投稿日 : 2019.12.05 更新日 : 2021.09.03

【証言で綴る日本のジャズ】清水万紀夫|父親は『上海バンスキング』のモデル

取材・文/小川隆夫 撮影/平野 明

清水万紀夫 インタビュー

憧れのリズム・キングに抜擢

——ところで、万紀夫さんというのは本名でないとか?

本名は牧夫と書くんです。お袋がハンコとかに凝って、初めの子供が生まれたときに字画がなんとかって。それで芸名じゃないですけど、ずっと万紀夫で通してきました。

——最初から仕事は万紀夫さんでされていたんですか?

公のところ、稲垣次郎(ts)さんや猪俣猛(ds)さんのグループに入ってレコーディングなどに携わるようになったころからそちらの名前で。

——キャンプやどこかのクラブで演奏するときは本名で。池田操(vib)さんのリズム・キングにも入っていたんですね。この時期はまだ牧夫さん?

どうだったかなあ? リズム・キングには「ホテル・ニュージャパン」がオープンしたとき(60年開業)に入りました。

——ホテルの専属バンドということで。

池田操さんは50年代にリズム・キングを結成して、最初のころは、秋満義孝(p)さん、鈴木章治(cl)さん、荒井のぼる(g)さんとかとでやっていたんです。ぼくが入ったのは、それが解散したあとです。先生だったデクさんや藤家虹二さんも入っていたことがあったので、「どうしてもリズム・キングに入りたい」と思っていたけれど、そのときは解散したあとで。そうしたら、ホテルの専属バンドとして再結成されることになって、秋満さんが推薦してくれたんです。

ぼくが入ったときのリズム・キングにはとてもいいメンバーがいたんですよ。池谷(いけたに)タダシさんてピアノとベースの金子さん、ドラムスが沢田駿吾さんとやっていた松下アキラさん。それに池田さんとぼくの5人編成。

ホテルがオープンしたときからこのバンドでやるようになったんですけど、1年くらい続いたところで、京都の「ベラミ」の近所に「おそめ」というナイトクラブができたんです。ここは俊藤浩滋(しゅんどう こうじ)(注21)さんて、東映の重役でしたけど、その奥さん(上羽秀)(うえば ひで)がママで。当時、京都の「おそめ」と銀座の「おそめ」と飛行機で行ったり来たりして、〈空飛ぶマダム〉と呼ばれていたひとです。そのひとのナイトクラブで、そこに引っ張られたんです。

(注21)俊藤浩滋(映画、テレビ・ドラマのプロデューサー 1916~2001年)60年京都の御池に320坪の「おそめ会館」を開業し、ダンス・ホールやナイトクラブを経営。同年、東宝から鶴田浩二を東映に引き抜いたことで、鶴田のマネージャー兼東映のプロデューサーになる。娘が富司純子で孫が五代目尾上菊之助、寺島しのぶ。

ところが「おそめ」に行ったその日に、池田さんが博打でギャラをぜんぶ巻き上げられて。本来ならワン・クールの3か月で終わるはずだったのが、そのおかげで半年になって、それが1年に延びて。ぼくは大学に籍があったから、京都の仕事は続けられない。関西には同じ年の古谷充(たかし)(as)って、クラリネットも歌もとても上手い、そういうひとがいたんで、彼に「頼む」といったら、「いまさらクラリネットはやりたくない」。いろいろ探してみたけれど、ちゃんとしたプロでは替わりが誰もいなくて。そうしたら俊藤さんが、「じゃあ、クラリネットは誰かに頼むから、お前は帰っていい」といってくれて。

——「ホテル・ニュージャパン」が1年くらいで、京都も1年くらい。

京都では、試験のときに東京に帰ってましたが、通算すると1年くらいいましたかねえ。

——吉屋(よしや)潤(ts)さんのバンドにもいらしたでしょ。

それもそのころですね。

——大学生だった鈴木孝二さんが、「新宿のキャバレーに、吉屋さんのバンドで出ている清水さんをよく覗きにいって、勉強させてもらった」とおっしゃっていたけど。

それはキャバレーじゃなくて、「クラブ・エリーゼ」だと思います。そのときのメンバーは、リーダーが吉屋さん、ギターが杉本喜代志さん、ピアノが飯吉信さん、ベースが根市タカオさん、ドラムスが誰だったか。このバンドでは、アルト・サックスとバリトン・サックスを吹いていました。

——そのあとは?

レギュラーといえるのは稲垣次郎(ts)さんのソウル・メディア。

——それは何年ごろ?

