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【証言で綴る日本のジャズ】杉田誠一|伝説の音楽誌『JAZZ』編集長が見た「あの頃のジャズ界」

連載インタビュー「証言で綴る日本のジャズ」 はじめに

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのは、音楽評論家・フォトグラファーの杉田誠一。1970年代に『JAZZ』誌の編集長も務めた同氏が、当時の“ジャズの現場”を、半生とともに振り返る。

杉田誠一/すぎた せいいち
音楽評論家、フォトグラファー、カフェ・バー経営者。1945年4月15日、新潟県新発田市生まれ。高校のころからジャズに興味を持つ。大学時代にジャズ喫茶「オレオ」でアルバイトをしながら、同人誌『OUR JAZZ』で評論活動を始める。一方で脚本の執筆も開始。69年の『OUR JAZZ』廃刊を機に、雑誌『JAZZ』の編集長に就任。同年、初渡米し、このころからフォトグラファーとしての活動も始める。ジャズをはじめとした黒人文化全般にわたる深い洞察によって、『JAZZ』は既存のジャズ雑誌とは一線を画した内容で、ジャンルを超えたひとびとから支持される。10年ほどで休刊して以降は、単行本や雑誌の編集、執筆などを継続。99年『Out There』創刊。2006年に神奈川県横浜市白楽でライヴが聴けるカフェ・バー「Bitches Brew For hipsters only」を開店し、現在にいたる。著書に、写真集『ジャズ幻視行』(アン・エンタープライズ)、『ジャズ&ジャズ』(講談社)、『ぼくのジャズ感情旅行』(荒地出版社)他。

転勤族で各地を転々とした少年時代

——生まれた場所と生年月日から教えてください。

1945年の4月15日生まれです。生まれた場所は、本来なら東京ですが、空襲がすごくて、母親が遠い親戚を頼って、新潟まで疎開するんです。そこで生まれました。新潟の新発田です。

——そこで生まれて、家は東京にあったんですね。

そうです。

——東京のどこに?

大田区です。

——家は大丈夫だったんですか?

焼けてないです。45年というのは、戦争に負けた年です。それが落ち着いて、たぶん次の年ぐらいに東京に戻ってきました。それこそ引き上げとかいろいろあって、東京に戻るのもたいへんだったらしいです。荷物なんか、送ったって、みんな盗られて、なんにもない。行李だけは届いたけど、中身が空っぽ(笑)。

——それで、東京に戻られた。

そこから幼稚園までは東京。東京の最後は大森の入新井というところ。

——最後というのは?

幼稚園の最終年度、6歳かな? 親父は戦後、東芝にいたんです。もう亡くなっちゃいましたけど。お袋はまだ健在で、いま、ふたりで暮らしています。幼稚園から先は、いわゆるサラリーマンの転勤族です。こっちに戻ってくる最後が広島。中学の2年まで広島にいました。

——その前にいくつか転々として。

広島に行ったのが小学校の5年生。転勤の最後の場所が広島。それから、こっちに戻ってきて、本社勤務になる。

——東京に戻ってきたときは、どこに住んでいたんですか?

最初は社宅だったけれど、「もう家を建ててもいいだろう」という話になって、いまの実家が横浜にあるわけです。そこに、母親と住んでいます。

——じゃあ、横浜はずいぶん長い。

長いけど、うちを出たのがわりと早かったから。何十年ぶりかで、戻って。

グレン・ミラーがジャズの入口

——最初に聴いた音楽で覚えているのは?

やっぱり、美空ひばり(注1)かなぁ? ラジオが中心ですけど、いろんな音楽を聴きました。『君の名は』(注2)なんか、お袋とラジオの前で正座して、聞いてましたから(笑)。岸惠子(注3)さんが近所に住んでいて、ときどきぼくが行くうなぎ屋で会うんです。顔見知りになって(笑)。それで、市川崑の『おとうと』とかいろいろな映画の話をするの。

(注1)美空ひばり(歌手、役者 1937~89年)8歳で初舞台。49年『のど自慢狂時代』でブギウギを歌う少女として映画初出演。同年に〈河童ブギウギ〉でレコード・デビュー。52年女性として初めて「歌舞伎座」の舞台に立ち、同年、映画『リンゴ園の少女』の主題歌〈リンゴ追分〉が当時最高の売り上げを記録(70万枚)。この前後から歌手および銀幕のスターとして人気を確立した。

(注2)北沢彪と阿里道子の主演で、52年から54年にNHKラジオで放送されたドラマ。作詞=菊田一夫、作曲=古関裕而、歌=高柳二葉の主題歌〈君の名は〉もヒット。53年には岸惠子の主演で映画化され(3部作)、こちらも53年度の配給収入ランキングで1位(第2部)と2位(第1部)を独占。

(注3)岸惠子(女優、文筆家 1932年~)51年に松竹映画『我が家は楽し』でデビュー。53年から54年にかけて、主演した映画『君の名は』3部作が大ヒット。ストールの巻き方が、岸演じる主人公の名前から「真知子巻き」と呼ばれ、大流行。57年フランス人の映画監督イヴ・シャンピと結婚。パリに居を構えていたが、2000年に帰国し、現在も女優業と文筆業で活躍。

——杉田さんは映画もプロだから、いいじゃないですか。それで、美空ひばりは小学校のときでしょ。音楽が好きな少年だったんですか?

ていうか、自然に入ってきちゃうよね。あの時代は、街中(まちなか)でよく歌が流れていて、言葉がわからないのに、洋楽も歌ってた。美空ひばりは世代が近いから、いちばん最初に意識した歌い手じゃないですか? ただし、それも〈東京キッド〉とかね。あれは、ちょっと洋楽っぽいから。それから、ポップスとかジャズとかも一緒くたに巷に流れていました。周りの環境に音楽がありましたから。

——杉田さんが、「これはいいな」と最初に意識した音楽は?

それはね、ほんとに意識して、ミュージシャンになろうかと思ったのは、映画の『グレン・ミラー物語』(注4)です。

(注4)グレン・ミラー(tb)の半生を、アンソニー・マンが監督、ジェームズ・ステュアートとジューン・アリソンが主演で描いた54年公開のアメリカ映画。

——それはいつごろ?

小学校3年生ぐらいです。あれは、すごかった。満席で、椅子に座れないから、床に座って観てるの。それで、子供ながらに、口説くときは電話番号をよく覚えておいて、なんて、マセてる(笑)。

——グレン・ミラー(tb)の音楽がよかった。

というか、映像の力もあるんです。でも、やっぱりジャズを意識した最初はグレン・ミラーかな?

——『ベニイ・グッドマン物語』(注5)や『五つの銅貨』(注6)も、観てますよね。

『五つの銅貨』は中学のときですね。こっちに戻ったあとに観たから。

(注5)56年公開の米ユニバーサル映画。監督=ヴァレンタイン・デイヴィース、出演=スティーヴ・アレン、ドナ・リード。

(注6)実在のコルネット奏者レッド・ニコルズの半生を描いた59年公開のアメリカ映画。監督=メルヴィル・シェイヴルソン、出演=ダニー・ケイ、バーバラ・ベル・ゲデス、ルイ・アームストロング。

——それで、ミュージシャンになろうと思った。楽器はやったんですか?

