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【証言で綴る日本のジャズ】中村誠一|ベニー・グッドマンとグレン・ミラーの衝撃

連載「証言で綴る日本のジャズ」はじめに

ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズシーンを支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。今回登場する“証言者”はサックス奏者の中村誠一

中村誠一/なかむら せいいち
サックス奏者。1947年3月17日、東京都世田谷区北沢生まれ。中学二年で吹奏楽部に入部し、クラリネットを吹き始める。そのころにジャズと出会い、ミュージシャンになることを決意。国立音楽大学のクラリネット科(三年でサックス科に移る)に進学し、先輩の山下洋輔とのつき合いが始まる。大学卒業前後に結成された初代山下洋輔トリオに参加。72年の退団後は自身のグループやジョージ川口とビッグ・フォアで活躍。77年からはニューヨークで研鑽に励む。80年に帰国し、翌年から89年まで日本テレビ系列『今夜は最高!』に出演。現在まで自己のグループを中心に精力的な活動を続ける一方、『サックス吹き男爵の冒険』(82年)『サックス吹きに語らせろ!』(86年)などの著書もある。

声優になりたかった少年時代

——生まれは?

1947年3月17日。あのころだから病院じゃなくて、下北沢の祖父の家でお産婆さんに取り上げられて。それで3歳のときに新宿の戸山ハイツに。そのときは馬車で引っ越したと聞きました。

——50年ごろでしょう。まだそんな感じで。

子供のころで覚えているのは、小さな太鼓をもらって、バチでいろんなところを叩いて、どんな音がするのか試したこと。母は声楽家になりたかったみたいだけど、幼稚園の先生の資格を持っていたせいか、家に足踏みオルガンがあって、それを左手でドーッと鳴らしながら右手で滅茶苦茶をやるのが好きだった。となりのうちのグランド・ピアノが弾きたくてしょうがなかったけれど、なかなか弾かせてもらえない。

——そのあたりが最初の音楽体験。

足踏みオルガンが大きい。あと、縦笛を小学校の高学年になるとやるじゃないですか。当時はリコーダーじゃなくて竹でできた縦笛。それを吹いたときに、頭の中にあるメロディは指がことごとく命中して、すぐに吹けたの。指使いもなにも知らないのに、なんでできるのかな? と自分でもすごく不思議だった。いま考えるとたいしたことじゃないけど。

——それが小学校の?

四年生くらい。吹く楽器はそれが最初です。

——小学校のころに好きだった音楽は?

歌謡曲は大っ嫌いだった。いちばん嫌いだったのが〈上海帰りのリル〉(注1)。あれを聴くと頭が痛くなっちゃう。歌謡曲は歌詞よりメロディが嫌いだったかな? 〈お富さん〉(注2)は明るいから好きだったけど。

(注1)51年に津村謙の歌で大ヒット。作詞=東条寿三郎、作曲=渡久地政信。

(注2)春日八郎の歌で54年8月に発売され、その年に大ヒット。作詞=山崎正、作曲=渡久地政信。

小学校のときに好きだったのは音楽より落語ですね。父親が好きだったので、古今亭志ん生(注3)なんてしょっちゅう聞いて、真似もしてました。志ん生が歳を取って歯が抜けて、ピッとかいうんですよ。その真似をすると親父が喜んで。落語も、小学校のときは1回聞くと覚えちゃう。覚えられるから話せる。

(注3)5代目古今亭志ん生(落語家 1890~1973年)10年ごろ2代目三遊亭小圓朝に入門。18年、4代目古今亭志ん生門に移籍し金原亭馬太郎に改名。21年に金原亭馬きんを名乗り真打昇進。34年に7代目金原亭馬生襲名。

——落語家になろうとは思わなかった?

声優になりたかったから、思わなかった。

——その時代に声優になりたいなんて子供はいなかったでしょ。

声優というものはわからなかったけど、なんといったってラジオ世代だから。ラジオ・ドラマをしょっちゅう聞いてたでしょ。自分のことを天才じゃないかと思ったのは、国語の本を朗読するときに、感情を入れまくって読むんです。登場人物の背景からなにからが頭に浮かんでくるので、なりきっちゃう。それは、自分でもすごいと思った。それで声優になりたかったの。

小学校では演劇部に入って。演劇部って、自分の体を使って表現するし、無言で演技をするから、「これではない」と。声優は音楽とちょっと似てるんだよね。あとからそう思いました。

——声なり音なりで表現する。

そっちがやりたかった。中学で音楽が好きになったのも、そういうことかもしれない。

ジャズとの出会いはクラリネットと〈ソー・タイアード〉

——それで中学に入られた。

中学では柔道をやっていたんです。

——クラブ活動で?

そう。『姿三四郎』(注4)を観ていたので、女の子にモテると思って(笑)。それをやっているうちに、音楽室に管楽器がいっぱい並んでいるのを見つけたんです。鍵がかかっていて触らせてもらえないけど、ブラスバンドに入れば触れる。でも柔道部に入っていたから、ふたつはダメかなと。そうしたら柔道部で吹奏楽部にも入っている先輩がいて。サックスがやりたかったけれど、クラリネットしかあまってなくて。

(注4)富田常雄の長編小説で映画やテレビでも頻繁に制作された。

——それが何年のとき?

中学の二年になったころ。先生は、「クラリネットってこうやるんだ」といって、ペロペロって1回やったきり。教えてくれるひとがいないし、ブラスバンドもすごく下手で。それでも〈小さな花〉と〈マスクラット・ランブル〉が吹けるようになったのかな?

——それ、難しいじゃないですか。

だから上手かったのよ(笑)。

——縦笛と同じで、知ってるメロディはすぐに吹けたんですか?

いや、ひとりで譜面を見たり、教則本で指使いを見たりしながら。そのころはラジオでジャズの番組がいっぱいあったでしょ。夜の7時ぐらいから各局で夜中まで。モンティ本多(b)さん、志摩夕起夫(注5)さん、いソノてルヲ(注6)さん、油井正一(注7)さんとかの番組。

(注5)志摩夕起夫(アナウンサー 1923~99年)本名は小島幸雄。開局直後のラジオ東京(現・TBSラジオ)の嘱託となり、「シマさん」の愛称から志摩夕起夫を名乗る。同年4月1日放送開始の深夜番組「イングリッシュ・アワー」を三國一朗などと担当(62年6月9日に終了)。これにより日本のディスクジョッキーの草分けとして活躍。60年からフリーに。

(注6)いソノてルヲ(ジャズ評論家 1930~99年)アメリカ大使館勤務を経て評論家に。『ミュージック・ライフ』や『スイングジャーナル』誌を中心に健筆を振るう。コンサートの司会者としても第一人者となり、60年代以降は東京・自由が丘でライヴ・ハウスの「ファイヴ・スポット」も経営。

(注7)油井正一(ジャズ評論家 1918~98年)【『第1集』の証言者】大学在学中から執筆を始め、日本を代表するジャズ評論家のひとりに。東京藝術大学、桐朋学園大学、東海大学などでジャズに関する講義も担当。

