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【証言で綴る日本のジャズ】水橋 孝|“初めてベースを触った日” にステージ・デビュー

連載「証言で綴る日本のジャズ」 はじめに

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのは、ベース奏者の水橋孝。

水橋 孝/みずはし たかし
ベース奏者。1943年3月2日、北海道夕張市生まれ。63年に偶然からキャバレーでベースを弾き始める。64年にキャバレーのバンドでリーダーに。66年から2年間は市川秀男カルテットで市ヶ谷の「フラミンゴ」に出演。その後は、西村昭夫セクステット、藤井貞泰トリオ、大沢保郎カルテットなどを経て、69年、ジョージ大塚トリオに参加。71年、ジョージ川口ビッグ・フォアに移籍し、川口がこの世を去る2003年まで在籍。その間に、ハービー・ハンコック、ミッキー・タッカー、アーチー・シェップ、マリオン・ブラウンなど、アメリカのトップ・プレイヤーとレコーディング。81年にはシェップに招かれ、彼のカルテットで3か月のヨーロッパ・ツアーにも参加。97年から20年間、日本赤十字社、日本ユニセフ協会、あしなが育英会に寄付を続け、79年から2019年まで「JAPAN BASS PLAYER’S CLUB」の会長を務めた。

歌手になりたかった青春時代

——みなさんにお聞きしているのですが、生年月日と出身地から教えてください。

生年月日は1943年3月2日、北海道で生まれました。いまでは夕張といえばわかりやすいでしょうけどね。親父が炭鉱の爆発事故で死んじゃって。それで内地に来ました。

——おいくつのとき?

2歳か3歳のときです。学歴もないし、義務教育をやっと出た、中学しか出ていません。ほんとに悲惨な時代で、幼いころのことは思い出したくないんです。

それで17、8のころかな? 大田区の大森に住んでいて、そういうところでフラフラしていたんです。「なにをやろうか?」といっても、別に夢も希望もないけれど、できれば、恥ずかしいけれど、歌手になりたかったんです。

そのころは、やっぱりね、エルヴィス・プレスリー(注1)ですよ。ああいうのにシビレましてね。その前は歌謡曲です。三橋美智也(注2)、春日八郎(注3)、美空ひばり(注4)とか、そういうひとたちが全盛時代だったから。そういうのを「いいなあ」と思っていたけれど、そのうちエルヴィスが出てきて、「あ、すごいな、カッコいいな」。それからレイ・チャールズ(注5)が出たりしてね。「あ、オレがやるのはこれかな?」と思ったわけですよ。思っただけね(笑)。

(注1)エルヴィス・プレスリー(ロック・シンガー、俳優 1935 ~77年)「キング・オブ・ロックンロール」と呼ばれ、ロックの原型を作ったアメリカのシンガー。全世界の総レコード・カセット・CD等の売り上げは6億枚以上。56年に〈ハートブレイク・ホテル〉〈アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラヴ・ユー 〉〈冷たくしないで〉〈ハウンド・ドッグ〉〈ラヴ・ミー・テンダー〉で連続全米1位を記録し、以後もヒット曲を多数残す。
(注2)三橋美智也(歌手 1930~96年)民謡で鍛えた伸びのいい高音と絶妙のこぶし回しを持ち味に、昭和30年代の歌謡界黄金期をリードし、数多くのミリオンセラーを連発した。代表曲に〈リンゴ村から〉(270万枚、56年)、〈古城〉(300万枚、59年)、〈星屑の町〉(270万枚、62年)がある。
(注3)春日八郎(歌手 1924~91年)48年キングレコードの「第1回歌謡コンクール」合格。54年〈お富さん〉が爆発的人気を呼び、最終的に125万枚の売り上げを記録。55年〈別れの一本杉〉もヒットさせた。
(注4)美空ひばり(歌手、役者 1937~89年)8歳で初舞台。49年『のど自慢狂時代』でブギウギを歌う少女として映画初出演。同年に〈河童ブギウギ〉でレコード・デビュー。52年女性として初めて「歌舞伎座」の舞台に立ち、同年、映画『リンゴ園の少女』の主題歌〈リンゴ追分〉が当時最高の売り上げを記録(70万枚)。この前後から歌手および銀幕のスターとしての人気を確立した。
(注5)レイ・チャールズ(歌手、ピアニスト 1930~2004年)盲目のハンディキャップを背負いながら、59年〈ホワッド・アイ・セイ〉が6位のヒットとなり、人気が定着。61年〈我が心のジョージア〉がミリオンセラーを記録。以後、R&B、ジャズ、ゴスペル、黒人霊歌など、幅広い歌でアメリカを代表する黒人シンガーのひとりになる

——歌は得意だったんですか?  

得意じゃないけど、好きでした。それで、英語も喋れないのに、レコードを聴いて、カタカナ英語の見様見真似で、カッコつけて、まあやってたわけです。ひと前で歌うわけじゃなくて、ひとりでね。  

そのうち、よく行ってた近くの蕎麦屋の出前持ちのあんちゃん、そのひとと友だちになって。あんちゃんが、休みの日にはギターを抱えて遊びに来るんです。当時はポール・アンカ(注6)の〈ダイアナ〉とかね。これ見よがしに、ギターを抱えて歌うわけですよ。「なんだよ、オレにも教えろよ」。そんなことでちょっとかじったりして。

(注6)ポール・アンカ(ポピュラー・シンガー 1941年~)カナダ出身のシンガー・ソングライターで、〈ダイアナ〉(57年)、〈マイ・ホーム・タウン〉(60年)、〈電話でキッス〉(61年)などのヒットで人気者に。68年フランク・シナトラに〈マイ・ウェイ〉、71年トム・ジョーンズに〈シーズ・ア・レイディ〉を提供。現在も高い人気を誇っている。  

それではたちのときですかね、可愛がってもらっていた兄貴分みたいなひとがいて、そのひとが「知り合いでキャバレーのバンドをやってるヤツがいる。そこのベース弾きがいなくなったから、お前、やる気はないか?」っていってくれたんです。  

ぼくは機会があれば、音楽のほうに行きたいと思っていたから、行って、立ちん坊ね。弾けるわけがないから、ベースを持って立ってるだけ(笑)。

——まったく弾いたことがなかった?  

