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〈ヒップ〉の生き証人としてのジャズ喫茶【ヒップの誕生 ─ジャズ・横浜・1948─】Vol.17

ちぐさの写真
戦後、占領の中心となった横浜は「アメリカに最も近い街」だった。1948年、その街に伝説のジャズ喫茶が復活した。それは、横浜が日本の戦後のジャズの中心地となる始まりでもあった──。そんな、日本のジャズが最も「ヒップ」だった時代をディグする連載!

海外から日本を訪れたジャズ・ファンの多くは、ジャズ喫茶という存在にカルチャー・ショックを受けたと口々に言う。黙してレコードを聴くだけの空間であるジャズ喫茶の全盛期は1960年代から70年代にかけてだったが、最近になって再びジャズ喫茶への注目が高まっている。この連載は、横浜のジャズ喫茶〈ちぐさ〉に保管されているVディスクを紹介するところから始まった。あらためて、ジャズ喫茶の歴史的役割と現在の姿を捉え直してみたい。

「最もアメリカに近い場所」にあったジャズ喫茶

最近公開された『ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩』は、世界的に見ても類例がないと言われるジャズ喫茶という空間の魅力を、音と雰囲気で伝えることに成功した優れた映画だった。数々の貴重な証言も出てくるが、仮にそれらの言葉がなくても作品として成立したと思わせるほど、この映画の音と映像のクオリティは圧倒的であった。

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もっとも、この作品はジャズ喫茶の映画というよりも、〈ベイシー〉の映画であり、店主である菅原正二の映画である。もしほかのジャズ喫茶を舞台にドキュメントをつくっていたら、まったく異なった映画となっただろう。現在全国に630ほどあるといわれるジャズ喫茶は、それぞれに固有の歴史をもち、固有のストーリーを抱えている。

 

本連載がサブタイトルに「ジャズ・横浜・1948」と掲げているのは、戦前に創業し、戦争によって店舗が焼失した横浜・野毛のジャズ喫茶〈ちぐさ〉が再開したのが1948年であり、そこが日本における戦後のジャズの一つのスタート地点となったという仮説があったからである。

現在も野毛で営業を続ける〈ちぐさ〉が開店したのは1933年。現存するジャズ喫茶の中で最古の歴史をもつ。戦時下、ジャズ喫茶が所収していたレコードは敵性音楽という理由で没収されたが、〈ちぐさ〉のマスター、吉田衛は6000枚のレコードを屋根裏に隠すことで没収を免れたという。しかしそのレコードも、横浜大空襲で店舗とともにすべて灰燼に帰した。戦後、常連客が持ち込んだレコードや、米軍基地から流れてきたVディスクをもって店を再び始めたときには、終戦から3年が経っていた。戦後の日本で「最もアメリカに近い場所」であった横浜。そこに店を構えたことによって、〈ちぐさ〉固有のストーリーは生まれた。

進駐軍クラブが育てた大衆音楽

戦後の横浜がどれほどに「アメリカ」であったのか、あらためて確認しておきたい。1945年末の時点で、横浜には進駐軍兵士総数の25%に当たる9万4000人の兵士がいた。これは、同時期の横浜市の総人口の15%を占める数であった。横浜に生きる6人から7人に1人は外国人であったということであり、そのほとんどはアメリカ人であった。進駐軍向けのラジオ放送(WVTR、のちにFEN)は横浜の街角にも流れ、日本人もアメリカのジャズやポップスをごく普通に聴くことができた。

しかしその事実をもって、横浜という街全体がアメリカの中にすっぽりと包摂されていたと言えないのは、「日本」「アメリカ」の間に明確な境界があったからである。幕末の横浜で外国人居留区に関所が設けられ、外国人が生活する海側のエリアを関内、内陸側を関外と呼んだことはよく知られている。同様の区分が戦後の横浜にもあった。戦後における「関内」は、占領軍関係者以外立ち入り禁止を意味する「オフリミット」と呼ばれた。

進駐軍によって接収され、かまぼこ型の兵舎が立ち並んだエリア一体がオフリミットであることは、エリアを取り囲んだフェンスによって誰の目にも明らかだったが、フェンスの外にもオフリミットは点在していた。進駐軍兵士が酒を飲み、ダンスをし、音楽を聴くために設けられた進駐軍クラブである。占領期の横浜には30ほどの進駐軍クラブがあった。クラブは、将校向けの「OC」、下士官向けの「NCO」、一般兵士向けの「EMクラブ」に大別されていて(※)、さらにEMクラブの中には白人用クラブと黒人用クラブがあった。

