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「これまでのジャズ」と「これからのジャズ」─村井康司 インタビュー

ジャズという音楽は現在、どんな姿をしているのか。100年を越えるジャズの歩みを丹念に考究し、この半世紀の動きを感受してきた批評家は、昨今のジャズをどう解釈し、どう分析しているのか。『あなたの聴き方を変えるジャズ史』などの著作で知られる音楽評論家の村井康司氏に聞いた。

2010年代の出来事

──たとえば、この10年。ジャズ界で起きたことを振り返ると、ロバート・グラスパーとカマシ・ワシントン、あるいはその周辺のプレイヤーたちが多くの関心を集めました。

村井 ロバート・グラスパーは、2012年のアルバム『ブラック・レディオ』が大きなきっかけでしたね。以前の彼もいいピアニストではあったんだけども、あの作品でヒップホップやネオソウル的なものを初めて強く押し出して注目された。

Robert Glasper Experiment『BLACK RADIO』(2012)

──ジャズ奏者のそうした試みは、過去にもありましたね。

村井 たとえば90年代にグレッグ・オズビーとかブランフォード・マルサリスがやってましたけど、なんとなく、木に竹を接ぐみたいな感じがあって。もっと自然になるとこんな感じなのかな、というグラスパーのアルバムが出たのが2012年だから、もう9年前なんですね。

彼は正統的なジャズピアニストなんだけど、子供の頃から周りにヒップホップがあって、ラッパーやDJをやってる友達もいて。そうした身近に親しんできたジャンルの音楽と、自分のジャズのスキルをうまく使ってどんなことができるか。それをやったわけですね。

──カマシ・ワシントンも、同じような性質を持ったミュージシャンですが、グラスパーと違って、デビュー時からずっと “ジャズではあるけれど傍流” なサウンドでした。ただし、作品の随所で「伝統的なスタイルのジャズも、ちゃんとできるよ」っていうサインは見せていた。

村井 そうですね。伝統的なジャズのこともよく知っていて、意外と正統派のプレイヤーなんですね。暴れてるような印象がありますけど、ジャズサックス奏者としてはわりとバランスが取れているのかな、と思います。コルトレーン的なものもできるしビバップ的なこともやれる。楽器のコントロールがちゃんとできる、という意味では非常にバランスのいいタイプの奏者。

Kamasi Washington『The Epic』(2015)

──カマシ・ワシントンが広く認知されたのは2015年。『ジ・エピック』というアルバムでしたね。

村井 『ジ・エピック』を聴いて驚いたのは、とにかく編成がでかい。3枚組だし、スケールの大きな人だなぁ、というのがまず感想としてありました。僕が思うに、70年代にマッコイ・タイナーがやってた『フライ・ウィズ・ザ・ウインド』とか、あるいは彼のお父さんが関係していたホレス・タプスコットのビッグバンド。ああいうものと、彼が子供の頃から好きなタイプのヒップホップ的なものをうまく合わせた感じですよね。

──ヒップホップの背後にある多様な音楽も含めて、上手に捌いている感じですよね。

村井 カマシと関係の深いサンダーキャットもそう。70年代のAORみたいなものまで取り入れているでしょ。マイケル・マクドナルドやケニー・ロギンスをゲストに迎えたり。

──ひと頃、マイケル・マクドナルドやケニー・ロギンスあたりの作品を、からかい気味に「ヨット・ロック」と呼ぶ風潮があって、要するに “ちょっとダサいもの”として扱われてきた。けど、これをサンダーキャットは “超イケてるもの“として導入しました。加えて、70年代のジョージ・デュークっぽいフュージョン・テイストも入れてきましたね。

Thundercat 『DRUNK』(2018)

村井 ジャズの界隈では、フュージョンも「ダメなもの、触れてはいけないもの」みたいな雰囲気でしたよね。ところが、そういう先入観なしに向かい合って、素直に「これ、かっこいいじゃん」って思う人が現れた。

──そんな感性の持ち主たちが、2010年代のジャズを面白いものにしてくれました。

村井 ヒップホップに影響を受けた世代のジャズ・ドラマーたちって、意外とみんなデイヴ・ウェックルが大好きなんですよね。デイヴ・ウェックルとか、ダメなフュージョンの代表みたいに言われがちだけど、テクニック的にはすごい。そこは自分たちも会得すべき、みたいなね。だから “先入観的にダメ”っていうのは無くなっていますよね。

──そこはヒップホップを中心に、90年代以降のクラブミュージックでさかんにフュージョンが引用されてきた効果もあるのかもしれませんね。

村井 そうですね。ボブ・ジェームスとか、ものすごくサンプリングされましたよね。

──そもそもジャズって、生まれた時からずっとフュージョン(融合)を続けてきた音楽ですよね。これは村井さんの著書『あなたの聴き方を変えるジャズ史』を読むと実感が深まります。「現代のジャズ」を読み解くために、ここで、ざっくりとジャズの歴史をおさらいしてもいいですか?

