投稿日 : 2018.03.29 更新日 : 2021.09.03

【証言で綴る日本のジャズ】中村誠一|ベニー・グッドマンとグレン・ミラーの衝撃

取材・文/小川隆夫

中村誠一 インタビュー

山下洋輔トリオ結成前夜

——山下さんとはどの時点で演奏するようになるんですか?

大学の三年になるときかな? 山下さんが、山尾三省(さんせい)(注16)の詩とジャズのライヴを「ピットイン」で、通常のライヴが終わってからやるというんで、山下さんちの応接間でリハーサルをやったの。そのときに自然とできたのが〈木喰〉(もくじき)で、それがのちのち山下洋輔トリオのレパートリーになる(注17)。リハーサルに参加したら、「じゃあ、お前もやれ」となって「ピットイン」デビューをした。

(注16)山尾三省(詩人 1938~2001年)60年代後半、ななおさかきや長沢哲夫らと社会変革を志すコミューン活動「部族」をスタート。73年、家族とインド、ネパールへ1年間の巡礼の旅に出る。77年、屋久島の廃村に一家で移住。以降、白川山の里作りをはじめ、田畑を耕し、詩の創作を中心とする執筆活動を同島で送る。

(注17)山下洋輔トリオによるスタジオ録音2作目の『木喰』(日本ビクター)に収録。メンバー=山下洋輔(p) 中村誠一(ts, ss) 森山威男(ds) 1970年1月14日 東京で録音

——クラリネットで。

三年のときにサックスに変わったからサックスかもしれない。ソプラノ・サックスも吹いたかもしれない。

——それはフリー・ジャズを。

約束事はちょっとありましたけど、譜面もなにもないから、普通のジャズではない。やったら、「ピットイン」で大受けに受けたんです。出鱈目をやると上手いから(笑)。

——ミュージシャンはふたり以外にもいたんですか?

ドラムスが豊住芳三郎さんでベースが吉沢元治さんかなあ?

——カルテットで。

ぼくを入れたらね。だけどぼくはみそっかすみたいなもので、おまけだから。

——サックスはメイン楽器じゃないですか。

いやいや、詩との間にちょっとした劇伴風のものをいろいろやるヤツだから。詩を朗読して、音楽を演奏するみたいな形。「木喰上人の踊り」という詩なんですよ。

——ジャズのライヴ・ハウスで演奏したのはそれが最初?

そうです。それから「ピットイン」にはなんとなく出させてもらうようになりました。

——山下さんが出ていた「ジャズ・ギャラリー8」には?

演奏したことはないけど、行きました。「ジャズ・ギャラリー8」は高校のときによく行っていて、佐藤允彦(p)さんが〈酒とバラの日々〉をやってすごかったのを聴いたり、渡辺貞夫(as)さんがバークリー(音楽大学)から帰ってきてやったのとか。貞夫さんが戻ってきたのは、大学に入ったころで、「ピットイン」に出るようになってからは毎回のように行ってました。なんだか知らないけど、そのころはタダで入れたの。

——すごくひとが来たでしょ。

日本に帰った直後だからすごかった。最初はピアノがプーさん(菊地雅章)で、ドラムスがチコ菊地。チコ菊地のことを「上手いなあ」「プロのドラマーは違うなあ」と思って観てました。そのあと、富樫雅彦(ds)さんと山下さんともやったし。ビートルズの〈ア・ハード・デイズ・ナイト〉やボサノヴァも演奏して。ミンガスの〈ノスタルジア・イン・タイムズ・スクエア〉やチャーリー・パーカー(as)の〈シェリル〉をやったのも覚えてます。だいたいレパートリーは決まってたけど、「すごいなあ」と思って観てました。

——大学で山下さんと出会って。中村さんが一年のときに山下さんは四年生でしょ。そのころの山下さんのライヴは聴いたことがあるんですか?

そのときは滝本国郎(b)さんと豊住芳三郎さんのトリオで、ときどき武田和命が入って。それはすごくよかった。

——どういうところでやっていたんですか?

「丸の内クラブ」とか「ジャズろう会」というのがあって、歌の伴奏とか。

——そのころの山下さんはまだフリー・ジャズをやってないでしょ。

そうですね。

——フリー・ジャズになったときは、中村さんがいた。

自分でいうのもなんだけど、オレの影響もあるんじゃないかな(笑)。

——その前に、山下さんは体を壊して、しばらく療養していた。

バンドを始めたら、病気になっちゃった。それで療養生活をしていたときに、ぼくは学生でバンドを作ったの。ギターが川崎燎で、オリジナルの曲をやったり、なんだかヘンテコなことをやってたんだよね。

——そのときはテナー・サックスで。

クラリネットだと自分のやりたいことができないと思って、大学三年でサックス科に変わったんです。山下さんが療養中は、「これからはオリジナルだな」と思って、オリジナルを中心にやってました。

——山下さんが療養中は、ほかのひとのバンドでも演奏を?

ほとんど自分のバンドですね。

——仕事はけっこうあったんですか?