ベースを初めて見た日に仕事したんですから(笑)。

——どこにあったキャバレーですか?  

五反田。行ったら、1か月でそのキャバレーが潰れて。そうしたらよくしたもので、最終日に、すぐ近くのキャバレーのバンドのひとが来て、「ぜひ、わたしどものバンドに来てください」。スカウトされて。

——バンドごと?  

ぼくだけ。

——じゃあ、そのころはもう弾けるようになっていた?  

ぜんぜん弾けない。だから弾くと怒られてね。「邪魔になるから、お前、弾くな」。

——最初に入ったキャバレーのバンドは何人編成?  

ピアノとギターとベースです。

——それじゃ、ベースも目立つじゃないですか。  

そりゃあ、目立ちます。ピアノ、ギター、ベースのトリオといったら、いまならカッコいいですよ。ただ、当時は員数合わせで、ベースはいればいいっていうだけ。だから弾いてるふりをして(笑)。

キャバレーで荒稼ぎ

——どんな音楽をやっていたんですか?  

最初のステージはお客さんが来ないから、そういうときに彼らはジャズをやって楽しんでいる。ぼくもなにかやってないとカッコ悪いから音を出すと、「頼むから弾かないでくれ」「邪魔になって、なんにもできないから」といわれて。

それでもよくしたもので、たしかそのときは63年ですよ。64年が東京オリンピックで、街が盛り上がっている。景気もよかったし。立ちん坊でも、大学卒の初任給ぐらいはくれたんです。1万2000円だったかな? 「こんな世界があったのか」と思ってね。ひと月で終わったけれど、次のバンドのひとがスカウトしてくれて。

——店の名前は覚えていますか?

「銀馬車」でした。

——最初の店の名前は?  

覚えていません。

——「銀馬車」はどういう編成で?  

クインテットです。テナー・サックスにアルト・サックス、それとスリー・リズム、ピアノ、ベース、ドラムスでね。そこは譜面コンボだったんです。なにせ、最初はドラムスのおじさんに、「水橋君、ベースはこうだよ。これがCで、Dは開放弦」とかね。ドレミファソラシド、ベースのスケールを教わって。いろんな曲をやるけど、ぼくはどの曲でもドレミファソラシド(笑)。滅茶苦茶でした。だけど「歌も好きなら歌わせてやる」というんで、ピアノのバンマスが、「レコードを持っておいで」。レコードを持っていくと譜面に起こしてくれて、歌わせてくれたりね。

——どんな歌を?  

アメリカのポップスです。そういうのをやったり、そのうち、店のショーの司会をやったりとかね。そんなことをやって、楽しかったですよ(笑)。周りがほんとにいいひとばかりでね。最高の出だしでした。

——バンドマンのいじめはなかったんですか?  

まったくなかったです。コンサート・マスターがテナー・サックスのひとで、すごくいいひと。「ミズ、ミズ」って、可愛がってくれて。「お前なあ、新橋のキャバレーでトリオのバンドを探してるから、行くか?」なんていってくれたりして。「ありがとうございます」。それで行ったら、その時点で収入が7、8倍ですよ。10万円くらいですから。「あ、これもありだな」と思って(笑)。だけど、まったく出鱈目の世界。

——まだちゃんとは弾けなかった。  

ぜんぜん。それでも、社長とか部長クラスの給料をもらって。

——これが……。  

64年ごろです。そんなことで、「こんな幸せなこともあるんだ」。烏森口のガードの下だったかな。狭いんだけどね。

——ここの編成は?  

ピアノ、ベース、ドラムスのトリオ。なんにもできないリーダーですよ。

——え? リーダーで雇われたんですか!  

そうなの。それで1年ぐらいいたのかな? そこがまたぽしゃって。「銀馬車」のコンサート・マスターに電話したら、「お前、またくればいいだろ」といってくれて、そこにいたベースをクビにして、戻してくれたんです。収入は下がりましたけどね(笑)。

市川秀男との出会い

「銀馬車」のバンドはバンマスがピアノで、そのひとが月に1回かふた月に1、2回抜けるんです。そのときのトラ(エキストラ)が市川秀男という名ピアニスト。それでなんとなく知り合って。当時の彼はまだはたちくらい(市川は45年生まれ)だったけど、バリバリで。これもぼくにとっては不思議な縁。市川がね、ぼくの前に3回現れるんです。これが最初。

そのあと、五反田のキャバレーがまたぽしゃって。「じゃあ」っていうんで、市川のところに電話をしたんです。「ちょうどよかった、ゴンさん」。ゴンさんていうのは、彼がぼくにつけたニックネームだけど。「いまベースがいなくて困ってるんだ。おいでよ」。そうはいうけど、まだなんにも弾けない。

彼はカルテットのバンマスで、オスカー・ピーターソンみたいなピアノをナイト・クラブで弾いている。そこに入るんだけれど、クビになったベーシストがすごく上手いひとで。上手いけど、手癖が悪くてクビになっちゃった。それで、ぼくが一緒にやることになった。これが66年だったかな? そこで2年ぐらいやって。

——そのときはジャズ?  