そもそもジャズのはじまりは…

村井 おそらく1800年代の後半、アメリカのニューオリンズという街で生まれたものが原型になっている。それは間違いなさそうなんですよ。

──時代的には、日本がちょうど江戸時代から明治に入った頃ですかね。当時のニューオリンズ(ルイジアナ州)はフランス領で、貿易港として栄えていた。住人の多くはフランス系の人々と、アフリカから奴隷として連行された人々。この二つの文化が、ジャズの原型となる音楽を育んだ。というのが定説ですね。

ニューオリンズを拠点に活動していたジャズ楽団「タキシード・バンド」。1917年、結成当時の写真。後列右から2番目がバンドの中心人物、オスカー“パパ”セレスティン(1884-1954)。

村井 あと、フランス系とアフリカ系の混血を「クレオール」というんですが、ニューオリンズでは彼らの存在が大きかったと思います。もうひとつ重要なのは、ニューオリンズはカリブ海のいちばん北に位置していて、キューバやプエルトリコ、ハイチも近い。これら西インド諸島の音楽もたくさん入ってきたわけです。

──西インド諸島、つまりカリブ海の島々の多くはスペイン領でしたが、ニューオリンズと同じくフランス領だった島もいくつかありますね。独立前のハイチとか。

村井 ハイチの音楽は特に強く影響していると思います。19世紀初めにハイチで黒人革命があり、ニューオリンズに逃げてきた人がたくさんいたのですね。当然、港町なので世界中のいろんな文化圏の人が出入りしていて、その影響もあっただろうし、アメリカ南部のミシシッピ州やアラバマ州あたりの音楽、そしてアパラチア山脈の白人たちの音楽も入ってきたはず。

──アパラチアの音楽には、はるか昔にイスラム音楽から影響を受けた、スコットランドやアイルランドの音楽までもが内包されてる。

村井 そうです。もちろん、フランスの音楽やクラシック、マーチなどとも接点があった。そういう街でジャズは生まれたわけです。

──いわば、世界中のいろんな地域の食文化をブレンドした多国籍料理としてスタートしたわけですね。

村井 だからジャズってそもそも形がないんですよ。例えばブルースって“型”があるでしょ。ポピュラー音楽になるものってだいたい一定のフォームがあるんだけど、ジャズにはそのフォームがなかった。あるとすると、いろんな音楽を取り入れて、いくつかの管楽器とピアノと、まあ、そこらにある楽器で、即興演奏を含んだ演奏をする、という方法論ですね。どっちかというと「やり方」の音楽で、素材はなんでも良い。

──その性質は、現在までずっと続いています。

村井 そうですね。何を取り入れてもいい、ある意味、適当なところがある。ジャズは最初からずっとそうなんですよね。

──なのに、新しいことをやるたびに、多くのジャズファンが「あんなのはジャズじゃない」とか「あれはジャズに対する裏切り行為だ」と非難する。これもセットでずっと続いてきました。

村井 いまでこそ “ジャズの本道”のような扱いを受けている「ビバップ」でさえ、登場した当時は、それ以前のジャズファンがすごく反発したと言われていますからね。

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日本人のジャズ観

──とはいえ現在も、特に日本では “モダンジャズ至上主義”みたいな雰囲気が強い気がしますね。もちろん、それほどに多くの人の心を掴む魅力的なスタイルであるわけですが。

村井 確かに日本のジャズファンの多くは、いわゆるモダンジャズを好みますね。それ以前と以後をすっ飛ばして、まあ、チャーリー・パーカーからジョン・コルトレーンまでかな。その20年ほどの期間が「ジャズ」の対象。もちろん全部のジャズファンがそうだということではないですけど、そういう人がきわめて多いのは確かです。ただ、それって「かつてのジャズ観」に対する修正がはたらいた結果でもあるんですよね。

──というと?

