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【証言で綴る日本のジャズ】清水万紀夫|父親は『上海バンスキング』のモデル

連載インタビュー「証言で綴る日本のジャズ」 はじめに

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が「日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち」を追うインタビュー・シリーズ。今回登場するのはアルト・サックス/クラリネット/フルート奏者の清水万紀夫。

清水 万紀夫/しみず まきお
アルト・サックス、クラリネット、フルート奏者。1936年3月5日、東京都中央区越前堀生まれ。本名は清水牧夫。父親がクラリネット奏者の東松二郎で母親が歌手の清水君子。奥田宗宏ブルースカイ・オーケストラ、池田操リズム・キング、吉屋潤クルー・キャッツを経て、大学卒業と同時にニュー・シャープス&フラッツ、次いでブルーコーツに入団。それと並行して、稲垣次郎ソウル・メディア、その後は猪俣猛サウンド・リミテッドおよびザ・サードなどで活躍。スタジオ・ミュージシャンとしても多忙を極め、ペギー・リー、クリス・コナー、マレーネ・ディートリヒ、フランク・シナトラなどの来日公演に参加。演奏活動のかたわら後進の育成にも尽力し、現在にいたる。レコードは、『インストルメンタル・シリーズ、クラリネット編』(フィリップス)など多数。

父親は『上海バンスキング』のモデルだった

——みなさんには生まれた場所と生年月日からお聞きしているので、そこからお願いします。

生まれは東京で、八丁堀の近所にあった越前堀というところ。いまの地名でいうなら新川(東京都中央区)、永代橋の近くです。生まれは昭和11年(1936年)3月5日。近所にはアルト・サックスの五十嵐明要(あきとし)さんがいて。

——五十嵐さんは人形町のご出身ですものね。

うちも八丁堀より人形町に近いんです。両親はどちらも音楽をやっていて、演劇とか踊りとかのひとと慰問で満州に渡って。ぼくは東京に残り、母親のおじいさんとおばあさんに育てられる。弟は満州で生まれました。

——戦時中、疎開はされました?

宮大工みたいなことをやっていたおじいさんのお弟子さんが茨城県の水戸にいたんで、「東京は危ないから引っ越していらっしゃい」。その1年くらい前におばあさんが亡くなっていたので、おじいさんと、ぼくが小学校一、二年のころにそこへ疎開して。だけど、そっちで何回か艦砲射撃を受けました。疎開先の家は水戸市内で、近くに基地があったんです。だから、そこを狙って。

そのころ両親は離婚していて、お袋だけ一度満州から帰ってきたことがあります。というのも、水戸でおじいさんが亡くなったもんだから、お袋が心配して。そのときに、踊りかなにか忘れちゃったんですけど、お袋と満州の慰問に行っていたひとの実家が岩手県の西和賀町、秋田の横手に近いところで、奥羽山脈の山のほうにあるんで、そこへひとりで移って。家の前が越中畑小学校。そこも、おじいさんとおばあさんしかいないうちで。

——五十嵐さんにお聞きしたんですけど(『証言で綴る日本のジャズ 2』に収録)、八丁堀は東京の空襲(45年)で燃えて。

五十嵐さんのうちは「聞楽亭(ぶんらくてい)」って寄席をやっていて。

——講談の席亭ですよね。

うちは永代橋の近くで、疎開したあと、空襲にあったようですけど。

——水戸から岩手に行かれたのはいくつのとき?

小学校の二、三年ですね。それで、お袋は満州に戻って。

——そろそろ終戦ですよね。

ぼくが10歳のときです。終戦になって、母親と弟が帰ってきて。ひとりで迎えにきたのか弟もいたのか覚えてないけれど、戦後すぐに、ぼくが小学校五年くらいですか、迎えにきてくれました。

だけど東京の家は焼けて、洗足池にあった淡谷のり子(注1)さんの家の敷地に空いているところがいっぱいあるからって、そこにバラックを建てて。それで洗足池に、水島早苗(注2)さんとお袋、あと中川三郎(注3)さんの奥さん(シャンソン歌手の中川よう子)と。3人とも淡谷さんのお弟子さんで、上海かどこかで一緒にやっていたんですね。そういうことで、いろいろ面倒を見ていただいて。そのころは、水島さんと中川三郎さんの奥さんとの三人で、新橋の「フロリダ」でコーラスをしていたと聞いています。

(注1)淡谷のり子(歌手 1907~99年)日本シャンソン界の先駆者で、〈〜ブルース〉と名のつく歌謡曲を何曲も出したことから「ブルースの女王」と呼ばれた。

(注2)水島早苗(歌手 1909~78年)高校卒業後にデビューし、57年に「水島早苗ヴォーカル研究所」設立。死後の85年には、ジャズ専門紙『ジャズワールド』が「水島早苗ジャズヴォーカル賞」(現在の「日本ジャズヴォーカル賞」)を創設して功績を称えた。

(注3)中川三郎(タップ・ダンサー 1916~2003年)ニューヨーク市立大学卒。「社交ダンスの父」と呼ばれる、日本におけるモダン・ダンスの創始者。日本タップ・ダンス界の祖でもあり、昭和の日本の興行界に一大センセーションを巻き起こした。長女は女優、タップ・ダンサーの中川弘子。

戦時中、お袋は上海にいて、帰ってくるときは、児玉機関(注4)て、満州の馬賊の親分の世話になっていたんです。それで弟と日本に帰ってこられたみたいで。

(注4)右翼の運動家である児玉誉士夫が41年に海軍航空本部の依頼で上海に作った機関。戦略物資の調達にあたったとされる。

——終戦のときは岩手にいて、お母様と弟さんが帰ってこられて、東京に戻り、淡谷さんのところにバラックを建てて住んでいた。それが、戦後間もないとき。

そうです。それからアパートを転々として、最終的には中野の江古田に。その前は中野駅の真ん前(南口)、いまは「龍生堂」(2019年9月30日に閉店した「クスリの龍生堂薬局」中野店)という薬屋さんになっていますが、昔はそこが「明治屋」だったんです。そこの5階の部屋に、母と弟の三人で少しの間、住みました。

店の前が戦後のバラックで、あの辺にいたやくざみたいなひとが火をつけたりして。いまでいえば地上げ屋ですか? そういうひとたちが出入りしていて、物騒だったんです。それで江古田に引っ越しして、江古田小学校の六年に編入しました。弟は駅の近くにあった桃園小学校に通って。

——いくつ違いですか?