ナイト・クラブだからジャズ。

——どこのナイト・クラブ?

市ヶ谷の「フラミンゴ」。一口坂のそばにあった最高級のナイト・クラブです。

——それが66年ごろの話。そのときのメンバーは?

唐木洋介(とうのき)さんというアルト・サックス。のちにシャープス&フラッツに行って、テナー・サックスに転向しましたけどね。ドラムスが川上達郎といったかな? 「たっつあん、たっつあん」といってたんだけど。歌が市川の奥さん。そのころはまだ結婚してなかったから、ガール・フレンド。チェンジのバンドもいたけど、そっちは覚えていない。ギターがリーダーのカルテットでした。

——このバンドなら、ジャズといってもかなり本格的なものをやっていたんじゃないですか?

本格的だけど、ぼくは出鱈目。

——もう、そんなことはないでしょう。

いや、ほんと。まったくわかっていなかった。それでも、Q.いしかわ(ts)、峰厚介(as)、紙上理(しがみ ただし)(b)、亡くなった萩原栄次郎(b)、あとは軍楽隊で日本にいたルーファス・リード(b)なんかとも演奏をするようになって。ルーファスの関係で、GIとも盛り上がっていたのがこのころ。 「フラミンゴ」で2年くらいやって、バンドが解散になるんです。そのあとは、富山で1か月の仕事があるというんで、友だちのテナーとピアノとドラムスとぼくの4人で「行くか?」。そのころはコテでチリチリにしたパンチパーマで。だから、「黒人のハーフのバンド」という触れ込みでね(笑)。それで総曲輪川(そうがわ)にあったジャズ・ハウスの「ACB(アシベ)」という店に出ていました。

突然ジャズ・ベースに目覚める

——これが68年の話。

どこに行ったって、ジャズのレコードが聴ける喫茶店があるわけです。総曲輪川のアーケード街に「New Port」というジャズ喫茶があって。行くところがないから、毎日、朝ごはんを食べたら、そこに行く。

わかりはしないけど、なんとなくジャズのレコードを聴いているうちに、パッとね、聴こえてきたんです。ベースのランニング、ラインの流れが。それが突然耳に入ってきた。「あ、なんだ、こういうことをやっていたのか」。自分が思うには、神のお告げです。これでひと皮もふた皮もむけた感じになって。

それで1か月の旅が終わって、東京に帰って。「ピットイン」が出来てしばらくしたころですよ。遊びに行ったら、仲間がイキがってやってる。「ちょっと遊ばせてくれる?」といったら、みんな「エエッ?」って顔をしてる。弾けないと思って、馬鹿にしてたんだから(笑)。それでも「いいよ」といってくれて。やったら、みんなの目の色が変わっちゃった。

——弾けるようになっていたんですね。

ある程度はね。なんとなく大筋が見えてきたというか、わかりかけてきたんです。このころは、のちに「日本のジョン・コルトレーン」と呼ばれる西村昭夫(ts)さんのバンドでプレイしてました。それで、ぼくのことが口づてで広まって。

赤坂の日枝神社の信号を渡った向かい側、角にあるビルの地下だったですけど、ピアノの藤井貞泰さんが声をかけてくれて、「ティノス」というナイト・クラブでもやることになって。小川宏(注7)さんの弟さんがやってた、美空ひばりさんなんかが来るような有名なお店です。

(注7)小川宏(アナウンサー、司会者 1926~2016年)NHK入局後、55年から『ジェスチャー』の4代目司会者として10年にわたって活躍。65年1月の退局後、フジテレビと契約し、同年から朝のワイドショー『小川宏ショー』の司会を通算17年務めた。  

そのころ、アメリカから帰ってきた渡辺貞夫(as)さんが理論を教える教室をやっていたんです。みんな行ったけど、ぼくは行かなかった。藤井さんはすごい理論家だし、習いに行って。「どういうこと習ってんのよ」って聞いたら、関西のひとだから「お前がぜんぶ知ってることや」というわけ。

だけど、ぼくはレコードを聴いて覚えただけだからわからない。「どういうこと?」といったら、懇切丁寧にノートに書いてくれて。「ああ。そうか、オレがやってることとやっぱり同じだ」(笑)。裏づけが取れたわけです。そんなこともありました。

それで、次が「ホテルオークラ」のラウンジの仕事。当時は八城一夫(p)さんのトリオが出ていて、ぼくはチェンジの大沢保郎(やすろう)さんのカルテットに雇われるんです。このひとは素晴らしいピアニストで、ウィントン・ケリー(p)みたいに弾くひと。

——大沢さんのバンドにはギターが入っていませんでした?

最初は杉本喜代志がいたけど、そのひとの後釜で山口さんていうひとがいて。ドラムスは、死んじゃったけど、「マツ」、植松良高。そんなことで、楽しくやってました。ヴォーカルはマーサ三宅さんですよ。そういう錚々たるシンガーもいるし、素晴らしい世界。大沢さんも可愛がってくれてね。当時、ライヴ・ハウスも「タロー」と「ピットイン」があったぐらいで。

——そんなにたくさんはなかった。

銀座の「ジャズ・ギャラリー8」もありましたけど、お客が入らない。あのころ、ホテル、とくに「オークラ」なんかの超一流のラウンジのバンドといったら、憧れの的でした。そういうところに入れるようになって。

——これが68年から69年の話。そのころは、かなり弾けるようになって。

その気になってやってました。

——水橋さんはまったくの独学?

