投稿日 : 2021.09.20 更新日 : 2022.01.26

【マディ・ウォーターズ】「ブルース界のゴッドファーザー」円熟期のステージ─ライブ盤で聴くモントルー Vol.36

文/二階堂尚

「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。

ビートルズが初めて米国の地を踏んだとき、ジョン・レノンとポール・マッカートニーは、「アメリカで一番見たいものは?」と問われて「マディ・ウォーターズ」と答えたという。ロックへの影響という点で、マディの右に出るブルース・ミュージシャンはいない。1970年代、彼は3度にわたってモントルー・ジャズ・フェスティバルに出演している。そのベスト・パフォーマンス集『The Montreux Years』が近頃リリースされた。円熟期を迎えていた「ブルース界のゴッドファーザー」。その圧巻の演奏の記録を紹介する。

1986年のマディ・ウォーターズ

海外のブルースのアルバムが初めて日本国内でCD化されたのは1986年である。その最初のCDが、P-VINEからリリースされた『ベスト・オブ・マディ・ウォーターズ』だった。これは1958年に発売されたマディのファースト・アルバムで、CD化に際して新たに8曲が加えられていた。

日本のCDの販売数は1988年にアナログ・レコードを上回ったが、80年代半ばの田舎のレコード屋はまだアナログの棚の方が圧倒的に多く、CDは売り場の一角を占めているにすぎなかった。高校の帰り道に寄ったレコード・ショップの洋楽の棚の一番端にひっそりと『ベスト・オブ・マディ・ウォーターズ』があるのを見つけたときの喜びは今も覚えている。たしか、緑の背表紙がついていたのだった。

家に帰ってすぐに聴いたそのCDは、ローリング・ストーンズやエリック・クラプトンの音楽に馴染んだ耳にも決してわかりやすいものではなく、端的にすべて同じ曲に聴こえた。そのあとで買ったロバート・ジョンソンのLPはそれ以上にわからなかったが、今自分が聴いているのは「本物」であるという確かな手応えだけはどちらにもあったように思う。

のちにブルースのよさがつくづく身に染みるようになってからも、女にふられた話とセックス願望ばかりがほとんど同じ形式で繰り返し歌われるこの音楽が、なぜこれほど魅惑的なのかという謎は依然謎のままとしてある。

『ベスト・オブ・マディ・ウォーターズ』

最強ロック・バンドの名前となった曲

ローリング・ストーンズ結成のきっかけが、幼馴染だったミック・ジャガーとキース・リチャーズが学生時代にたまたま再会したことだったのは、ファンにはよく知られた話である。ロンドン郊外ダートフォート駅のプラットフォームで、3枚のレコードをもったミックをキースが見止めて声をかけたのだった。あるいは、声をかけたのはミックからだったか。いずれにしても、そのうちの1枚が『ベスト・オブ・マディ・ウォーターズ』であったのは確かで、その中の1曲「ローリン・ストーン」が今も活動が続くロック・バンドの名前となったことも周知の事実である。

ブルースの有名曲の歌詞を解説した『黒い蛇はどこへ』の著者である中河伸俊氏は、1950年代から80年代までのマディのキャリアを、大きく3つの時期に分けている。すなわち「南部から大都市に新規移住した黒人たちの心情にアピールするエレクトリック・ダウンホーム・ブルースの担い手だった時期」「主流のR&Bのスターとして活躍した時期」「『ロックのルーツとしてのブルース』の象徴的存在としてもっぱら白人(というか非黒人)の聴衆相手に演奏するようになった時期」である。

その3期は、おおむね50年代、60年代、70年代に該当する。第1期50年代は、今日よく知られるシカゴ・ブルースのサウンドをマディが確立した時期で、それを代表する作品が『ベスト・オブ・マディ・ウォーターズ』だ。一方、ニーナ・シモンエタ・ジェイムズに続くライブ・シリーズの1枚として最近リリースされた『The Montreux Yeas』は、第3期70年代の円熟期のマディの充実した演奏を記録している。

完全復活したマディの姿を捉えたライブ盤

マディがモントルー・ジャズ・フェスティバルに初めて出演したのは1972年で、その後74年、77年と計3回出演している。『The Montreux Years』は、その3ステージからのベスト・パフォーマンスを選んだものだ。

60年代後半のアルコールを原因とする体調悪化とツアー中の交通事故によるけがによって、マディは一時期全盛期のようなギター・プレイができなくなっていた。しかしこのアルバムを聴くと、70年代に入って彼が完全に復活していたことがよくわかる。とくに72年のステージの3曲「ロング・ディスタンス・コール」「ローリン・アンド・タンブリン」「カウンティ・ジェイル」のスライド・ギターのプレイはほとんど異次元の域に達していて、ときに狂気を感じさせるほどだ。メンバーの顔触れという点では、バディ・ガイがサイド・ギター、ジュニア・ウェルズがハープ、ストーンズのビル・ワイマンがベースで参加している74年ステージに注目すべきだが、演奏の出来という点では、72年のステージが一番優れているように思う。

シカゴ・ブルースのサウンドをつくった男

もともとアコースティック・ギターのスライド・プレイを得意としていたマディがギターをアンプにつないだのは、シカゴのクラブの騒々しさの中にアコースティックの音が埋もれてしまったからだ。これが今日知られるシカゴ・ブルースのスタイルの発端となった。それ以前にも、T-ボーン・ウォーカーをはじめエレキ・ギターを弾くブルースマンは何人かいたが、彼はその影響を受けたのではなく、現場の要件によって否応なく自分の音楽をエレキ化せざるを得なかったのである。

