投稿日 : 2018.03.29 更新日 : 2021.09.03

【証言で綴る日本のジャズ】中村誠一|ベニー・グッドマンとグレン・ミラーの衝撃

取材・文/小川隆夫

中村誠一 インタビュー

ジャズに夢中

——中学のころはそういうのをひとりでやっていた。

そうやってて、将来は絶対にジャズ・ミュージシャンになろうと思っていました。楽器も自分のがなくて、卒業したら学校に返さなきゃいけない。吹奏楽のある学校に行こうというんで、自分の程度にあった日大桜ヶ丘(日本大学櫻丘高等学校)に入ったんです。そこは中学校のブラスバンドよりぜんぜん上手い。入部したその日に、新入生はみんな帰ったけど、ぼくだけなんとなく部室にいた。そうしたら先輩が大太鼓を床に置いて、自分で作ったバスドラムのペダルを持ってきて、譜面台に合わせシンバルをくっつけて、バンドが始まっちゃった。「エエッ」でしょ。

そのバンドをやっていたのが花岡詠二(cl)さんで、彼は三年になったばっかり。ピアノもいて、大太鼓を叩いていたひとが電気ベースを弾いて、ほかにもギターがいて、バンドが始まった。〈リンゴの木の下で〉とかをやるんですよ。それで「いいなあ」と思って、「花岡さん、このバンドに入れてもらえませんか?」といったんです。そうしたら「いいよ」。花岡さんは両親がバンドをやっていて、ギターも弾けるしピアノも弾ける、おまけにクラリネットも吹けばサックスも吹く。すごかったのね。

それで「お前、コード知ってる?」「知らない」「じゃあ、ブルース知ってるか?」「知らない」。それでブルースのコード進行を教わって。コードは本を読んだりして覚えて、わかるようになった。

花岡さんはクラリネットがすごく上手かったから、「なんでそんなに上手いの?」「だって習ってるもん」「じゃあ、その先生のところに連れていって」。それが当時、国立音大(国立音楽大学)の助教授で、N響(NHK交響楽団)の主席クラリネット奏者の大橋幸夫(注12)先生。日本のクラシックのクラリネットのひとはほとんどがその先生に教えてもらっている。先生のお宅が下高井戸で、高校も下高井戸だったから、学校の帰りにレッスンを受けて。

(注12)大橋幸夫(cl 1923~2004年)NHK交響楽団首席クラリネット奏者として活躍し、国立音楽大学の教壇にも立つ。日本クラリネット協会永久名誉会長、国立音楽大学名誉教授、N響団友。

それが高校一年の10月ぐらいからかな。「君はアマチュア志望か、プロ志望か?」といわれて、「プロになりたい」。「じゃあ、厳しくするから」といわれて、「いままでやったことはぜんぶ忘れて、最初からやり直し」。独学でクラリネットは吹けたけど、オーソドックスなクラシックのクラリネットの吹き方を教わったわけですよ。

——鈴木孝二(cl)さんが国立の先輩で、大橋さんに習って大学に入っていますよね。

そうです。

——鈴木さんにお話を聞いたら、中村さんと同じで、高校のときに弟子入りしましたが、そのときは「君、プロになるのはやめたほうがいいよ。音楽家なんか食べていけないから、サラリーマンになりなさい」といわれて、なかなか弟子入りをさせてもらえなかった。中村さんはすんなり教えてもらえたんですか?

鈴木さんとは6年くらい違うのかな? ぼくのときも怖かったけど、当時はうんと怖かった。ぼくは小学校のときから講談本が好きで『後藤又兵衛』や『左甚五郎』を読んでいたから、「ダメ」といわれたら弟子入りが許されるまで、3日でも4日でも玄関先に座り込んでの気持ちで行ったの。だけど、「教えてください」「いいよ」といわれて、ガクッと力が抜けた(笑)。代わりに「お母さんかお父さんを連れて来なさい」といわれて、翌週、ご挨拶に行って、それから正式に。

——ご両親は反対しなかった。

自分がやりたいことをやれという感じだったので。

——高校一年から習い始めて。学校ではブラスバンドをやって、そのほかにも音楽活動はしていたんですか?