村井 日本の場合、第二次世界大戦の前からジャズが入ってきていて、聴いている人もいたしジャズ評論家もいたわけです。野川香文(1904-1957)とかね。彼の書いたものを読むと、意外と白人のジャズが多いんですよね。

──最近、野川香文の著作『ジャズ音楽の鑑賞』が復刊されましたね。

野川香文『ジャズ音楽の鑑賞』(シンコーミュージック)

村井 あれを読むと、ポール・ホワイトマンに対する記述がすごく多いですよね。面白いな、と思って。あの本が出たのが1948年ですから、戦争が終わって1950年くらいまではポール・ホワイトマン、グレン・ミラー、ベニー・グッドマンとか、そういうものをジャズの中心と捉えていたわけですよね。

これに対して「じつは違うんだよ」と言ったのが、油井正一さんや相倉久人さん。“黒人のやってるジャズ”が本物であって、ポール・ホワイトマンがジャズ王なんてのは嘘です、みたいなね。これはある意味、正しい認識ですけど、そこをあえて意識的に戦略的に、強く出したんだと思うんですよ。

──なるほど。まあ確かに、ロックだってエルビス・プレスリーやビートルズじゃなくて、ほんらい黒人のものだ。っていう言い方だってできますからね。

村井 当時は『スイングジャーナル』のような雑誌の力がすごく強かったから、そこで油井さんが記事を書き、あるいはレコード会社が作品を出すときに油井さんが監修者になって、チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーのような「黒人音楽としてのジャズ」を強く打ち出した。そこは意図的に強く押し出していた可能性はあると思う。

──そうした(60年代の)雑誌や書籍、レコードなどが「ジャズ=アフリカ系アメリカ人の音楽」というイメージを強くした。加えて、当時の日本のジャズファンにとって重要な拠点だったジャズ喫茶も、おおむね同じスタンスをとったわけですよね。

村井 そうすると「ビバップ以降の黒人のジャズが本物である」みたいな雰囲気が作られていく。もちろん、(ビバップ以前の)スイングやデキシーも根強いファンがいますが、だんだん減ってきて、いわゆるモダンジャズのファンが大きくなっていった。

さらにその頃、アート・ブレイキー&ザ・ジャズメッセンジャーズが来日(1961年)。あれはまさにファンキージャズですから “ブラックミュージックとしてのジャズ”を象徴するような存在ですよね。

──それを機に、ちょっとしたジャズブームが起きたそうですね。

村井 そうしたことも相まって “ブラックミュージックとしてのジャズ” がメインストリームになってゆくのだと思います。その後もフリージャズ的なものが出てくるわけですが、これもまさにアフリカン・アメリカンの音楽だった。その象徴がコルトレーンですよね。そうして70年代を迎えるわけですが、もう、それ以降のものは聞かなくていい、となるんですよね。

── “それ以降のもの”とはつまり、70年代に発現した「フュージョン」ですね。これは多くのジャズファンに軽視されてきた “ジャズの一形態”ですが、冒頭で話したとおり、現代のジャズを読み解く上でとても重要なファクターだと思うんです。

フュージョンを取り巻く状況

──村井さんは著書『あなたの聴き方を変えるジャズ史』の中で、“なぜ、あの時期にフュージョンが流行ったのか”を分析していて、マイルス一派のエレクトリック・ジャズや、イージーリスニング、ソウルジャズ、ブラスロックなど、いくつかの素因が絡み合ってブームが起きた、と説明しています。

村井康司『あなたの聴き方を変えるジャズ史』(シンコーミュージック)

村井 無理やり誰かがでっち上げたブームでは全然ない。長い年月の中でいろんなことが起きていたのが、ある時うまくくっついちゃって、という感じがすごくありますね。

『スイングジャーナル』の編集長だった中山康樹さんが、かつてこんな事を言ってました。「若い頃、ジャズ喫茶に行ってゲイリー・バートンとかリクエストするとすごく嫌な顔された」と。これは彼が10代の終わりくらいのときだから、60年代の終わりから70年代初めの話。当時の彼はロックと並行してジャズを聴いていたから、自分のセンスに合うジャズって、エレクトリックなマイルスや、ゲイリー・バートン、ラリー・コリエルとか、その辺だった。

ところが、彼より年上のジャズファンの間では、そういうものはすごく嫌がられていた、と言うんです。年上と言っても当時25〜30歳くらいだろうけど、その人たちは「ああいうのはニセモノだ」ってことを言っていた。そんな事を話していましたね。

──ちなみに村井さんご自身は、当時の空気をどう感じていました?