そうですね。

——誰かのコピーもしない?  

コピーはしました。レイ・ブラウンとかポール・チェンバース。やっぱりそういうひとたちですよ。

ジョージ大塚トリオに抜擢

——この次は?

また市川が出てくるわけ(笑)。電話がかかってきて、「ジョージ大塚(ds)さんがゴンさんに『話がある』っていってるから、ちょっと出てきてくれる?」。

新宿のジャズ喫茶ですよ、歌舞伎町の。そこに呼び出されて、行ったんです。そうしたら、「おう、オレは大塚っていうんだけど」。上から目線ね(笑)。「オレんとこのベース、寺川(正興)だけど、お前、知ってるだろ?」「知ってます」「寺川が、オレのところを辞めることになったんだよ。オレは、お前をベースに考えている」。

こういわれたけれど、「いや、ぼくはまだそんな段階じゃありませんので、できません」と断りました。横に市川もいたけど、彼はなんにもいえない(笑)。「ああ、そうか。じゃあ来月の何日な、歌舞伎町のタローでやるけど、オレはお前のことを待ってるから。来なかったら、オレと市川のふたりでやるしかないから」(笑)。こういうわけですよ。脅しにかかるの。

それで、「オークラ」にバンドを入れてる山田プロ、赤坂の「東急ホテル」近くのビルに事務所がありました。そこに行って、社長の山田さんに、そのあとNHK-FMの『セッション』という番組を作ったひとです、「ジョージ大塚さんから誘われて、困っているんです」。そうしたら、「そうか。水橋君、いまはなあ、ナベサダ(渡辺貞夫)、日野皓正(tp)、ジョージ大塚といったらジャズ界の英雄だ。そりゃあ、ぜひ行きなさい」。逆に励まされちゃって、それで行くことになったんです。

それが69年。なぜ覚えているかっていうと、初レコーディングがそのジョージ大塚トリオで、クリス・コナー(vo)の伴奏だったから(注8)。この間、あのレコードを見たら、録音が69年でした。いまから50年前。

(注8)『クリス・コナーとジョージ大塚トリオ/ソフトリー・アンド・スウィンギン』(日本ビクター)メンバー=クリス・コナー(vo) ジョージ大塚(ds) 市川秀男(p) 水橋孝(b) 沢田駿吾(g) 69年1月28日、29日 東京で録音  

大塚さんのトリオに行ったら、日野皓正クインテットとのジョイント・コンサートで日本中あちこち行くわけですよ。ホテルでいい給料をもらっていたけど、収入が倍ぐらいになりました(笑)。ジャズの第二期黄金時代でしたからね。

——ツアーの会場はコンサート・ホール?

あとは、野外のフェスティヴァルとか。

——いまでいうアイドル的な人気があったと記憶しています。  

そうでしょうね。どこに行っても超満員でした。ジョージ大塚さんのドラミングがすごくカッコよかったですし、最高でした。それで電車といったらグリーン車で、楽器は楽器車が運んでくれる。すごく忙しかったですよ。日本のバンドでも一流はやっぱり違うなと思いました。

——ブームになる前は、着るものに無頓着なミュージシャンもけっこういました。

このころから、みんなジャケットを着たり、着るものに気を遣うようになりましたね。ネクタイもして。そうするとやっぱり見栄えがいい。

——最初はまったくの立ちん坊から始めて、ジョージさんのバンドに入るまで……。

7年くらいかな?

——63年に始めて、69年にジョージさんのトリオですものね。ものすごく早い!  

すごいでしょ? まったく天才ですよね、アッハッハッハ。自分でも信じられない。

リーダー作を録音

——ジョージさんのトリオに入っていたときの水橋さんのプレイは何度か聴きましたが、どこに出しても恥ずかしくないトップ・ベーシストのひとりでした。

そんなことはなかったですけどね。楽屋でしょっちゅう泣いてましたから。

——でも、注目しているひとりでした。

そうですかねぇ。

——水橋さんのベースは太い音でガンガンくるじゃないですか。そういうタイプのひとって、日本では珍しかった。

そうでしたか? そのころ、大塚さんはロイ・ヘインズ(ds)の真似が上手くて、ロイが来ると、彼を連れてくるんです。ロイも、自分の真似がすごく上手いから、大塚さんのことを気に入って。そんなことで、5、6回、ロイとはやらせてもらいました。

——ロイ・ヘインズとジョージさんが競演したアルバム(注9)には参加していないですよね。

あれは、ぼくが入る前の録音じゃないかな? まあそんなことで、いい時代をすごさせてもらいました。最初はトリオで、カルテットからクインテットになって、2年ぐらいいましたかねぇ。ジョージさんのバンドがオフのときは、今田勝(p)さんや菅野邦彦(p)さんのトリオでもやって。それで、まあよくしたもので、すぐジョージ川口(ds)さんのバンド(ビッグ・フォア)に拾われて。

(注9)『ロイ・ヘインズとジョージ大塚トリオ/グルーヴィン・ウィズ・マイ・ソウル・ブラザー』(日本ビクター)メンバー=ロイ・へインズ(ds) ジョージ大塚(ds) 市川秀男(p) 池田芳夫(b) 68年 12月8日東京で録音

