投稿日 : 2016.02.23 更新日 : 2018.01.26

新宿 ジャズ・フェスティバル 2015

取材・文/富澤えいち 写真/土居政則

新宿 ジャズ・フェスティバル 2015

50周年という歴史の裏に込められた、確信犯たちのメタメッセージ  2015年12月26日(土)と27日(日)は、日本のみならず世界のジャズ・シーンにとっても特筆すべきイベントが行なわれる日となった。そのイベントの名は「新宿 ジャズ・フェスティバル 2015」。老舗と呼ぶにふさわしい、日本が世界に誇るジャズ・ライブハウス“新宿PIT INN”の50周年を記念して行なわれたものだ。

ホールなどの公共施設は別にして、音楽興行を提供する業態の店舗の寿命は決して長いとは言えない。世界的に見てもニューヨークの名門Village Vanguard(1935年オープン)が異例と言えるほどで、その他のポピュラー音楽史を彩った数々のライブハウスがいずれも営業を続けられていない例はあえて挙げるまでもないだろう。そのVillage Vanguardでさえ、オーナーすなわち経営母体の変遷は免れていない。ところが新宿PIT INNは、同一オーナーによる継続的な経営で50周年を迎えた。これこそ“快挙”ならぬ“怪挙”と呼べるものなのだ。

この“怪挙”の背景には、新宿PIT INNがただ単にジャズ・ライブを提供する“場”だけではなかったという、ミュージシャンとスタッフ、そして訪れるファンを含めた関係者の努力と熱意があったことを指摘しておかなければならないだろう。でなければ、決して大きいとは言えないライブハウスの周年事業という、ある意味プライベートな行事を、自分の店ではなく約1,800席というキャパシティを有する新宿文化センター大ホールに移して、なおかつ2日間ものスケジュールで執り行なったことの説明に窮してしまう。つまりこの大々的なイベントは、とあるライブハウスがたまたま続いた幸運を祝うものでも、出演者の名を借りて客を集めようとしたものでもないということだ。

1965年12月24日に営業を開始した新宿PIT INNは、当初からライブハウスの営業を目的としたものではなかったものの、すぐに日本の将来を担うことになる気鋭のジャズ・ミュージシャンたちの“たまり場”と化すようになる。以来、日本のジャズの拠点となるのみならず、世界中のジャズ・ミュージシャンたちが出演を望む“たまり場”になった。そうなったのには、次のような理由が考えられる。この場所の空気が因習にとらわれず、ジャズがジャズであるための“自由”に満ちていたからーー。

ジャズは、戦前から東京の繁華街で一目置かれる“先端の文化”として注目され、戦後は1950年代前半に“空前のブーム”を巻き起こすほどの人気を博していた。1960年代になってもジャズの優位性は衰えず、ジャズ演奏が行なわれるナイトクラブやダンスホールもまた、その優位性の恩恵にあずかるという構図が続いていた。注意しなければならないのは、この時期のジャズと呼ばれた音楽が、1920~30年代にアメリカでポピュラー音楽の中核をなしていたスウィング・スタイルのもので、1940~50年代に勃興していたビバップ~ハード・バップではなかったことだ。こうした“恩恵”を優先する(つまり“客ウケ”のいいスウィングを演奏する)業界の風潮に納得しなかったのが、次代を担おうという気概にあふれた当時の若手たちだった。アメリカで進化を続けている同時代のジャズを演奏したいと渇望していた有志たちが、“恩恵を優先しなくてもいい”という新宿PIT INNをただの仕事場ではなく“我が家”のように思って活動に邁進したであろうことは想像に難くない。

こうして新宿PIT INNは、プレイヤー側からはもとよりリスナー側からもジャズがジャズであるための“自由”に満ちた場所として意識され、日本のジャズが世界に比肩するまでの成長を遂げる“拠点”となった。そうした積み重ねの50年であり、その当事者たちが名を連ねていたのがこの「新宿 ジャズ・フェスティバル 2015」なのだ。