映画のサウンドトラックを頼まれたりとか、なんとなく仕事はありました。いまでもそうだけど、下手は下手なりになにかあるんですよ。仕事というか、演奏するところはね。新宿にうちがあったし、20歳(はたち)にもなっていなかったから、生活は親がかりでしょ。

——そのころに影響を受けたサックス奏者は?

ひとのコピーはしないから、いないです。コピーし始めたのは30になってから(笑)。聴き覚えでなんとかできちゃったんですよ。耳も悪かったし、コピーして上手くなるより、自分でなにかを創り出そうという気持ちが強かったのかな?

いよいよトリオ結成

——それで、山下さんが戻ってきて。

戻ってきて、「バンドをやろう」となったのが、大学を卒業するときです。最初はカルテットで、ベースが吉沢さん。彼が抜けて、次が国立の学生だった杉本さん。そのひとも亡くなっちゃったけど、彼はニューオリンズ・ジャズが好きで。ところが杉本さんがテイチク・レコードに就職するというんで、「山下さん、ベースなしでやろう」とぼくがいって、ベースなしになった。

——森山威男(ds)さんはどういういきさつで入ってきたんですか?

国立の二年先輩の打楽器科に小木曽さんという女性がいて、そのひとは森山さんのいまの奥さんだけど、彼女が森山さんを紹介してくれたの。

——森山さんも藝大(東京藝術大学)で打楽器専攻だった。

なにかの話で、彼女から「森山さんもジャズをやっている」と紹介されて、山下さんに話して、山下さんが気に入った。そういうことだったと思うけど。

——中村さん経由なんだ。

ちょっと記憶が薄れてるけど、だと思います。元々は国立の小木曽さん経由。

——その前は豊住さんがドラマーで

豊住さんはミッキー・カーチス(注18)のバンドで世界一周をするというんで、辞めちゃった。山下さんが病気になったときは、森山さんもオレのバンドでやってたの。あのころの音源がありますよ。大和屋竺(やまとや あつし)さんが監督した『毛の生えた拳銃』(SOLID RECORDS)(注19)のサントラが最近CDになった。自分で下手だと思っていたけど、聴いたらこれがけっこういい。

(注18)ミッキー・カーチス(歌手、俳優 1938年~)日英混血の両親の長男。50年代末からロカビリー歌手として人気を集め、その後は司会や役者をこなし、67年にはミッキー・カーチスとザ・サムライズでヨーロッパ巡演。プログレッシヴ・ロックのバンドとして70年に帰国。以後も多彩な活動で現在にいたる。

(注19)若松プロダクション制作で、麿赤兒と大久保鷹が殺し屋コンビの役で出演した68年公開の映画。音楽監修に相倉久人を迎え、中村誠一と森山威男が壮絶なデュエットを繰り広げたサウンドトラック。

——それで山下さんが復帰して、トリオができた。

大学卒業すると同時に山下洋輔トリオが始まった。

——あっという間にすごい人気になった記憶があるんですが。

あっという間でもないけど、お客さんが満員になるまで3か月くらいかかったかな?

——話題になっていたので、割と早い時期に「ピットイン」に聴きに行ったら、もう超満員でした。

いつもやる前にお客さんが並んじゃって。若いころはお客さんをかきわけてステージに行く経験しかなかった。

——「ピットイン」がすごいことになって、だんだんあちこちでやるようになった。

大学紛争とリンクしたんで、学園祭に呼ばれて。

——時代が過激だったじゃないですか。山下さんの音楽も過激だったから、ロックアウトされた早稲田大学でやったり。

あの演奏はレコードになったし(注20)、田原総一朗(注21)さんがドキュメンタリー(注22)も作っている。

(注20)『DANCING古事記』(麿レコード)のこと。バリケード封鎖された早稲田大学構内で行なわれたトリオのライヴ盤。唐十郎の状況劇場から独立したばかりの麿赤兒と作家デビューしたての立松和平が自主制作LPとして発売。メンバー=山下洋輔(p) 中村誠一(ts) 森山威男(ds) 1969年7月 東京「早稲田大学」でライヴ録音

(注21)田原総一朗(ジャーナリスト、評論家 1934年~)64年、東京12チャンネル(現・テレビ東京)に開局とともに入社。77年フリーに。テレビ朝日系『朝まで生テレビ!』『サンデープロジェクト』でテレビ・ジャーナリズムの新しい地平を拓く。

(注22)田原総一朗が東京12チャンネルのディレクター時代に制作した『ドキュメンタリー青春』シリーズのひとつ。山下が「ピアノを弾きながら死ねるといい」といったことから、田原の発案でバリケード封鎖されていた大隈講堂から「反戦連合」のメンバーがピアノを持ち出し、山下が演奏。のちの作家、高橋三千綱、中上健次、北方謙三、山岳ベース事件で殺された山崎順もピアノを運んだという。イベントは立松和平のデビュー作『今も時だ』という短編小説も産み出した。

——東京12チャンネル、いまのテレビ東京ですね。山下洋輔トリオの思い出は?

