投稿日 : 2020.09.21

【ローランド・カーク】天才音楽家のエッセンスを詰め込んだ激しい名盤 ─ライブ盤で聴くモントルー Vol.24

文/二階堂 尚

「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。

3本のサックスを咥えて同時に吹く。口と鼻で2本のフルートを演奏する。息継ぎなしでひたすらプレイを続ける──。モダン・ジャズ界最大の鬼才と呼ばれた男、ラサーン・ローランド・カークがモントルーのステージに降臨したのは1972年のことである。ロック・ミュージシャンたちからも最大限の称賛を集めたカークは、ロック全盛の時代にロックをひれ伏せさせるような激しいパフォーマンスを見せたのだった。

長らく行方が知れなかった兄弟

ザ・フーのピート・タウンゼンドがローランド・カークを「名誉ロック・ミュージシャン」と呼んだのは、新奇であり革新的であることを常に目指したカークのアティチュードがまさしくロックのアティチュードそのものだったからである。ロック側からカークを熱烈に支持したミュージシャンがジミ・ヘンドリックスであり、フランク・ザッパであり、キャプテン・ビーフハートであった事実をもってしても、カークが「革新者に愛される革新者」であったことがよくわかる。

ジャズ界に目を転じれば、カークの最も強力な支持者はチャールズ・ミンガスであった。評伝『ローランド・カーク伝 溢れ出る涙』の著者は、ミンガスとカークは「長らく行方が知れなかった兄弟」のようだったと表現している。ミンガスとの最高なエピソードを一つ。

ニューヨークのジャズ・クラブ「ファイヴ・スポット」に出演したミンガス・バンドにカークが飛び入りで参加した夜のことである。演奏後に二人は夜のニューヨークをドライブすることになった。助手席に座るカークは、窓から手を伸ばし空気をつかむと、運転するミンガスの耳元で手を広げ、「どう聴こえる?」と尋ねた。ミンガスの答えは伝わっていない。モダン・ジャズ界最大の暴れ者であり、最も卓越したベーシストの一人であったミンガスも、盲目の「兄弟」のこの行動には面食らったのかもしれない。カークはのちに友人にこう言ったという。「風のキーはB♭だ」──。

ローランド・カークの写真1

神話化された音楽的伝説

ローランド・カークが医療過誤によって視力を完全に失ったのは2歳のときだが、それ以前に果たして視力があったのかどうか、人が2歳児の記憶を有しない以上、彼自身にもわからなかった。同様にわからないのは、彼の音楽に対する超人的才能が盲目であったことに関係するかどうかである。一般論として、ある能力の欠如が別の能力の発達に寄与することはあって、例えば、老いは視力と聴力の衰えをもたらすが、そのぶん嗅覚はむしろ鋭敏になると言われている。もし目が見えていたら、彼の天才は開花したかどうか。詮ない問いだが、全盲であったという事実が、カークの音楽的伝説をほとんど神話にまで格上げしたことは確かだ。

ローランド・カークは、テナー、アルト、ソプラノの3本のサックス(※)、あるいはサックスとクラリネット、フルートとリコーダーを同時に演奏するばかりでなく、そのそれぞれで異なるメロディを奏でることができ、かつ、特殊な循環呼吸法によって長い時間ノンブレスで演奏することができた。ノンブレスの長時間演奏の正式な記録はケニー・Gの45分47秒だそうだが、カークは2時間21分という非公式の記録をもっている。評伝を読むと、カークの天才にまつわるエピソードは汲めども尽きぬ泉水のようだ。だが、それがむしろ彼の音楽を純粋に味わうことを困難にしているとも感じられる。

※アルトとソプラノは変形した独自のもの。カークはそれぞれを「ストリッチ」「マンゼロ」と呼んだ。

3本の楽器を同時に鳴らしながら銅鑼を叩く曲芸のようなパフォーマンスは、曲芸ではなく内なる音のイメージを再現する必然的表現であって、それに加えて、彼は卓越した楽器演奏者であり、優れたメロディ・メーカーでもあった。とくに、テナー・サックスを単体で吹いたときの素晴らしい音色を聴けば、カークがホーキンス、ロリンズ、コルトレーンというテナー・ジャイアンツの列に並ぶ一流のプレーヤーであったことがはっきりわかる。カークの音楽に「グロテスク・ジャズ」という名称を与えたのは日本のジャズ評論界であった由だが、不適切な名称であったと言うほかない。その言葉のニュアンスがどれほどのリスナーを遠ざけたか。