——そのころに、スリー・ブラインド・マイス(TBM)でリーダー作を作ります。  

最初に2枚作って(注10)、そのあとに後藤芳子(vo)さんと(注11)。あのときは、理由はわからないけれど、TBMの藤井武(注12)さんから話があって。

(注10)『水橋孝/男が女を愛するとき』メンバー=水橋孝(b) 大友義雄(as) 辛島文雄(p) 関根英雄(ds) ゲスト=向井滋春(tb) 中村誠一(ts) 74年3月23日、26日 東京「日本都市センター・ホール」「5デイズ・イン・ジャズ ’74」で実況録音 『水橋孝/フー・ケアズ』メンバー=水橋孝(b) 大友義雄(as)辛島文雄(p, elp)関根英雄(ds) 74年8月28日 東京で録音
(注11)『後藤芳子&水橋孝カルテット/デイ・ドリーム』メンバー=後藤芳子(vo) 水橋孝(b) 大友義雄(as) 大口純一郎(p, elp) 関根英雄(ds)75年2月17日、18日 東京で録音
(注12)藤井武(レコード・プロデューサー 1941年~)【『第1集』の証言者】70年スリー・ブラインド・マイス設立(2014年倒産)。約140枚のアルバムを制作。63年『銀巴里セッション』を紹介したことも功績のひとつ。

——1枚目は「5デイ・イン・ジャズ」(注13)というコンサートのライヴ盤。  

あのコンサートに出たときの実況録音盤。あれがぼくのデビュー作です。

(注13)74年から77年まで、年に一度、TBM主催で開催された5日間のコンサート。ここから多数のライヴ盤が同レーベルを通じて発表された。

——その『男が女を愛するとき』は大友義雄(as)さんを入れたカルテット。ライヴですから、曲によってゲストが入って。  

辛島文雄(p)と関根英雄(ds)で。あれは、当時のぼくのバンド。

——自分のグループを作ったのがそのころですか?

そうですね。大塚さんのバンドをクビになって、自分のグループを作ったんです。そのときに、大塚さんから「大友っていうのがいいから、使ってやれよ」といわれて。辛島とか、あとは大徳俊幸(p)とかね、そういう連中とやってました。

——大徳さんも、大塚さんのバンドにいましたね。  

ピアノだけしょっちゅう変わるんです。大塚さんから「辛島がいいから、ちょっとこっちに回せ」とかね。それで大塚さんのところにいた大徳が来たりね。大徳もよかった。そういう入れ替えを2回か3回やって。不思議な世界ですよ。

——自分でバンドをやるときは、トリオよりカルテットのほうがよかったんですか?  

本当はトリオのほうが好きだったけれど、ぼくの技量がいい加減だったから。

——たいしたものだったじゃないですか。  

いやいや、へたくそだったから。あのころに限らず、すべてのレコードは、恥ずかしくて自分じゃ聴けないです。ふとんを被っても聴けない(笑)。そんなものですよ。

——〈男が女を愛するとき〉はリズム&ブルースの曲じゃないですか。水橋さんのベースもソウルっぽい。そういう音楽が好きだったんですか?

好きだったけれど、あのソロなんか聴けたもんじゃないですよ。大友はカッコいいけどね。アイツのプレイは一級品だったから。あのときは、好きな曲だったこともあるけれど、ウケも狙って。ああいう曲も、ジャズの合間に入っていると、聴いているひとが「いいなぁ」と思うんじゃないかと。要するにコマーシャルな曲ですけど。

ジョージ川口のビッグ・フォアに移籍

——ビッグ・フォアに入ったのは、どういうことがきっかけで?  

川口さんのベーシストが自分で音楽事務所を作って、そっちが忙しくなったんです。自分でも弾かなきゃいけないから、あるときぼくにトラを頼んできた。2回ぐらい行ったら、「おい水橋君、レギュラーで頼むよ」(笑)。そこから32年間、どっぷり浸かって。ギャラがよかったし、居心地もよかったですから。

——入ったころのサックスは?

まだ松本英彦(ts)さん。大きな仕事のときはピアノが中村八大さん。

——オリジナルのメンバーが集まるんですね。

ぼくだけ若造がひとり入って。ピアノが落ち着かなくて、何人もトラでいろんなひとが来るんです。「誰かいいピアノ、いないか?」っていうから、「市川っていうのがいいですよ」。ぼくの恩返しです。そうしたら気に入っちゃって、彼も30年(笑)。これが3度目の出会い。

それで今度は松本さんが自分の仕事で忙しくなって、「誰かいないか?」「中村誠一(ts)、どうでしょうか?」。それでアイツも30年間、同じ釜の飯を食った仲です。

——このメンバーで最後まで。

ジョージさんが亡くなる3日前までね。3日前にコンサートをやってるんだから。

——そのときは元気だったんですか?

元気でした。それで終わって、いまだからいえるけど、中村誠一が、「あのとき、コンサートが終わって、楽屋に引っ込まないで、ステージの上からお客さんと話をしたり、握手をしたりしてたんだよね」。ぼくも見てたけど、「そういえばそうだね」。そうしたら、次の日にゴルフの練習かどこかに行って、突然、血管が切れちゃったのか。帰ってきて、ひっくり返って、そのまま病院に行って、それっきりですよ。

ぼくの場合、親兄弟の命日はまったく覚えてないけど、ジョージさんの命日は11月1日だから、覚えています(笑)。覚えやすい日に逝ってくれて(笑)。

——ジョージさんのバンドに入っていたときは、ほかではあまり仕事はしてなかったんですか?  