ふたつ違い。

——それで江古田に落ち着いた。失礼な話かもしれませんが、お父様は有名なミュージシャンですよね。

アズマニアンズを作った東松二郎(cl as)ですけど、ふたつのときに別れたきりで、ぼくは顔も知らない。戦後に出た『昭和のバンスキングたち』(ミュージック・マガジン)って本、斎藤憐(れん)(注5)さんが、水島さんとかに話を聞いて、あの時代のことを面白おかしく書かれた本があります。父親はその本のモデルといわれていて、母も出てきますし、だいたい当たっているみたいですが、ぼくはそういうこと、いっさい知らないんです。

(注5)斎藤憐(劇作家 1940~2011年)66年俳優座養成所を卒業し、「劇団自由劇場」結成に参加。68年佐藤信の「演劇センター68」結成に参加。「オンシアター自由劇場」に脚本を提供し、串田和美が演出した『上海バンスキング』で80年に「岸田國士戯曲賞」受賞。

——じゃあ、お父様と同じクラリネットを吹かれているのも偶然なんですか?

偶然です。

——てっきり習ったのかと思っていました。

クラリネットとの出会い

小学校のときは、学校から帰ると、弟とご飯を食べて、それからお袋が仕事に行く。日曜日は昼間からお袋にいろんな仕事があるから、下井草のサレジオ教会(カトリック下井草教会)の日曜学校に連れていかれて。あそこは夕方までずっと遊んでいられるんで、そこで楽器を覚えたんです。

サレジオ教会は、のちにスチュワーデス殺し(注6)の犯人を匿(かくま)ったといわれている教会で、ヨーロッパの宣教師さんがいっぱいいて。

(注6)59年3月10日、杉並区善福寺川宮下橋でBOAC社(現在のブリティッシュ・エアウェイズ)のスチュワーデスが死体となって発見された。6月、重要参考人とされた元交際相手でサレジオ教会所属のベルギー人神父が突如帰国し、事件は迷宮入りとなった。

——松本清張(注7)が書いていますよね(注8)。

そこの一部の宣教師がすごく悪いひとで、砂糖の横流しとか、そんなんでお金がいっぱいある。とにかくなんにもない時代ですから、日曜学校で1日すごして。江古田小学校では野球部に入っていたので、野球もできる。それから楽器も置いてあって、「なにかやりなさい」。楽器はなんでもよかったけど、クラリネットしか空きがない。それを日曜学校で習って。

(注7)(小説家 1909~92年)53年『或る「小倉日記」伝』で「芥川賞」受賞。58年『点と線』『眼の壁』を発表。これらの作品がベストセラーになり松本清張ブーム、社会派推理小説ブームを起こす。以後、『ゼロの焦点』(59年)、『砂の器』(61年)などの作品もベストセラーになり、戦後日本を代表する作家となる。

(注8)事件をモデルに、61年に中央公論社から刊行された小説『黒い福音』のこと。

たまたまお袋の行ったキャンプで知り合ったのが萩原哲晶(ひろあき)(cl, as)(注9)さん。デクさんてあだ名で、のちに〈スーダラ節〉を作曲したひと。このひとがクラリネットの名人なんです。それで、お袋が仕事で一緒になったときに、「うちの息子がクラリネットをやってるけど、教えてやってくれない?」。それで、デクさんのところに習いに行くようになったんです。

(注9)萩原哲晶(cl as 1925-84年)東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)器楽科、陸軍戸山学校軍楽隊を経て、48年南里文雄(tp)ホット・ペッパーズでハナ肇(ds)と知り合う。49年デューク・オクテット、52年デューク・セプテット結成。55年ハナ肇や犬塚弘(b)らとキューバン・キャッツ結成。その後は〈スーダラ節〉(61年)などクレージーキャッツのほとんどの作編曲を手がけた。

 当時、萩原さんは京王線の下高井戸に住んでいて、ハナ肇(ds)(注10)さんとか植木等(g)(注11)さんとかが、夜中に仕事が終わって帰れないから、そこにたむろして朝まで、なんていうのがよくありました。ぼくが行っているときも、ハナさんや植木さんたちが来ていました。

(注10)ハナ肇(ds 俳優 1930~93年)本名は野々山定夫。46年から刀根勝美楽団でドラムスを担当。55年4月ハナ肇とキューバン・キャッツを結成。のちに、植木等(g)、谷啓(tb)らが加わり、57年ハナ肇とクレージーキャッツとなる。

(注11)植木等(g 歌手 俳優 1926~2007年)47年刀根勝美楽団のバンドボーイとなり、50年萩原哲晶(cl)とデューク・オクテットにギタリストとして加入。52年山崎唯(p)と大石康司(b)で植木等とニュー・サウンズを結成し、54年ごろは「モカンボ」のハウス・バンドとして活躍。54年 フランキー堺(ds)とシティ・スリッカーズを経て、57年クレージーキャッツの前身となるキューバン・キャッツに移籍。

——それがいつぐらいのときですか?