村井 僕がジャズを聴き始めたのは、その少し後。高校生のときだから73年くらいかな。ちょうど、リターン・トゥ・フォーエバーの最初の作品“カモメ”と呼ばれてたやつが出て、そのすぐ後にヘッドハンターズが出て、っていうタイミング。これを新譜で聴いた。それまではずっとロックを聴いてましたけどね。

Chick Corea『Return to Forever』(1972)/Herbie Hancock『Head Hunters』(1973)

──73年のチック・コリア(リターン・トゥ・フォーエバー)とハービー・ハンコック(ヘッドハンターズ)。高校生の村井さんにはどう聞こえました?

村井 素直に「これ、かっこいいじゃん」と思いましたよ。でもジャズ喫茶に行くと「そんなのはかけません」とか「うちにはありません」みたいな対応されたり(笑)、そういう店もあリました。

巨大台風だった「Breezin’」

──当時はフュージョンとかクロスオーバーという言葉で一括りにされていたようですけど、そのサウンドはかなり多様性がありますよね。

村井 うん、たとえばその頃、ジョン・マクラフリンのマハヴィシュヌ・オーケストラとかも出てきて。これはいわゆるフュージョンよりも、もう少しハードな感じでよすね。そういうものや、ウェザー・リポートはOK、みたいなジャズ喫茶も結構あって。当時の僕は「その違いは何なの!?」と思ったけど、しばらくして「あ、なるほどな…」と。ちょっとわかりにくくて、即興演奏の比率が高いとオーケーなんだなあ、とね。

でもやっぱり、ジャズファンの多くがいちばん好きだったのは、わかりやすいハードバップなんですよね。70年代のその頃になると、フリー・ジャズはあまり聴かれてなかったという記憶があります。

とはいえ、当時の(フュージョン路線の)チック・コリアやハービー・ハンコックを好きな人もいっぱいいたし、嫌がられつつも「まあ、これもジャズだ」と許容されていた感じはありましたね。

──完全に潮目が変わったな、と感じたのはいつ?

村井 『ブリージン』です。76年だから僕が大学に入った年ですけど、これに対しては「あれはジャズじゃない」と言う人はいっぱいいて、実際、それまでジャズなんか聴いていなかった人たちにも支持されてましたね。

George Benson『Breezin’』(1976)

──ジョージ・ベンソンの『ブリージン』。これを聴いた村井さんの反応は?

村井 かっこいいと思いましたよ。同じ年に「スタッフ」の最初のアルバムも出て、これもいいな、と。確かにあの辺の音を、明確なジャズだと言うのは難しいですけど……まさにクロスオーバーですよね。

この時代になるとロックもあるていど成熟してきて、ハード・ロックだけじゃなくて広い意味でロックを楽しむ人たちも結構いたんですよ。彼らはすでにスティーヴ・ガッドやコーネル・デュプリー、エリック・ゲイルとかの名前はよく知っていた。なぜなら自分が聴いているレコードで演奏しているから。

Stuff『Stuff』(1976)

──凄腕のスタジオ・ミュージシャンとして。

村井 そう、どっちかというと裏方ですよね。そういう人たちがバンド組んでアルバムを出した。アメリカンロックやシンガー=ソングライター、初期のAOR的なものを聴いている人たちは、すでに「スタッフ」のメンバーの名前は知っていたし、クルセイダーズのラリー・カールトンやジョー・サンプルの存在も知っていた。そっちの方からお客さんがどっと流れてきた印象はありますね。

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クインシーは知っていた

──もうひとつ、当時のディスコブームもフュージョンに刺激を与えていたのかな、と思います。フュージョン作品の中にはディスコサウンドを意識した曲もかなりあって、DJ向けの12インチシングルも数多く作られていました。あと、さっきのスタジオ・ミュージシャンたちやジャズ奏者が、有名ディスコ曲のバックに起用されている例も結構あります。

村井 確かにそれもありますね。世界的に大ヒットしたヴァン・マッコイの「ハッスル」(1975)なんか、まさにスティーヴ・ガッドやエリック・ゲイル、リチャード・ティーといった、のちの「スタッフ」メンバーが演奏してますからね。