ピアノは習ったけど、先生がすごくキツイひとで、鉛筆で突っつくんだよね。「悪いお指はどれかな?」なんていって、「チクチク」とかいわれて。それで嫌になって、挫折しました(笑)。

——いくつぐらいのとき?

小学校の下級生のときに、2、3年、習ってました。

——グレン・ミラーもジャズですけど、いわゆるモダン・ジャズとか、そっちが気になったのはいつごろから?

意識するようになったのは、高校になってかな?

——その前にも、少しは聴いていた?

ジャンルにこだわらないで、洋楽とか、ポップスとかも聴いていましたから。

——音楽は好きなほうだった。

そう。だけど、うちは堅い家で、クラシックしか聴かなかった。その反発みたいなものがあって、中学時代に夢中になったのはプレスリー(注7)とか。いちばん最初に買ったドーナツ盤がプレスリーですから。ぼく、ちょっと変わってて、最初に買ったのが〈サレンダー〉(笑)。

(注7)エルヴィス・プレスリー(ロック・シンガー、俳優 1935 ~77年)「キング・オブ・ロックンロール」と呼ばれ、ロックの原型を作ったアメリカのシンガー。全世界の総レコード・カセット・CDなどの売り上げは6億枚以上。56年に〈ハートブレイク・ホテル〉〈アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラヴ・ユー 〉〈冷たくしないで〉〈ハウンド・ドッグ〉〈ラヴ・ミー・テンダー〉で連続全米1位を記録し、以後もヒット曲を多数残す。

——シングル盤になっていたんですか?

そう。ああいうのを、買って、聴いて。あそこの口説き方が好きでね。自分が、口説かれているみたいで(笑)。

——その時点で、内容で買ったんですか?

いや、そのフレーズで。だから、みんなが騒いでいたのとは、とらえ方がちょっと違うんだよね。

——杉田さんらしいといえば杉田さんらしい。

「アメリカ文化センター」が出発点

——そういう時期があって。

中学時代はなんでも聴いてました。ジャズを意識し出したのは高校時代です。なんでかっていうと、FEN(注8)とかはラジオで聴きっぱなしだったけれど、FENじゃなくて、芝に「アメリカ文化センター」というのがあって、そこに通い出したんです。

(注8)45年9月に開局した在日米軍向けのAMラジオ放送。当初はWVTRと呼ばれ、その後はFEN(Far East Network)の名で親しまれ、97年からはAFNに改称。

——それはどうして?

レコードを貸してくれるんです。それで、ブルーノートのレコードなんかが完璧に揃っている。ジャズ喫茶に行くより、よっぽどいいなと思って。そんなにいいオーディオは持っていなかったけれど、すごいのを持っている友だちがいたから、そいつのプレイヤーだけ写真に撮って、その写真を持って、書類を出すと、5枚まで借りられる。あとは、催し物をでっち上げて。そうすると、10枚とか20枚とか、貸してくれるんです。

——レコード・コンサートとかをやることにして。

ほんとうにやったこともあるけど。あのころのあそこは面白くて、反体制のものも平等にきちんと、本なんかも置いてあるんです。日本語じゃないけど、黒人解放関係の本。それを読み漁って。

——そこらへんが杉田さんの原点。

そう。ジャズの本もあって。『ブルースの魂』(注9)も原書で読みました。

(注9)リロイ・ジョーンズが63年に出版したアフロ・アメリカン音楽についての著書。

——それが高校生のころ。

高校生だったから、そういうのに夢中になったんでしょう。あそこは、「アメリカって国は自由なんだ」というイメージを植えつけようとしていたプロパガンダ施設。だから、そういうものを揃えていた。

——それにはまったんだ。

だから、「アメリカ文化センター」は、アメリカを代表する文化としてジャズを認めていたんです。

——それで、レコードが揃っていた。

あのころって、売ってないじゃないですか。あっても高いし。ジャズ喫茶に行くのは、ぼくの場合、「ちぐさ」が最初でね。

——家が横浜だったし。

そうです。高校1年のときです。そのころ、ATG(注10)ができるんです。それを、学校をさぼって観に行きました。『尼僧ヨアンナ』(注11)だったかな? 難しい映画でねぇ。

(注10)日本アート・シアター・ギルドのこと。61年から80年代にかけて、非商業主義的な芸術作品を製作・配給した映画会社。

(注11)監督=イェジー・カワレロウィッチ、主演=ルチーナ・ヴィンニッカとミエチスワフ・ウォイトで、62年に日本で公開されたポーランド映画。

——新宿まで行ったんですか?

ATGは横浜にもあったんです。「相鉄文化」という映画館がATGで。それが第1回目の映画です。それを、学校をさぼって、それも制服で行って。帰りに寄ったのが「ちぐさ」ですよ。

その時点で、ぼくは『スイングジャーナル』(注12)を取っていたし、横浜だと洋書を売っている店とかスタンドとかがいくつもあって、『ダウンビート』(注13)とかが買えたんです。だから『スイングジャーナル』と『ダウンビート』は高校のときから読んでいたの。

(注12)47年から2010年まで発刊された日本のジャズ専門月刊誌。

(注13)34年にシカゴで創刊されたジャズの専門雑誌。当初は月2回発行されていたが現在は月刊。5つ星を最高点としたディスク・レヴューに定評がある。

『尼僧ヨアンナ』のATGのプログラムってかっこいいでしょ。シナリオがぜんぶ載っているし。そんなのを見ながら、「ちぐさ」に行って。真っ昼間だけど、満席なんだよね。とにかくきったない店で。コの字に、プレイヤーに向かって椅子がある。ぼくは入口の、『親父』が立っているところの前しか空いていないから、そこに座ったの。

それで、ぼくの反対側から、ひとりずつ親父が「リクエストないか?」って聞いていく。偉そうに、「リクエストないの?」ですから。「なんだろう、この親父」とか、思っていたけど(笑)。「おかしいんじゃないの、こいつら」ですよ。

それで、ぼくのところに回ってくる。「なににしようかな?」。いろいろ考えて、「ジョン・コルトレーン(ts)のなにかにしよう」と。それで、いよいよ来たわけ。「リクエスト、あるの?」「それじゃ、コルトレーンの……」といったら、ほんとに親父が激怒し出して、「10年早い」。みんながいるのに30分以上お説教されちゃった(笑)。みんな笑っているんだよね。みんなの耳がこっちに傾いていて、レコードを聴くどころじゃない。