中学に入ってから。

——じゃあ、13とか14とか。クレージーキャッツ(注12)が結成される前ですね。クラリネットは日曜学校でも教わって。

そのころ、お袋がお世話になっていたやくざの親分がちゃんとした学校に割と顔がきいたんで、「青山学院とかのいい学校に入れ」といわれました。だけど萩原先生のレッスンがとても面白くて、楽器がなんとなく捨てがたい。小学校のころから、ペギー・リー(vo)の〈アゲイン〉とかのレコードをうちで毎日聴いていて、ぼくはベニー・グッドマンのクラリネットも大好きだったのね。下井草の高校に入ればその楽器が借りられる。それで、青山学院には行かなかったんです。

(注12)55年4月からハナ肇(ds)とキューバン・キャッツの名で活動を開始し、進駐軍のキャンプ回りをしていた際、演奏中に洗面器で頭を叩くギャグが大受けし、「You’re crazy!」といわれたことから57年にクレージーキャッツに改名。

その親分が政治結社とか右翼系だったので、高校に入ってからはそういうのに染まって。それで、高校は一年でクビです(笑)。二年のときは、そのひとの顔で芝の正則高等学校、芝高(芝高等学校)のとなりにあった高校に入るんです。そこも結局、二年でクビになって。お袋は再婚しなかったけれど、世話になったそのひとから、「ジャズなんかやるんだったら、出ていけ」といわれました。

行くところがないから、結局、萩原さんのお世話になるんです。萩原さんといえば、藝大(東京藝術大学)で藤家虹二(ふじか こうじ)(cl)さんの先輩ですし、N響(NHK交響楽団)でガーシュインの曲、〈ラプソディ・イン・ブルー〉とか〈パリのアメリカ人〉とか、そういうのをサクソフォンやクラリネットで独演ができるぐらいのひとだったんです。

それで、萩原さんにN響の首席クラリネット奏者で藝大と国立(国立音楽大学)の先生でもあった大橋幸夫(注13)さんを紹介してもらって。「ぼくに似て、ジャズばっかりやっていて困っているんで。行く学校もないし、補欠でいいから、付属高校にでも入れてくれない?」といってくれて。補欠ですけど、国立の付属高校(国立音楽大学付属高等学校)に入れてもらいました。

(注13)大橋幸夫(cl 1923~2004年)NHK交響楽団首席クラリネット奏者として活躍し、国立音楽大学の教壇にも立つ。日本クラリネット協会永久名誉会長、国立音楽大学名誉教授、N響団友。

高校にはオーケストラがあって、クラリネットはふたりいる。だけど、そのときは作曲家の佐野鋤(たすく)(注14)さんの息子で、同級生の佐野正明(注15)しかいなかった。それで、ぼくもクラリネットの担当になれたんです。編入したときに、丸山明宏(注16)、のちの美輪明宏が二年で退学し、入れ違いでぼくが入ったんです。

(注14)佐野鋤(作曲家 1908~96年)主にジャズや流行歌のジャンルで、クラリネット、サックス奏者、指揮者、作曲家、編曲家として活動。後年佐野雅美と改名し、こちらの名前でも知られる。

(注15)佐野正明(cl)佐野鋤の次男。12歳でクラリネットを始め、大橋幸夫に師事。国立音楽大学クラリネット科を卒業し、小野満とスイング・ビーバーズのリード・サックスやスタジオ・ミュージシャンとして活躍した。

(注16)丸山明宏(歌手 1935年~)進駐軍のキャンプ巡りを経て、57年日本語カヴァーの〈メケ・メケ〉で注目される。独特の装いから「シスターボーイ」と評されたのがこの時代。以後は役者としても活躍し、71年美輪明宏に改名。

高校編入後にプロ活動を開始

——そうはいっても、音楽学校ですから生半可のことでは入れてもらえないのでは?

音楽についていうなら、素養がなにもないんで、前の学校に行っているころから大橋先生やほかの先生からピアノや歌などのレッスンを受けていました。

——萩原さんではなくて?

しばらく前から大橋先生のお弟子さんになったんです。そのあとは国立音大にそのまま進みました。試験を受けても藝大なんかには入れっこないし、ピアノも弾けない。国立のほうが居心地がいいし。

——国立の後輩に鈴木孝二(cl. as)さんがいらっしゃいますよね。鈴木さんにお話を聞いたときに(『証言で綴る日本のジャズ 2』に収録)、清水さんのことも話題になりました。あのひとも大橋先生の門下生でしょ? それで、大橋先生のところに習いに行ったら、「ジャズなんかダメだ」といわれたとか。

あの時代はダメだったんです。藤家虹二(注17)さんも高校のころから大橋先生の門下生ですよ。藤家虹二さんが藝大生のころ、新聞社かなにかのコンクールで1位になったことがあるんです。そのころ、学校に関係なく、大橋門下生ということで、藤家さんと〈クラリネット三重奏〉とか、いろいろやらせていただいて。

(注17)藤家虹二(cl 1933~2011年)東京藝術大学音楽学部器楽科に首席で入学し、首席で卒業。在学中「毎日音楽コンクール管楽器部門」で第1位に。在学中からジャズに身を投じ、平岡精二(vib)クインテット、池田操(vib)リズム・キングを経て、59年南部三郎(vib)クインテットに参加。南部の脱退で、同年藤家虹二クインテットとして再出発。以後、この世を去るまでリーダーを続けた。

——それで、国立音楽大学に入られる。アルバイトでクラブに出るようになったのは、いつごろから?

高校三年で編入したときからやってました。10年ほど前に亡くなりましたけど、同級生の佐野正明が「帝国ホテル」でザ・スウィング・オルフェアンズって、ブルーコーツの前身のオーケストラ、そこに毎日じゃないですけど、アルバイトで行ってたんです。それに刺激を受けて、ぼくも付属の高校に入ったころからアルバイトを始めました。

当時のアルバイトでいうなら、米軍キャンプでたくさんのジャズ演奏家が必要になり、フリーのミュージシャンを集めるため、東京駅の北口広場に米軍キャンプからトラックが来ていました。楽器を持っていれば誰でも仕事ができた時代です。高校で同級生だった荒木省二さんと何度も参加しました。ちなみに、そのころの労働者の賃金は240円(そこから〈ニコヨン〉という呼称が生まれた)くらいで、キャンプに行くと1日で1200円くらいもらえました。

荒木さんは肺結核のため教育科に移り、のちに荒木音楽事務所を設立します。亡くなったあとは弟さんの浩三氏が引き継ぎ、「フェイス」という名で現在も活動しています。父親は荒木陽さんで、中川三郎さんと同じころにタップ・ダンスを広めたひとです。

——ジャズは萩原さんのところで教わった?