それで『モダン・ジャズ・アワー』といったかな? テーマ音楽が〈ソー・タイアード〉。アート・ブレイキー(ds)とザ・ジャズ・メッセンジャーズの演奏で、その〈ソー・タイアード〉でボビー・ティモンズ(p)が弾くコードにしびれたの(注8)。〈ソー・タイアード〉にはウエイン・ショーター(ts)とリー・モーガン(tp)も入っていて、ウエイン・ショーターがサックスなのに、聴いたことのない音で、「なんだこれは?」。アドリブもよくわからなかったけれど、「これはみんな好き勝手にやりたいようにやってるんだな」と思って。そのことが1週間くらい頭から離れなくて、次の週もまた聴いて。その次の週ぐらいに「オレがやるのはこれだ」と決めちゃった。

(注8)『チュニジアの夜』(ブルーノート)に収録。ボビー・ティモンズのオリジナルで、中村が中学2年の61年に発売された。メンバー=アート・ブレイキー(ds) ウエイン・ショーター(ts) リー・モーガン(tp)ボビー・ティモンズ(p) ジミー・メリット(b) 1960年8月14日 ニュージャージーで録音

——その音楽がジャズという認識はあったんですか?

モダン・ジャズというのはわかっていたし、アドリブがあることもわかっていたけど、コードがあるとかは知らなくて。

——ピアノをやろうとは思わなかった?

思わなかったですね。

——吹いていたのはクラリネットでしょ。テナー・サックスを吹きたいとは?

そのときはクラリネットでベニー・グッドマンが好きだったから。最初はチンドン屋みたいでイヤだったけど、やっているうちに好きになって。

——だけど〈ソー・タイアード〉でモダン・ジャズに魅かれて。

そこはちょっと屈折していて、モダン・ジャズにいく前に、古いヤツから辿っていかなきゃと思って。直接モダン・ジャズを聴けばいいのに、その前から聴きだした。

——スウィング・ジャズから?

もっと前のニューオリンズ・ジャズから。

——シドニー・べシェ(cl)の〈小さな花〉を吹いていたんですからね。

当時はピーナッツ・ハッコー(cl)の〈小さな花〉。

——そういうのを聴いて。

真似というか、譜面を買ってきて。〈マスクラット・ランブル〉は譜面があったんで。指使いは難しかったけど、それを練習して。

——譜面は読めたんですか。

読めたっていうほどじゃないですよ。

——それも独学でしょ。

ええ。

——ジャズを意識して聴いたのは〈ソー・タイアード〉が最初?

最初は小学校三年のときに『ベニー・グッドマン物語』(注9)と『グレン・ミラー物語』(注10)をお袋と観に行って、それがすごく楽しくて、覚えていました。だけど、ジャズを意識したのは「モダン・ジャズ・ブーム」のときですよ。

(注9)スティーヴ・アレンが主演した56年のユニバーサル映画。

(注10)グレン・ミラー(tb)の半生を、アンソニー・マンが監督、ジェームズ・ステュアートとジューン・アリソンが主演で描いた54年のアメリカ映画。

——ジャズ・メッセンジャーズの初来日が61年1月で、そこからブームが始まる。中村さんが13歳のころ。

61年に来たときは中学一年で観に行ってないけど、2回目(63年1月)のときは行ったの。ジャズと出会った60年ぐらいは中学生で、そのときに最初に買ったのがベニー・グッドマン(cl)の『ベニー・グッドマン・イン・モスクワ』(注11)という2枚組のLP。

(注11)旧ソビエト連邦時代にモスクワで行なわれたライヴ録音。メンバー=ベニー・グッドマン(cl) トミー・ニューサム(ts) ズート・シムズ(ts) ジェリー・ダジオン(as) フィル・ウッズ(as) ジーン・アレン(bs) ジミー・マクスウェル(tp) ジョー・ニューマン(tp) ジョー・ワイルダー(tp) ジョン・フロスク(tp) ジミー・ネッパー(tb) ウエイン・アンドレ(tb) ウィリー・デニス(tb) ヴィクター・フェルドマン(vib) ターク・ヴァン・レイク(g) ジョン・バンチ(p) テディ・ウィルソン(p) ビル・クロウ(b) メル・ルイス(ds) 1962年7月1~8日 モスクワで録音

——ちなみに、ブラスバンドではどういう曲をやっていたんですか?

中学のときは〈海兵隊〉とか。これはアメリカ軍隊のマーチで、それをやさしくしたアレンジ。

ジャズに夢中

——中学のころはそういうのをひとりでやっていた。

そうやってて、将来は絶対にジャズ・ミュージシャンになろうと思っていました。楽器も自分のがなくて、卒業したら学校に返さなきゃいけない。吹奏楽のある学校に行こうというんで、自分の程度にあった日大桜ヶ丘(日本大学櫻丘高等学校)に入ったんです。そこは中学校のブラスバンドよりぜんぜん上手い。入部したその日に、新入生はみんな帰ったけど、ぼくだけなんとなく部室にいた。そうしたら先輩が大太鼓を床に置いて、自分で作ったバスドラムのペダルを持ってきて、譜面台に合わせシンバルをくっつけて、バンドが始まっちゃった。「エエッ」でしょ。

そのバンドをやっていたのが花岡詠二(cl)さんで、彼は三年になったばっかり。ピアノもいて、大太鼓を叩いていたひとが電気ベースを弾いて、ほかにもギターがいて、バンドが始まった。〈リンゴの木の下で〉とかをやるんですよ。それで「いいなあ」と思って、「花岡さん、このバンドに入れてもらえませんか?」といったんです。そうしたら「いいよ」。花岡さんは両親がバンドをやっていて、ギターも弾けるしピアノも弾ける、おまけにクラリネットも吹けばサックスも吹く。すごかったのね。

それで「お前、コード知ってる?」「知らない」「じゃあ、ブルース知ってるか?」「知らない」。それでブルースのコード進行を教わって。コードは本を読んだりして覚えて、わかるようになった。

花岡さんはクラリネットがすごく上手かったから、「なんでそんなに上手いの?」「だって習ってるもん」「じゃあ、その先生のところに連れていって」。それが当時、国立音大(国立音楽大学)の助教授で、N響(NHK交響楽団)の主席クラリネット奏者の大橋幸夫(注12)先生。日本のクラシックのクラリネットのひとはほとんどがその先生に教えてもらっている。先生のお宅が下高井戸で、高校も下高井戸だったから、学校の帰りにレッスンを受けて。

(注12)大橋幸夫(cl 1923~2004年)NHK交響楽団首席クラリネット奏者として活躍し、国立音楽大学の教壇にも立つ。日本クラリネット協会永久名誉会長、国立音楽大学名誉教授、N響団友。

それが高校一年の10月ぐらいからかな。「君はアマチュア志望か、プロ志望か?」といわれて、「プロになりたい」。「じゃあ、厳しくするから」といわれて、「いままでやったことはぜんぶ忘れて、最初からやり直し」。独学でクラリネットは吹けたけど、オーソドックスなクラシックのクラリネットの吹き方を教わったわけですよ。

——鈴木孝二(cl)さんが国立の先輩で、大橋さんに習って大学に入っていますよね。

そうです。

——鈴木さんにお話を聞いたら、中村さんと同じで、高校のときに弟子入りしましたが、そのときは「君、プロになるのはやめたほうがいいよ。音楽家なんか食べていけないから、サラリーマンになりなさい」といわれて、なかなか弟子入りをさせてもらえなかった。中村さんはすんなり教えてもらえたんですか?