楽しみは花岡さんたちのバンドで一緒にやること。あとはレッスンでしょ。当時の生活は、朝起きるとまずクラリネットの練習をして、ご飯を食べて、学校に行って、2時間目か3時間目には弁当を食べて、昼休みには音楽室でピアノを弾いたりクラリネットの練習。授業が終わったら吹奏楽。うちに帰ったら、ご飯を食べて、あとは寝るまでクラリネットの練習。

——勉強とご飯と寝る以外はずっとクラリネットを吹いていた。

勉強はほとんどしなかった(笑)。だから自分でいうのもなんだけど、見る間に上手くなった。2年半でコンチェルトぐらいは吹けるようになってましたから。そうだ、吹奏楽が終わったら新宿の「木馬」ってジャズ喫茶に行って、コーヒー1杯でジャズを聴いて。だからジャズを聴いているかクラリネットを練習しているか。

——そのころ好きだったミュージシャンは?

いちばんはジョン・コルトレーン(ts)とエリック・ドルフィー(as)。チャールズ・ミンガス(b)のバンドも好きで、「どこでも入れてくれるといわれたらミンガスのバンドに入りたい」と夢見てましたから。ソニー・クラーク(p)も好きでした。セロニアス・モンク(p)はよくわからなかった。デイヴ・ブルーベック(p)がポール・デスモンド(as)やジェリー・マリガン(bs)とやっていたレコードも好きだったし。

——コルトレーンとドルフィーのどういうところが好きだったんですか?

天衣無縫の自由さが好きだったのかな?

——そういうのをクラリネットで吹いてみようとは思わなかった?

それはもうちょっとあとです。花岡さんとは1年だけで、先生に「国立に行きなさい」といわれたけれど行かないで、彼は日大(日本大学)の芸術学部に行ったんです。一緒にやってたひとではピアノだけが残って、またバンドを作った。けれど七夕みたいなもので、演奏は学園祭で年に1回しかできない。どんなふうにジャズを勉強したらいいかもわからないし、コピーするなんてことも思いつかなかった。

高校二年のときに、ジャズ好きの先輩がふたり、バンドの練習を聴きにきて。こちらは年に1度しか演奏ができないし、ジャズがやりたいのを我慢してクラシックの勉強をしているんで、溜まりまくっている。アドリブなんかちゃんとできないからフリー・ジャズみたいになっている。そうしたら、ジャズ好きの先輩に「お前はすごい」と褒められた。それがフリー・ジャズをやるようになった要素のひとつかもしれない。

——バンドではどんな曲をやってたんですか?

〈ウィスパリング〉〈オン・ア・スロー・ボート・トゥ・チャイナ〉、あとは〈浜辺の歌〉とかもやってました。スウィング・ナンバーですよね。

——ジャズといってもハードなものじゃない。

そんなのはできないし、花岡さんの流れでやってただけだから。それでも〈リンゴの木の下で〉は、さすがに「古いなあ」と思っていました。

——よそで演奏する機会は?

花岡さんが卒業して、三鷹のダンスホールで仕事があったんです。そこに「来いよ」と誘われて、行って、お金ももらって。それが二年のときで、そのころからお金がもらえる仕事もしてました。ダンス・パーティに声をかけてもらって、一緒にやったりしてたけど。

——ロックは眼中になかった?

