——家族で京都に戻ったときの住まいは?

家を借りました。

——それも軍属の宿舎?

関係ないです。そのときは京都の御室(おむろ)、龍安寺の近くで、撮影所なんかがすぐそばにあったところです。そこへまずは行きました。

——京都の中でも何回か引越しをして。

何か所か行きましたね。

——それで、お父様は米軍のクラブに出て。

滅茶苦茶忙しかったです。

——当時は給料がかなりよかった。

ぼくたちだってよかったですから、いくら貰っていたかは知らないですけれど、親父たち先輩はみんな、ねえ。

——生活は楽だった。

そうですね。

15でプロ・デビュー

——最初、原田さんはトランペットをやられたとか。

親父もトランペットが好きだったんです。それで「イサム、ラッパ、やってみるか?」。ぼくはとにかくジャズならなんでもいいから「やりたいな」と思って。それで親父がラッパを買い求めてくれてやったんですけど、「きついなあ」と思って、数か月で辞めました。

——それでドラムスに転向する。

そのとき、ドラムスはなんとなく魅力があったんですね。

——お父様には習ったんですか?

ぜんぜん教わりません。先輩のところに行きました。親父の仲間のドラマーですね。親父が「構わないから、痛めつけてやってくれ」といって(笑)。そのころはみんなそうですから。それで鍛えられて。親父は「なにやってるんだ」と文句をいうばかりで。「じゃあ、どうすればいいんですか?」なんていったらたいへんですよ。「そんなもん、自分で考えろ」。昔のひとは、先輩はみんなそうですから。

——それで、どのくらいしてプロになったんですか?

割に早かったですね。ドラムスでプロになったのが47年ですから、15のときです。その前に、知り合いのバンドに遊びに行ったりして、いたずらながらに叩いたなんてことはやっていましたので。そこのタイコのひとにいろいろ教わって。

ですから、少しは心得があったんです。それでバンドボーイみたいにして入ったところでは、昼間、なんにもないと、楽器が置いてあるから、ひとりで練習をして、そこでやっちゃったとかね。ドカドカやって、はた迷惑だったと思うんですけど。

それで、47年にプロ・デビューとしてるんですけど、ほんとうは46年のクリスマスからなんです。人手が足りないから、「とにかくやれ!」といわれて、やり出したんですが、クリスマスは1週間か10日ぐらいすると年が変わっちゃう。それで47年にしたんです。

米軍の仕事はほとんどが夜ですから、朝の眠いのを我慢すれば、高校に行きながらでもできたんです。土曜と日曜は米軍の仕事が昼間もあります。でも土曜と日曜だけですから、学校には影響がない。居眠りはしてましたけど、それだけのことで。

われわれの年代ってみんなそうですよ。戦後のどさくさのころは、だいたい14、5で始めて、学校に行きながらっていうのが。そのあとになると、大学を出てからプロになってというひとが多いですけど。

——どんなバンドで演奏をしていたんですか?

オーケストラもありましたし、コンボもありました。

——ひとつじゃないんだ。

たくさんありました。親父がいくつか任されてやっている。それで自分が行けるところへは行くんですけど、ひとりでいくつもできないから、そういうのを何人かでやってたんです。「イサム、今日はあそこに行け」「今日はここに行け」。4、5人のコンボですとか、トリオのときもありました。親父が「今日は自分がこっちに行くから、イサム、行け」って、ビッグバンドをやったりね。ビッグバンドといっても、あのころのビッグバンドはだいたい9人編成のナインピースです。

——仕事はすべて米軍関係。

ぜんぶそうです。

——原田さんの世代の方にお話を聞くと、みなさん、それまで食べたことのないハンバーガーが出てきたり、コカ・コーラがあったり。  

そうです。食べるものは嬉しかったですね。ハンバーガーとコカ・コーラがね。ハンバーガーといっても、いまは美味いところがいっぱいありますけど、そのころはなんにもないですから。米軍に行きだしてから、食べるものは苦労しなかったです。初めてカエルも食べました。

——仕事はいくらでもあった。  

山ほどあったんじゃないですか?

