投稿日 : 2022.01.17

【ジョージ・クリントン】ジャズ・フェスに降臨したファンク界の異形の王─ライブ盤で聴くモントルー Vol.40

文/二階堂尚

ライブ盤で聴くモントルー
「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。

2018年、ジョージ・クリントンはライブ・ツアーからの引退を表明した。ブラック・ミュージックの可能性を大きく広げたPファンク軍団を率いておよそ半世紀。その間、何枚かのライブ・アルバムが発売されてきた。2004年のモントルー・ジャズ・フェスティバルのステージを記録したライブ盤もその一つである。2000年代バージョンのPファンクの音楽の記録を紹介しながら、ブラック・ミュージックの可能性を大きく広げたファンク集団の歴史と功績を振り返る。

ファンクという異様な音楽

1980年代後半から90年代前半にかけて、Pファンク再評価の機運が高まったことがあった。確か、ファンカデリックの初期作品が先行してCD化され、続いてパーラメントの代表作がCD化されたのだった。その間、1988年にはPファンク軍団のベーシストにして若頭役だったブーツィー・コリンズが、89年には軍団の総統ジョージ・クリントンが、90年にはキーボード奏者で軍団のもう一方の若頭だったバーニー・ウォーレルが相次いでソロ・アルバムを発表した。

ちょうどその頃に、輸入盤屋で見つけたパーラメントの10曲入りベスト盤を初めて聴いた。驚いたのは、その多声性と祝祭性だった。バンドに何人のプレーヤーがいるのかまったくわからない。誰が歌っているのかも、何人で歌っているのかもわからない。歌謡曲やロックやポップスに慣れた高校生の耳にその音楽はかなり異様で、なるほどこれがファンクかと理解した。

その後、ファンクの歴史を遡行する格好でジェイムズ・ブラウンやスライ&ザ・ファミリー・ストーンの音楽に接してみて、パーラメントを聴いて感じた異様さは、実はファンクの異様さというよりもPファンクの異様さであるとわかった。多声的で、祝祭的で、変態的で、混沌として、ポップで、コミカル。

90年代になってPファンクのステージを2回ほど体験したときにもその印象は変わらなかったが、いずれも演奏時間があまりに長くて、途中で帰ってきてしまった。憶えているのは、にこにこしながら何をするでもなくステージをうろうろするジョージ・クリントンの姿と、きわどい格好をして踊る女性ダンサーのエロさである。その官能的で挑発的なダンスは10代男子の劣情を大いに刺激したが、今思えばあのダンサーは日本人だった。おそらく、バンド・メンバーがそのへんでひっかけてきた女性をステージに上げて踊らせていたのだと思う。バブル経済の最後の残り火がまだ微かに燃えていた頃だった。

ラウドでファンキーな黒人ロック・グループ

1941年生まれのジョージ・クリントンが、床屋を経営しながらドゥー・ワップ・グループ、ザ・パーラメンツでの活動を始めたのは50年代半ばのことだ。グループ名は煙草の銘柄からとったもので、そのバック・バンドのメンバーを中心に結成したのがファンカデリックだった。ファンクとサイケデリックの合成語を冠したこのグループがファースト・アルバムを発売したのが70年。クリントンはそれまでの間、モータウンとソング・ライター契約を結んだりしながら、独自の音楽スタイルの模索を続けていた。

1967年、NYにてライブ演奏をおこなっているザ・パーラメンツ

クリントンが自分たちの音楽の守護神としたのはジミ・ヘンドリックスとスライ・ストーンだったが、彼がそれまでの黒人ミュージシャンと大きく異なっていたのは、白人のロックに対する完全にオープンな姿勢だった。ビートルズ、ローリング・ストーンズ、フー、クリーム、ドアーズ──。60年代を席巻したそれらのバンドの音楽を取り入れ、「サイケデリック・ロックと嵐のようなR&Bを、とことんラウドかつファンキーに組み合わせて演奏する、黒人ロック・グループ」を彼は目指した。そうして生まれたのが、それまでの黒人音楽の歴史にはなかったハードでハイブリッドで猥雑な音楽だった。