いや、自分のバンドなんかで仕事があるときはトラを頼んで。ハービー・ハンコック(p)とのレコーディングやアーチー・シェップ(ts)とのヨーロッパ・ツアーとか、このときは6か月間留守にしましたけど、「帰ってきたらまた頼むぞ」といわれて。それで、帰ってきて連絡したら、「おお、明日から来い」。そういうふうにいってくれました。

ぼくがいないときはいろんなベースとやったんだろうけど、気に入らないんですよね。ぼくが忙しくなったときに、マネージャーが「ゴンさんが忙しいんで、誰々さん、レギュラーでどうですかね?」って、ジョージさんにいったら、「馬鹿、ベースはゴンに決まってるだろ」といわれたらしいですよ。

——それじゃ、辞められませんね。

辞められない。なんで気に入られたかっていうと、ぼくは合わせるのが上手いから。間違えても、ホイホイホイとすぐ合わせる。そういうことで、ぼくを頼りにしてたみたいです。

ハービー・ハンコックとレコーディング

——そのあと、ニューヨークでハービー・ハンコックとレコーディングをするじゃないですか(注14)。どういうことで実現したんですか?

あれは、川口さんのバンドでやっている真っ最中です。中村照夫というニューヨーク在住のベーシストとプロデューサーが懇意で。「オレもニューヨークに行きたい」といっていたら、「じゃあ、連れていってあげる」。それで、「誰とやりたいの?」「ハービー・ハンコックがいいですね」。恐れ多くもそういったら、「段取りをつけるから」となったんです。

(注14)『水橋孝&ヒス・フレンズ/ワン・チューズデイ・イン・ニューヨーク』(Denon)メンバー=水橋孝(b) ハービー・ハンコック(p, elp) 中村照夫(b) ブルーノ・カー(ds) 77年2月22日 ニューヨークで録音  

そのプロデューサー氏がアーチー・シェップとすごい友だちだったんで、そのあとにシェップの日本ツアーにぼくが参加しているんです(79年)。

——プロデューサーって小沢善雄(注15)さん?  

そう、小沢さん。マサチューセッツ大学で教鞭を執ってて。シェップもそこでジャズの歴史かなにかを教えていたらしい。お互いにマサチューセッツに住んでいて、すごく仲がよくて。

(注15)小沢善雄(レコード・プロデューサー)70年代に日本コロムビアのDenonレーベルを中心に数多くのジャズ、フュージョン作品をプロデュース。 

そんなことで、小沢さんがシェップ・カルテットの日本ツアーを組んだんです。組んだけど、ぼくのことをすごく買ってくれていたから、「日本にこういうのがいるから、ベースは彼で頼む」って、推薦してくれて。

だけどシェップは渋って、「全員ニューヨークから連れていく」。でも最後は折れて、「お前がそれほどいうなら、1回だけつき合う」。それで2週間ぐらいですか、日本のツアーにぼくが入って。

初日が「厚生年金会館ホール」だったかなぁ。終わって、小沢さんの奥さんとシェップがハイヤーでホテルに帰る途中、ぼくの演奏を聴いたシェップがすごいショックを受けていたらしくて。その前に、スタジオでリハーサルもやっていたんですけど、ね。

それで次の朝、奥さんから電話がかかってきて、「昨日、アーチーと一緒に帰ったけど、あなたのこと、なんていってたと思う?」「なんていってました?」「オレはショックだった。あんなヤツが日本にいたのか」。

——このときは、ツアー終了後にレコーディングもしています。

ホレス・シルヴァー(p)の曲を集めたレコードね(注16)。そんなこんなですごく気に入ってもらえて、2年後のヨーロッパ・ツアーに呼ばれるんです。

(注16)『アーチー・シェップ/トレイ・オブ・シルヴァー』(Denon)メンバー=アーチー・シェップ(ts) ミッキー・タッカー(p) 水橋孝(b) ロイ・ブルックス(ds) ハワード・ジョンソン(tuba) 79年4月11日 東京で録音  

ハービーのレコーディングはその前で、77年の2月22日。なんでそこまで覚えているかっていうと、2月22日は市川の誕生日なの。ニューヨークでいちばん寒いころですよ。スタジオに行ったらいるんです、あの顔が(笑)。「ほんとに? マジで」。緊張しましたけどね。それだっていまから40年前の話です。

そこに、運悪くジャコ・パストリアス(b)とバスター・ウィリアムス(b)が遊びに来て、スタジオのミキサー・ルームで観てる。そんな中でやったんですから、そりゃあ緊張しました。それまでは、まさか自分がアガるとは思っていなかったんです。サウンドチェックのときはすごく上手くいってたの。「オレは最高だ」とか思ってた(笑)。そうしたら、ジャコとバスターがいるじゃないですか。

バスターとは顔見知りだったし、日本で何回も会ってる。だけど、もう普通じゃいられなくなって、ウォッカをがぶ飲み。頭の中がウァーンとなって、なにをやっているかわからない。それがレコードになっちゃった(笑)。

——でも、あれは名作です。

いやいや、ひどいもんです。

——あのころの水橋さんは、ニューヨークですごいミュージシャンといくつかアルバムを作っていて。

そうでしたね。友だちになっていたピアノのミッキー・タッカーに呼ばれてレコーディングしたのが次の年(注17)。このときは、カーティス・フラー(tb)やジョージ・コールマン(ts, as)と一緒でした。

(注17)『ミッキー・タッカー/テーマ・フォー・ア・ウギ・ブギ』(Denon)メンバー=ミッキー・タッカー(p) ルイ・スミス(tp) カーティス・フラー(tb) ジミー・バフィントン(frh) ジョージ・コールマン(ts, as) 水橋孝(b) エディ・グラッデン(ds) ノブ漆山(per) 78年11月15日、16日 ニューヨークで録音