「だいたい、ジャズの歴史を知っているのか?」から始まって、「ビバップってなんだ? いってみろ」とか。「いやぁ、ビバップって、あれですよね。モダン・ジャズのハシリですよね」とか、いって。「いちおう知ってるのか。じゃあ、ミントンズ・プレイハウス、わかってるんだな。じゃ、ビバップのバップってなんだ?」。こう、きたんですね。「なんなんですかね?」「そんなこともわかんないのか」なんて、いわれて。そうしたら、みんなが真剣になっちゃって。「あれはねえ、ビールを飲んだときのゲップだよ。ウッて。それをバップっていうんだ。まあ、ジャズなんて、ビールを飲んだときのゲップみたいなもんだよ」って、偉そうだったのが、急にこうなっちゃった。こっちは、笑っていいんだか、笑っちゃいけないんだか、わからなくなって、ねぇ(笑)。そのときは、真剣な顔をして、「わかりました」といったんですけど。

——それが、初めて行ったとき。

そうなんです。それで、親父がトイレに行ったの。そうしたら、となりのひとが、「ここは、コルトレーンとか、そういう系列のことをいうと、必ず怒りますから、やめたほうがいいですよ」「なにをかけて、といえばいいんですか?」「あのひとは、ビル・エヴァンス(p)といえば、喜びますから」。ビル・エヴァンスっていわせたいわけよ。そのときに限って、誰もいわなかったから。それから、ぼくは、あそこでリクエストなんか、したことがないの。

——それでも、「ちぐさ」には、よく行ってらした。

行ってました。それから「ダウンビート」にも。

オーネット・コールマンでフリー・ジャズにはまる

——ジャズ・メッセンジャーズが最初に来たときは、行かれたんですか?

いちばん最初は行ってない。何回目かなぁ? カーティス・フラー(tb)がいたかなぁ?

——カーティス・フラーが来たのは2回目ですね。63年。

そのときに行ってるね。それが、最初に観た外タレのライヴかもしれない。

——ということは、杉田さんが、高校生か、大学に行くかというとき。

高校3年ですね。

——そのころ好きだったジャズは、ブルーノートとか、その系統?

フリー・ジャズも聴いてました。でも、やっぱり「アメリカ文化センター」の影響が強いから、ブルーノートがいちばん多かった。ブルーノートのいちばんいい時代のレコードを、みんなタダで、リアルタイムで所有していたようなもんだから。ある時期になると、レコードが入れ替わる。借りていくひとなんてほとんどいないから、新品同様ですよ。

——そういうのをメインに聴いて。フリー・ジャズと出会ったのは、どの辺りで?

フリー・ジャズとの出会いは、オーネット・コールマン(as)だなぁ。ただ、一時、第3の流れ(注14)にも興味があって。

(注14)The Third Streamのこと。50年代後期に、「メトロポリタン・オペラ・ハウス」の首席ホルン奏者ガンサー・シュラーが提唱した、ジャズでもない、クラシックでもない、両者のイディオムを吸収した新しい音楽のこと。これに共鳴したのが、ジャズとクラシックの融合を図っていたモダン・ジャズ・カルテットのジョン・ルイス(p)。

——ということは、クラシックっぽいのも

そうそう。それで、MJQ(モダン・ジャズ・カルテット)をけっこう聴いてたから、その関係で、急にオーネット・コールマンが出てきたんだよね(注15)。

(注15)オーネット・コールマンを認めたのがジョン・ルイスで、ルイスの所属するMJQは、コールマンの代表曲のひとつ〈淋しい女〉を録音し、アルバムのタイトルにもしている。

——MJQが、オーネットの〈淋しい女〉とかをやっていたから。

あれには、はまりました。ぜんぜん抵抗がなかった。

——違和感もなかったですか? とんでもない音楽とも感じなかった?

まったくない。普通の延長線上のジャズに聴こえました。向こうであんなに大騒ぎをしている意味がよくわからなかった。そりゃあ、ミュージシャン的な聴き方をしないからですよ。音楽として聴いているから。

——だけど、いま聴くと、50年代の終わりとか、60年代の初めとかのオーネット・コールマンの演奏って、4ビートに近いですよね。

そうだと思うけどね。

——よっぽど、いまのストレート・アヘッドなジャズのほうが、フリー・フォームですね。

そうです。それで、大学に入って、ジャズ喫茶に通うようになって。といっても、ほとんど大学には行ってない。中退っていうか。

——どこの大学か聞いてもいいですか?

獨協の経済(笑)です。予備校に通い出したら、これはキツいと。つまり、こんなストイックな生活をすることに意味があるのかって、勝手に理屈をつけて。どこでもいいから、どこかないのか? そうしたら、独協ができたばかりで(64年に設立)、5月か6月に試験があったんです。どこでもいいや、と思ってたから、予備校を辞めて、そこに行くようになりました。そうしたら、勉強がくだらない。だから、ほとんど映画とジャズ喫茶の毎日でした。ここから、自分の学校は映画館とジャズ喫茶という生活が始まる。それで、フリー・ジャズに傾倒していくんです。

『OUR JAZZ』で執筆活動を開始

——64年といえば、フリー・ジャズが大きな波になってきたころですものね。

そう。だから、インパルスから出たレコードが面白くてね。それで、アーチー・シェップ(ts)にかぶれて、コルトレーンにも当然かぶれて。もろ、フリーじゃないとジャズじゃない、みたいな感じになってきた。

——そのころ、よく行っていたジャズ喫茶は?

5年ぐらいしかやってないけど、東銀座に「オレオ」があって。これは、松坂さん(注16)がやってた店で、定期があったから、よく行ってたの(笑)。学校まで行かないで、途中で降りちゃう。そこで、白石かずこ(注17)さんや諏訪優(注18)さんとかの、錚々たる詩人のひとたちとも知り合うんです。

(注16)松坂比呂(雑誌『ジャズ批評』主宰 1932~2018年)65年から70年まで東京・東銀座でジャズ喫茶「オレオ」を経営。67年に『ジャズ批評』を創刊。

(注17)白石かずこ(詩人 1931年~)カナダ・バンクーバー生まれ。7歳で帰国。10代から詩を書き始め、51年、20歳で詩集『卵のふる街』を上梓。一時期、映画監督の篠田正浩と結婚。60年『虎の遊戯』で復活し、70年『聖なる淫者の季節』で「H氏賞」、78年『一艘のカヌー、未来へ戻る』で「無限賞」など、多数の受賞を誇る。

(注18)諏訪優(詩人,翻訳家 1929~92年)東京生まれ。49年明治大学文芸科卒。在学中より吉本隆明らと詩誌『聖家族』を創刊。ウィリアム・バロウズやアレン・ギンズバーグといったアメリカのビート・ジェネレーションの影響を受け、その作品の翻訳をして日本に紹介した。

それで、いろんなひとたちと会って、いまでもつき合っているひとがいますけどね。あそこは、後発のジャズ喫茶だから、「これ、ありますか?」といわれても、古いちゃんとしたレコードがない。とにかく、新しいもの、新しいものって、どんどん揃えているから、あそこに行くと、だいたい新しいのが聴ける。