「海の向こうからやってきたイギリスのグループが、ブラック・アメリカンの音楽を心から愛し、畏敬の念と不遜さを持ってブラック・アメリカンの音楽を扱う過程で、新しい音楽を作り出している。……彼らが俺たちの音楽を取り込み、それをリメイクし、俺たちに返す。そして俺たちも、彼らの音楽を取り込み、それをリメイクし、彼らに返していた」(『ファンクはつらいよ ジョージ・クリントン自伝』)

ファンカデリックがブラック・ロックを志向する一方で、よりポップなアルバムをつくるために、クリントンはザ・パーラメンツをパーラメントと改名して再始動させた。ファンカデリックの音楽がハードなギター・ミュージックだとすれば、パーラメントの音楽はダンサブルなホーン・ミュージックだった。クリントン自身は、パーラメントを「ジャージーなジェイムズ・ブラウン、もしくはポップなピンク・フロイド」と説明している。のちに、パーラメントとファンカデリックのグループ名を合わせた「Pファンク」がこの音楽集団の総称となり、そこからさまざまなスピン・オフ・プロジェクトが生まれることとなる。

10年間で40枚のアルバムをつくった軍団

異なる音楽スタイルを融合させるだけでなく、アメリカン・コミックや『スタートレック』『スターウォーズ』『未知との遭遇』といったSF映画の要素をごちゃまぜにしてクリントンがこしらえたPファンクの世界観は、その後のアース・ウインド&ファイヤーなどの黒人グループの先駆けとなったが、Pファンク軍団の凄まじい創造のパワーは他者の追随を許さないものだった。

1970年から、ファンカデリックとパーラメントの活動がいったん終わる81年までの10年あまりの間につくられたPファンク関連のアルバムは40枚近くに上る。とくにすごかったのが1976年から78年までの3年間で、パーラメントの『マザーシップ・コネクション』『Pファンク・アース・ツアー』、ファンカデリックの『ワン・ネーション・アンダー・ア・グルーヴ』、ブーツィー・コリンズを中心としたプロジェクトであるブーツィーズ・ラバー・バンドの初期3作品など、ファンクの歴史におけるマスター・ピースとされる作品がこのわずかな期間につくられている。

しかし、Pファンクが真に革新的だったのは、結局その10年間だけだった。80年代に入るとジョージ・クリントンはソロ・アルバムづくりに注力するようになり、Pファンクの音楽はファンカとパーラをなし崩し的に融合したパッケージ的スタイルに変わっていった。90年代に来日したのは、そうして「全部まとめてPファンク」となった時代のバンドである。以後のPファンクの音楽はその延長線上にある。

2000年代型Pファンクの貴重な記録

Pファンク軍団がモントルー・ジャズ・フェスティバルに出演したのは2004年のことで、名義は「ジョージ・クリントン&パーラメント・ファンカデリック」だった。演奏はファンカとパーラを混ぜ合わせた80年代以降のスタイルだが、ラップを加えている点で2000年代型のPファンクにバージョン・アップされているとも言える。

ライブ盤は、爆風スランプの前身バンドである爆風銃(バップガン)の名の由来となった「バップ・ガン」、続いて「フラッシュ・ライト」と、パーラメント最大のヒット曲2連発からスタートし、ファンカデリックの「ノット・ジャスト・ニー・ディープ」、パーラメントの最初のヒット「アップ・フォー・ザ・ダウンストローク」、ジョージ・クリントンのソロ・ヒット「アトミック・ドッグ」とバランスのとれた選曲で展開していく。

途中、60年代のマイルス・デイヴィス・クインテットの名演で知られる「フリーダム・ジャズ・ダンス」や、スタンダードの「センチメンタル・ジャーニー」を挟むあたりは、ジャズ・フェスであることを意識したものだろう。最後は、ロックンロールのオリジネイターの一人、ジェリー・リー・ルイスの「ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン」という意外な曲で締めている。YouTubeで映像を見ると、フェスの名物プロデューサー、クロード・ノブスがハープで飛び入りをしていることがわかる。

