投稿日 : 2023.07.25

【証言で綴る日本のジャズ】安倍寧|シャンソンもタンゴもハワイアンも「ジャズ」だった─ 戦後ショウビジネスの新たな幕開け


ミュージカルを追いかけた理由

──たとえば昭和35年まで、1950年代の10年くらいの間、安倍さんはいろいろなジャズを聴かれていると思いますが、順位はいいんですけれど、インパクトが強かったアーティスト、バンドを内外問わずで挙げるとしたら。

そうですねぇ。いま思い出すと、ジーン・クルーパのような派手な音楽はむしろ記憶の彼方に薄れていって。JATPのような、ブローもあったけれど、音楽的になにか新しいことを試みようとしている、そういうグループというかコンサートというか、聴いたときには一見地味だったかなとは思いますけれど、そちらのほうが記憶に残っています。やっぱりオスカー・ピーターソンは残っているなぁ。ピーターソンとエラ・フィッツジェラルドはインパクトがありました。それでいくと、悪いけれど派手なジーン・クルーパはちょっと。

──安倍さんは60年代以降になると徐々にジャズから離れていく。というか、ほかの音楽の比率が高くなったんでしょう。50年生まれのぼくにとって、安倍さんはテレビの音楽番組なんかで拝見した方。これは60年代に入ってからのことで、そのときはもうジャズではなく、どちらかといえばポピュラー・ミュージックにおけるオーソリティのイメージ。そうなってきたのは、安倍さんの中で好みが変わったのか、音楽の仕事が占める比重が変わったのか。どういうことなんでしょう?

テレビに誘われたことがひとつ。それと、昭和30年代後半ぐらいからミュージカルに興味を持ち、ブロードウェイにもよく行くようになりました。なんでそういうことになったかというと、野川香文さんのこの本『ジャズ楽曲の解説』(千代田書房刊)なんですよ。

野川香文『ジャズ楽曲の解説』

学生時代に読んだんだけれど、この本には「アメリカのヒット・ソングはショウから生まれた」と書かれている。それから、そのヒット・ソングがジャズのスタンダード・ナンバーになっていく。ショウとスタンダード・ナンバーの関係がここに書かれているわけですね。それとアメリカ映画、たとえばジョージ・ガーシュウィンの伝記映画『アメリカ交響楽』(45年)、あるいはコール・ポーターの伝記映画『夜も昼も』(46年)。こういうものを観ると、ショウが生み出すショウ・チューンとスタンダード・ナンバーの関係が明らかになってきた。そこに興味を持ったんです。

──ジャズの原点ということですね。

そうです。とくに野川さんの本は、どのショウからどういう曲が生まれて、それを誰が歌って、あるいは演奏物では誰が演奏して、それがスタンダード・ナンバーになったっていう、そういう過程が細かく書かれている。それで、ショウと曲というふたつのものに対する興味が湧いたんです。もとは野川さんのこの本なんです。

──それは安倍さんがもともとジャズに興味があったから。

そういうことです。しかもそのジャズをですね、あるいはジャズのスタンダード・ナンバーを「日劇」の生で聴いていたんです。〈インディアン・ラヴ・コール〉とか〈ラヴァー・カム・バック・トゥ・ミー〉とかをね。この本にはそういう曲について細かく書かれている。それを「日劇」のショウで、生で聴いたり、観たりした。

「そうか、日本でもその楽曲がショウの中でこういうふうに扱われて、それをわれわれが楽しんで、そういう経過をたどってわれわれの胸にまで伝わってくるんだな」ということがだんだんわかってきた。アメリカのショウと楽曲の関係、さらに日本のステージでのショウと楽曲の関係を、生のステージを観ることで、改めて納得がいったんです。

──安倍さんが観られてきたものの知識がそこに、ミュージカルにぜんぶ繋がっていた。ですから、ミュージカルにのめり込んでいくのは自然の流れで。60年代半ばっていうと、ぼくの記憶が確かかどうかわからないですけれど、日本でも向こうのミュージカルの上演が……

始まったころです。

──それにも安倍さんのご尽力があった。

いえいえとんでもない。すべて東宝の演劇担当重役だった菊田一夫さんの努力の賜物です。日本で最初に上演されたブロードウェイ・ミュージカルは『マイ・フェア・レディ』。主演が江利チエミと高島忠夫。昭和38年、1963年のことです。

どうして丸ごとブロードウェイ・ミュージカルを日本語でやろうという発想が生まれたかというと、菊田一夫さんがそう考えたからです。まずは、「欧米でミュージカルというものがいろいろ噂になっているから日本でも上演したいな、作りたいな」という色気があって、いろいろやってみた。しかしなかなかうまくいかない。

それで菊田さんが最後に考えた手は、丸ごと向こうの作品をやってしまえという、そういう発想だったんです。日本の商業演劇にはもともと丸ごと外国のものをやろうという発想はなかった。それを菊田さんは実行しちゃったわけ。それで『マイ・フェア・レディ』をきっかけにして、ド〜ッと日本にミュージカルが入ってきた。