フリーではないけど、マックス・ローチ(ds)の『ウィ・インシスト』(キャンディド)(注19)が聴けたのは、都内でせいぜい3軒ぐらいなんです。そうすると、自然にそういう先端を目ざしているひとがいっぱい集まってくる。副島輝人(注20)さんが始めた同人誌の『OUR JAZZ』はあそこで作っていたんです。それがけっこう売れてたんで、松坂さんが今度はほんとうの商業誌を出しちゃった。それで『ジャズ批評』が始まったんです。


(注19)『マックス・ローチ/ウィ・インシスト』メンバー=マックス・ローチ(ds) アビー・リンカーン(vo) ブッカー・リトル(tp) ジュリアン・プリースター(tb) ウォルター・ベントン(ts) コールマン・ホーキンス(ts) ジェームス・シェンク(b) オラトゥンジ(conga, vo) レイ・マンティラ(per) トーマス・ドゥ・ヴァル(per) 60年8月31日、9月6日 ニューヨークで録音

(注20)副島輝人(ジャズ評論家 1931~2014年)51年映画批評の同人誌『シネ・エッセイ』を発行。同人には佐藤重臣、山際永三などがいた。66年『OUR JAZZ』発行。同人に佐藤秀樹、杉田誠一、岡崎正通など。68年『ジャズ批評』にフリー・ジャズを論ずる執筆を開始。以後、フリー・ジャズの評論家として健筆を振るう。69年フリー・ジャズ専門の「ニュージャズ・ホール」開設に尽力。

——杉田さんも『ジャズ批評』に書いていたでしょ。

書いてます。

——杉田さんはいつから書くようになったんですか?

書くようになったのは、きっかけが『OUR JAZZ』です。『OUR JAZZ』に書いた文章で、「太陽中心世界に関するテーゼ」と「俺たちの朝はアーチー・シェップの儀式で始まる」という、このふたつの文章が『図書新聞』で取り上げられたんです。そうしたら、『読書新聞(日本読書新聞)』で書かないかっていわれて、商業紙のデビューが『読書新聞』。『読書新聞』は、就職の面接を受けたけど、軽く落とされたところで(笑)。

——それは、ジャズのことを書いて。

ジャズのことも書いたけれど、ジャック・ニコルソンが主演した『ファイヴ・イージー・ピーセス』の評論を初めて書いたのが『読書新聞』です。

——じゃあ、ジャズと映画はほぼ同時進行で。

というか、実は映画にいきたかったんです。だから、シナリオの勉強をしたりとか。それで、東宝の文芸部に籍があったんです。そのときにいたのが橋田壽賀子(注21)さん。向こうは商業主義だけど、ぼくはまったくかすりもしなかった(笑)。「ヌーヴェルヴァーグばっかりだからなぁ、杉田君は」って、斜めに読んで、「はい、また来週ね」。

(注21)橋田壽賀子(脚本家 1925年~)49年松竹に入社。64年『袋を渡せば』でテレビ・ドラマの脚本家デビュー。以後、テレビ・ドラマの脚本家として話題作・ヒット作の数々を世に送り出す。代表作は『たんぽぽ』(73~78年)、『おしん』(83~84年)、『渡る世間は鬼ばかり』(90年~)など。

——脚本を書いて、持っていくんですか。

ええ。ぼくはフリー・ジャズの人間だから、商業主義みたいな本は書いちゃいけない(笑)。

——だけど、あのころの東宝って、ちょっと変わった映画も作っていたでしょう。

中には、そういうのもあるんです。でも、ぼくのはぜんぜん引っかからなかった。

——そのころ、杉田さんが好きだった映画は?

映画は滅茶苦茶観ましたね。年に4、5百本は観ました。ほとんど、映画館にいましたから。

——じゃあ、そのころの映画はほとんど観て。

決めていたんです。松本俊夫(注22)っているでしょ。あのひとの『映像の発見』っていう、三一書房から出ている本があるんです。あそこに出てくる映画をぜんぶ観ようと思って。3年で制覇しました。

(注22)松本俊夫(映画監督、映像作家、映画理論家 1932~2017年)55年東京大学文学部卒業。新理研映画に入社し(59年まで)、アヴァンギャルドなドキュメンタリー映画を制作。69年初の劇映画『薔薇の葬列』を監督。以降、長編劇映画を撮りながら、並行して実験的な短編映画を制作。

——何本ぐらいあるんですか?

すごい数ですよ。あれには、まともな映画、出てこないからね。まともっていうのは、いわゆる商業主義の映画。あれが大きな指針になりました。

——杉田さんもそういうタイプの脚本を書いて。

ですね。だから、採用されるのは無理です。

——それだったらATGに持っていかないと。

ATGなんか、そんなの採用してくれないです。あのころは、映画だったらいくらまでとか、なにだったらいくらまでとかね、外貨の割り当てがあったんです。それがものすごく厳しいもので、そうすると、商業主義的な映画だけを買ってたんじゃ、ATG的なものはまったく観られない。それで、ATGが始まったんです。

——執筆活動は大学のころから始めて。

そうです。

——でも、ほんとうは映画のほうが……

よかったけど、脚本は引っかからなかった。で、Nikon F を買うことになる。

——「オレオ」でアルバイトをするようになったいきさつは?

映画館は、東宝の名刺があったって、どこでもタダでは入れない。ジャズをタダで聴くにはどうするか? それで、まず「オレオ」でバイトをするんです。そうすれば、ママがいないときは、聴きたいものがかけ放題じゃないですか。リクエストがなければ、いくらでも自由にかけていいんだから。

そのうち、渡辺貞夫(as)さんがアメリカ留学から帰ってくる(65年)。帰ってきたときは行ってないけど、最初は「ジャズ・ギャラリー8」。あそこに出るようになって、よく行きました。「オレオ」から近いんです。

——「松坂屋」の裏でしたね。

そうです、そうです。銀座のジャズ喫茶はちょっと変わってましたよね。「ろーく(69)」だとかね。「ローク」はミュージシャンが多くてね。「あのひとだ」みたいなのがゴロゴロいました。それで、バイトをやって、レコードをひと通り、聴きたいものは聴いたと(笑)。自分のライブラリーみたいなものだから。それで、お金がもらえて、いろんなひとと知り合えて。

『JAZZ』を創刊

——『OUR JAZZ』は、そのうち廃刊になりますよね。

69年に解体するんです。69年の、東大闘争(注23)が終結したときです。あのときに、副島さんのアパートで編集会議をやっていたの。あの雑誌にはいろんなひとが集まっていたんです。そのときもけっこうみんなが集まって。

(注23)68年から69年にかけて続いた東京大学の紛争で、主に学部生・大学院生と大学当局の間で、医学部処分問題や大学運営の民主化などの課題をめぐり争われた。

テレビをつけっぱなしにして、そっちのほうばっかり観ちゃって、なかなか進まない。そうしたら、中に過激なヤツがいて、「こんなこと、やってる場合じゃないでしょ」から始まって、「俺、『OUR JAZZ』辞めます」といい出した。