 ——そのころは、来日したミュージシャンのツアーに参加したり、レコーディングもしたりして。

マリオン・ブラウン(as)は、アーチー・シェップとツアーした少しあと(79年11月)で、ツアー中にライヴ・レコーディングもしました(注18)。

(注18)『マリオン・ブラウン/79118 Live』(DIW)メンバー=マリオン・ブラウン(as) デイヴ・バレル(p) 水橋孝(b) ウォーレン・スミス(ds, per, marimba) 79年11月8日 「弘前市民会館」で実況録音

シェップ・カルテットで3か月のヨーロッパ・ツアー

あれは、プロデューサーの小沢さんから電話がきて。東北のツアーをしてたときですよ。「シェップがぜひ来てくれないかといってる。そんなありがたいことないよ」といわれて、こっちも「ほんとですか?」。

川口さんのバンドが忙しいころで、1年ぐらい先まで仕事が入っているんです。そのころはまだ松本英彦さんもいて。ジョージさんに恐る恐るいったわけですよ。「実はアーチー・シェップから誘いがきて、『ヨーロッパに来てくれないか?』といわれたんですけど」「そうか。そういうビッグな話は一生に一回あるかなしだ。行ってこい」。快く送り出してくれました。「その代わり、帰ったらまた頼むぞ」。

ヨーロッパで3か月ツアーしたあとは、アメリカのマサチューセッツで3か月遊んで、ギャラをぜんぶ使い果たしました(笑)。最後は飛行機代まで借りたんですから(笑)。月曜日から金曜日まではだいたい近くのゴルフ場。小沢さんの奥さんが終わるころに迎えにきてくれて。

そんな生活をして、たまに ニューヨークに行く。友だちがいっぱいいたけど、みんな貧乏してて、こっちにはお金がある。だから気前よく奢って。そんなことをやってたから、あぶく銭じゃないけど、きれいさっぱりなくなりました。

アメリカのバンドだから、ヨーロッパ・ツアーではいいギャラをもらっていたんです。1ドルが280円のころに、週給で800ドル。パリを根城にして、あちこちの国に行く。パリにいるときはホテル代や食事代は自分で出すけど、旅になるとユーロ・パス、個室の一等のパスをもらって。向こうでも、旅に行くと打ち上げみたいなのがあるんです。食事もタダだし、ホテル代も出るから、けっこう残りました。

オランダのデン・ハーグでやってた「ノース・シー・ジャズ・フェスティヴァル」、あれにも出たんです。サム・リヴァース(ts)のカルテットとアーチー・シェップのカルテットと、ダブル・カルテットの8人で、コンサート・ホールでやりました。

ダブル・カルテットだから、「なにやるんだろう?」と思っていたけど、打ち合わせもなにもなし。アーチーがいきなりピアノで「ポロン、ポロン、ポロン」てやってるの。そうしたら向こうのベース、デイヴ・ホランドが「ドン、ドン、ドン」て弾き出して。結局、コード一発のフリー・ジャズ。

——アーチー・シェップはどんなひとだったんですか?  

ナイス・ガイ。いつも「マイ・ブラザー」で。旅に行っても、部屋で「プップップ」で軽く音を出してるか、マドロス・パイプでマリファナをふかしているか、女を口説いているか(笑)。パターンはみっつ。

——そのときはヨーロッパ・ツアーだけ。

そう。とりあえずアメリカに行って、1日置いて、集まって、ケネディ空港(ジョン・F・ケネディ空港)からパリのド・ゴール空港(シャルル・ド・ゴール空港)に行ったのかな。それであちこちを3か月くらい回って、そのあとはマサチューセッツで3か月遊んで。このときは演奏しなかった。アーチーが「ヴィレッジ・ヴァンガードに出る」っていうんで行ったら、「お前、弾いていけ」とかはありましたけど。

ヨーロッパでは、アーチー・シェップのカルテット、サム・リヴァースのカルテット、トニー・ウィリアムス(ds)のカルテット、日野(皓正)さんの入ったデイヴ・リーブマン(ss)のクインテット、そういうのが同じようなところを回っていたんです。「ジャポネ?」「ウィ、ウィ」「テルマサ・ヒノを知ってるか、来週来るぞ」とか「先週来たぞ」とか、そういう感じで。

ずっと回って、最終日がイタリアのジャズ・フェスティヴァル。アーチーのカルテットとデイヴ・リーブマンのクインテットが出たんです。向こうではアーチーのほうがスターだから、トリです。

それで、ぼくの楽器はしょっちゅう変わるの。最初の1週間くらいは日本から新品の弦を持っていって、張り替えて。1週間ぐらいすると、楽器が替わる。ヨーロッパだからいい楽器が来るかと思ったら、とんでもない。ベニヤのひどいのばっかり。最終日ならいいのが来るかなと思ったけど、このときも弦高が高いヤツで。血豆ができるぐらい必死になって弾かないといい音が出ない。

そうしたら、デイヴ・リーブマンのところのベース、ロン・マクルーアが聴いていて、「なんでアイツがアーチーのバンドにいるんだ」。その前まで、日野さんとデイヴが、「ゴンは力強くていいベースだな」って話していたらしいの。そこに割って入ってきて、ロン・マクルーアがそういったものだから、ふたりが、「バカヤロー、なに聴いてるんだ」っていってくれたらしい(笑)。「あの最悪なリズム・セクションをアイツがひとりで盛り上げているのに、なに聴いてるんだよ。お前の人間性を疑うぞ」。それを聞いたときは嬉しかったですね。

すごいと思ったミュージシャンは?