鈴木さんとは6年くらい違うのかな? ぼくのときも怖かったけど、当時はうんと怖かった。ぼくは小学校のときから講談本が好きで『後藤又兵衛』や『左甚五郎』を読んでいたから、「ダメ」といわれたら弟子入りが許されるまで、3日でも4日でも玄関先に座り込んでの気持ちで行ったの。だけど、「教えてください」「いいよ」といわれて、ガクッと力が抜けた(笑)。代わりに「お母さんかお父さんを連れて来なさい」といわれて、翌週、ご挨拶に行って、それから正式に。

——ご両親は反対しなかった。

自分がやりたいことをやれという感じだったので。

——高校一年から習い始めて。学校ではブラスバンドをやって、そのほかにも音楽活動はしていたんですか?

楽しみは花岡さんたちのバンドで一緒にやること。あとはレッスンでしょ。当時の生活は、朝起きるとまずクラリネットの練習をして、ご飯を食べて、学校に行って、2時間目か3時間目には弁当を食べて、昼休みには音楽室でピアノを弾いたりクラリネットの練習。授業が終わったら吹奏楽。うちに帰ったら、ご飯を食べて、あとは寝るまでクラリネットの練習。

——勉強とご飯と寝る以外はずっとクラリネットを吹いていた。

勉強はほとんどしなかった(笑)。だから自分でいうのもなんだけど、見る間に上手くなった。2年半でコンチェルトぐらいは吹けるようになってましたから。そうだ、吹奏楽が終わったら新宿の「木馬」ってジャズ喫茶に行って、コーヒー1杯でジャズを聴いて。だからジャズを聴いているかクラリネットを練習しているか。

——そのころ好きだったミュージシャンは?

いちばんはジョン・コルトレーン(ts)とエリック・ドルフィー(as)。チャールズ・ミンガス(b)のバンドも好きで、「どこでも入れてくれるといわれたらミンガスのバンドに入りたい」と夢見てましたから。ソニー・クラーク(p)も好きでした。セロニアス・モンク(p)はよくわからなかった。デイヴ・ブルーベック(p)がポール・デスモンド(as)やジェリー・マリガン(bs)とやっていたレコードも好きだったし。

——コルトレーンとドルフィーのどういうところが好きだったんですか?

天衣無縫の自由さが好きだったのかな?

——そういうのをクラリネットで吹いてみようとは思わなかった?

それはもうちょっとあとです。花岡さんとは1年だけで、先生に「国立に行きなさい」といわれたけれど行かないで、彼は日大(日本大学)の芸術学部に行ったんです。一緒にやってたひとではピアノだけが残って、またバンドを作った。けれど七夕みたいなもので、演奏は学園祭で年に1回しかできない。どんなふうにジャズを勉強したらいいかもわからないし、コピーするなんてことも思いつかなかった。

高校二年のときに、ジャズ好きの先輩がふたり、バンドの練習を聴きにきて。こちらは年に1度しか演奏ができないし、ジャズがやりたいのを我慢してクラシックの勉強をしているんで、溜まりまくっている。アドリブなんかちゃんとできないからフリー・ジャズみたいになっている。そうしたら、ジャズ好きの先輩に「お前はすごい」と褒められた。それがフリー・ジャズをやるようになった要素のひとつかもしれない。

——バンドではどんな曲をやってたんですか?

〈ウィスパリング〉〈オン・ア・スロー・ボート・トゥ・チャイナ〉、あとは〈浜辺の歌〉とかもやってました。スウィング・ナンバーですよね。

——ジャズといってもハードなものじゃない。

そんなのはできないし、花岡さんの流れでやってただけだから。それでも〈リンゴの木の下で〉は、さすがに「古いなあ」と思っていました。

——よそで演奏する機会は?

花岡さんが卒業して、三鷹のダンスホールで仕事があったんです。そこに「来いよ」と誘われて、行って、お金ももらって。それが二年のときで、そのころからお金がもらえる仕事もしてました。ダンス・パーティに声をかけてもらって、一緒にやったりしてたけど。

——ロックは眼中になかった?

高校三年生のときがビートルズですよ。初めてラジオで聴いたときは、やっぱり新しい音楽だと思いました。だけどロックは興味がなかった。ジャズしか好きじゃなかった。

大学で山下洋輔と出会う

——大学ではクラシックですよね。でもジャズ・ミュージシャンになろうと思っていた。

クラリネットでジャズ・ミュージシャンになろうと思ってた。

——当時、ジャズでクラリネットは古い楽器になっていましたよね。

だから、トニー・スコット(cl)とかジミー・ジュフリー(cl)とかのモダンなひとを探して聴いていた。国立音大の最初の授業で、うしろに女の子がふたりいて、「うちのなんとか」って、ジャズの話をしている。大学に入るときに、国立音大に鈴木孝二さんや山下洋輔(p)さんがいるのは知っていた。オレがストレートで入ると山下さんが四年だなというのもわかっていた。

うしろでジャズの話をしている女の子に話しかけたら、山下さんの妹だった。彼女が「みんなうちにジャズを習いに来てる」っていうから、「ぼくも連れてって」。会ったその日に、阿佐ヶ谷の山下さんのうちに行ったの。行ったら本田竹広(本田竹曠)(p)もいた。それから歌手志望の女の子とか。

ぼくの番が来て、「なにができる?」「〈オン・ア・スロー・ボート・トゥ・チャイナ〉をやります」。メロディを吹いて、「ここだな、オレが真価を発揮するのは」。この曲でアドリブをしようと思えばできたけど、前に滅茶苦茶をやって褒められたから、滅茶苦茶をやったら、山下さんがゲラゲラ笑って、「ジャズというものにはコードがあって」とかいわれたんです。「そんなことは知ってる」と思ったけれど、それが山下さんとの出会い。それからは山下さんちに入り浸り。これが楽しくて楽しくて。

——練習も一緒に?