止めるヤツもいたけど、「いいんじゃないの、辞めたいひとは辞めて」「どうしてもいたくない、っていうひとに、無理やりいてもらっても仕方ないから」。そのうち、「杉田君はどうする?」といわれて、「ぼくは書き始めたばかりだから、やります」。そうしたら、ひとりひとりが聞かれて。なんかいやな雰囲気でしたね。でも、それで終わっちゃうんです。

——その代わりに『JAZZ』ができた。

そういうことです。〈OUR〉を取って『JAZZ』にしたんです。群れるのがいやだから、〈OUR〉はいやだったの。でも、ジャズをやる以上、同人誌はやりたくない。ちゃんと東日販(注24)を通す雑誌にしたい。で、たまたまスポンサーを見つけて。「そういうんだったら面白い」からって、お金を出してくれるひとがいた。それが69年5月のこと。

(注24)出版取次の2大大手、トーハン(東京出版販売)と日販(日本出版販売)をまとめてこう呼ぶ。

そのころは映画にも興味があったから。興味というか、映画が作りたかったんで、まずは写真を身につけようと。高校の上級生で、『アサヒグラフ』でずっと仕事をやっているひとがいて。そのひとがけっこう気に入ってくれて、高校のときから可愛がってもらっていたんです。

彼の仕事が終わってから。といっても、自宅でやっていたんだけど、そこに入り浸って、暗室の仕事を手伝っていたりして。それで、ぜんぶ覚えちゃった。そこから、自分で写真を撮り始めるんです。『アサヒグラフ』を紹介してくれたのが、そのひと。朝倉俊博(注25)さんといって、コンテンポラリー写真の代表的なひと。

(注25)朝倉俊博(フォトグラファー 1941年~)『アサヒグラフ』に「新宿風来坊」(69年)、「流民列伝」(73年)、「さすらい歌情」(75年)、「風民文様 天幕芸人録」(78年)を連載。麿赤児をモデルにした写真集『麿赤児 幻夜行』(深夜叢書社)がある。

いちばん最初にアメリカに行くことになったのは、『アサヒグラフ』で、「ジャズの雑誌を出すぐらい好きだったら、行ってくればいいじゃないか」と。それで、『アサヒグラフ』から行ったんですよ。

——それが69年。

そうです。

——どのくらいの期間、行ってたんですか?

3か月くらい。

——『JAZZ』に、アメリカの写真がたくさん載っているじゃないですか? あれはそのときの写真?

あれは、そのあとですね。創刊号には、アメリカの写真は出てないです。

——肩書は編集長でいいですか?

そうです。

——執筆陣は『OUR JAZZ』のひとが多かった?

『OUR JAZZ』の人間はほとんどいません。むしろ、評論家でないひとたちという感じでやりました。ところが、雑誌をやるにあたって、自分は日本のシーンをぜんぜん知らない。いちばん最初にミュージシャンと触れたのは、サド=メル(サド・ジョーンズ=メル・ルイス・ジャズ・オーケストラ)です。彼らが来たの、知ってますか?

——突如、来ちゃったときですね。68年ですか(注26)。

あのときは、『OUR JAZZ』がずいぶん手伝ったんです。エルヴィン・ジョーンズ(ds)が帰りたくても帰れなくて、うろうろしていたときも(注27)。「オレオ」にもよく来たんだよね。「来たら、いう通りにしなさい」と松坂さんにいわれて。ボトルなんか、いっきに空けちゃう。そんな感じで、ボチボチ知り合いになって。

(注26)日本でのブッキングが白紙の状態のまま一行17名が来日。急遽「ピットイン」「紀伊國屋ホール」「日本都市センターホール」で計5回のライヴが行なわれた。

(注27)66年に「3大ドラム合戦」で来日した際、麻薬所持の嫌疑で勾留され、否認したため、裁判となる。その間、出国できないため、12月の毎週末、「ピットイン」で日本人ミュージシャンとセッションを行ない、それが伝説として語り継がれている。

それで、初めて、サド=メルの面々と話をして。「これは、ちょっとピットインでバイトをしたほうがいいかな」と思って(笑)、「ピットイン」でバイトをするようになったんです。そこで、山下洋輔(p)が復活する、最初の日に出会っている(注28)。

(注28)病気療養で1年半ほど活動休止したのちの69年、それまでのオーソドックスなプレイと決別し、突如フリー・ジャズのピアニストとして「ピットイン」でカムバックした。

深夜に聴いたコルトレーンの日本公演

——ジョン・コルトレーンの日本公演には行かれてますよね。

行きました。コルトレーンは、ほんとに偶然ですけど、66年の7月17日に聴いているの。1年前ですよ。

——亡くなるね。

どこで聴いたと思います? 大阪の「松竹座」。あそこまで行ってね。なんで「松竹座」で聴こうと思ったかっていうと、夜中の1時か何時からかにやったから。その前、夜に京都でやって、そのまま移動して、夜中に大阪でやったんです。夜中のコンサートは普通と違うんじゃないかと思って。ほかで、深夜にやるのはなかったから。

——それじゃ、そのためにわざわざ行ったんですか?

そう。お金がないから。鈍行で行きました。寝ていたら、女学生がいっぱい乗ってきてね。それで、起こされちゃった。そうすると、地方って、面白いですね。高校生だと思うけど、学校の近くになると、駅でもないのに、列車がゆっくり走るんです。それで、飛び降りる。高校生が、スカートをヒラっとさせて飛び降りるシーンが鮮烈で(笑)。面白いもんだと思いました。やっぱり、鈍行に乗らないとダメだね(笑)。いまは、そんなの、ないですよ。あんなことをやったら、問題になっちゃう。

大阪には2日くらい前に行って、ジャズとは関係なく、奈良とか京都でブラブラして。あのころはジャズ喫茶もいっぱいありました。それで、地域によって違うなっていうのもわかったし。つまり、「コルトレーン、コルトレーン」って騒いでいたのは東京だけでしょ。

——地方はガラガラだったそうですが、大阪も?

ほとんどが招待客で、始まったらみんないなくなっちゃう。ぼくなんか、いちばん安い席のチケットを買うでしょ。それで、いちばんいい席に移っちゃう。

——昔は、それ、よくやりました。空いていたらラッキーで。

うん、そう。ガラガラ。

——演奏はどうだったんですか?

コルトレーンの調子があまりよくなかった。その代わり、ファラオ・サンダース(ts)がすごかった。だから、東京も観なければまずいと思って、東京で観たのが、レコードになっているときのコンサート。それで、話題になるのは東京だけだってことがわかった。この格差はすごいなと思いました。

——当時は、すごいひとの初来日が多かったじゃないですか。東京は入っても、地方はダメだったって。

ほとんどそうらしいです。斎藤延之助(注29)さんが、うちの実家の近所なんだよね。それでけっこう仲がよくて、よく遊びに来たりしていたけど。コルトレーンは地方がまったく入らなくてとか、彼からずいぶんいろいろなエピソードを聞いてます。

(注29)斎藤延之助(コンサート・プロモーター)コルトレーン来日時は通訳として携わる。その後に独立し、外国ミュージシャンの招聘会社ニューJBCを創立。

——入って、200人とかって話を聞いたことがあります。

みたいですよ。

——それじゃ、そのときは、そんなに感銘は受けなかった?