──『ブリージン』のヒットを語る上で、プロデューサーのトミー・リピューマの存在も大きいですよね。

村井 そうですね。リピューマはブルーサム・レーベルでフュージョンの走りみたいなアルバムをいろいろ作って、ワーナーに移って『ブリージン』をプロデュースしたわけですから。

そういう意味で言うと、フュージョンを語るときにクインシー・ジョーンズは意外と重要だな、と思いますね。60年代の終わりくらいに、いち早く当時のソウルミュージックを採用したり、エレクトリック楽器を使ったり、自分で歌ったりもする。彼はそれまでいわゆるポップミュージックのプロデュースを数多くやっていたから、売れるものとか流行るものに対するセンスがすごくはたらいていた。

Quincy Jones『Walking In Space』(1969)

──すでに『ウォーキング・イン・スペース』(69年)あたりから、たっぷりとフュージョン感ありますからね。

村井 当時のクインシーは自分のビッグバンドを率いてはいたけど、場合によってはビッグバンドでなくてもいい、4人でやってもいいんだ、なんなら曲ごとにメンバーを変えても構わない、そんなスタンス。それまで広い意味での “ジャズの世界”で、そんなことをやっていた人はほとんどいないですよね。要するに、彼は一体何をしたのかと言うと、人を集めてきた。もはや自分のアレンジメントにも執着せず「すごい奴を集めてくればいいんだよ、あとは任せる!」みたいな感じでね。

ハービー・ハンコックやチック・コリアはソリストとしてすごいから自分のソロを聴かせるスペースを絶対とるんだけど、クインシーはそういうタイプの人ではない。ソロなんかなくて全然いい。歌、サウンド、ビート。だからフュージョンって「クインシーがやったこと」が大っぴらになった、みたいな気もしてますどね。

パンクとフュージョンの相似

村井 1976年当時、僕は大学のジャズ研に入って、1年上の先輩にめちゃくちゃうまいドラマーがいたんです。在学中に一流バンドのドラマーになっちゃった人なんだけど、彼があるとき「村井はどんなのが好きなの?」って聞いてきた。僕は「最近、クルセイダーズいいと思いました」と答えたんです。すると「いいよね!」ってなって「ドラマーだと誰?」っていうから、ハーヴィー・メイソンって答えたら「おお、最高だよね!!」と。彼が言うには「ああいう音楽をダメだっていう人いるけど、そんな奴らの言うことは聞かないほうがいいよ」って(笑)。

クルセイダーズの9作目『Those Southern Knights 』(左)とハーヴィー・メイソンの初リーダー作『Marching in the Street 』(右)。ともに1976年のアルバム。

──村井さんと同世代の “新しい意識のジャズ系プレイヤー” が登場し始めたんですね。

村井 ちなみに彼はその頃ハーヴィー・メイソンを研究していて、そっくりに叩けるようになっていましたよ。あとね、もうひとつ興味ぶかい現象があって。当時、僕らと同じ練習場所を分け合っていたロックバンドの人たちがいたんですよ。彼らはこの間までプログレとかやっていたのに、ある日突然、パンクをやり始めた。セックス・ピストルズを。

──あっ、同じ時期だ…。

村井 そうなんです。パンクとフュージョンって同じ時期に流行ったの。パンクは、それまであったロックへのアンチテーゼでもあり、フュージョンも同じく、それまであったジャズとは違うものへと向かった。

──その頃、ロックといえばハードロックとプログレが人気で、シンセサイザーを使ったり、ギターテクニックやレコーディング技術を駆使した、壮大な “作品づくり”に向かっていたわけですよね。その揺り戻しとして、粗野でシンプルで衝動的なパンクロックが登場する。奇しくもこれと同じタイミングで、モダンジャズに “中指を立てる” かのようにフュージョンが登場したわけですね。

村井 そう「(フュージョンの)このサウンドが面白いし、気持ちいいんだから、いいじゃん」という感じでね。

──サウンドは違えど、フュージョンとパンクは相似形なんですね。若者たちの同じ“気分”が同時期にそれぞれ反映された。さっき話に出たクインシーの「歌、サウンド、ビート」が、なぜかパンクともシンクロしていて面白いです。