※それぞれ、Officer’s Club、Non-Commissioned Officer’s Club、Enlisted Men’s Clubの略称。Officerは将校、Non-Commissioned Officerは下士官、Enlisted Menは下士官、一般兵士の両方を意味するが、横浜におけるEMクラブは主に一般兵士向けだった。

マッカーサー元帥率いる占領軍将校宿舎として接収された、横浜のホテル ニューグランド。

日本のジャズ史においてオフリミットが極めて重要な意味をもつのは、占領が終了する1952年までの間、日本人(※)がジャズを演奏することができたのがオフリミット内にほぼ限られていたからである。占領軍クラブに客として入れたのは外国人だけだったが、クラブを支えたのは、日本人従業員であり、日本人ミュージシャンであり、ミュージシャンたちを各クラブに派遣する仲介業者たちであった。ミュージシャンの中には、南里文雄のように戦前からジャズマンとして活躍してきた者もあったが、多くは旧陸海軍の軍楽隊に属し、戦後クラシックの道へ進むことを選ばなかった者たちであった。その中には、のちにシャープス&フラッツを結成する原信夫や、モカンボ・セッションに参加することになるサックス奏者の宮沢昭がいた。

※この中にはもちろん、1945年8月まで「日本人」とされていた在日コリアンや在日台湾人も含まれていただろう。

もちろん、敵性音楽であったジャズを演奏するスキルが彼らにあったわけではない。彼らは生きるためにオフリミットに飛び込み、ジャズの本場から来たアメリカ人を楽しませ踊らせるために、必死に「現場」でジャズを体得していった。1952年に占領が終了したとき、彼らは、オフリミットという生簀から世間の大海に泳ぎ出でて、ある者は変わらずジャズの道を進み、ある者は歌謡曲やポップスのマーケットで生きることを求め、ある者は芸能プロダクションという新しい業態を経営することを選んだ。オフリミット出身のミュージシャンで芸能プロ経営者として最も成功したのが、1957年に渡辺プロダクション、いわゆるナベプロを設立した渡辺晋であり、彼が手掛けた最初のスターが、モカンボ・セッションの企画者の一人であったハナ肇が率いるクレイジー・キャッツである。日本の軍楽を戦後の大衆音楽の世界に橋渡ししたこと。それが音楽史的観点から見たオフリミットの最大の功績であった。

コミカルな演奏の印象が強いハナ肇だったが、モダン・ジャズのドラミングの技法を身につけた一流のドラマーだった。

ミュージシャンの「学校」としてのジャズ喫茶

しかし、ジャズの素人であったミュージシャンたちは、どうやってジャズの演奏法を身につけたのだろうか。一つには、戦地や占領地を慰問するアメリカの音楽家たちが使っていた楽譜集や、「1001」と呼ばれるスタンダードの楽譜集があった。オフリミット内で入手された楽譜がコピーされ、ミュージシャンの間に出回ったのである。

もう一つ、レコードからのいわゆる耳コピーによってテーマ譜やアドリブ譜を独自に起こす方法があった。しかし、そのためには、レコードが豊富にあり、それを聴ける場がなければならなかった。そのような場としてうってつけだったのが、占領の中心地、横浜にあったジャズ喫茶、すなわち〈ちぐさ〉だった。戦後日本のジャズ論やジャズ喫茶論で卓越した業績を残しているマイク・モラスキーは、ジャズ喫茶愛好家は、文化を〈創る〉側ではなく、文化を〈消費する〉側に属していると言っている(『戦後日本のジャズ文化』)。しかし戦後のある時期まで、〈ちぐさ〉を愛好したのは、まさに文化を〈創る〉側〈実演する〉側にいるミュージシャンたちであった。

モラスキーはまた同じ本の中で、オーストリアの日本研究家であるエクハート・デルシュミットによる興味深い「ジャズ喫茶変遷論」を紹介している。それによれば、1950年代のジャズ喫茶はジャズを勉強するための「学校」であり、60年代のジャズ喫茶は一種の宗教的空間という意味で「寺」であり、70年代のジャズ喫茶は音楽や飲食のメニューが多様化した「スーパー」であり、80年代のジャズ喫茶は古いオーディオと大量のアナログ・レコードを保存する「博物館」であった。