いや、やっぱり生のすごさ。1曲目が〈マイ・フェイヴァリット・シングス〉かと思ったら、違ったんです。〈グリーンスリーヴス〉が1曲目で。ご存知のように、彼はあの曲をどうしても『バラード』(インパルス)(注30)に入れたかった。でも、曲が合わないじゃないですか。それで、何テイクも録って、ドーナツ盤に入れたんです。あれ、シングルでも出してますから。

(注30)『ジョン・コルトレーン/バラード』メンバー=ジョン・コルトレーン(ts) マッコイ・タイナー(p) レジー・ワークマン(b) ジミー・ギャリソン(b) エルヴィン・ジョーンズ(ds) 61年12月21日、62年9月18日、11月13日 ニュージャージーで録音。〈グリーンスリーヴス〉は〈イッツ・イージー・トゥ・リメンバー〉とのカップリングでシングル盤でも発売されている。

——そのときも延々と吹きました?

最初にそれを吹いて、あとは、ソロ(アドリブ)をあまりやらないんだよね。だから、みんな不安げに演奏してました。それで、ファラオだけはぜんぜん関係なくバリバリ吹いて。いっぺんでファラオのファンになっちゃった。そうしたら、ぼく、レコードを持ってたんだよね。評論家の佐藤秀樹さんから借りたのを返してなかった(笑)。「コルトレーンそっくりだけど、いいよ」って、貸してくれたのがあるんです。ESPから出したアルバム(注31)。

(注31)『ファラオ・サンダース/ファラオ』メンバー=ファラオ・サンダース(ts) スタン・フォスター(tp) ジェーン・ゲッツ(p) ウィリアム・ベネット(b) マーヴィン・パッティロ(per) 64年9月10日 ニューヨークで録音

——デビュー作ですね。

あれ、コルトレーンそっくりだもんね。ESPのレコードはほとんど聴きました。

——杉田さんなら、そうでしょうね。

コルトレーン・カルテット解散の真相

——ESPとコルトレーンのいたインパルス。インパルスはフリー・ジャズ専門じゃなかったけれど、このふたつが、あの時代はフリー・ジャズのレーベルでは両巨頭じゃないですか。

そうです、そうです。

——でも方向が違うでしょ。

方向は違うけど、両方とも好き。どっちということはなかったですね。インパルスはボブ・シール(注32)というすごいひとがやってるから、フリーでもフリーじゃなくても、ぜんぶひとつの方向性で。こちらは構成がしっかりしている。

(注32)ボブ・シール(音楽プロデューサー 1922~96年)17歳でシグナチャー・レコードを創設(48年に倒産)。52年デッカに移り、子会社コーラル・レコードのA&Rを務める。61年からインパルスで、ジョン・コルトレーン(ts)、チャールズ・ミンガス(b)、ディジー・ガレスピー(tp)、ソニー・ロリンズ(ts)、アーチー・シェップ(ts)、アルバート・アイラー(ts)などをプロデュース。69年フライング・ダッチマン・レコード創設。ジョージ・ダグラス名義でルイ・アームストロング(cor, vo)の〈この素晴らしき世界〉を作詞作曲している。

ESPは無名のひととか、これからのひとが多かった。だけど、そうとうな傑作を出しています。当時、「サン・ラ(p)がいい」なんていったのは、ぼくぐらいじゃないかな? それがさっきの「太陽中心世界に関するテーゼ」ですよ。サン・ラのことを書いているんです。

それを誰が認めてくれたかっていうと、松田政男(注33)さん。そのひとが、ぼくのことを『読書人』に紹介してくれたの。それがきっかけで、最初の話になるけど、『読書新聞』から依頼が来た。

(注33)松田政男(政治活動家、映画評論家 1933年~)台北生まれ。都立北園高校在学中の50年に日本共産党入党。以後、共産党所感派、神山派で職業革命家として活動。同派分裂後、トロツキズムからアナキズムへ接近し、第三世界革命論を基礎に直接行動を模索。未来社・現代思潮社などで編集者を務めつつ、東京行動戦線、レボルト社などを主導する一方、映画批評・演劇批評を執筆。

それで、コルトレーンのことでは、「このひと、そうとう体に来てるな」と思いました。

——体調が悪そうに見えた。

太っちゃっててねえ。あとで聞いた話だけど、甘いものばかり食べてたって。吹いていて、牛のようにヨダレをダラダラ流して。それを、ぜんぜん、我、関せずって感じで。だから、自分を鼓舞させるためにファラオを入れたんですよ。ファラオは、そのあと神秘主義に走っちゃったから、あれ、ちょっと残念だよね。後継者ではないよね。せっかく一緒にやってたのに。

——しかも、最後のバンドのメンバーだったし。

まずそのことを感じたのと、それからなんでこんなピアノ(アリス・コルトレーン)がいるんだろう? と思ったこと。あと、なんでジミー・ギャリソン(b)は残ったんだろう? とか、いくつも疑問が浮かんで。あとで、ぜんぶ解決するんですけどね。

どうしてアリスが来日のメンバーになったかっていうのを、マッコイ・タイナー(p)(前任のピアニスト)にも聞いたんです。マッコイの奥さんはアイシャで、コルトレーンの奥さんはナイーマですね。あのふたりは雑誌『エボニー』(注34)のエボニー・クイーンなんです。表紙に載ってるの。それで、仲がいいんだって。

(注34)ジョン・H・ジョンソンが45年秋にシカゴで創刊したアフリカ系アメリカ人向けの月刊誌。

マッコイがコルトレーンのカルテットに入ったのは、奥さん同士の関係があったから。マッコイは、最初、「アイツか」みたいな感じで、躊躇したらしいです。そうしたら、コルトレーンがナイーマを捨てて、どこの馬の骨かわからないアリスとくっついた。アイシャが激怒して、「あんなところ、辞めなさい」。そんなもんですよ。

それで、ピアノが弾けるっていうんで、たいしたピアノじゃないけど、マッコイの代わりにアリスを入れて。そうしたら、エルヴィン・ジョーンズも「辞める」っていい出した。辞めるにはいい機会だったから。ジミー・ギャリソンは、コルトレーンが代えたかったらしい。でも、ベースだけは見つからなかった。それで、日本に来てたときも、毎日、コルトレーンに怒られてたって。いじめられ役だったらしいです。それも陰湿ないじめ方をしてたってね。それでも頑張ってた。コンセプトだって合っていないし。実際に生を聞いて、そういう疑問を持ったもの。