村井 ただ、80年代に入るとフュージョンもマンネリ化していって、みんな似たような感じになっていった。ちょうど録音の手法にも変化が起きた時期で、さらにデジタルシンセサイザーも流行った。その影響も大きいんじゃないかな。キラキラ、ピカピカした音になっていきましたよね。それがスムースジャズとしてまた一つのジャンルを築くわけですけど、その辺りから、聴き手としての僕は「ちょっとなぁ…」ってなってきたのは確かですね。

キラキラ期に“古風な新人”登場

──当然ながら、マンネリ化したフュージョンに対する反動も起きますよね。

村井 それを象徴する人物がウイントン・マルサリスですよね。最初のアルバム『ウイントン・マルサリスの肖像』を出したのが81年だったかな。

Wynton Marsalis『Wynton Marsalis』(1981)

──フュージョン全盛の時代に、アコースティックで古典的なジャズと向き合った作品。

村井 まあ、そんなに新しくはないな…と当時の僕は思いましたけど(笑)、今になって、ウィントンの影響は凄まじいものがあったな、と感じますね。その後に出てきたウィントンの弟子筋が活躍したことを考えると、それはそれで良かったんだ、と思えます。

──その一方で、80年代の後期にM-BASE(エム・ベース)と呼ばれる一派が登場します。決して大きなムーブメントとは言えませんが、当時それなりのインパクトはあった。

村井 個人的にはウィントンよりこっちの方が好きでしたよ。ファンク的なものと、非常に理知的かつアバンギャルドなものがうまく繋がっているような感じがあって。その中心人物であったスティーブ・コールマンの影響力も、今に至るまですごいものがありますね。そこはウィントン・マルサリスと同様、この二人の影響は今のジャズミュージシャンにも強いので、そういう意味ではきちんと繋がっているんだな、という印象です。

Steve Coleman『Motherland Pulse』(1985)

──確かに、80年代に登場した「ウィントンとM-BASE」も、現代のジャズを語る上で意外と重要かもしれませんね。

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フュージョン以降のミクスチャー感覚

村井 それからもうひとつ、80年代から90年代にかけて、ジョン・ゾーンがやっていたことも興味ぶかい。一部で注目されただけですけど、今にして思うと、すごいことをやっていたんですよね。

──ジョン・ゾーンは88年にネイキッド・シティというグループを作りますね。

村井 彼は音楽を広く捉えているところがあって、アバンギャルド・ミュージックなんだけど、たとえば映画音楽やサーフミュージック、ヘヴィメタルやパンクとか、そういうものを自分の音楽に入れてしまっても構わないんだ、というスタンスでしたよね。何でもアリをそこまで極端にやった人はあまりいなかった。当時のジョン・ゾーンのマインドは、今のそれとどこか繋がっている気がするんですよね。

John Zorn『Naked City』(1990)

──92年にライブを見ましたが、客席には全身タトゥのスラッシュメタル風お兄さん、いかにも文化系の真面目そうなメガネ青年、パンクファッションの少女、アディダスのジャージを着たBボーイやスケーターなど、いろんな人種が入り乱れていて、なんか幸せな光景でした。

村井 まさに何でもあり。ネイキッドシティの後も、ジョン・ゾーンはビル・ラズウェルと一緒にペインキラーというユニットやったり、90年代の半ばにはマサダっていうアコースティックなカルテットで、ユダヤ音楽をハードバップマナーでやってたり、面白い試みがいろいろあった。

──その一方で、オーソドックスなジャズの流れにおける「90年代の大きな出来事」って何でしょうかね。

村井 うーん、これは以前にも誰かと話したんだけど、80年代に出たジャズのアルバムを100枚選べ、って言われたらさほど難しくはないんですね。だけど「90年代で100枚選べ」って言われると結構つらい。そんなにあったっけ? っていう。

Joshua Redman『Joshua Redman』(1993)

しいて挙げるなら、ジョシュア・レッドマンとブラッド・メルドーが出てきたことですかね。ただ、それでも印象は薄い。ジョシュアは非常に端正で巧いプレイヤーでバランスもいいけど、吹けば一発でわかるような強烈な個性の持ち主ではないですよね。

そのあとにブラッド・メルドーがリーダーとしてデビューしますが、メルドーの方が個性的ですね。だから、90年代を振り返ると「ジョシュアがあんまり迫ってこなかったな…」っていうね、そんな印象。あと、大きな出来事としては、91年にマイルスが亡くなったことでしょうか。