萩原さんはデューク・オクテットでいろいろなところに出ていたんです。それを中学のときから観に行ってました。ナイトクラブには入れないけれど、銀座の「テネシー」みたいな、ああいうジャズ喫茶には入れるんです。「入れる」といったら変だけど。

——そういうところを覗きにいって、教わって、ジャズを身につけて。

ぼくは、クラシックよりジャズのほうが好きだったんです。

——サレジオではクラシックですよね。

宣教師が教えているから、いわゆるシューベルトの曲とか、誰かのセレナーデとか、それをクラリネットで教えてもらったりね。そういうのはあったんですけど。そのころからベニー・グッドマンやペギー・リーの歌を聴いていたから、それでジャズが好きになりました。

——高校からプロみたいになって。覚えている中で、最初にお金をもらったのはどんなバンドだったんですか?

最初ではないですが、きちんとしたところに出たのは、萩原さんの紹介で、自分でグループを作って。そのころ、銀座では交詢社(注18)がいくつかのナイトクラブを経営していて、そのうちのひとつが「日動シロー」。そこに出ていたのが、萩原さんのいたバンドで、リーダーがピアノの桜井センリ(注19)さん。このバンドは9人編成で、ほかには萩原さんの藝大時代の同級生で早川さんというトランペットもいて。そのチェンジ・バンドとしての仕事をもらったんです。

(注18)1880年(明治13年)に福澤諭吉の提唱で結成された日本最初の実業家社交クラブ。銀座の交詢ビル(6丁目)地下の「交詢社シロー」が1号店。その後、「日動シロー」(5丁目)、「クラブ・シロー」(8丁目)、「バー・シロー」(同)、「カジノ・シロー」(6丁目)がオープン。

(注19)桜井センリ(p 俳優 1926~2012年)ロンドン生まれ。大学時代から活動し、ゲイスターズ、フランキー堺(ds)シティ・スリッカーズ、三木鶏郎「冗談工房」を経て、60年ハナ肇とクレージーキャッツ参加。

——どういう編成で?

ぼくのクラリネットとリズム・セクションのカルテット。メンバーは思い出せません。入ってすぐに大学受験があったので、これは解散しました。そのあとは、銀座二丁目の並木通りにあった酒屋の二階の横山音楽事務所に所属する米元宏とリズム・スクールというバンドに入りました。

——メンバーは覚えていますか?

リーダーがベースの米元宏、ピアノが大野三平(大野肇の名でも活躍)、ギターが西さんというひと、ヴァイブが八田実、ドラムスが久崎功、それとぼくの6人編成です。そのころは米軍キャンプの仕事が中心でした。

——一緒にやっていたひとはみなさん年上?

いえ、だいたいみんな同じくらい。そのメンバーとのつき合いがいちばん古いし、最後までつき合ってました。そのバンドはとっても好きなバンドでね。いろんなところにテストで行ったり、楽しいんです。ただ、三平がビバップ志向で、クラリネットが大っ嫌い(笑)。でも、あのころはクラリネットが入ってないとテストに受からない。そういう時代だったんです。

——クラリネットが人気だったから。

それで米軍のクラブに行くとビバップばっかりやってニコニコしてるんですけど、銀座のクラブやなんかのテストに行くとサックスはいっさいダメで、クラリネットでベニー・グッドマンの真似みたいなことをして。だからいろいろいいバンドはいたけど、だいたいぼくらが受かっちゃう。

リズム・スクールは関西から来たバンドが元になっていて、それを米元さんが受け継いだんです。関西から出てきたころのバンド名は知りません。のちにウエストライナーズに入るサックスの鈴木重男とかがいたバンドが東京に出て、そこにぼくが入ったんです。

というのも、鈴木重男が「クラリネットばっかりじゃつまらない」といって関西に帰っちゃったから。そのころ、前田憲男(p)さんなんかも関西から出てきて、その連中とよくやっていました。前田さんもふたつぐらいしか年上じゃなかったし。「あの時代のバンドはあまりよくなかった」(笑)とか、前田さんはいってたけど。

——メンバーは一定していたんですか?

一定してて、ぼくが辞めたあとは、高知出身の相撲取り(学生相撲)で、シャープス&フラッツに入ってジョン・コルトレーン(ts)みたいなことをやって、アメリカにずっといて、向こうで亡くなったヤツ。名前がちょっと出てこないけど(西村昭夫)(注20)、そのひとが入って。そのバンドは、ときどきメンバーを替えながら最近まで続いてました。

(注20)西村昭夫(ts 1936~92年)早稲田大学在学中は相撲部に所属し、全国学生選手権で2位。59年に発売された水原弘の〈黒い花びら〉(「第1回日本レコード大賞」受賞)にテナー・サックスで参加。当時は原信夫率いるシャープス&フラッツに所属。80年代にアメリカに移住し、92年にニューヨークで死去。

——清水さんは、辞めて、どうしたんですか?

そのバンドで米軍キャンプ回りをしたあとは、渋谷にあった中川三郎さんの店にテストを受けて入りました。このときのメンバーは、ピアノが菅野邦彦、ベースが鈴木勲、ドラムスが久崎功で、ぼくのカルテットです。しばらく安定していましたが、アメリカからクラリネットのトニー・スコットが来日し、コンサート・ツアーのために菅野邦彦と鈴木勲が引き抜かれて解散です。あの時代は学校と仕事を両立させるため、たくさんバンドを変えました。

さまざまなバンドで活躍した高校〜大学時代

——そのバンドをやりながら、清水さんはいろんなバンドで仕事をするようになった。

そうです。横山音楽事務所では、夕方までに必ずユニフォームを着て、楽器を持って事務所にいなきゃいけない。夕方の五時ぐらいになると、「どこのキャンプに行け」とかいわれる。それで、楽器を持って、場所だけ教えてもらって、厚木とか立川とか、電車で行くんです。

——学校はどうしていたんですか?