いや、月謝を払って教わりに行くの。アドリブを書いてきて、それを直してもらったり。ずいぶん国立の学生に教えてたよね。状差しがあって、月謝は500円ぐらいだったかな? そこに入れて、レッスンが終わったらそのお金で阿佐ヶ谷の「焼酎ホール」とかにみんなで飲みに行く。高校生から大学生になったときだから、それも楽しくて。そこに評論家の相倉久人(注13)さんとかが来て、ジャズの話をして。本格的にジャズが好きなひとと巡り会えたでしょ。(渡辺)文男(ds)ちゃんや紙上(理)(しがみただし)(b)さんも来たし、武田和命(かずのり)(ts)や死んじゃった伊勢昌之(g)とかも。

(注13)相倉久人(音楽評論家 1931~2015年)【『第1集』の証言者】東京大学在学中から執筆開始。60年代は「銀巴里」や「ピットイン」、外タレ・コンサートの司会、山下洋輔との交流などで知られる。70年代以降はロック評論家に転ずるも、晩年はジャズの現場に戻り健筆を振るった。

山下さんちの応接間に朝までいて、そこから学校に行ったり。お母さんはたいへんだったよね。朝起きると知らないヤツがいっぱいいて、みんな朝ごはんを食べていくんだから。いくら炊いてもご飯がなくなったって。本当にお世話になりました。

——バンド活動は?

大学一年のときに、練習してたら、先輩に「君、ジャズやるの?」といわれて、キャバレーのバンドにスカウトされて、新宿の「ロイヤル・クインビー」で。イヤでイヤですぐに辞めたけど、1日に3回くらい〈軍艦マーチ〉をやらされる。ホステスが知っているのが〈軍艦マーチ〉で、それを合図に彼女たちがお客を帰らせる。そこを辞めて、あとは武藤敏文(ds)とニュー・シャープ・オーケストラというビッグバンド。

——どういうところに出ていたんですか?

ダンスホールやちびっ子のど自慢のバックとか。それでやってたんだけど、立川のキャンプの仕事で、「桜祭」といって、白いタキシードの上に浴衣を着せられた。それでイヤになった。やっているのがシャンペン・ミュージックだから、音を大きくすると怒られる。若いから、ダンスホールなんかでもアドリブがしたくてしょうがない。そうしたら「EMクラブ」(兵員用クラブ)で酒井潮(org)さんがオルガンでスロー・ブルースをやってたの。「やりたいのはこっちだ。すみません、辞めさせてください」。

——それで酒井さんのバンドに入ったわけじゃないでしょ?

入らせてくれなかったけど、「フルバンドでサックスを吹くのなんてイヤだ」と思って。

——キャンプの仕事はけっこうあったんですか?

ありました。高校のときに花岡さんのバンドで行ったし、大学でも立川キャンプで、山田さんというトランペッターがリーダーのナイン・ピース・バンドでやってました。

——鈴木孝二さんが仰っていたのは、立川キャンプが近いから、当日になって足りない楽器のプレイヤーを探しに来たとか。

それは孝二さんの時代でしょ。ぼくは6年あとだから、状況がだいぶ違う。その6年は大きいですよ。

——当時は、ジャズをやっていると大学は退学になったと。

孝二さんの時代はね。孝二さんが学生のころは仕事が死ぬほどあった。ぼくらのころも山ほどあったけど、ぼくから6年後なんて、キャバレーの時代じゃなくなっちゃったから。カラオケができちゃうと、ね。昔は下手くそでも仕事はいくらでもあったんですよ。

——ベースなんか弾いてる振りをしていればよかった。

立っていればいいというのは、鈴木さんの時代ぐらいまで。ぼくのときはさすがにそういうひとはいなかった。

——そろそろジャズのバンドも組むんですか?

当時はまだ。ぼくはクラシックの練習を一生懸命にやってて、ジャズは本田さんたちがやっていたバンドが最初です。

——本田さんは先輩?

ひとつ上。本田さんがピアノで、山口耕二郎というひとがトランペットで、中村善一郎がアルト・サックス。死んじゃった飯塚さんがドラムス。あとはベースに誰かいて。飯塚さんがコピーしてきた〈グレイシー〉というモダンな曲をやってて、「すごいなあ」と思った記憶がある。それで、そこにもなんとなく参加するようになった(笑)。

——コルトレーンの来日コンサートに行ったのもそのころ。

大学に入ってすぐのとき。

——66年の7月ですものね。

それは山下さんなんかと行ったの。ファラオ・サンダース(ts)が一緒に来て、すごかった。いまだかつてあんな音楽は聴いたことがない。小川さんは行きましたか?

——ぼくは高校一年で、あれが初めて自分でチケットを買って行ったコンサートでした。コルトレーンの最新の演奏を知らなくて、『ジャイアント・ステップス』(アトランティック)(注14)みたいな演奏が聴けると思って行ったらぜんぜん違う音楽で、同名異人のコンサートに来ちゃったのかと思ったことを覚えています。

『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン』(インパルス)(注15)のコルトレーンが来ちゃったからね(笑)。小川さんはファラオ・サンダースを聴いてどう思いました?

(注14)オーソドックスな演奏をしていた時代にコルトレーンが残した代表作の1枚。メンバー=ジョン・コルトレーン(ts) トミー・フラナガン(p) ウイントン・ケリー(p) ポール・チェンバース(b) アート・テイラー(ds) ジミー・コブ(ds) 1959年5月4、5日、12月2日 ニューヨークで録音

(注15)コルトレーンが大胆なフリー・ジャズを演奏していた時代の重要作。メンバー=ジョン・コルトレーン(ts ss bcl) ファラオ・サンダース(ts fl) アリス・コルトレーン(p) ジミー・ギャリソン(b) ラシッド・アリ(ds) エマニュエル・ラヒム(per) 1966年5月28日 ニューヨーク「ヴィレッジ・ヴァンガード」でライヴ録音

——思うもなにも、聴いたことのない音楽にビックリして、茫然自失ですよ。

ぼくはファラオ・サンダースを聴いて、山下さんに「あんなのだったらぼくにもできる」といっちゃった。「バカ」とかいわれたけど。「こういうのだったらオレも負けない」と思っていました。でも、コルトレーンの音色はすごかった。ビャーンと来るでしょ。あれ以降、あんな音は聴いたことがない。

——それが延々と続く。音楽以前に、「すごいものを観ちゃった」という感じで。

お互いに観ておいてよかったですね(笑)。あれ1回だけで、あのあとすぐ死んじゃったから。いやいや、これはみんなが羨ましがるところだよね。

山下洋輔トリオ結成前夜

——山下さんとはどの時点で演奏するようになるんですか?

大学の三年になるときかな? 山下さんが、山尾三省(さんせい)(注16)の詩とジャズのライヴを「ピットイン」で、通常のライヴが終わってからやるというんで、山下さんちの応接間でリハーサルをやったの。そのときに自然とできたのが〈木喰〉(もくじき)で、それがのちのち山下洋輔トリオのレパートリーになる(注17)。リハーサルに参加したら、「じゃあ、お前もやれ」となって「ピットイン」デビューをした。

(注16)山尾三省(詩人 1938~2001年)60年代後半、ななおさかきや長沢哲夫らと社会変革を志すコミューン活動「部族」をスタート。73年、家族とインド、ネパールへ1年間の巡礼の旅に出る。77年、屋久島の廃村に一家で移住。以降、白川山の里作りをはじめ、田畑を耕し、詩の創作を中心とする執筆活動を同島で送る。

(注17)山下洋輔トリオによるスタジオ録音2作目の『木喰』(日本ビクター)に収録。メンバー=山下洋輔(p) 中村誠一(ts, ss) 森山威男(ds) 1970年1月14日 東京で録音

——クラリネットで。

三年のときにサックスに変わったからサックスかもしれない。ソプラノ・サックスも吹いたかもしれない。

——それはフリー・ジャズを。

約束事はちょっとありましたけど、譜面もなにもないから、普通のジャズではない。やったら、「ピットイン」で大受けに受けたんです。出鱈目をやると上手いから(笑)。

——ミュージシャンはふたり以外にもいたんですか?