Brad Mehldau『Introducing Brad Mehldau』(1995)

──90年代になると、ヒップホップとR&Bがポピュラーミュージックの一角を担うようになった。結果的にこのことが、現代のジャズに大きく作用しましたね。

村井 冒頭で話したロバート・グラスパーなんかに繋がる部分ですね。

──あと、この時期にイギリスでアシッドジャズと呼ばれるムーブメントがありました。一応「ジャズ」と名がついていますが、サウンド的にはソウルやファンク、レゲエやブラジル音楽、ラテンジャズなどが基軸になっている。つまり、70年代のフュージョンとよく似ています。

村井 ただし、そこにはDJやクラブカルチャーという新しい要素が加味されていますね。

──その血脈は、現在の南ロンドンを中心とした「UKジャズ」ムーブメントに繋がりました。

村井 それまでのイギリスのジャズといえば、70年代はじめ頃の、いわゆるジャズロックが注目された。キース・ティペットとかソフトマシーンとかね。これらは白人の音楽なんだけど、今のUKジャズってルーツがカリビアンの人が多いですよね。あれだけ強烈に出てきたのはすごく面白い。移民3世くらいの世代かな?

──そうですね、最初の世代はスカ、ロックステディ、レゲエで活躍して、90年代のアシッドジャズや現在のUKジャズで活躍しているのは2世、3世ですね。

村井 ジャズのはじまりはカリブ音楽の強い影響下にあったことを思うと、きわめて真っ当で自然なことだよね。最近「いいなぁ」と思うのは、わりと若いミュージシャンが、バップ以前のアーリー・ジャズはもちろん、フュージョン、AOR、カリビアンとか、いわゆるモダンジャズ以外の場所から自分のアイディアを持ってくること。そっちの方が自然と言うか、ミュージシャンはそういうマインドなんですよね。

アメリカのミュージシャンたちも、ある世代以下の人たちってすごくリテラシーが高いんですよ。これは教育によるところが大きいんですけど、音楽大学できちんとしたジャズヒストリーを学んでいる。その上で、例えばエディ・ラングを聴いて刺激を受けたジュリアン・ラージが現れたり、アート・テイタムとかテディ・ウィルソンにシンパシーを抱く若いピアニストもたくさんいます。

Julian Lage『Sounding Point』(2009)

つまり、チャーリー・パーカー以降だけ聞いていればいい、ってことにもなっていない。そういうものをちゃんと普通に聞いて、これに対して音楽的なアプローチをいろいろ考えることができる、みたいなミュージシャンが増えている印象ですね。

──そうなると、聴く方も一定のリテラシーを求められますね。私のような素人は呑気に聞いているだけですが、村井さんのように論じる側は古典のマイナーなところまで掘り下げなければならない。

村井 そうなんですよ。聴く方も大変。それまでは知らなくてよかったんですよ(笑)。でも、そっちまで目配りがないと、この人は一体何をやっているのかわからない、ってことが起きる。

2020年代の新たな傾向は?

村井 たとえば、パスクァーレ・グラッソっていうイタリア出身のギタリストがいるんですよ。その彼が今年、デビューアルバムを出したんです。ソロ演奏でスタンダード曲を弾いていて、みんなが知ってるコール・ポーターとかエリントン、バド・パウエルの曲とかやってる。

音色だけ聴くと、ジョニー・スミスとかジミー・レイニーとか、そういう感じなんですよ。突拍子もなく新しい事をしていない感じなんだけど、よく聴くと、めちゃくちゃうまい。どうやって弾いているのかよくわからないんです。フルアコを指で弾いていてエフェクター類も全く使ってない。選曲もトーンも「普通」な感じなんだけど、普通のギタリストはこんなことできないよね、って演奏なの。

で、インタビュー読んだら、彼は「ギターでアート・テイタム(ピアノ)みたいに弾くにはどうすればいいか」を考えた結果、クラシックを学んだほうがいい、っていう結論に達してクラシックをすごく一生懸命やったそうです。

Pasquale Grasso『Solo Masterpieces』(2020)

──なるほど。“曲芸”みたいな演奏を披露することが目的なのではなく、本人が「どうしても表現したい音」があって、それをやった結果 “ものすごい演奏になってしまった” ってところがポイントですね。しかもそれって、アート・テイタムの凄さと同じ本質を持っている。かっこいいですね。