安倍寧

もうひとつ、同じ昭和38年に「日生劇場」がオープンするんです。そこに石原慎太郎と浅利慶太という、ぼくと同年輩の若者が関わることになった。ぼくのところにもいろいろ相談が来るものですから、向こうも若造だしぼくも若造でしたけれど、若造なりにいろいろアイディアを出したりしたんです。アドヴァイザー役を務めたということです。

その中で、「日生劇場」を舞台にしてミュージカルをやったらどうか、そういうプッシュはしました。具体的には、越路吹雪を浅利に紹介した経緯があります。ほかにはジャニーズ最初のミュージカル(注21)かな。「日生劇場」の制作で行なわれました。あの立派な劇場とジャニーズの子供っぽさとが、なんかバランスは悪いんだけれど。ですから、ジャニーズのミュージカル・デビューは「日生」なんです。そういうジャニーズの動きにも多少だけれどぼくが関わっているとはいえるかもしれない。

注21:作=石原慎太郎、音楽=中村八大で65年4月に上演された『焔(ほのお)のカーブ』。

──その時代に、日本の音楽業界の評論家なりライターなり、そのころのことはよくわからないですけれど、個人的な印象としては、安倍さんがとにかく本場のミュージカルにいちばん詳しい方だと、そういう認識でずっと来ているんですけれど。

ありがとうございます。それはですね、お金を貯めてはこまめにブロードウェイに通ったと。貧乏旅行をしたと。それがみなさんにそういう印象を与えたのかもしれません。

「ショウと楽曲と聴衆」の理想的関係

──安倍さんがこれほど深くジャズに関わっていたとは知らなかった。安倍さんはもともとがジャズのひとだったという驚きとでもいえばいいでしょうか。

若いときにJATPやルイ・アームストロングを生で聴いたことが大きいですね。ここで音楽著作権の話をちょっとしたいのですが。

アメリカで著作権のお金が上がってくるのは、ラジオ、テレビ、レコード、生のコンサート、そういうところからのものが圧倒的に多い。ミュージカルから上がるロイヤリティはそれらに比べればずっと少ないはずなのに、いまでもショウをメインと考えるような、そういう伝統的意識がある。ショウの上演権をグランド・ライツ、他の使用権をスモール・ライツと呼んでいるのはその表れです。

いまの著作権は圧倒的にショウから上がってくるものが少ないはずなのに、相変わらずそっちのほうの伝統をなんとなく重んじる。そういう意識がある。最近はサブスクリプションなんかから上がってくるもののほうが多いかもしれないけれど、そっちじゃない、「オリジンはショウだ」という考え方。

そういう意味では、若いときに野川先生の本を読んだのは大きかった。くどいようだけれど、ショウと楽曲……その関係がいまだに気になるというか。たとえば『クレイジー・フォー・ユー』(注22)というミュージカルがありますが、これはガーシュウィンのスタンダード・ナンバーを網羅したものです。アメリカのお客さんも作り手もガーシュウィン作品のような伝統的なメロディの宝庫というか、そういうものをいまでも大事にしている。スタンダード・ナンバーというのはいまでもそういう形で甦っている。新しい形でショウが作られて、上演されて。

注22:過去のミュージカル作品『Girl Crazy』を基にした92年制作のタップ・ダンス・ミュージカル・コメディ。ジョージ・ガーシュウィンの楽曲にスーザン・ストローマンが振りつけをし、トニー賞で「最優秀作品」「衣装」「振りつけ」部門受賞。日本でも劇団四季で上演中。

──ガーシュウィンとかコール・ポーターとかの曲は永遠不滅で、いまだに若いひとも聴いているし、レコーディングするシンガーもいるし、ミュージシャンもいる。ですから、1920年代とか30年代とか、そういう時代に作られた楽曲は、アメリカのポピュラー・ミュージックの原点であり、宝庫でありみたいな意識が、いつの時代になっても残っているんでしょう。

おっしゃる通りです。ぼく、「グラミー賞」って二度しか現場で観たことがないんだけれど、86年、ロサンジェルスで観たときに、ジョージ・ガーシュウィンが「特別功労理事会賞」をもらうことになり、司会者がガーシュウィンのことを延々と称えるんですよ。だけどジョージはもちろん、兄で作詞家のアイラも亡くなっているのに、誰に賞を渡すんだろう? と、司会者の紹介を聞きながら不思議に思っていたら、アイラ・ガーシュウィンの夫人が出てきたの。笑っちゃうでしょ。いや、笑っちゃいけないか。そこにアメリカのよき伝統があるんじゃないかなと思ったんです。リスペクトがあるのかなという気がしますね。思わず拍手しちゃいました。

感動したのは、若いひとを含め、観客が全員立って拍手するんです。お客さんと音楽、お客さんとショウといってもいいけれど、そういうものが理想的な関係にあるのかなぁと思います。ほかならぬ音楽の伝統に対するリスペクトです。