ドラムスが豊住芳三郎さんでベースが吉沢元治さんかなあ?

——カルテットで。

ぼくを入れたらね。だけどぼくはみそっかすみたいなもので、おまけだから。

——サックスはメイン楽器じゃないですか。

いやいや、詩との間にちょっとした劇伴風のものをいろいろやるヤツだから。詩を朗読して、音楽を演奏するみたいな形。「木喰上人の踊り」という詩なんですよ。

——ジャズのライヴ・ハウスで演奏したのはそれが最初?

そうです。それから「ピットイン」にはなんとなく出させてもらうようになりました。

——山下さんが出ていた「ジャズ・ギャラリー8」には?

演奏したことはないけど、行きました。「ジャズ・ギャラリー8」は高校のときによく行っていて、佐藤允彦(p)さんが〈酒とバラの日々〉をやってすごかったのを聴いたり、渡辺貞夫(as)さんがバークリー(音楽大学)から帰ってきてやったのとか。貞夫さんが戻ってきたのは、大学に入ったころで、「ピットイン」に出るようになってからは毎回のように行ってました。なんだか知らないけど、そのころはタダで入れたの。

——すごくひとが来たでしょ。

日本に帰った直後だからすごかった。最初はピアノがプーさん(菊地雅章)で、ドラムスがチコ菊地。チコ菊地のことを「上手いなあ」「プロのドラマーは違うなあ」と思って観てました。そのあと、富樫雅彦(ds)さんと山下さんともやったし。ビートルズの〈ア・ハード・デイズ・ナイト〉やボサノヴァも演奏して。ミンガスの〈ノスタルジア・イン・タイムズ・スクエア〉やチャーリー・パーカー(as)の〈シェリル〉をやったのも覚えてます。だいたいレパートリーは決まってたけど、「すごいなあ」と思って観てました。

——大学で山下さんと出会って。中村さんが一年のときに山下さんは四年生でしょ。そのころの山下さんのライヴは聴いたことがあるんですか?

そのときは滝本国郎(b)さんと豊住芳三郎さんのトリオで、ときどき武田和命が入って。それはすごくよかった。

——どういうところでやっていたんですか?

「丸の内クラブ」とか「ジャズろう会」というのがあって、歌の伴奏とか。

——そのころの山下さんはまだフリー・ジャズをやってないでしょ。

そうですね。

——フリー・ジャズになったときは、中村さんがいた。

自分でいうのもなんだけど、オレの影響もあるんじゃないかな(笑)。

——その前に、山下さんは体を壊して、しばらく療養していた。

バンドを始めたら、病気になっちゃった。それで療養生活をしていたときに、ぼくは学生でバンドを作ったの。ギターが川崎燎で、オリジナルの曲をやったり、なんだかヘンテコなことをやってたんだよね。

——そのときはテナー・サックスで。

クラリネットだと自分のやりたいことができないと思って、大学三年でサックス科に変わったんです。山下さんが療養中は、「これからはオリジナルだな」と思って、オリジナルを中心にやってました。

——山下さんが療養中は、ほかのひとのバンドでも演奏を?

ほとんど自分のバンドですね。

——仕事はけっこうあったんですか?

映画のサウンドトラックを頼まれたりとか、なんとなく仕事はありました。いまでもそうだけど、下手は下手なりになにかあるんですよ。仕事というか、演奏するところはね。新宿にうちがあったし、20歳(はたち)にもなっていなかったから、生活は親がかりでしょ。

——そのころに影響を受けたサックス奏者は?

ひとのコピーはしないから、いないです。コピーし始めたのは30になってから(笑)。聴き覚えでなんとかできちゃったんですよ。耳も悪かったし、コピーして上手くなるより、自分でなにかを創り出そうという気持ちが強かったのかな?

いよいよトリオ結成

——それで、山下さんが戻ってきて。

戻ってきて、「バンドをやろう」となったのが、大学を卒業するときです。最初はカルテットで、ベースが吉沢さん。彼が抜けて、次が国立の学生だった杉本さん。そのひとも亡くなっちゃったけど、彼はニューオリンズ・ジャズが好きで。ところが杉本さんがテイチク・レコードに就職するというんで、「山下さん、ベースなしでやろう」とぼくがいって、ベースなしになった。

——森山威男(ds)さんはどういういきさつで入ってきたんですか?

国立の二年先輩の打楽器科に小木曽さんという女性がいて、そのひとは森山さんのいまの奥さんだけど、彼女が森山さんを紹介してくれたの。

——森山さんも藝大(東京藝術大学)で打楽器専攻だった。

なにかの話で、彼女から「森山さんもジャズをやっている」と紹介されて、山下さんに話して、山下さんが気に入った。そういうことだったと思うけど。

——中村さん経由なんだ。

ちょっと記憶が薄れてるけど、だと思います。元々は国立の小木曽さん経由。

——その前は豊住さんがドラマーで

豊住さんはミッキー・カーチス(注18)のバンドで世界一周をするというんで、辞めちゃった。山下さんが病気になったときは、森山さんもオレのバンドでやってたの。あのころの音源がありますよ。大和屋竺(やまとや あつし)さんが監督した『毛の生えた拳銃』(SOLID RECORDS)(注19)のサントラが最近CDになった。自分で下手だと思っていたけど、聴いたらこれがけっこういい。

(注18)ミッキー・カーチス(歌手、俳優 1938年~)日英混血の両親の長男。50年代末からロカビリー歌手として人気を集め、その後は司会や役者をこなし、67年にはミッキー・カーチスとザ・サムライズでヨーロッパ巡演。プログレッシヴ・ロックのバンドとして70年に帰国。以後も多彩な活動で現在にいたる。

(注19)若松プロダクション制作で、麿赤兒と大久保鷹が殺し屋コンビの役で出演した68年公開の映画。音楽監修に相倉久人を迎え、中村誠一と森山威男が壮絶なデュエットを繰り広げたサウンドトラック。

——それで山下さんが復帰して、トリオができた。

大学卒業すると同時に山下洋輔トリオが始まった。

——あっという間にすごい人気になった記憶があるんですが。

あっという間でもないけど、お客さんが満員になるまで3か月くらいかかったかな?

