投稿日 : 2015.10.16 更新日 : 2018.01.26

東京JAZZ2015 日野皓正&ラリー・カールトン“SUPER BAND”

取材・文/富澤えいち 写真/(c)中嶌英雄、(c)岡 利恵子

東京JAZZ2015 日野皓正&ラリー・カールトン“SUPER BAND”

第14回東京JAZZの“The HALL”と銘打って、東京国際フォーラムで開催されたプログラムの2日目。昼の部の二番手として登場したのが、日野皓正&ラリー・カールトン“SUPER BAND”だ。この顔合わせのなにが“SUPER”なのか? 日野皓正とラリー・カールトンは、それまでアコースティック主体だったジャズが、エレクトリックな楽器やサウンドを取り入れてカラフルに展開するようになった1970年代の音楽シーンで、先頭を切って斬新かつ濃厚な“次世代ジャズ”を生み出してきた代表格のミュージシャンだ。トップランナーが常に孤高の存在であるように、彼らもまたそれぞれのめざす音楽を究めるため、安易にコンセプトの異なるミュージシャンとの“協業”を拒む芸術家気質にあふれていたのは現在も変わらない。いや、円熟とともにその“許容範囲”はさらに狭まり、“胸を貸す”ことはあっても“名ばかりの妥協の産物”を排そうとするプライドは高まるばかりのように感じていた。それが、満を持したように、2015年の東京JAZZのステージで“初顔合わせ”をするというのだ。これまで彼らはお互いの音楽やジャズにおけるポジション、ポテンシャルを認め合ってはいたことだろう。しかし、彼らの長いキャリアのなかで共演が実現しなかったのは、“日野皓正のフュージョン”と“ラリー・カールトンのフュージョン”に大きな違いがあることが考えられる。また、会場に詰めかけたそれぞれのファンもそのことをよく理解していたことだろう。日野皓正の楽曲「Still Be Bop」でスパークさせようとするポスト・ジャズロック的な音楽性と、ラリー・カールトンの楽曲「ROOM 335」を繰り返しながら内省を深めようとするポスト・ブルース的な音楽性では、ベクトルの方向が逆と言ってもよく、一方を聴きたいと思っているファンがその逆のベクトルをもつ“異分子”の混入を快く思わないとしても仕方ないだろう。ところがジャズでは、“化学反応”という“異分子の融合”が起こることがある。だから、ベクトルが逆だからといって簡単には片付けられないのだ。

このステージが“セッション”ではなく“バンド”と名付けられていたのには理由がある。もともと東京JAZZでは、“スーパー”と冠してその名にふさわしいメンバーを集結させたユニットによるプログラムが第1回から行なわれてきた。ジャズ・フェスでは、リーダー格が集まっておなじみのスタンダードをネタにアドリブ合戦を繰り広げるジャムセッションが恒例だったりするのだけれど、より“スーパー”であることをめざした東京JAZZでは、事前にメンバーを選出してリハーサルまで行なうという異例のスタイルをとっていた。これは、第4回まで音楽プロデューサーを務めたハービー・ハンコックの意向によるものだ。ある意味で、その意志を踏襲し、“スーパーユニット”を発展させようとしたものが、この“SUPER BAND”といえるかもしれない。個性の違いを競うことがセッションの目的だとすれば、バンドはその対極、融合を目的としなければならない。もちろん日野皓正もラリー・カールトンも百戦錬磨のプロ中のプロだから、破綻なく音楽を成立させることに苦労するはずがない。しかし、もっと刺激的な“化学反応”が起きるようでなければ、それは破綻しないだけのつまらない音楽に終わってしまう可能性が高い。彼らは当然、“化学反応”を起こすことを選んだ。

“化学反応”を起こすためには、“触媒”も必要となる。その“触媒”の役目を担ったのが大西順子だった。彼女は2012年にプロ演奏家としての活動から引退することを表明していたが、今回は本格的にジャズの演奏家としてステージに復帰することになった。大西はアコースティックとエレクトリックを使い分けて、目の前の自由奔放に飛び回ろうとする両巨頭の“間合い”を計るかのように、共有できるイディオムと現代的(あるいは未来的)なイディオムを織り交ぜた“きっかけ”を投げかける。それに対して2人がそれぞれに異なる反応を示し、絡み合いながらひとつのサウンドへと収れんしていく。こうして“SUPER”な“BAND”は、見事に“化学反応”を起こして、“異分子の融合”を実現してしまったのだ。