──こういっては失礼かもしれませんが、ぼくの中に勝手な安倍さんのイメージがあったんですけれど、今日のお話を聞いてよーくわかりました。イメージと実像がぜんぶ繋がりました。

ジャズから派生した戦後日本の音楽

戦後の日本における音楽シーンで見すごせないことがもうひとつあるんです。それが、東芝音楽工業(60年設立)やCBS・ソニー(同68年)といった新しいレコード会社ができてきたこと。そういうところは、専属作詞家、作曲家、歌手は持たなかったわけです。ぜんぶ新人というか、しろうとといっちゃ失礼かもしれないけれど、いわゆる歌謡曲を作るのに未経験のひとたちから、作詞家、作曲家、歌い手を探さなきゃいけなくなった。それを埋めたのが渡辺プロダクションをはじめとする各プロダクションに所属するジャズとかカントリーのひとたちなんです。

簡単にいうと、ジャズのクラリネット奏者、萩原哲晶(ひろあき)が〈スーダラ節〉を書く。ビッグ・フォアの中村八大が〈上を向いて歩こう〉を書く。そういう新しいフィールドで、ジャズのひとたちが果たした功績は大きいですね。ジャズのアーティストというかミュージシャンが、メジャー・レコード会社が持っている作家陣を持たなかった新興レーベルで、その穴を埋めたといえるし。

──彼らがいわゆる歌謡曲からちょっとはみ出たような新しい音楽を作りましたよね。

新しいトレンドを作ったんです。ビジネス的なことをいえば、そのときに日本では音楽出版というものを一生懸命にやろうとしたひとたちがいた。それが渡辺美佐さんと晋さん、それと永島さんなんです。永島さんは語学もできたし、アメリカのショウ・ビジネスのこともよくわかっていた。美佐さんがアメリカで音楽出版社を研究して日本に戻ってきたときに、自分たちは国内著作権をやる、国際的な著作権は永島さん。ふたりで持ち場をわけて、これから音楽の著作権ビジネスをやろうよと話し合っているんですね。

──その住み分けもよかった。

それが渡辺音楽出版になって、もう一方が大洋音楽。加山雄三だってそうした新しい動きがなかったらデビューできたかどうか。日本のレコード会社は見向きもしなかったでしょうから。彼の著作権をぜんぶ渡辺音楽出版が押さえ、制作・広報・宣伝に乗り出したのですから。加山雄三、つまり弾厚作(加山雄三のペンネーム)という名前の作曲家、それと作詞をした岩谷時子も当時のレコード産業とは関係ないところから出て来た。そのひとたちが革命を起こしたんです。

──新しいレコード会社ができたことによって既存のレコード会社の専属契約制が……

崩れた。そういうことです。新しいレコード会社ができなければ、そのままだったかもしれない。

──時代の流れみたいなものがあって、シンガー&ソングライターのように自作自演をするひとが増えてきたし、そういうところで新しい音楽出版とか、そういう需要もあったでしょうし。

レコード会社、とくに東芝なんかは専属作曲家がひとりもいないところから始めて。そのギャップをなんとか埋めたい。それで作曲に中村八大を起用するとか、作詞だと永六輔を連れてくる。歌謡曲を書く前の岩谷時子は、マネージャーを務めていた越路吹雪が歌うシャンソンしか訳詞したことがなかった。あのひとはフランス語ができたわけじゃないから、ひとが訳した直訳を基に意訳を作っていった。才能があったんでしょう。いま申し上げたことを含めて、新しい潮流が生まれたころに、幸いぼくが居合わせた。

──音楽もいい時代だったんですね。

そうです。「日本レコード大賞」(注23)の審査委員・実行委員を約30年やりました。

注23:59年に創設された、スポーツ紙を含む各新聞社の記者が中心となって決定する音楽に関する賞。主催は公益社団法人日本作曲家協会、後援はTBS。年末にTBSテレビ・TBSラジオとその系列局が放送し、番組名は『輝く!日本レコード大賞』。

──いやないい方をすると、音楽がお金になった時代というか。音楽産業周辺の景気がよかったのかな?

そうなんです。時代はもう少しあとになりますが、TBSの『ザ・ベストテン』(注24)など、テレビの音楽番組が大ヒットしてたし。芸能界全体を左右するような力が音楽にありましたから。

注24:毎週木曜日の生放送で、独自の邦楽ランキング上位10曲をカウントダウン形式で発表した。放送時間は21時からの55分。放送期間は78年1月19日 – 82年9月30日。

──昔は各局に音楽番組がありました。

そういう意味じゃ『紅白歌合戦』(注25)も「日本レコード大賞」も大きな力がありました。

注25:NHKが51年から放送(52年まではラジオ)している男女対抗形式の音楽番組。大晦日の夜に公開生放送される。

──ところで話は尽きないのですが、今回のインタヴューは60年代までのことがメインですから、ここまでにしたいと思います。今日はほんとうにありがとうございました。

こちらこそ、ありがとうございました。また、小川さんとはまたお話をしましょう。

取材・文/小川隆夫
撮影/高瀬竜弥

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