——話題になっていたので、割と早い時期に「ピットイン」に聴きに行ったら、もう超満員でした。

いつもやる前にお客さんが並んじゃって。若いころはお客さんをかきわけてステージに行く経験しかなかった。

——「ピットイン」がすごいことになって、だんだんあちこちでやるようになった。

大学紛争とリンクしたんで、学園祭に呼ばれて。

——時代が過激だったじゃないですか。山下さんの音楽も過激だったから、ロックアウトされた早稲田大学でやったり。

あの演奏はレコードになったし(注20)、田原総一朗(注21)さんがドキュメンタリー(注22)も作っている。

(注20)『DANCING古事記』(麿レコード)のこと。バリケード封鎖された早稲田大学構内で行なわれたトリオのライヴ盤。唐十郎の状況劇場から独立したばかりの麿赤兒と作家デビューしたての立松和平が自主制作LPとして発売。メンバー=山下洋輔(p) 中村誠一(ts) 森山威男(ds) 1969年7月 東京「早稲田大学」でライヴ録音

(注21)田原総一朗(ジャーナリスト、評論家 1934年~)64年、東京12チャンネル(現・テレビ東京)に開局とともに入社。77年フリーに。テレビ朝日系『朝まで生テレビ!』『サンデープロジェクト』でテレビ・ジャーナリズムの新しい地平を拓く。

(注22)田原総一朗が東京12チャンネルのディレクター時代に制作した『ドキュメンタリー青春』シリーズのひとつ。山下が「ピアノを弾きながら死ねるといい」といったことから、田原の発案でバリケード封鎖されていた大隈講堂から「反戦連合」のメンバーがピアノを持ち出し、山下が演奏。のちの作家、高橋三千綱、中上健次、北方謙三、山岳ベース事件で殺された山崎順もピアノを運んだという。イベントは立松和平のデビュー作『今も時だ』という短編小説も産み出した。

——東京12チャンネル、いまのテレビ東京ですね。山下洋輔トリオの思い出は?

いっぱいあるけど、三上寛(注23)に会ったりね。山下さんは文化的なものとリンクするのが好きだから、詩とやったり、麿赤兒(まろあかじ)(注24)さんともね。

(注23)三上寛(フォーク・シンガー、俳優 1950年~)68年秋に上京。板前などの職業を転々としながら渋谷「ステーション70」に出演するようになり、フォーク・シンガーの道を歩む。独特の歌声と歌唱と歌詞で唯一無二のポジションを獲得。70年前後から山下トリオと共演。

(注24)麿赤兒(俳優、舞踏家、演出家 1943年~)本名は大森宏。64年、唐十郎の劇団「状況劇場」に参加し、70年退団。72年、舞踏集団「大駱駝艦(だいらくだかん)」を旗揚げ・主宰。以後は海外公演も積極的に行なう。長男は映画監督の大森立嗣、次男は俳優の大森南朋。

——唐十郎(注25)さんの紅テントは?

テントにアップライト・ピアノを置いてオーヴァーチャー(序曲)を演奏する。山下さんと森山さんとぼくの3人で過激なことをやって、それから状況劇場の芝居が始まる。

(注25)唐十郎(作家、演出家、俳優 1940年~) 64年に「状況劇場」を旗揚げ。67年には新宿「ピットイン」で山下とジョイント公演。同じ年、新宿「花園神社」境内に紅テントを建て、『腰巻お仙 義理人情いろはにほへと篇』を上演。これで一躍アングラ演劇の代表に。俳優の大鶴義丹は長男、李麗仙は前妻。

——ロックやフォークのフェスティヴァルにも出るようになったでしょ。

中津川フォーク・ジャンボリー(注26)は、ぼくたちの前にオマスズ(鈴木勲)(b)さんが出て、〈サニー〉をピッコロ・ベースでやってたの。そうしたら、観客がステージに押し寄せてきて、石を投げられたりして。そのあと、日野(皓正)(tp)さんが出て、そのあたりでステージが占拠されて、討論会になっちゃった。われわれは演奏ができない状態で、ギャラだけもらって帰ってきた。

(注26)69年から71年にかけて岐阜県恵那郡坂下町(現・中津川市)にある椛の湖(はなのこ)湖畔で3回開催された日本初のフォークとロックの野外フェスティヴァル。3回目はジャズ・ミュージシャンも出演。吉田拓郎のステージで観客が暴動を起こし、それがきっかけで翌年からは開催されず。

——山下さんのトリオには72年まで。

4年ぐらいやったのかな?

——解散した理由は?

ぼくが「辞める」といい出したの。それまでの鬱憤を晴らすようにフリー・ジャズをやってたでしょ。エネルギーがなくなってきたのと、やりたくないときでもグワーとやらなきゃならない。自分の心に嘘をついているみたいで、演奏ができなくなってきた。それで、10月か11月ぐらいに、筒井康隆(注27)さんのうちにみんなで遊びに行ったときに、「今年で辞めようと思うけど」といったら、山下さんに「辞めたいと思うんだったら、いますぐ辞めろ。辞めたいと思っているヤツにいられても迷惑がかかる」「じゃあ辞めます」。

(注27)筒井康隆(小説家 1934年~)65年処女作品集『東海道戦争』刊行。81年『虚人たち』で「第9回泉鏡花文学賞」、87年『夢の木坂分岐点』で「第23回谷崎潤一郎賞」、89年『ヨッパ谷への降下』で「歳16回川端康成文学賞」、92年『朝のガスパール』で「第12回日本SF大賞」など、数々の賞を受賞。96年、3年3か月におよぶ断筆を解除。現在も精力的に執筆活動を継続中。

——フリー・ジャズの難しさは?

そのあと、豊住さんに誘われてフリー・ジャズを何回かやったことがあるけれど、豊住さんのフリー・ジャズと山下さんのフリー・ジャズはちょっと違う。山下さんのは、型が決まってるからそんなにフリー・ジャズと思っていなかった。

——決めのフレーズとかがあって、それが合図になっている。

決まりがあるから完全なフリーではない。豊住さんのはなにも決まりがない。それはやるのが難しいし、自分にはできないと思った。いまは、初めてジャズを聴いたころみたいに「自由にやっていいんだな」「自分のやりたいようにやっていいんだな」となってきた。

たとえばビバップのフレーズやメロディ・ラインがうんと繋がっていくのもいいけど、それとは違った発想みたいなもの。最近のソニー・ロリンズ(ts)のアドリブなんかビバップでもなんでもない。ヘンテコな自分流で、なんだかわけがわからない。あそこまで変になれるのはすごいと思う。『サキソフォン・コロッサス』(プレスティッジ)(注28)のころはビバップでしょ。いまはそのビバップのビの字もない。逆にウエイン・ショーターはいまもいいけど、リー・モーガンとやってた若いころの演奏が素晴らしい。

(注28)メンバー=ソニー・ロリンズ(ts) トミー・フラナガン(p) ダグ・ワトキンス(b) マックス・ローチ(ds) 1956年6月22日 ニュージャージーで録音

自己のグループで活動

——山下さんのトリオ時代、自分のバンドやほかのひとのグループでも演奏していたんですか?

たまに誘われて日野さんのバンドでやったことはあるけど、自分のバンドはいっさいやってません。

——辞めて、自分のバンドを作る。

川端民生(b)と楠本卓司(ds)とピアノレスのトリオで。これは音が残っていないけど、素晴らしかった。

——どういう演奏を?