なお、CDには収録されていないが、ステージの冒頭には30分ほどのインスト・ジャムがあったようだ。バーニー・ウォーレルのソロ演奏から、ファンカデリックの代表曲「マゴット・ブレイン」に雪崩れ込むスリリングな演奏をYouTubeで見ることができる。

ブラック・ミュージックの歴史に燦然と輝く77年の『Pファンク・アース・ツアー』と、80年代型Pファンクのスタイルを示した『Pファンク・オール・スターズ・ライヴ』という偉大なライブ・アルバムがあるために、モントルーのライブ盤の存在感はどうしてもかすまざるをえない。しかし、すでにジョージ・クリントンがライブ・ツアー引退を宣言していることを考えれば、2000年代Pファンクの貴重な記録と捉えるべきだと思う。

モントルー・ジャズ・フェスティバルに出演した同年の2004年、グラミー賞にてパフォーマンスをおこなったジョージ・クリントン&パーラメント・ファンカデリック

音楽と混沌は同じ線上にある

ステージにおけるジョージ・クリントンはふざけているだけのおじさんにしか見えないし、音楽にどう貢献しているのかもよくわからない。しかしクリントンの自伝は、彼が極めてクレバーで戦略的な音楽家であったことを明かしている。彼は自分自身についてこう語っている。

「実のところ、俺は表向きのイメージよりも遥かに控えめで、冷静で、慎重な人物だ。だからこそ、クレイジーなスタイルを貫徹することができた。これは、誤解から生じた自由だった」

「自分にできることとできないことについて、明確に認識していないアーティストは多い。俺は自分の限界を知っていた。自分にできないことを把握していた。俺は楽器ができない。歌やアレンジだって、一番上手いわけではない。それでも、高所から全体像を眺めることができたため、飛行機を着陸させることができた」

「飛行機」とは、破天荒な個性派集団であったPファンク軍団を意味する。以下は、音楽についての言葉。

「音楽の意義は、現存する曲を取り入れ、自分なりのスタイルと個性でそれを良い曲に再生することにある。『独創的』か『独創的でない』かの議論は、ジャンルやカテゴリーを論じるくらい独創性に欠けるものだ」

「サウンドは、上向きに融合すれば音楽になり、下向きに分解されれば混沌になる。そして音楽と混沌は、同じ線上にある」

ジョン・レノンをめぐる考察では、独自の権力論を述べる。

「国務省は、ジョン・レノン、ボブ・ディランをはじめ、同様の影響力を持つ人々の調査記録をつけていた。自由は危険だ。なぜなら、自由になると人々は自発的に考えるようになるからだ。自分の権力を守ろうとする人間で、自由に考える市民に満ちた社会を欲する者などいない」

「愛と平和は危険なプラットフォームだ。愛と平和についてあまりに頻繁に語り、しかも目立ちすぎると、混沌によって金儲けをする世界中の実業家たちの利益を損なうことになる。愛と平和の役割を担えば、処分されてしまうのだ」

いずれも賢者の名言と言うべきだろう。JBとスライから渡されたバトンを継いでファンク界の異形の王となった男は、実は知的でクールなオーガナイザーだったのである。

文/二階堂 尚

〈参考文献〉『ファンクはつらいよ ジョージ・クリントン自伝』ジョージ・クリントン、ベン・グリーマン著/押野素子訳(DU BOOKS)


『Live at Montreux 2004』
ジョージ・クリントン&パーラメント・ファンカデリック

■1.Bop Gun 2.Flash Light/Get Low 3.Something Stank 4.Hard as Steel 5.Yank My Doodle 6.Flash Light(reprise) 7.Not Just Knee Deep 8.Sentimental Journey 9. Not Just Knee Deep(reprise) 10.Up for the Down Stroke 11.Bounce 2 This 12.Atomic Dog 13.Whole Lotta Shakin’ Goin’ On
(Big Maybelle cover) (with Claude Nobs on harmonica)
■George Clinton(vo)、Bernie Worrell(key)ほか
■第38回モントルー・ジャズ・フェスティバル/2004年7月16日

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