——ということは、日替わりじゃないけど、毎日いろんなバンドに入って。  

そうそう。親父のところにいる間は、親父の指示にしたがってですね。

アーニー・パイル・オーケストラに抜擢

——どのくらいの期間、そういうことをやられていたんですか?  

3、4年でしょうか。紙恭輔(注7)さんのアーニー・パイル・オーケストラに入るため、50年か51年ですけど、ぼくだけちょっと早めに東京に帰ってきたんです。

(注7)紙恭輔(作編曲家 1902~81年)中学時代から波多野オーケストラで主にベース奏者として無声映画の伴奏を開始。大学時代は新交響楽団(NHK交響楽団の前身)にコントラバスで参加。草創期のジャズ界でもサックス奏者として活躍し、30年から2年間南カリフォルニア大学留学。帰国後はシンフォニック・ジャズの演奏会を開くなど、作編曲家としての活動に主軸を置いた。

——「東京宝塚劇場」が接収されて「アーニー・パイル劇場」(注8)になった。そこの専属バンドに入られて。

そのオーケストラで棒を振っていたのが紙恭輔さん。「USOショウ」(注9)といって、アメリカからいろんなショウが来るんです。伴奏が必要な場合はこのオーケストラがオーケストラ・ピットに入るし、ステージに上がってやるときもある。劇場の前に「帝国ホテル」があります。あそこも接収されていましたから、劇場の仕事がないときはオーケストラのメンバーがそのままぜんぶ行くわけです。いずれにしても進駐軍の仕事ですよね。

(注8)45年から55年までGHQに接収され、駐留兵士の慰問用施設として利用された。日本人観客は立入禁止。アーニー・パイルは45年に沖縄の戦闘で殉職した従軍記者の名前。

(注9)USOはThe United Service Organizations(米国慰問協会)の略。コメディアン、俳優、ミュージシャン、施設、そのほかのイヴェントなど、エンターテインメントを米軍兵士やその家族に提供する、41年発足のNPO団体(現在も存続)。

——アーニー・パイル・オーケストラにいたときはその仕事だけですか?

そうです。

——たまに個人で仕事をするとかは?

個人で動くのはもう少しあとになってからです。そこだけで忙しいですから。

——これは給料制ですか?

月給です。

——何人ぐらいの編成ですか?  

紙さんのところは、普通のビッグバンドに、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが入って。ときどきホルンなんかもいたから20何人、伴奏の内容によっては30人ぐらいのときもありました。向こうから来る譜面によるんでしょう。そのころは小僧っ子ですから、いわれたことをやってるだけで。いろいろたいへんなこともあったでしょうけど、中のことはよくわからないし。

——これが……  

18、9のころです。

——原田さんがいらしたときに、のちに有名になったひとは?  

いっぱいいました。もう亡くなりましたけど、河辺公一(浩市)(tb)さん、のちに芸大の教授になられた阪口新(あらた)(注10)さんてアルト・サックスの方、アメリカに行って、つい最近向こうで亡くなった厚母(あつぼ)雄次郎(ts)。あとは大先輩でピアノの松井八郎さん。怖くてね。河辺さんと厚母雄次郎とかは年代がそれほど離れていない。3、4歳くらいは上ですけども、あとの方は、ぼくから見れば大先輩。だから、怖くて怖くて。何回うちに帰りたくなったか(笑)。

(注10)阪口新(sax 1910~97年)東洋音楽学校チェロ科卒業後、サクソフォンに転向、53年イベールの〈サクソフォン小協奏曲〉、55年グラズノフの〈サクソフォン協奏曲〉を日本で初演。日本のクラシック・サクソフォンの先駆者として、演奏と教育で活躍。東京藝術大学名誉教授、日本サクソフォン協会名誉会長。

——これはオーディションがあったんですか?  

いや、引っ張られて。

——引っ張られるってことは、この時点で認められていた。

いやあ、ほかにいなかったんじゃないですか?

——だけど関西にいたところを呼ばれたんですから、認められていたんだと思います。  

親父のところに「イサムちゃんをこっちに寄こせ」って連絡がきたみたいです。

——やっぱり、東京でも知られていたわけですよね。  

いやあ、さほどじゃないでしょう。

——ご謙遜を。

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