自分の曲もやったし、〈モリタート〉やスタンダードもやってました。〈モリタート〉は途中で転調したり、いろいろなことをやって。川端君がよかったんで、彼とやらなくなったらダメになった。青山の「ロブロイ」に出ていたときに、渋谷毅(p)さんがぼくを気に入って、仲よくしてくれたんです。それで「ジョージ川口(ds)さんが新宿のスカーレットに出ているから行こうよ」となって、「お前、サックス持っていけ」。

27(歳)のときかな? あのころは調子がよかったんですよ。ジョージさんはぼくのことを知っていて、「なんか1曲やれ」。そのときも〈モリタート〉をやったのかな? そうしたら、翌日すぐに電話がかかってきて、ビッグ・フォアに入るんです。それから30年ぐらいずっと。

「高輪プリンスホテル(現・グランドプリンスホテル高輪)」の地下にクラブがあって、そこが最初の仕事。「なに、やるんですか?」「バンキャラ」「バンキャラってなんですか?」「〈キャラヴァン〉だよ。〈キャラヴァン〉知らないの?」。〈キャラヴァン〉なんかやったことがないけど、アタマのメロディは辛うじて知っていた。なんとかやったけど、途中が難しくて、テンポも速い。当時のジョージさんが自分でもできないくらい速いから(笑)。そんなアップ・テンポのすごい曲を演奏させられて、「どうせできないし、クビだろう」と、思いっきり滅茶苦茶をやったら、終わって「ユーは〈キャラヴァン〉知らないね」(笑)。

その思いっきりやったところが気に入られたのかどうか知らないけど、それでズッとビッグ・フォアのレギュラー。あそこで、しょぼくなって帰ってきたらおしまいだった。ギャラが破格によかったんで、ジョージさんのバンドで食いつないでこれた。ベースが木村新弥さん、ピアノは藤井貞泰さんだったけど、いろんなひとが出たり入ったりで。そのあとが水橋孝(b)さんと市川秀男(p)さん。

——数年後に突如ニューヨークに行ってしまう。

30のときに行ったんですけど、3年ぐらいいたかな。帰ってきたら、ジョージさんのバンドには村岡建(ts)さんがいて、2回ぐらい2サックスでやったあとは、またぼくひとりになった。

——山本剛(p)さんや小原哲次郎(ds)さんがいたゲス・マイ・ファインズ(注29)もそのころに中村さんが作ったバンドですね。

28、9のときかな?

(注29)メンバー=山本剛(p) 福村博(tb) 福井五十雄(b) 小原哲治郎(ds)

——あれは「下衆の勘繰り」から来ているんですか?

死んじゃった小原哲次郎さんが、英語ができないのに、なぜか「ゲス・マイ、ゲス・マイ」って、出鱈目な英語だけど、口癖で。それから拝借したというか。山下さんのところを辞めて、「ロブロイ」でやるときに、ピアノで初めて頼んだのが山本剛。山ちゃんのピアノが好きで、仕事が終わっても、「これからどうする?」「薔薇屋敷で仕事がある」「オレも行っていい?」。「薔薇屋敷」は麻布の龍土町(現・六本木7丁目)にあって、12時から始まる。そういう深夜営業のクラブには行ったことがなくて、あとは青山の「仮面」とか。山本剛がそういうところで夜中からやってる。ぼくは仕事でもないのに、そこにほとんど入り浸って。

「ロブロイ」では、終わってから練習したいんで、店を貸してもらってたんです。あそこはトーキー時代の俳優の写真が白黒でズッと飾ってある。練習が終わってパッと見ると、みんなオレのことを見てるような(笑)。怖かったなあ。階段に格子がかかって、ドアを出るとそこから青山墓地が見える。

——「ロブロイ」でライヴ録音もしました(注30)。直後にスリー・ブラインド・マイスでもライヴを録ったけど、そちらはつい最近になって陽の目を見た(注31)。

スリー・ブラインド・マイスからはもう1枚スタジオ録音があって、それには川端さんが辞めて成重幸紀(b)になって、杉本喜代志(g)さん、板橋文夫(p)さん、楠本卓司が入っている。それが『アドヴェンチャー・イン・マイ・ドリーム』(注32)。

(注30)初リーダー作『ファースト・コンタクト』(キング)のこと。フリー・ジャズ出身の中村がオーソドックスなプレイをしていることで話題になった。メンバー=中村誠一(ts) 向井滋春(tb) 田村博(p) 福井五十雄(b) 楠本卓司(ds) 1973年12月30日 東京青山「ロブロイ」でライヴ録音

(注31)『中村誠一クインテット+2/ザ・ボス』(コンバック・コーポレーション)。74年の「5デイズ・イン・ジャズ」でスリー・ブラインド・マイスが録音した未発表演奏で2014年に発表された。メンバー=中村誠一(ts) 向井滋春(tb) 田村博(p) 福井五十雄(b) 守新治(ds) 大友義雄(as) 渡辺香津美(g) 1974年3月23日 東京赤坂「日本都市センター・ホール」でライヴ録音

(注32)スタジオ録音による1作目。メンバー=中村誠一(ts) 杉本喜代志(g) 板橋文夫(p) 成重幸紀(b) 楠本卓司(ds) 1975年9月11日 東京で録音

ニューヨークに渡る

——「ロブロイ」があって、ジョージ川口のビッグ・フォアに入って、自分のバンドをやって。アメリカに行ったのはどういう理由で?

当時、フリー・ジャズからイン・テンポで演奏するジャズをやるようになって、コピーもしたことがないから、「どうやってジャズをやるんだろう?」と思っていた。そんなときに、ドラムスの村上寛から「ソニー・ロリンズは楽器を出してブッと吹いたときからすべてがいいんだよ、無駄な音がひとつもない」と聞いて、「そこいくと、オレは意味のないことをパカパカ吹いて、ぜんぶがいいとはいえないな」と。

自分の吹きたい音が出てくるまで、無駄な音を吹くのをやめようと。そうしたらなにも吹きたい音がない。「オレはなんにもないのに吹いていたんだ」と思って、楽器と睨めっこしながら、頭の中に浮かんできた音を吹いてみると、その音と実際の音が違う。そんなことを1週間ぐらい続けて、部屋で寝てたら、突然頭の中に音が鳴り響いた。ガバッと起きて吹いたら、頭の中で響いたのと同じ音がした。「これだ!」と思って。

そういうふうにやっていたら、リズムもよくなってくるし、アドリブも自然と出てくるようになった。倍テンポで吹くのなんか、いままでは「ここでやんなきゃいけない」と思って吹いていたのが、自分の気持ちがうんと込み上げてくるまでやらないようにした。そうしたらリズムもはまるし、「なんでこんなにスラスラ吹けるんだろう」というぐらいできるようになった。それで、「ジャズの出発点はここだ!」と思った。

で、すごく調子がよかったけど、マウスピースをいじったら調子が悪くなって、今度は大スランプ。ぜんぜん思った音が出ない。こんなんだったらジャズをやめようと思って、それなら本場のジャズを聴いて、それでもつまらなくてやる気がなければやめようと思って行ったんです。