学校にも行ってましたけど、ぼくは国立音楽大学を卒業するのに八年かかったんです(笑)。ギリギリです。8年目に「出ていけ」といわれて(笑)、卒業させてもらいました。卒業するときに、大橋先生から、「ジャズに溺れすぎているから、モーツァルトはいっさい吹いちゃいけない」といわれました。モーツァルトの曲はレッスンも受けさせてくれなかったんです。

高校生だった鈴木孝二なんか、ぼくが受けているレッスンを聴きに来ると、いつもいじめられているんで、居たたまれなくなって、そのうち来なくなっちゃった。だから孝二は、音楽大学に行こうか違う大学に行こうか、ちょっと躊躇して、一年ぐらい遅れているんです。ぼくが大学の四年のときに、孝二も四年生になって、同級生になっちゃった(笑)。彼は、いろんなグループでやっていたんで、そのあと大学を辞めたみたいだけど。

——そのころになると、さまざまなバンドで清水さんは活躍するようになっていましたが、当時はどんなことを考えていたんですか?

清水のキンさん(清水閏)(じゅん)(ds)とか、ああいうとってもいいひとに、「お前ねえ、クラリネットばかりやってて、クラリネットぼけでスウィング・ジャズのノリしかできないようになったらみっともないぞ。サクソフォンもできるようにしたほうがいい」といわれたのが大きいです。

学生時代、ぼくは楽譜を見ると間違えちゃうんで、いつもコンチェルトは暗譜してやってたんです。そういうのが受けて、卒業演奏会にも出してもらえました。そのころはギャルドーというフランスのとてもいいブラス・バンドに憧れていて、大橋先生に「卒業したら専攻科に入りたい」と話したら、「8年もいて、真面目にクラシックばかり勉強してきたヤツに悪いだろ」。そのときはほんとうに悩みました。でもあれは先生の親心で、そういってもらえたおかげで、揺れていた気持ちが固まりました。

ぼくは、先生や先輩とか、いいミュージシャンに恵まれたと思います。束縛されないと練習をなかなかしないほうだから、「サクソフォンを練習しろ」といわれて、スタジオ仕事でお金に余裕があったので、テナーとかバリトン・サックスまで買いました。

——高校からプロで始めて、大学に入られて。最初に入った有名なバンドは、奥田宗宏さんのブルースカイ・オーケストラ?

高校のころに入りました。さっき話した横山音楽事務所って、ほんと、映画に出てくるような事務所で。下が酒屋で上がやくざのたまり場。そこで博打をやったり。ぼくら、あのころは1万5000円くらいの月給でした。それでも足りなくて、毎日1000円ぐらい借りて、それをおいちょかぶかなにかですぐに取られちゃう(笑)。いつもバンス(前借り)ばっかり。

そのころ、ブルースカイ・オーケストラは新宿にあった「不夜城」ってキャバレーに出演してて。あとは、NHKオールスターズとして歌謡曲の伴奏もやって、けっこう羽振りがよかったんです。それで奥田さんが、「お前、今日はキャンプの仕事がないから、おれのところに来て、サクソフォンを勉強しろ」。人数が足りなくなると、アルト・サックスで呼ばれるの(笑)。

——ブルースカイも横山音楽事務所の専属?

奥田さんがそこのオーナーだったんです。それでバンスばかりしていたんで、「うちに来て働け」って。

——音楽的には勉強になったんですか?

楽器を覚えた程度で、ならなかったですね。そこでも休憩時間にポーカーをやったりして、巻き上げられちゃう(笑)。

——結局、稼ぎはもっていかれちゃうんだ(笑)。ブルースカイではあまりジャズっぽい演奏はしなかった?

歌謡曲ばかりですね。そのころは、ほかにもいろんなバンドに行ったり来たりしてました。有名じゃないけど、高柳昌行(g)さんとか清水のキンさんとかがやってた、銀座周辺のナイトクラブの仕事にちょくちょく入ったりとか。

——そっちはバリバリのジャズ?

ナイトクラブだからダンス・ミュージックが中心。高柳さんのバンドに入れたのも、「サクソフォンはダメだから、クラリネットを入れろ」と店にいわれて、なんです。ただ、高柳さんたちは、渡辺辰郎(as)さんとかとリー・コニッツ(as)みたいなクール・ジャズをやっていたんです。それをクラリネットで吹けるひとがいない。

そういうことで、リー・コニッツみたいにクールなアルト・サックスをクラリネットで吹けたものだから、バンドに誘われて。〈鈴懸の径〉やラテンのフルートもぼくは吹けるので、それもあって、そういうひとたちと共演させてもらえたんでしょう。

——こういうのはレギュラーの仕事ではなかった。

レギュラーの仕事でいうなら、「ホテルオークラ」がオープンのとき(59年)、八城一夫(p)さんのバンドのチェンジで、シャンペン・ミュージック(ダンス・ミュージック)を演奏するバンドにちょっと入ったことがあります。萩原哲晶さんとその弟さんで、沢田駿吾(g)さんのところにいたピアノの萩原秀樹さんがバンドを組んだんです。兄弟ふたりでアレンジをして、クラリネットとサクソフォンの三管で、演奏するのはシャンペン・ミュージック。

そのころ、そこは石井好子音楽事務所が仕切っていたんです。銀座の「日航ホテル」(現在は閉館)の地下にシャンソンの店があって、そこも石井好子音楽事務所のブッキング。その繋がりで、そこでもシャンソンの伴奏をやらされたり。そのときのタイコが清水のキンさんだったんです。

憧れのリズム・キングに抜擢

——ところで、万紀夫さんというのは本名でないとか?