なぜ、コルトレーンがアリスと結婚したかっていうと、ガン宣告を受けたから(死因は肝臓癌)。「あと、何年しかもたない」といわれて、「どうしよう」。それなら、「子供がほしい」。それで、アリスと一緒になった。ガン宣告を受けて、いちばんやりたかったことは、音楽じゃないの。子供がほしかった。あのころの事情はそういうことなんです。

それと、やっぱり限界を超えたいっていうことで、ファラオさえいればよかったんじゃないですか? ライヴァルとして、ちゃんと吹けるから。あのころ(来日時)の状況をいいますと、まだ『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン』(インパルス)(注35)が出ていないんです。だから、日本のファンはメンバーのことをまったく知らない。

(注35)『ジョン・コルトレーン/ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン』メンバー=ジョン・コルトレーン(ss, ts ,bcl, fl) ファラオ・サンダース(ts, fl) アリス・コルトレーン(p) ジミー・ギャリソン(b) ラシッド・アリ(ds) エマニュエル・ラヒム(per) 66年5月28日 ニューヨーク「ヴィレッジ・ヴァンガード」で実況録音

——来日直前に同じメンバー(そこにパーカッションのエマニュエル・ラヒムが加わっている)で吹き込んだあのレコードが出てから来ていれば、話がぜんぜん違った。

そうなんです。日本のファンには、どんなメンバーだかわからない。それで、ひとがあんまり入らなかったというのもあるんじゃないですか?

オーネット・コールマンと

——もうひとつ、オーネット・コールマンの来日公演(67年)にも行ってますよね。

初日に行きました。行ったのは、「サンケイホール」で、富樫雅彦さんがドラムを叩いていました。ぼくは、2回目は行く気がしなかった。切符は余っているっていってたから、よかったら行こうと思ってたんだけど。

——でも、行かなかった。

呼び屋が指示したと思うけど、ヴァイオリンを弾いて、完全に「ゴールデン・サークル」(注36)の再現だったんですよ。ほとんどそのまま再現した感じ。それじゃ、面白くない。そのことより、日本人でこんなドラムがいるんだなってことにびっくりしちゃった。富樫さんはすごかったね。ちゃんとフリーのドラムを叩けるひとがいるんだな、と思いました。


(注36)『ゴールデン・サークルのオーネット・コールマン Vol.1 & Vol.2』(ブルーノート)メンバー=オーネット・コールマン(as, vln, tp) デヴィッド・アイゼンソン(b) チャールズ・モフェット(ds) 65年12月3日、4日 スウェーデン・ストックホルム「ゴールデン・サークル」で実況録音

——オーネットの音楽って、リズミックというか、リズムに仕掛けがありますよね。

そうなんです。だから、ものすごく重要なんです。富樫さんとは、その前に『OUR JAZZ』でインタヴューをしているんです。『OUR JAZZ』が潰れちゃったから、載らなかったけど。そのときに、尊敬するドラマーはミルフォード・グレイヴスだっていってたんです。これが耳にすごく残っているんですね。そのインタヴューをやってたから、「なるほどなあ」と思って。ところが、ああいうことをやっても、日本では理解できるひとがなかなかいない。

——富樫さんは、そのころフリー・ジャズを……

やってなくはないんだよね。ただ、フリーはマイナーだから。

——そういうのは受け入れられていなかった。

そうそう。それで、富樫さんがまだ刺される前に(注37)、高木元輝(sax)と組んでやってたんです。フリー・ジャズっていうと、高柳昌行(g)さんか、彼らだった。それで、高木元輝が好きになって。彼は、ちょっと日本の中では秀でてましたね。クスリがひどくて、消えちゃうんだけど。でも、ある時期、すごいひとだった。

(注37)70年に脊髄を損傷して下半身不随となり、以後は独自のパーカッションを考案し、以前にも増す創造的な活動を続けた。

当時、佐藤允彦(p)さんとやるときの富樫さんがまたすごいんだよね。一方で、佐藤さんのトリオ(ベースは荒川康男)じゃなくて、自分でやってたフリー・ジャズが、これがまたすごい。それで、1枚だけ『ウィ・ナウ・クリエイト』(日本ビクター)(注38)っていうアルバムを出すんです。出来はあまりよくないけど、当時やろうとしていたことが、よく出ています。あれには高柳さんが入っているでしょ。

(注38)『富樫雅彦/ウィ・ナウ・クリエイト』は、富樫雅彦が、高柳昌行、高木元輝、吉沢元治(b)と録音した、日本人によるフリー・ジャズ最初期のレコード。69年5月23日 東京で録音

——フリー・ジャズでも、富樫さんとは方向性がちょっと違います

ということなんです。オーネットには、69年にニューヨークで会いました。そのときに話したら、すごい勢いで怒られて。「日本人とは会いたくない」から始まって。というのは、日本に来たときに、麻薬の逮捕歴が理由で、演奏できなかったチャールズ・モヘット(ds)がいるんです。それで富樫さんが入っていたんだけど。オーネットがいうのは、「過去の罪をあがなってというか、きちっと悔いて、それで一市民としてやっている人間を入れない日本っていうのはなんだろう? と思った」って。まあ、怒っていた理由はそれだけではないけど。

そのときに、彼はオーケストラの企画を立てていたんです。「日本でやるとすれば、どこか使えるオーケストラはあるか?」っていうから、「N響(NHK交響楽団)以外ダメじゃないですか?」といったら、「やっぱりそうか」。それで、ちょっと機嫌を直したんです(笑)。

そのときのことですけど、あれはワダダ・レオ・スミス(tp)が入っていたのかな? あとはちょっと知らないひとばかりだったけれど、AACM(注39)のコンサートを、彼はお金をきちんと払って聴きに行くんです。顔パスじゃなくて。カッコいいなと思いました。自分も苦労しているからなんでしょうね。ああいうところに顔を出しているのも、すごいなと思うんですよ。

(注39)Association for the Advancement of Creative Musiciansの略。創造的なアート志向のミュージシャンをサポートする目的で、ムハル・リチャード・エイブラムス(p)が65年にシカゴで設立した非営利の音楽団体。

間章を起用

——間章(あいだ あきら)(注40)さんとはどういうことで?