——時期は違いますが、ロン・カーター(b)ともやっています。

ロン・カーターとはね、ジョージ川口さんの45周年のリサイタルかな(90年)。そのときに来て、ベース3人、ピアノ3人、ドラムス3人、そういうリズム・セクションで、一緒にやるんです。伴奏はひとりワン・コーラスずつ。

その何年か前に、熊本でジャズ・フェスティヴァルがあって、行ったんですよ。そうしたら嵐になって休止だっていう。会場が山の上だから、街に下りて、食事に行ったんです。ところが雨が上がって、フェスティヴァルが始まったの。ジム・ホール(g)とロン・カーターのデュオがね。

帰ってきたら、エンドピンを長く伸ばしたまま、ぼくの楽器が裸で置いてある。「誰が使ったんだ?」「ロン・カーターが弾いてました」。コノヤローと思って「ふざけるんじゃない」って怒鳴りつけました。

リハーサル用にひどいベースがあったんです。聴いてるひとはそれで弾いてると思ったみたい。「さすが、ロン・カーター。あのベースでいい音を出してた」っていってるらしいんですよ。それで、次の日、空港で文句いったら、「オオ、ユー、メーン」とかいうから、「バカヤロー、ふざけるんじゃない」(笑)。

そんなことがあって、数年後に川口さんの45周年リサイタルで来たわけ。そうしたら、すごい下手(したで)になって、「ヘイ、ワンダフル、メーン」とかいっちゃって。こっちもプレイが終わったあと、すごく気持ちよくできたから、それはそれで面白かったですけど。そんなこともありました。

——いろいろなひとと共演してきて、いちばんすごいと思ったミュージシャンは誰でしょう?

ハービー・ハンコックとゴンサロ・ルバルカバ(p)。ドラムスではエルヴィン・ジョーンズ、アート・ブレイキー、ロイ・ヘインズ、フィリー・ジョー・ジョーンズ。いちばんすごかったのはロイ・ヘインズ。やってて、「オレ、合ってるのかな?」って、不安になったもの。

ほかのひとはたしかにすごいけど、別にどうってことはない。普通にやれば合うから。ロイ・ヘインズだけはなんか不安になる。そういう気にさせるドラマーでしたね。レコードを聴いてるぶんには普通にすごいけど、やったらほかのドラマーとまったく違う。あんなに不安になるドラマーはいなかったです。

アート・ブレイキーも本当に素晴らしい。だけど、やりやすかったし。やりにくいといったらエルヴィン・ジョーンズかな? クセがあるから。だけどあのひと、「オレは遅くなるかもしれないけど、お前は自分のビートを刻め」「オレに合わせないで、自分のビートでやれよ」といってくれました。

——いまの話ではドラマーが多いじゃないですか。ふたりのジョージさんのバンドにもいましたし。水橋さんにとっては、ドラマーが演奏する上で気になる存在というか大事なんでしょうか?

それはたまたまです。自分の気に入らないドラマーもいっぱいいます(笑)。ほとんど気に入らないひとばっかりだから(笑)。そういう超一流のひととやったからいえることであって。

——ベーシストにとって、ドラマーはかなり重要な要素ですよね。

まあ、そうでしょうね。やっぱり気になります。自分の思っているポイントに来てくれないとね。ピアノでいちばんすごいと思ったのがハービー・ハンコック。自分がアドリブをしているときに、となりにいるから、こっちを見ながら、弾かないまでも、すぐ弾けるように手が鍵盤の上にありました。間が空いたら埋めてやろうっていう、そういう心構えがすごい。

——相手のプレイをよく聴いているってことでしょうね。

こっちはまったくダメでしたけどね(笑)。ほんと、お恥ずかしい。

——でも、あれは名盤です。  

そんなことないですよ。なぜかといえばCDになってないから(笑)。

——ジョージさんが亡くなったあとは、基本的にフリーで。

まったくフリーですね。いまは昔の仲間、市川中村誠一、関根英雄や村上寛(ds)とかとは2か月か3か月に1回やるぐらいですかね。

——最近の活動は?

浅草に「ソウルトレーン」というセッションの店があって、そこの親父が池田二郎というんですが、親父といったってぼくよりだいぶ若いけど、気に入ってくれて、月のうち10日ぐらいオファーがくるんです。ぼくも嬉しいし、やっぱり毎日のように弾いていることで現状維持ができる。公開練習のようなもので、酒も飲ませてくれる(笑)。ありがたいことですね。若いひともやりに来る。アマチュアだけど、そこはレヴェルが高い。いっぱい来るんですよ。やってて楽しい。

——それにしても面白い人生ですね。

まあ、「小説よりも奇なり」ってヤツですね。こんなツイてた人生ってあるのかな? 不思議な人生ね。

——最初に「ベースをやらないか」といわれなかったら、ぜんぜん違う人生になっていた。

いってくれたひとの奥さんが、また美人でカッコいい。女性なのに、「お前はオレの舎弟だから、困ったことがあればなんでもいうんだよ」といって、ものすごく可愛がってくれた。実の弟がいるけど、青二才でくそ真面目で。「オレの弟は面白くないから、お前が舎弟だ」とかいって(笑)。そんなことで、こっちも慕っていたんですよ。

——今日は興味深いお話を聞かせていただき、ありがとうございました。

取材・文/小川隆夫

2019-05-26 Interview with 水橋孝 @ 六本木「椿屋珈琲店 六本木茶寮」

 

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