大学卒業後(62年)だと思います。稲垣さんがリーダーで、トランペットの伏見哲夫さんとぼくの3管に、慶應(慶應義塾大学)の学生だった大野雄二(p)のトリオがメンバー。それで、フュージョンのはしりのようなものをやってました。

人気オーケストラでも活躍

——60年代に入ってからの清水さんはオーケストラでも活躍します。

オーケストラでは、ニュー・シャープス&フラッツができて、それに入ったのが大学を出たあとです。60年代になって、原信夫(ts)さんのシャープス&フラッツがミュージカルの仕事をするようになったんです。こういうときはアメリカから指揮者が来て、オーケストラのメンバーは日本人が務めるんです。だけど、ちゃんと譜面が読めてミュージカルのできるバンドが、シャープ以外だと日本にはほとんどいない。

それで、シャープがミュージカルの仕事に入ると3か月も4か月もほかの仕事ができなくなる。その穴を埋めるため、ニュー・シャープス&フラッツを、ドラマーの武藤敏文さんがリーダーになって作ったんです。そのときに入ってきたのが、サックス奏者のジェイク・H・コンセプション。だけど、すぐ渡辺弘さんのスターダスターズに引っ張られて、彼が辞めて。そのあとに、ぼくがニュー・シャープスに入るんです。フルバンドのちゃんとしたリード・サックスをやるようになったのが、そのときからです。

あと、原さんがいないときは、ニュー・シャープスがコロムビアで歌謡曲の伴奏をする。これがコロムビア・ニュー・シャープスというオーケストラ。それがつまらなくなって、ぼくはニュー・シャープスを辞めました。

そのころに、やっぱりコンボがやりたくて、猪俣猛さんのサウンド・リミテッドに入るんです。初期のサウンド・リミテッドは、中牟礼貞則(g)さん、穂口雄右(org)さん、鈴木淳(elb)さん、それとぼくがフルート。この編成で、69年に「日比谷野外音楽堂」で開催された「第1回サマー・ジャズ」に出演し、ハービー・マン風の演奏をしました。ラテン・ロックみたいなもののはしりです。並行して、稲垣次郎のソウル・メディアも不定期でやっていました。

——同時にブルーコーツにも入られて。

60年代後半ですね。ブルーコーツを辞めるときのリズム・セクションは海老沢一博(ds)とコルゲン(鈴木宏昌)(p)と鈴木淳(b)で、サックス・セクションはぼくがリードで、セカンドが宮沢昭(ts)さん、四番が村岡建(ts)、それにアルト・サックスの菊地秀行がいて、バリトン・サックスが誰だったかな? けっこう、若手で固めていました。

そのころのブルーコーツはコンサートばっかりやってたんです。ところが、コンサートでは「ワン・コーラスでソロは終わり」と決めても、サクソフォンがソロに入ると、上手くできるまでやめない(笑)。みんな難しい曲ばっかり書いてきて、自分たちでアレンジして、やらせてもらう。そんなこんなで、いつもコンサートはボロボロでした。

それであるとき、ゲストでジェイクが来て。あのひとはすごいひとで、〈バンブル・ブギ〉とか、ああいうのを循環呼吸(息継ぎをせずに鼻呼吸で吹く奏法)で、しかもダブル・タイム(倍のテンポ)でぜんぶ吹いちゃうの。いろんな音色も駆使して、なんでもできるひとですから。

それがきっかけで、「コンサートにも連れていってほしい」となったんですけど、毎回のゲストは無理なので、「メンバーならいい」と。ジェイクみたいなひとが入って、まとまったほうがいい。それで、彼がメンバーになって。そうすると、同じアルト・サックスの菊地秀行が貧乏くじを引いて。彼が参加するのはダンス・ホールとか、そういうところだけ。そっちにジェイクは来ないから。

そんなことがあったり、ブルーコーツもテレビで『家族歌合戦』みたいな番組とかをやるようになるんです。そういうのがイヤで、あるときサクソフォン全員とリズム・セクション全員が辞めるんです。

でも、トランペットの森寿男さんが「潰すのは申し訳ない」といって、残って。このことがきっかけで、森さんがブルーコーツのリーダーになります(70年)。そのときに、森さんはシャープから五十嵐明要さんを引っ張ってきて、彼を中心にブルーコーツを立て直したんです。それにしても、五十嵐さんのリードは素晴らしかったです。ぼくがリードを吹いていたころのサックス・セクションはアンサンブルしなかったですから(笑)。

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