その後、やはりハープをアンプリファイドして独自のサウンドを生み出したリトル・ウォルターが、さらにピアノのオーティス・スパンが加わることでシカゴ・ブルースのサウンドは完成したとされる。そのサウンドに加えて、マディのいわば世界観の確立にひと役買ったのが、ベーシストにしてソング・ライターのウィリー・ディクソンであった。そのチームによる最初の成果が、よく知られた「アイム・ユア・フーチー・クーチー・マン」である。マディの生涯の代表作となったこの曲は、もちろん『The Montreux Yeas』にも収録されている。

「フーチー」というのは男のアレ「クーチー」というのは女のアレだから、「フーチー・クーチー・マン」とは要するにアレがすごい奴ということで、「マディの世界観」とはつまりそういうことである。「フーチー・クーチー・マン」にはヴードゥー教の呪術師や民間医療行為者という意味もあることから、中河氏はこれに「魔法医師」という穏当な訳語を当てておられるが、おそらく「絶倫野郎」とでも言っておいた方が原語のニュアンスには近いのだろう。そのマッチョな自己誇張の世界観が初期ヒップ・ホップに継承されているのというのは、中河氏の慧眼である。

マディの声を録音したコルトレーン

マディのサウンドや世界観は多くの後進に模倣されたが、そのドスの効いた肉声は模倣を許さないものだった。マディ・サウンドの核心はまさしくその声にあって、本人は「ただ、あるひとつのことを心がけているんだ。自分の声みたいに、ギターを鳴らすってことさ」(『マディ・ウォーターズ ブルースの覇者』)と言っている。

60年代初頭にマディがよく出演していたシカゴのスミッティーズ・コーナーに、ある日、ジョン・コルトレーンが録音機を携えて姿を現したことがあったという。マディの声を自分の楽器のトーンにいかそうと考えてのことだった。60年代のインパルス期、つまりコルトレーン絶頂期のテナー・サックスのあの音にマディの声が反響していると言われれば、なるほどそれも大いにありうると納得させられる。マイルス・デイヴィスは、楽器の音を「サウンド」ではなく「ボイス」としばしば表現した。マディの肉声とギターには、ジャンルを超えて人々を魅了するボイスがあったということだろう。

「息子たち」に支えられた晩年

フーチー・クーチー・マンを地で行っていたマディには婚外子を含め数多くの子どもがいたが、彼は音楽界においても「息子たち」に恵まれた男だった。黒人ブルース界にはもちろん、白人ミュージシャンの中にも数えきれないほどの信奉者がいた。彼の円熟期はその「息子たち」とともにあった。

彼を育てたチェス・レコードでの最後の作品であり、後期マディの代表作の1枚である『ウッドストック・アルバム』(1975年)は、ザ・バンドのメンバーらの全面サポートのもとでつくられている。現存しているマディの最後の映像は、バディ・ガイが経営していたチェッカー・ボード・ラウンジにおけるストーンズとの共演ステージである。ヒーローの脇で少年のようにはしゃぎながら歌うミック・ジャガーの微笑ましい姿をYouTubeで見ることができる。

最後のステージは、1982年6月にフロリダで行われたエリック・クラプトンのライブへのゲスト参加であった。マディを心からリスペクトする息子たちに伴われた幸せな晩年だったと言うべきだろう。彼が70年の生涯を閉じたのは、最後のライブの10カ月後だった。

ミシシッピからシカゴに来て、トラックの運転手をしながらクラブでブルースを歌っていた男が「アイム・ユア・フーチー・クーチー・マン」を録音したのは40歳を過ぎてからだった。『The Montreux Yeas』は、彼の60代の記録である。しかし、その演奏に老成という言葉は似合わない。無常に移り変わっていく音楽の流行とは別のところでブルースの威厳を守り続け、ブルース界のゴッドファーザーの地位に立ち続けたマディの姿をこのアルバムはよく伝えている。マディが草葉の陰から、あのドスの効いた声で遠く語るのが聞こえる。人生を最後までタフに生き抜く方法を教えようか、俺のブルースを聴くことだ、と。

文/二階堂 尚

〈参考文献〉『マディ・ウォーターズ ブルースの覇者』サンドラ・B・トゥーズ著、西垣浩二訳(ブルース・インターアクションズ)、『黒い蛇はどこへ 名曲の歌詞から入るブルースの世界』中河伸俊著(トゥーヴァージンズ)


『The Montreux Years』
マディ・ウォーターズ

■1.Nobody Knows Chicago Like I Do 2.Mannish Boy 3.Long Distance Call 4.Rollin’ And Tumblin’ 5.County Jail 6.Got My Mojo Working 7.I’m Your Hoochie Coochie Man 8.I’m Ready 9.Still A Fool 10.Trouble No More 11.Rosalie 12.Rock Me Baby 13.Same Thing 14.Howlin’ Wolf 15.Can’t Get No Grindin’ 16.Electric Man
■Muddy Waters(vo,g)ほか
■第6回モントルー・ジャズ・フェスティバル/1972年6月17日ほか

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