高校三年生のときがビートルズですよ。初めてラジオで聴いたときは、やっぱり新しい音楽だと思いました。だけどロックは興味がなかった。ジャズしか好きじゃなかった。

大学で山下洋輔と出会う

——大学ではクラシックですよね。でもジャズ・ミュージシャンになろうと思っていた。

クラリネットでジャズ・ミュージシャンになろうと思ってた。

——当時、ジャズでクラリネットは古い楽器になっていましたよね。

だから、トニー・スコット(cl)とかジミー・ジュフリー(cl)とかのモダンなひとを探して聴いていた。国立音大の最初の授業で、うしろに女の子がふたりいて、「うちのなんとか」って、ジャズの話をしている。大学に入るときに、国立音大に鈴木孝二さんや山下洋輔(p)さんがいるのは知っていた。オレがストレートで入ると山下さんが四年だなというのもわかっていた。

うしろでジャズの話をしている女の子に話しかけたら、山下さんの妹だった。彼女が「みんなうちにジャズを習いに来てる」っていうから、「ぼくも連れてって」。会ったその日に、阿佐ヶ谷の山下さんのうちに行ったの。行ったら本田竹広(本田竹曠)(p)もいた。それから歌手志望の女の子とか。

ぼくの番が来て、「なにができる?」「〈オン・ア・スロー・ボート・トゥ・チャイナ〉をやります」。メロディを吹いて、「ここだな、オレが真価を発揮するのは」。この曲でアドリブをしようと思えばできたけど、前に滅茶苦茶をやって褒められたから、滅茶苦茶をやったら、山下さんがゲラゲラ笑って、「ジャズというものにはコードがあって」とかいわれたんです。「そんなことは知ってる」と思ったけれど、それが山下さんとの出会い。それからは山下さんちに入り浸り。これが楽しくて楽しくて。

——練習も一緒に?

いや、月謝を払って教わりに行くの。アドリブを書いてきて、それを直してもらったり。ずいぶん国立の学生に教えてたよね。状差しがあって、月謝は500円ぐらいだったかな? そこに入れて、レッスンが終わったらそのお金で阿佐ヶ谷の「焼酎ホール」とかにみんなで飲みに行く。高校生から大学生になったときだから、それも楽しくて。そこに評論家の相倉久人(注13)さんとかが来て、ジャズの話をして。本格的にジャズが好きなひとと巡り会えたでしょ。(渡辺)文男(ds)ちゃんや紙上(理)(しがみただし)(b)さんも来たし、武田和命(かずのり)(ts)や死んじゃった伊勢昌之(g)とかも。

(注13)相倉久人(音楽評論家 1931~2015年)【『第1集』の証言者】東京大学在学中から執筆開始。60年代は「銀巴里」や「ピットイン」、外タレ・コンサートの司会、山下洋輔との交流などで知られる。70年代以降はロック評論家に転ずるも、晩年はジャズの現場に戻り健筆を振るった。

山下さんちの応接間に朝までいて、そこから学校に行ったり。お母さんはたいへんだったよね。朝起きると知らないヤツがいっぱいいて、みんな朝ごはんを食べていくんだから。いくら炊いてもご飯がなくなったって。本当にお世話になりました。

——バンド活動は?

大学一年のときに、練習してたら、先輩に「君、ジャズやるの?」といわれて、キャバレーのバンドにスカウトされて、新宿の「ロイヤル・クインビー」で。イヤでイヤですぐに辞めたけど、1日に3回くらい〈軍艦マーチ〉をやらされる。ホステスが知っているのが〈軍艦マーチ〉で、それを合図に彼女たちがお客を帰らせる。そこを辞めて、あとは武藤敏文(ds)とニュー・シャープ・オーケストラというビッグバンド。

——どういうところに出ていたんですか?

ダンスホールやちびっ子のど自慢のバックとか。それでやってたんだけど、立川のキャンプの仕事で、「桜祭」といって、白いタキシードの上に浴衣を着せられた。それでイヤになった。やっているのがシャンペン・ミュージックだから、音を大きくすると怒られる。若いから、ダンスホールなんかでもアドリブがしたくてしょうがない。そうしたら「EMクラブ」(兵員用クラブ)で酒井潮(org)さんがオルガンでスロー・ブルースをやってたの。「やりたいのはこっちだ。すみません、辞めさせてください」。

——それで酒井さんのバンドに入ったわけじゃないでしょ?

入らせてくれなかったけど、「フルバンドでサックスを吹くのなんてイヤだ」と思って。

——キャンプの仕事はけっこうあったんですか?