さっきの話に戻りますけど、山下洋輔さんが再デビューするってときが大雪で、満席だったんです。立錐の余地もないっていうのはああいうのをいうんだね。いろんな業界の有名人や文化人もけっこう来ていて。

(注40)間章(音楽評論家 1946~78年)69年よりフリー・ジャズを中心とした音楽批評活動を展開し、イヴェントやレコードのプロデュースを行なった。70年コンサート《解体的交感》プロデュース。出演は阿部薫(as)、高柳昌行。74年渡仏し、スティーヴ・レイシー(ss)、デレク・ベイリー(g)と対話。75年企画集団「半夏舎」設立。スティーヴ・レイシー招聘。阿部薫のソロ・コンサート《なしくずしの死》をプロデュース。77年ミルフォード・グレイヴス招聘。78年 デレク・ベイリー招聘。同年、脳出血で死去。享年32。著作集『時代の未明から来るべきものへ』(イザラ書房)がある。

その中で、ぼくはボーイをやってるでしょ。そこで、ひとり太った目立つのがいて。パイプかなんかふかしていて、あの風貌(笑)。レコードをこのくらい持っていて(20センチの厚さくらい)、見せびらかせているわけ。ぜんぶデルマーク(注41)のレコードで、それも AACM系のレコード。始まるまでの間、そんなことをやっている。それで、注文を取りにいったときに、「これ、ぜんぶ、持ってますよ」っていったの。

(注41)シカゴにあるブルース、ジャズのレコード・レーベル。70年前後は、AACMを中心にシカゴのフリー・ジャズ系ミュージシャンを積極的に紹介したことで知られる。

——日本盤が出ていない時代ですよね。

あのころ、輸入盤もほとんど入ってないですよ。ぼくは、あれを直接注文して、持ってたんだから。そうしたら、向こうがびっくりして、「これ、ぜんぶ持ってるヤツに初めて会った。何者なの?」(笑)。「いやぁ、近々、雑誌を立ち上げようとしてるんですけどね」って、いったら、「ぜひ、協力させてくれ」。それが、最初です。

それで、雑誌をやる前、まだ、あいつが日本のミュージシャンなんてぜんぜん知らないころですよ。「誰か紹介してくれ」というから、高木元輝(笑)と吉沢元治(b)さんを紹介して。

あいつのうちが大金持ちで、名前は忘れたけど、でっかいレストランを持っているんです。そこでコンサートをやって。新潟ですけど、田舎だから、やったら超満員。それで、立教大学に行きながら、そういうことを始めて。それで、「ちょっと書かせてくれ」となった。「将来、そういうことをやりたいんなら、書いてみたらいいじゃない」といって。そうしたら、あの原稿が始まっちゃった(笑)。

——すごかったですね。

エネルギーがすごいよね。

——強烈なインパクトがありました。

あったけど、難しいだけで、内容はどうってことない。どう表現するかだけで、いってることはなんてことない。面白いヤツだったけどね。

——『JAZZ』の売り物ではありました。

そうでした。あれはあれでね。

——杉田さん、『JAZZ』を始めるにあたって、編集方針とか基本理念みたいなものは考えていたんですか?

ありましたよ。ひとつは、最近でこそ「ビヨンド・ジャズ」って言葉があるけど、ぼくの考え方は、「ジャズはひとつのところにとどまったら、もうジャズじゃない」というのがあるんです。「ジャズは常に変わっていくものである」「ジャズはジャズを超えることでジャズになっていく」。

いまは「ビヨンド・ジャズ」っていう言葉があるけど、昔はそういう言葉がなかった。それで、日本語で「超ジャズ」という言葉を作ったの。創刊号の巻頭言で書いたのが「超ジャズ論試行」。これは、どういうことに影響されているかっていうと、実際にジャズを聴いてきて、新しけりゃなんでもいいわけじゃないんですよ。

ビバップの代表的な曲があって、それのテーマをみんなでやって、それからそれぞれがインプロ(即興演奏)に入って、また最後にテーマをみんなで演奏する。このときに、インプロをやったあとのテーマが、最初のテーマと一緒ではないはずだという仮説を立てていたんです。

最後のテーマは、おんなじもののようだけど、実は新しい音楽をそこでまた作ろうとしている。あるいは、すでにもうできているかもしれない。それの繰り返しで、どんどん新しいきっかけが出てくる。そういうのが、ジャズの行き方じゃないかと思ったわけ。

これはリロイ・ジョーンズの『ホーム=根拠地』に、「変わっていく同じもの」っていうことがよく出てくるんです。黒人の文化にはいろんなジャンルがあって、ぜんぶそれぞれが違うように思う。ブルースとジャズはぜんぜん違う。だけど、実は、これは「変わっていく同じものだ」ということを何回もいうんです。黒人文化はすべてそうだ、と。「同じものとはブルース・インパルス」。そういう影響がいちばん強いですね。

買う買わないは別として、新しいものは聴きますよ。ただね、辟易したのはフュージョン。あれだけはねえ。それで雑誌をやめたんです。あのころ、雑誌は軌道に乗って、売れ出していたんだけど(笑)。

——結局、いつまでやってたんですか?

10年ぐらいやったんじゃないかな?

——最初は季刊だったでしょ。

最初から月刊だの隔月刊だのっていってたけど、なかなか出せないですよ。お金がないから。そのうち月刊で出るようになって。

——最初は「Spring」とか。それで、通し番号の第1号、第2号とつけて。

そうです、そうです。

——『スイングジャーナル』はまったく無視していた?

無視っていうことはないけど、行き方がぜんぜん違いましたから。児山さん(注42)とはアメリカでよく会っていたから、仲は悪くないですよ。

(注42)児山紀芳(ジャズ評論家 1936~2019年)『スイングジャーナル』誌編集長を2期17年務め、国内外の多くのミュージシャンと親交を結ぶ。80年代には米レコード会社のマスターテープ保管庫から未発表音源を発掘。『ザ・コンプリート・キーノート・コレクション』『ブラウニー:コンプリート・クリフォード・ブラウン・オン・エマーシー』でグラミー賞の「ベスト・ヒストリカル・アルバム部門」に2度ノミネート。NHK-FM『ジャズ・トゥナイト』などラジオ番組に長年出演した。著書に『ジャズのことばかり考えてきた』(白水社)など。

——雑誌の内容は気にしてなかった? たとえば、今月号はこんなことをやってたのか、みたいな。

いやぁ、アルバート・アイラー(ts)のインタヴューはショックだったなぁ。あれは面白かったねぇ。あのコンサートの情報なんて知らなかったもの(注43)。『ジャズ・ホット』(フランスのジャズ雑誌)は、取っていたけど、見逃してるんだね。しょうがないねえ。

(注43)70年7月25日から27日にかけて、フランスの「マーグ財団美術館」で開かれたコンサートのこと。これがアイラー最後のコンサートで、その後、11月25日にニューヨークのイースト・リヴァーで死体となって発見される。自殺と推定されている。

——アイラーのラスト・コンサートですよね。

そうですよ。児山さんとはアメリカでよく会っていたんです。それで、しばらく会わないなぁと思っていたら、フランスに行ってたんだね(笑)。会うわけがない。

あのコンサートはすごいじゃないですか。アイラーとサン・ラのアーケストラ、太陽中心世界ですよ、それとセシル・テイラー(p)。これ、観ないで、どうするんだ? っていうコンサート。どうしようもないなって、反省しました(笑)。『ジャズ・ホット』は取っていたし、編集者とも、向こうで友だちになっていたのに。

——ところで、話は尽きないのですが、今回のインタヴューは60年代までのことがメインですから、ここまでにしたいと思います。今日はほんとうにありがとうございました。

こちらこそ、ありがとうございました。また、小川さんとは話をしましょう。

取材・文/小川隆夫

2019.08.25 Interview with 杉田誠一 @ 白楽「Bitches Brew for hipsters only」

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