40年代後半から50年代にかけての〈ちぐさ〉は、ほかのジャズ喫茶同様、まさしく「学校」であっただろう。違ったのは、それがリスナーのための学校である以上に、ミュージシャンにとっての学校であった点である。占領軍クラブに出演する前に〈ちぐさ〉に立ち寄って必死にレコードに耳を傾け、仕事が終わると再び〈ちぐさ〉にやって来てアドリブ・ソロを採譜する。そんなミュージシャンたちの必死の努力によって日本の戦後のジャズは立ち上がった。占領軍クラブと〈ちぐさ〉は、一種の協力関係のもとに、ミュージシャンたちを「教育」し、戦後のジャズの基礎をつくったのである。

「守り続けること」のヒップネス

デルシュミットが80年代のジャズ喫茶を「博物館」と呼んだのは、センス・オブ・ヒューモアを多分に含んだ比喩であったが、〈ちぐさ〉の関係者は今、本当のミュージアム設立に向けた取り組みを進めている。

「おやじ」と呼ばれ、多くの常連客やミュージシャンに愛された吉田衛が他界したのは1994年。経営は実妹の孝子が引き継いだが、その歴史も2007年にいったん途絶えた。その後、元常連客や横浜のジャズ関係者らの尽力によって一般社団法人「ジャズ喫茶ちぐさ・吉田衛記念館」が設立され、〈ちぐさ〉の営業が再び始まったのが5年後の2012年である。

「〈ちぐさ〉は一般社団法人になった時点で、音楽文化を継承するための文化施設のような役割ももつようになりました」と話すのは、〈ちぐさ〉の企画制作ディレクターを務める笠原彰二だ。

「〈ちぐさ〉には、大量のレコード、Vディスク、ミュージシャンの写真、ライブのチケットの半券、全国のジャズ喫茶のマッチなど、貴重な財産がストックされています。それらを展示して、多くの方々にジャズ喫茶の歴史を伝えたいと考え、ミュージアム設立の企画を練ってきました」

一般社団法人「ジャズ喫茶ちぐさ・吉田衛記念館」企画制作ディレクターの笠原彰二さん。

今年に入り笠原が横浜市開港記念会館の地下にミュージアムを設立することを想定した企画書を書き上げたまさにそのときに、世界はパンデミックに直面した。笠原らスタッフが選んだのは、リアルなミュージアム設立に先立って、「バーチャル・ミュージアム」の準備を進めることだった。さまざまな「財産」を映像化して配信する試みである。現在、Vディスクと蓄音機の映像4本がYouTubeにアップされている。コロナ・ショックが去ったあかつきには、リアルとデジタルのハイブリット型のミュージアム設立を目指していきたいと笠原は話す。

「正直、担い手やお金のめどが立っているわけではありません。しかし、まず走り出すことが大切だと思っています」

〈ちぐさ〉の営業は変わらず続いている。今はマスターはいない。古くからの常連客たちが持ち回りでキッチンに入り、レコードを回す。夜のバータイムにはジャズ以外の音楽を流すこともあるが、「アナログの音を聴く店」というスタンスに揺らぎはない。クラブ・カルチャーを通じてアナログ・レコードに興味をもった若い世代の客も増えている。彼・彼女らにとってジャズ喫茶は異空間に違いないが、それがむしろ新鮮に捉えられている。「ジャズ喫茶は大きくスタイルを変えるべきではない。むしろ、変わらないことに意味がある」と笠原は言う。

「ジャズ喫茶には独自のスタイルがあるし、主張もあります。しかし、目立つ存在である必要はないと思っています。街の片隅にひっそりと店を構え、音楽を愛する人たちの心の支えになる。そんな存在であり続けるために、〈ちぐさ〉のスタッフはこれからも毎日レコードに針を落としていきます

日本のジャズが最もヒップだった時代の生き証人として、〈ちぐさ〉はこれからも営業を続けていくだろう。〈ちぐさ〉のスピーカーが鳴り続けている間は、そして全国630店のジャズ喫茶のスピーカーが鳴り続けている間は、「古きよき」日本のジャズ文化が途絶えることはないだろう。変わらないこと。何かを守り続けること。その毅然たるアティチュードにもまたヒップネスはあるのだろう。
(敬称略)

〈参考文献〉『進駐軍クラブから歌謡曲へ』東谷護(みすず書房)、『戦後日本のジャズ文化』マイク・モラスキー(岩波現代文庫)

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二階堂 尚/にかいどう しょう
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーの編集・ライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムやさまざまなジャンルのインタビュー記事のほか、創作民話の執筆にも取り組んでいる。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。
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