いっぱいあるけど、三上寛(注23)に会ったりね。山下さんは文化的なものとリンクするのが好きだから、詩とやったり、麿赤兒(まろあかじ)(注24)さんともね。

(注23)三上寛(フォーク・シンガー、俳優 1950年~)68年秋に上京。板前などの職業を転々としながら渋谷「ステーション70」に出演するようになり、フォーク・シンガーの道を歩む。独特の歌声と歌唱と歌詞で唯一無二のポジションを獲得。70年前後から山下トリオと共演。

(注24)麿赤兒(俳優、舞踏家、演出家 1943年~)本名は大森宏。64年、唐十郎の劇団「状況劇場」に参加し、70年退団。72年、舞踏集団「大駱駝艦(だいらくだかん)」を旗揚げ・主宰。以後は海外公演も積極的に行なう。長男は映画監督の大森立嗣、次男は俳優の大森南朋。

——唐十郎(注25)さんの紅テントは?

テントにアップライト・ピアノを置いてオーヴァーチャー(序曲)を演奏する。山下さんと森山さんとぼくの3人で過激なことをやって、それから状況劇場の芝居が始まる。

(注25)唐十郎(作家、演出家、俳優 1940年~) 64年に「状況劇場」を旗揚げ。67年には新宿「ピットイン」で山下とジョイント公演。同じ年、新宿「花園神社」境内に紅テントを建て、『腰巻お仙 義理人情いろはにほへと篇』を上演。これで一躍アングラ演劇の代表に。俳優の大鶴義丹は長男、李麗仙は前妻。

——ロックやフォークのフェスティヴァルにも出るようになったでしょ。

中津川フォーク・ジャンボリー(注26)は、ぼくたちの前にオマスズ(鈴木勲)(b)さんが出て、〈サニー〉をピッコロ・ベースでやってたの。そうしたら、観客がステージに押し寄せてきて、石を投げられたりして。そのあと、日野(皓正)(tp)さんが出て、そのあたりでステージが占拠されて、討論会になっちゃった。われわれは演奏ができない状態で、ギャラだけもらって帰ってきた。

(注26)69年から71年にかけて岐阜県恵那郡坂下町(現・中津川市)にある椛の湖(はなのこ)湖畔で3回開催された日本初のフォークとロックの野外フェスティヴァル。3回目はジャズ・ミュージシャンも出演。吉田拓郎のステージで観客が暴動を起こし、それがきっかけで翌年からは開催されず。

——山下さんのトリオには72年まで。

4年ぐらいやったのかな?

——解散した理由は?

ぼくが「辞める」といい出したの。それまでの鬱憤を晴らすようにフリー・ジャズをやってたでしょ。エネルギーがなくなってきたのと、やりたくないときでもグワーとやらなきゃならない。自分の心に嘘をついているみたいで、演奏ができなくなってきた。それで、10月か11月ぐらいに、筒井康隆(注27)さんのうちにみんなで遊びに行ったときに、「今年で辞めようと思うけど」といったら、山下さんに「辞めたいと思うんだったら、いますぐ辞めろ。辞めたいと思っているヤツにいられても迷惑がかかる」「じゃあ辞めます」。

(注27)筒井康隆(小説家 1934年~)65年処女作品集『東海道戦争』刊行。81年『虚人たち』で「第9回泉鏡花文学賞」、87年『夢の木坂分岐点』で「第23回谷崎潤一郎賞」、89年『ヨッパ谷への降下』で「歳16回川端康成文学賞」、92年『朝のガスパール』で「第12回日本SF大賞」など、数々の賞を受賞。96年、3年3か月におよぶ断筆を解除。現在も精力的に執筆活動を継続中。

——フリー・ジャズの難しさは?

そのあと、豊住さんに誘われてフリー・ジャズを何回かやったことがあるけれど、豊住さんのフリー・ジャズと山下さんのフリー・ジャズはちょっと違う。山下さんのは、型が決まってるからそんなにフリー・ジャズと思っていなかった。

——決めのフレーズとかがあって、それが合図になっている。

決まりがあるから完全なフリーではない。豊住さんのはなにも決まりがない。それはやるのが難しいし、自分にはできないと思った。いまは、初めてジャズを聴いたころみたいに「自由にやっていいんだな」「自分のやりたいようにやっていいんだな」となってきた。

たとえばビバップのフレーズやメロディ・ラインがうんと繋がっていくのもいいけど、それとは違った発想みたいなもの。最近のソニー・ロリンズ(ts)のアドリブなんかビバップでもなんでもない。ヘンテコな自分流で、なんだかわけがわからない。あそこまで変になれるのはすごいと思う。『サキソフォン・コロッサス』(プレスティッジ)(注28)のころはビバップでしょ。いまはそのビバップのビの字もない。逆にウエイン・ショーターはいまもいいけど、リー・モーガンとやってた若いころの演奏が素晴らしい。

(注28)メンバー=ソニー・ロリンズ(ts) トミー・フラナガン(p) ダグ・ワトキンス(b) マックス・ローチ(ds) 1956年6月22日 ニュージャージーで録音

1 2 3 4

その他の連載・特集