村井 あれには虚をつかれた。新しい音色とかエフェクトを使うんじゃなくて、伝統的な音色でスタンダードをやりつつ、よく聴くととんでもない事をやっている。これからもしかして、そういう人が増えるような気もしてますね。

最近だと、サマラ・ジョイというボーカリストにも同じ感想を持ちましたよ。彼女はまだ21歳で、もうすぐアルバムが出るんですけど、これもスタンダードばかり。ビリー・ホリデイがやった曲が半分くらいで、あとはナット・キング・コールの曲とか。

すごく正統派で端正。別に派手なことはやらないし、声が特徴的というわけでもない。フェイク的なこともしないしスキャットをやるわけでもない。ただ、音程とかリズム感とか完璧で、この人超絶うまいなぁ…とひしひしと感じる。声の出し方にも無理がなくて余裕で歌ってる感じ。なのにつまらなくはない。

Samara Joy『Samara Joy』(2021)

しかもそのアルバムに、パスクァーレ・グラッソも参加しているんですよ。たまたま同じ時期にそんな二人が一緒にやってるのを聴いてすごく驚いたし、これからこんな感じのプレイヤーが増えてゆくのかな、とも思いましたね。

──伝統的なマナーに則って、さりげなくすごいことをやる。これがひとつの傾向として現れると、また新しい局面に入った感じがしますね。

村井 最初の話に戻るけど、2012年に『ブラック・レディオ』が出て、その後にドーンと出てきた。ここからまた、ずいぶん情景が変わってきていますね。

──21世紀に入ってから、クラブミュージックやDJカルチャーの影響が強かったから、パスクァーレ・グラッソやサマラ・ジョイのような反動があってもおかしくないですよね。しかし村井さん、こんな未来を予想できました?

村井 できるわけがない(笑)。僕がジャズを聴き始めた頃、40年後のジャズがこうなっているなんて想像できなかった。もちろん、意外と変わらない部分も結構あるし、想像の外というか、考えもしなかったところが全く変わってたりもする。まあ、未来ってそういうもんだからね。

──じゃ、50年後のジャズを想像してもあまり意味ないですね(笑)

村井 50年後のジャズか…。新宿ピットインはあるのかな(笑)。まあ、クラシックでは50年後もモーツァルトもベートーベンもやってるだろうし楽器や編成も変わらないですよね。ジャズも同じで、50年後もトランペットとサックスと、ドラムとウッドベースとピアノで、スタンダードをやってると思うんです。そういうプレイヤーはきっといっぱいいるでしょう。

ただ、そうじゃない事をやっているプレイヤーもいて、意外と同じ部分も結構あるけど、思いもしないところがガラッと変わってたりするかも。音楽的には結構同じだなーって思って聴いていると、見たこともない楽器がチラッと登場したりね。え? 何それ!? みたいな(笑)。

──ありそうですね(笑)。未来も見えませんけど、ジャズには「見えない過去」もあります。録音物になって100年くらいが経ちますけど、その数十年前にはすでに“ジャズらしきもの” が生まれていて、これは写真や文献でしか知ることができません。研究者としては、そこに行って「ジャズのはじまり」を見て、聴いてみたいと思いませんか?

村井 そりゃ見てみたいですよ。1900年くらいのニューオリンズ、行ってみたいですよね。どんな音楽だったんですかね……。意外とつまんなかったりしてね(笑)。

──あはは。その演奏者たちに、今の状況を教えたら「えっ!? このテキトーな音楽が100年も続くの?」って驚くかもしれませんね。本日はどうもありがとうございました。

取材・文/楠元伸哉

この談話で紹介しきれなかったキーパーソンや、近年の重要作品はまだまだたくさんあります。そこで「現代のジャズを理解するための作品ガイド」として、2000年以降に発表されたアルバムを対象に、村井さんに20作品を選んでいただきました。ぜひ、こちらも併せてご覧ください。

村井 康司/むらい こうじ
音楽評論家、編集者。1958年北海道函館生まれ。著書『あなたの聴き方を変えるジャズ史』『ページをめくるとジャズが聞こえる』(シンコーミュージック)、『JAZZ 100の扉』『現代ジャズのレッスン』(アルテスパブリッシング)ほか。尚美学園大学音楽表現学科講師(ジャズ史)。https://note.com/coseyroom/
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