本名は牧夫と書くんです。お袋がハンコとかに凝って、初めの子供が生まれたときに字画がなんとかって。それで芸名じゃないですけど、ずっと万紀夫で通してきました。

——最初から仕事は万紀夫さんでされていたんですか?

公のところ、稲垣次郎(ts)さんや猪俣猛(ds)さんのグループに入ってレコーディングなどに携わるようになったころからそちらの名前で。

——キャンプやどこかのクラブで演奏するときは本名で。池田操(vib)さんのリズム・キングにも入っていたんですね。この時期はまだ牧夫さん?

どうだったかなあ? リズム・キングには「ホテル・ニュージャパン」がオープンしたとき(60年開業)に入りました。

——ホテルの専属バンドということで。

池田操さんは50年代にリズム・キングを結成して、最初のころは、秋満義孝(p)さん、鈴木章治(cl)さん、荒井のぼる(g)さんとかとでやっていたんです。ぼくが入ったのは、それが解散したあとです。先生だったデクさんや藤家虹二さんも入っていたことがあったので、「どうしてもリズム・キングに入りたい」と思っていたけれど、そのときは解散したあとで。そうしたら、ホテルの専属バンドとして再結成されることになって、秋満さんが推薦してくれたんです。

ぼくが入ったときのリズム・キングにはとてもいいメンバーがいたんですよ。池谷(いけたに)タダシさんてピアノとベースの金子さん、ドラムスが沢田駿吾さんとやっていた松下アキラさん。それに池田さんとぼくの5人編成。

ホテルがオープンしたときからこのバンドでやるようになったんですけど、1年くらい続いたところで、京都の「ベラミ」の近所に「おそめ」というナイトクラブができたんです。ここは俊藤浩滋(しゅんどう こうじ)(注21)さんて、東映の重役でしたけど、その奥さん(上羽秀)(うえば ひで)がママで。当時、京都の「おそめ」と銀座の「おそめ」と飛行機で行ったり来たりして、〈空飛ぶマダム〉と呼ばれていたひとです。そのひとのナイトクラブで、そこに引っ張られたんです。

(注21)俊藤浩滋(映画、テレビ・ドラマのプロデューサー 1916~2001年)60年京都の御池に320坪の「おそめ会館」を開業し、ダンス・ホールやナイトクラブを経営。同年、東宝から鶴田浩二を東映に引き抜いたことで、鶴田のマネージャー兼東映のプロデューサーになる。娘が富司純子で孫が五代目尾上菊之助、寺島しのぶ。

ところが「おそめ」に行ったその日に、池田さんが博打でギャラをぜんぶ巻き上げられて。本来ならワン・クールの3か月で終わるはずだったのが、そのおかげで半年になって、それが1年に延びて。ぼくは大学に籍があったから、京都の仕事は続けられない。関西には同じ年の古谷充(たかし)(as)って、クラリネットも歌もとても上手い、そういうひとがいたんで、彼に「頼む」といったら、「いまさらクラリネットはやりたくない」。いろいろ探してみたけれど、ちゃんとしたプロでは替わりが誰もいなくて。そうしたら俊藤さんが、「じゃあ、クラリネットは誰かに頼むから、お前は帰っていい」といってくれて。

——「ホテル・ニュージャパン」が1年くらいで、京都も1年くらい。

京都では、試験のときに東京に帰ってましたが、通算すると1年くらいいましたかねえ。

——吉屋(よしや)潤(ts)さんのバンドにもいらしたでしょ。

それもそのころですね。

——大学生だった鈴木孝二さんが、「新宿のキャバレーに、吉屋さんのバンドで出ている清水さんをよく覗きにいって、勉強させてもらった」とおっしゃっていたけど。

それはキャバレーじゃなくて、「クラブ・エリーゼ」だと思います。そのときのメンバーは、リーダーが吉屋さん、ギターが杉本喜代志さん、ピアノが飯吉信さん、ベースが根市タカオさん、ドラムスが誰だったか。このバンドでは、アルト・サックスとバリトン・サックスを吹いていました。

——そのあとは?

レギュラーといえるのは稲垣次郎(ts)さんのソウル・メディア。

——それは何年ごろ?

大学卒業後(62年)だと思います。稲垣さんがリーダーで、トランペットの伏見哲夫さんとぼくの3管に、慶應(慶應義塾大学)の学生だった大野雄二(p)のトリオがメンバー。それで、フュージョンのはしりのようなものをやってました。

人気オーケストラでも活躍

——60年代に入ってからの清水さんはオーケストラでも活躍します。

オーケストラでは、ニュー・シャープス&フラッツができて、それに入ったのが大学を出たあとです。60年代になって、原信夫(ts)さんのシャープス&フラッツがミュージカルの仕事をするようになったんです。こういうときはアメリカから指揮者が来て、オーケストラのメンバーは日本人が務めるんです。だけど、ちゃんと譜面が読めてミュージカルのできるバンドが、シャープ以外だと日本にはほとんどいない。

それで、シャープがミュージカルの仕事に入ると3か月も4か月もほかの仕事ができなくなる。その穴を埋めるため、ニュー・シャープス&フラッツを、ドラマーの武藤敏文さんがリーダーになって作ったんです。そのときに入ってきたのが、サックス奏者のジェイク・H・コンセプション。だけど、すぐ渡辺弘さんのスターダスターズに引っ張られて、彼が辞めて。そのあとに、ぼくがニュー・シャープスに入るんです。フルバンドのちゃんとしたリード・サックスをやるようになったのが、そのときからです。

あと、原さんがいないときは、ニュー・シャープスがコロムビアで歌謡曲の伴奏をする。これがコロムビア・ニュー・シャープスというオーケストラ。それがつまらなくなって、ぼくはニュー・シャープスを辞めました。