それ以降、そんなことはないけど、このわたしが鬱状態(笑)。最悪のときで、ほとんど病気みたいな状態で行きました。「日本人なのにジャズをやってどうなのかな?」とか、いろんなことに悩んでいて。アメリカに行っても、日本人というのはやめられないし、ジャズが好きなのもやめられない。

 『チベット死者の書』(注33)という本を読んだら、「そういうのは迷妄だ」ってお釈迦様がいったと。「二律背反みたいなことを考えても同じところを堂々巡りするだけだから、考えるのはやめろ」。それを読んで、「オレが考えているのもそうだな」「じゃあ考えるのをやめて、素直に捉えよう」。そうしたら前にも増してジャズが好きになって、立ち直れた。

(注33)チベット仏教ニンマ派の仏典。いわゆる埋蔵教法(gter chos)に属する書。

アメリカに行ったときは、ビバップなんかやったことがないんで、最初から始めて。なので、30になってから一生懸命コピーをしたの。当時は朝から晩まで1日8時間くらい練習してた。朝起きると、どこかで練習しているのが聴こえてくるんだから。1日8時間練習してたら、サックスが切れるような音になった。いまはそういう音で吹くひとはいないけど、当時はみんなそういう音で吹いていた。

——ニューヨークに行くといっても、ツテはあったんですか?

中山正治(ds)がいたんで、彼を頼って行ったけど、彼は3週間ぐらいで日本に帰っちゃった。ぼくは観光ヴィザで入って、不法滞在で3年間いました。いまから考えると、お金も少しは持って行ったんで、1年くらいは語学学校に行って、学生ヴィザでいればよかった。

——期間は決めてたんですか?

結婚して半年で行って、奥さんが半年後に来た。日本レストランでウェイターのアルバイトをしてね。みんな同じ時間に来るから、ウェイターはたいへんなんです。4人がけのテーブルが5つあると20人でしょ。まずはお酒。ビーフィーター・マティーニとかデュワーズ・オン・ザ・ロックスとか、銘柄をいうの。しかもスクイーザー・レモンとか、レモン・ピールで香りをつけるのもいう。それを20人分覚えて、アペタイザーを覚えて、メイン・ディッシュを出して、最後まで順番に滞りなく出さないとみんな怒って帰っちゃう。最初はみんな怒って、チップも酷かったけど、最後はその店で1、2を争うぐらい稼げるようになった。「人間、やればできるもんだ」と思いました。

それですごく自信がついた。英語もできないから、普通ならひとと接触しなくていいキッチン・ヘルパーをやる。短期間でお金が稼げるので、ウェイターは旅行者が多かった。そこでオレがいちばんとかになったから、ジャズよりそっちの自信がついて(笑)。

——ジョージ・コールマン(ts)に習ったんですか?

ジョージ・コールマンは25ドルか50ドルか忘れたけど、教わったのは4回くらい。

——それは1時間とか2時間?

時間は決まってない。2回目か3回目に行ったときに、「お前のアドリブは面白いから、今度のオレのライヴに楽器を持って遊びに来い」といわれたけど、自信がなくて、恥ずかしいから行かなかった。当時はジョージ・コールマンもよかったけど、クリフォード・ジョーダン(ts)が素晴らしかった。彼のところにも習いに行けばよかった。なにを習いたかったかっていうと、日々の練習をどういうふうにやるのか、それが知りたかった。

——中村照夫(b)さんのバンドにも入って。

ボブ・ミンツァー(ts)と一緒にね。カレッジ・コンサートとか、やりました。ボブ・ミンツァーは上手かったなあ。あとはボブ・バーグ(ts)がジャム・セッションの王者で、「今日はボブ・バーグが来た」とか、みんなの噂になるくらいすごかった。いまから考えると、78年ぐらいだから、まだ時代がよかった。

——3年ぐらいいて。

3年目には仕事もちらほら増えてきたけど、ヴィザもないし、1度日本に帰ってちゃんとしてから戻ろうと思ったけど、日本のほうが居心地がよくて、そのままになっちゃった。

——音楽の仕事って、どんなのがあったんですか?

有名なひとはいなかったけど、誰かに雇われて。自分のバンドはほとんどなかった。あとはリハーサル・ビッグバンドもやっていたんで、そこでMALTA(ts)と一緒になったりして。彼がリードを吹いて、オレがセカンドを吹いて。1ドル払ってリハーサルをやるんです。みんな吹きたいから、メイナード・ファーガソン(tp)のバンドにいたヤツとかがいっぱい来る。次から次と初見でやるので、けっこう譜面の勉強になりました。

——アメリカに3年ぐらいいて、行ってよかったことは?

とにかく練習したこと。いままでサボっていたクラシックの教則本を最初からやり直したし、ジョージ・コールマンからは、ひとつのことを覚えたら12のキーで練習することを教わった。あんなに練習したことはいままでないから、アメリカに行った財産でいまだに食っている感じかな。

——クラシックとジャズの折り合いのつけ方はあるんですか?

折り合いのつけ方はないけど、ジャズのアドリブでも、モチーフが出たら、それを膨らませるようにやるのがひとつの方法。そのやり方はクラシックと一緒なの。だからAのモチーフが出てきたらA、Aダッシュ、Aツー・ダッシュ、Aスリー・ダッシュぐらいまでやってからBにいく。AからすぐBにいっちゃうと、聴いているひとはなにをやっているかわからない。文章と同じで、飛んじゃうと、「このひと、なにがいいたいの?」になる。

メロディの膨らませ方はクラシックを聴いているとわかる。ジャズの場合は、メロディだけだと、泉のように出てくるときはいいけど、そんなにいつまでも出てこないんで、そういうときはリズミックなものに変えるとか。あるいはジョー・ヘンダーソン(ts)みたいに和音を分散和音的に、自分に思っているコードでヴァリエーションをつけるとか。

そういうやり方は、クラシックをやっていてよかったかなあと思う。チャイコフスキー、ドビュッシー、ブラームスとかを知ってるだけでも違うから。ベートーヴェンはどのパートを吹いても楽しい。バスクラ(ベース・クラリネット)なんて飾りつけみたいなものだけど、それを吹いていたって楽しい。ベートーヴェンが偉大なのはこういうところだってわかる。

——日本に戻られてからの中村さんは以前にも増して大活躍で、長らくテレビの『今夜は最高!』(注34)にレギュラーで出られたり、抱腹絶倒のご著書を出されたりと、演奏以外にも多彩な才能を発揮されました。そちらの話も次の機会にぜひお聞かせください。今日は、長い時間どうもありがとうございました。

こちらこそありがとうございました。

取材・文/小川隆夫

(注34)タモリが司会を務め、日本テレビ系列局で81年4月4日から82年4月3日(第1期)、82年9月4日から89年10月7日(第2期)まで毎週土曜日の23:00 – 23:30に放送されていたトーク・コントバラエティ番組。

2018-02-03 Interview with 中村誠一 @ 市が尾「中村誠一邸」

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