ここでは、2日間の合計13セットに出演したジャズ・ミュージシャンのなかから、次代を担うという視点で勝手に選んだ“推しメン”にスポットをあてて、このイベントの未来図をあぶり出してみたい。

まずは、2日にわたる公演をアナログ・レコードの表と裏に見立てて“A面”と呼ばれていた12月26日のプログラムを眺めてみると、異なるセットに分かれて参加していた今堀恒雄、大友良英、当日のMCも担当した菊地成孔の3人が“隠しコマンド”のような存在であったことを指摘したい。

今堀恒雄(1962年生まれ)は1986年に菊地成孔(1963年生まれ)と出逢うことでティポグラフィカというバンドを結成。複雑なコード構成と変拍子によって生まれる独特のグルーヴ(彼らはそれを“訛り”と表現)をキャッチーなメロディで包んだサウンドがアンテナ感度の高い音楽ファンに支持され、1990年代のアンダーグラウンドなヒップホップ・カルチャーを象徴するバンドのひとつになっていた。ティポグラフィカは、1997年に解散するが、メンバーはその後の日本のジャズ・シーンに欠かせない人材として活躍している。このイベントでも、外山明と松本治が渋谷毅オーケストラのメンバーとして、水谷浩章が大友良英スペシャル・ビックバンドのメンバーとして参加していた。

大友良英(1959年生まれ)は、1980年代後半から即興演奏者としての活動を本格化させ、90年代に入ってGROUND-ZEROというユニットを結成。ジャンルや曲の構成に関してもフリーというスタイルを導入して、インプロビゼーションとDJプレイをミクスチャーさせたボーダレスなサウンドを展開する。菊地成孔は1992年ごろからGROUND-ZEROに合流し、1999年結成の大友良英ニュー・ジャズ・クインテットやDATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDENなどでコラボレーションの濃度を増していくことになる。ちなみにGROUND-ZEROのメンバーも、ナスノミツルがドリーム・セッション・パート1のメンバーとして、芳垣安洋がオルケスタ・リブレのリーダーとして、このイベントに参加していた。

このように、26日の“A面”は一見、ベテラン勢を配して“歴史を物語る”的な王道アプローチを装っていたものの、実は“新宿PIT INNの裏側”を語り継ぐためのメタメッセージが仕込まれていたプログラムということになる。  では、“B面”となる27日のプログラムを見てみよう。たとえば、石川広行、山田拓児、横山和明という1980年代生まれ組をフィーチャーする安ヵ川大樹D-musicaラージアンサンブルを筆頭に、“世代をつなぐことを意識”したバンドが新宿PIT INNを舞台に“世代を超えたジャズ”を生み出そうとしていることが、この日の印象として強く残っている。

なかでも日野皓正クインテットは、加藤一平(1982年生まれ)、須川崇志(1982年生まれ)、石若駿(1992年生まれ)という若手を相手に、日野皓正(1942年生まれ)が一歩も引かないパワフルで柔軟性にあふれたステージを披露してくれた。

このように、“日本の将来を担うことになる気鋭のジャズ・ミュージシャンたちのたまり場”という開業以来の精神が現在も失われることなく受け継がれていることを、これもまたメタメッセージとして仕込んでいたと感じることができたのが、この“B面”だった。

さて、2日間にわたる半世紀の歴史を物語るイベントは、成功裏に幕を閉じた。世界でも希有な経歴の老舗ライブハウスの節目を飾るにふさわしい内容であったことに異論を挟む余地はないだろうが、あえて言おう。このイベントに、過去を振り返るために立ち止まるイメージのある“節目”という言葉は似合わない――。

ジャズは、特定の世代や特定の時代に封じ込められるものではなく、自由に世代や時代を往き来することができる、いや、その特権を最大限に活かさなければならない“宿命”を負った音楽なのだ。

その“宿命”に呼応する者の“たまり場”として、新宿PIT INNがこれからも機能し続けるという“未来の展望”を暗示したのがこのイベントの本意だったと、ボクは解釈している。