そのころに、やっぱりコンボがやりたくて、猪俣猛さんのサウンド・リミテッドに入るんです。初期のサウンド・リミテッドは、中牟礼貞則(g)さん、穂口雄右(org)さん、鈴木淳(elb)さん、それとぼくがフルート。この編成で、69年に「日比谷野外音楽堂」で開催された「第1回サマー・ジャズ」に出演し、ハービー・マン風の演奏をしました。ラテン・ロックみたいなもののはしりです。並行して、稲垣次郎のソウル・メディアも不定期でやっていました。

——同時にブルーコーツにも入られて。

60年代後半ですね。ブルーコーツを辞めるときのリズム・セクションは海老沢一博(ds)とコルゲン(鈴木宏昌)(p)と鈴木淳(b)で、サックス・セクションはぼくがリードで、セカンドが宮沢昭(ts)さん、四番が村岡建(ts)、それにアルト・サックスの菊地秀行がいて、バリトン・サックスが誰だったかな? けっこう、若手で固めていました。

そのころのブルーコーツはコンサートばっかりやってたんです。ところが、コンサートでは「ワン・コーラスでソロは終わり」と決めても、サクソフォンがソロに入ると、上手くできるまでやめない(笑)。みんな難しい曲ばっかり書いてきて、自分たちでアレンジして、やらせてもらう。そんなこんなで、いつもコンサートはボロボロでした。

それであるとき、ゲストでジェイクが来て。あのひとはすごいひとで、〈バンブル・ブギ〉とか、ああいうのを循環呼吸(息継ぎをせずに鼻呼吸で吹く奏法)で、しかもダブル・タイム(倍のテンポ)でぜんぶ吹いちゃうの。いろんな音色も駆使して、なんでもできるひとですから。

それがきっかけで、「コンサートにも連れていってほしい」となったんですけど、毎回のゲストは無理なので、「メンバーならいい」と。ジェイクみたいなひとが入って、まとまったほうがいい。それで、彼がメンバーになって。そうすると、同じアルト・サックスの菊地秀行が貧乏くじを引いて。彼が参加するのはダンス・ホールとか、そういうところだけ。そっちにジェイクは来ないから。

そんなことがあったり、ブルーコーツもテレビで『家族歌合戦』みたいな番組とかをやるようになるんです。そういうのがイヤで、あるときサクソフォン全員とリズム・セクション全員が辞めるんです。

でも、トランペットの森寿男さんが「潰すのは申し訳ない」といって、残って。このことがきっかけで、森さんがブルーコーツのリーダーになります(70年)。そのときに、森さんはシャープから五十嵐明要さんを引っ張ってきて、彼を中心にブルーコーツを立て直したんです。それにしても、五十嵐さんのリードは素晴らしかったです。ぼくがリードを吹いていたころのサックス・セクションはアンサンブルしなかったですから(笑)。

フュージョンやロックにも挑む

——60年代後半は清水さんがもっとも多忙だった時期です。

ソウル・メディアに入るころからスタジオの仕事が盛んになって、その少しあとですね。

——それが60年代後半。ロックが盛んになってきたころです。

ええ。それで、イノさん(猪俣猛)が、ハービー・マン風から四管編成のブラッド・スウェット&ティアーズ(BS&T)(注22)みたいなバンドにサウンド・リミテッドを変えるんです。ラッパ(トランペット)が吉田憲司とのちにアメリカに行く大野俊三、トロンボーンがアメリカに行って最近帰ってきた今井尚(たかし)、それとぼくのアルト・サックスとテナー。この四管で、オルガンが穂口雄右、ギターは川崎燎、水谷公生、松木恒秀など、よく代わりました。あとは、ベースが鈴木淳で、パーカッションが中島御。

(注22)60年代後半から70年代にかけて人気を博したブラス・ロック・バンド。

——猪俣さんが、68年にアメリカで BS&T を聴いて、「これからは BS&T だ」ってことでサウンド・リミテッドを結成して。70年に BS&T が日本に来たとき、サウンド・リミテッドで「武道館」に出ましたよね。それ、聴きに行きました。

前座をやりました。あのころは、渡辺貞夫(as)さんのバンドとチェンジでジョイントでとか、そういう仕事も多かったです。

——そのころは、ジャズ喫茶よりコンサートが多かったんですか?

地方はそれが多かったですね。労音(「全国勤労者音楽協議会」の略称)とか民音(同「一般財団法人民主音楽協会」)とか。

——サウンド・リミテッドの次は、それをオーケストラに拡大したザ・サードを猪俣さんが結成する。それにも参加されて。

アメリカに行ってから BS&T みたいなバンドを始めたけれど、イノさん、ほんとうはジャック・デジョネット(ds)がやってるような音楽がやりたかったみたいです。ぼくも一緒にアメリカに行ったことがあるんです。イノさんの奥さん(シンガーのテリー水島)(注23)がハワイでミュージカルに出させてもらったときも、イノさんについて行ったし。それから、キューバン・ボーイズがキューバでレコーディングしたときもイノさんと行きました。

(注23)テリー水島(歌手 1938年~)60年九州の米軍キャンプでデビュー。63年上京。ナイト・クラブ「マヌエラ」の専属歌手となり、猪俣猛(ds)とウエストライナーズにも参加。その後フリーで活動。

そういうときに、イノさんと「ラテンのああいうノリは大切だから」と話したことを覚えています。彼はそのあとブラジルに行って、帰りにまたハワイで落ち合って、一緒にいろいろなバンドを聴きました。結局、「ああいう3拍子系のリズムは、おれたちには無理」(笑)。挫折して、それで作ったのがザ・サードというオーケストラ。そのときのリードがジェイク・H・コンセプションです。

——ザ・サードが活動していた70年代初頭、日本のジャズ・シーンは、ジャズをやっているひとがロックから影響を受けて、ロックのフェスティヴァルに出たり、ロックのひとたちとの交流がありました。そういうところに清水さんも出ていて。

そうですけど、「ピットイン」なんかは、そういうフュージョンみたいなものはダメだって。猪俣猛のサウンド・リミテッド、稲垣次郎のソウル・メディア、石川晶(ds)のカウント・バッファーローズはみんな似たような編成で、スタジオ・ミュージシャンばっかり。リーダーだけが違う(笑)。だから、出入り禁止になったんです。

スタジオ・ミュージシャンとして多忙を極める

——スタジオとライヴの両立は難しいでしょう?