ローランド・カークの写真2

ジャズの破壊衝動の体現者

私たちにできるのは彼の演奏と表現にまっすぐに向き合うことで、『I, Eye Aye』と題された1972年のモントルーのステージの記録はその絶好の音源の一つである。タイトルは言葉遊びのたぐいだが、「俺、目、イエー」と日本語にしてみれば、カークのブラックなユーモアの感覚がよく伝わる。冒頭の2曲、朴訥なメロディが魅力の「シーズンズ」と、ニーナ・シモンの歌唱でも知られる黒人霊歌「バーム・イン・ギリヤド」では、一人多重演奏と旋律の美しさ、静から動へ移行するダイナミズムの高揚感を味わうことができる。バンド編成は、ピアノ、ベース、ドラム、パーカッションにカークを加えたクインテットだが、その情報なしで音だけに接すれば、最低でも7人のプレーヤーがいるように聞こえる。カークはバンドに雇われる際、3人分のギャラを要求した。理に適った要求だったと言うべきだろう。

続く「ヴォランティアード・スレイヴリー」はカークの代表曲の一つ。音だけではわからないが、曲の途中で、彼はパーカッション・プレーヤーの先導でサックスを吹きながら客席を練り歩き、曲の最後に木製の椅子をステージ上でこなごなに破壊している。椅子破壊は彼が得意とするパフォーマンスだった。おそらく、ライブの最後にギターとドラムセットをめちゃくちゃに破壊するザ・フーに、あるいはそれに象徴されるロックの暴力性に対抗したのだろう。ジャズにだって破壊衝動はあるのだ、と。「破壊せよ」とアイラーは言ったが(※)、カークは実際に破壊してみせたのだった。

※『破壊せよ、とアイラーは言った』は1979年に出版された中上健次のエッセイ集のタイトル。アイラーとは、フリー・ジャズの代表的サックス・プレーヤー、アルバート・アイラーのこと。

 

フルートによるブルースに続く「ソロ・ピース」と題されたメドレーで、カークは片方のサックスでデューク・エリントンの「サテン・ドール」を吹き、もう一つのサックスで同時にアドリブをするという得意の超絶プレイを見せる。エリントンの音楽はほどなく一人同時アドリブの対位法的旋律に溶け込んでいき、ニューオリンズのマーチのような賑々しさの中ですべての音が一体となっていく。

アンコールの「カッコーのセレナーデ」はチャーミングなメロディ・ラインをもつこれもカークの代表曲で、彼のポップ・センスと仄かな哀しみが凝縮された名曲である。最後の曲は「ペダル・アップ」。カークの獣のようなすさまじい雄たけびでフェイド・アウトし、短くも激しいステージは幕を閉じる。50分の中に天才音楽家のエッセンスがぎっしりと詰め込まれた、モントルーの数あるライブ盤中十指に入る名盤と言っていいと思う。

〈参考文献〉『ローランド・カーク伝 溢れ出る涙』ジョン・クルース著/林建紀訳(河出書房新社)


『I, Eye, Aye/ライヴ・アット・モントルー・ジャズ・フェスティヴァル1972』
ラサーン・ローランド・カーク

■1.Rahsaantalk 2.Seasons 3.Rahsaantalk 2 4.Balm in Gilead 5.Volunteered Slavery
6.Rahsaantalk 3 7.Blue Rol No.2 8.Solo Piece (Satin Doll~Improvisation) 9.Serenade to a Cuckoo 10.Pedal Up
■Rahsaan Roland Kirk (ts, manzello, stritch, cl, fl, nose-fl, siren and others)、Ron Burton (p) 、Henry”Pete”Pearson (b) 、Robert Shy (d) 、Joe”Habao”Texidor (per)
■第6回モントルー・ジャズ・フェスティバル/1972年6月24日

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