ありました。高校のときに花岡さんのバンドで行ったし、大学でも立川キャンプで、山田さんというトランペッターがリーダーのナイン・ピース・バンドでやってました。

——鈴木孝二さんが仰っていたのは、立川キャンプが近いから、当日になって足りない楽器のプレイヤーを探しに来たとか。

それは孝二さんの時代でしょ。ぼくは6年あとだから、状況がだいぶ違う。その6年は大きいですよ。

——当時は、ジャズをやっていると大学は退学になったと。

孝二さんの時代はね。孝二さんが学生のころは仕事が死ぬほどあった。ぼくらのころも山ほどあったけど、ぼくから6年後なんて、キャバレーの時代じゃなくなっちゃったから。カラオケができちゃうと、ね。昔は下手くそでも仕事はいくらでもあったんですよ。

——ベースなんか弾いてる振りをしていればよかった。

立っていればいいというのは、鈴木さんの時代ぐらいまで。ぼくのときはさすがにそういうひとはいなかった。

——そろそろジャズのバンドも組むんですか?

当時はまだ。ぼくはクラシックの練習を一生懸命にやってて、ジャズは本田さんたちがやっていたバンドが最初です。

——本田さんは先輩?

ひとつ上。本田さんがピアノで、山口耕二郎というひとがトランペットで、中村善一郎がアルト・サックス。死んじゃった飯塚さんがドラムス。あとはベースに誰かいて。飯塚さんがコピーしてきた〈グレイシー〉というモダンな曲をやってて、「すごいなあ」と思った記憶がある。それで、そこにもなんとなく参加するようになった(笑)。

——コルトレーンの来日コンサートに行ったのもそのころ。

大学に入ってすぐのとき。

——66年の7月ですものね。

それは山下さんなんかと行ったの。ファラオ・サンダース(ts)が一緒に来て、すごかった。いまだかつてあんな音楽は聴いたことがない。小川さんは行きましたか?

——ぼくは高校一年で、あれが初めて自分でチケットを買って行ったコンサートでした。コルトレーンの最新の演奏を知らなくて、『ジャイアント・ステップス』(アトランティック)(注14)みたいな演奏が聴けると思って行ったらぜんぜん違う音楽で、同名異人のコンサートに来ちゃったのかと思ったことを覚えています。

『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン』(インパルス)(注15)のコルトレーンが来ちゃったからね(笑)。小川さんはファラオ・サンダースを聴いてどう思いました?

(注14)オーソドックスな演奏をしていた時代にコルトレーンが残した代表作の1枚。メンバー=ジョン・コルトレーン(ts) トミー・フラナガン(p) ウイントン・ケリー(p) ポール・チェンバース(b) アート・テイラー(ds) ジミー・コブ(ds) 1959年5月4、5日、12月2日 ニューヨークで録音

(注15)コルトレーンが大胆なフリー・ジャズを演奏していた時代の重要作。メンバー=ジョン・コルトレーン(ts ss bcl) ファラオ・サンダース(ts fl) アリス・コルトレーン(p) ジミー・ギャリソン(b) ラシッド・アリ(ds) エマニュエル・ラヒム(per) 1966年5月28日 ニューヨーク「ヴィレッジ・ヴァンガード」でライヴ録音

——思うもなにも、聴いたことのない音楽にビックリして、茫然自失ですよ。

ぼくはファラオ・サンダースを聴いて、山下さんに「あんなのだったらぼくにもできる」といっちゃった。「バカ」とかいわれたけど。「こういうのだったらオレも負けない」と思っていました。でも、コルトレーンの音色はすごかった。ビャーンと来るでしょ。あれ以降、あんな音は聴いたことがない。

——それが延々と続く。音楽以前に、「すごいものを観ちゃった」という感じで。

お互いに観ておいてよかったですね(笑)。あれ1回だけで、あのあとすぐ死んじゃったから。いやいや、これはみんなが羨ましがるところだよね。

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