日野皓正(tp)君なんかは偉くて、ジャズに専念したいから沼津に引っ越しちゃったし。今田勝(p)さんも横浜の奥に引っ越して、スタジオの仕事を辞めて。

スタジオに行ってると、今村祐司(per)とか、渋谷毅(p)や松岡直也(p)とかに、「いい加減、〈スタジオ養老院〉から戻ってこないと、落ちこぼれになっちゃうよ」とさんざんいわれて。でも、お金を一回稼いじゃうと、かみさんたちにもある程度の生活をさせているから、抜けるのが難しい。

スタジオ仕事をしなかった菊地秀行なんかはほんとに悲惨な生活をしていて、気の毒だと思うけど。自分はといえば、いまごろになって賞味期限切れのジャズをまたやるようになった(笑)。

東芝レコードのディレクターだった渋谷典久さんの言葉も大きかったです。あのころは(60年代後半)、渡辺貞夫さん、荒川康男(b)さん、佐藤允彦(p)さんとか、バークリー音楽院(現在のバークリー音楽大学)に行ってきたひとたちがコンボばっかりやっていて、そういうのに刺激もされました。

「お前、それ(コンボ)ばかりじゃなくて、バド・シャンク(as)とか、ああいうひとたちのウエスト・コーストでやっているスタジオなんかでやってみたら?」と、渋谷さんにいわれて。

だけどそのころはかみさんをもらって子供もいたんで、行きたかったけれど、離婚してまでアメリカに行く度胸はなかった。「それができたらいいのかなあ」とは思いましたけど。だから、いまだにこういう世界でやっている。でも、最近はやっぱり寄る年波で、頚椎が悪くなって、サクソフォンが首から吊るせなくなったり。

——そのころは、スタジオの仕事はいくらでもあったんですか?

朝から晩までありました。杉本喜代志や羽田健太郎(p)もそうだけど、ああいう連中が、過労からしょっちゅう貧血でひっくり返って。

——朝まで仕事のやりっぱなしで。

そうなんです。

——ギャラは曲単位ですか? それとも時間単位?

時間単位です。1曲だいたい1時間。ところが、演歌の場合は溜め録りみたいなのがあるんです。「1時間で何曲か録っちゃうから、悪いけど1時間分のギャラで」とか、そういうこともよくありました。

——そのころはテレビにもよく出ていたでしょ。

歌の伴奏で。

——スタジオの仕事もしていたから大忙しでしたね。

阿川泰子(vo)さんとレコーディングをしたら、そのメンバーで1年ぐらいツアーやテレビの仕事が続くんです。阿川さんの最初のアルバム(ビクターから出た77年録音の『ヤスコ/ラブバード』)の編成でずっとやってました。

Yasuko Love Bird ‎『Flyin’ Over』

前田憲男さんがアレンジして、猪俣さんのグループでシャンソンの岸洋子(注24)さんとレコーディングしたときも、「それで一年、ツアーを回ってくれ」。

(注24)岸洋子(歌手 1935~92年)オペラ歌手を目指していたが、心臓神経症のため断念し、病床で聴いたエディット・ピアフに感動してシャンソンに転向。その後、〈夜明けのうた〉(64年)や〈希望〉(70年)などヒットを連発するも、膠原病を発症し、後遺症と闘いながらも活動を継続した。

尾崎紀世彦(注25)さんの〈また逢う日まで〉も前田さんの編曲で、バークリー音楽院の留学から帰ってきた荒川康男さんと一緒に回ってました。

(注25)尾崎紀世彦(歌手 1943~2012年)いくつかのバンドを経て、70年ソロ・シンガーでデビュー。71年〈また逢う日まで〉〈さよならをもう一度〉〈雪が降る〉〈愛する人はひとり〉を連続ヒットさせ、日本人離れしたダイナミックな歌唱により、不動の人気を獲得。

——それ以外だと、外タレが来ると、バックのオーケストラやバンドに入って、やってましたよね。

いつもじゃないですけど、外タレの場合は割とテストがあるんです。たとえば、ペギー・リーはオーストラリアから入ってきたけど、麻薬でサックスだけ入れなかった。そうすると、必要な楽器が吹けるかどうかをテストされる。そのときは、アルト、テナー、クラリネット、バスクラ(ベース・クラリネット)フルート、アルト・フルート、それだけ吹けるひととか。それでテストがあるんです。

——昔は、向こうからシンガーが来ると、シャープス&フラッツが伴奏することがよくありました。

オーケストラはね。そういう大きな編成で来ないときはリズム・セクションだけ連れてきて。あと、フランク・シナトラ(vo)みたいにバド・シャンクがリーダーで来たりとか。そういうときに、テストを受けて入るんです。

——スタジオをやっていると、譜面にも強いから需要が多いでしょう。

いろいろな楽器を使いわけることができるから。

——それを何年くらいやっていたんですか?

平成になるまでやってました。昭和天皇が亡くなってから、1年くらい音楽の自粛が続いたでしょ。それからスタジオ仕事がなくなって。そのころからスタジオの形態が変わって、打ち込みの音楽が中心になったことも理由です。きちんとアレンジができるひともだんだん少なくなってきたし。

——話は尽きないですが、このインタヴューの中心は60年代までですから、ここまでにしたいと思います。今日はほんとうにありがとうございました。

こちらこそ、ありがとうございました。なんか懐かしい話ができて、楽しかったです。

取材・文/小川隆夫

2019-08-24 Interview with 清水万紀夫 @ 新宿「珈琲西武」

 

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