2019.09.06

声とギターで世界中の聴衆を魅了したボサノヴァの創始者 ──ジョアン・ジルベルトの生涯と音楽

構成/二階堂 尚


ボサノヴァのオリジネーターの一人であったジョアン・ジルベルトが7月6日に永眠した。世界中の人々に愛されながら、謎の多い人物としても知られた彼の歩みと音楽の本質について、ブラジル音楽に造詣の深い音楽プロデューサーの中原仁さんに語っていただいた。

巨匠の訃報に接して

ジョアン・ジルベルトの訃報を聞いて、最初に浮かんだのは「来るべきものが来たか……」という思いでした。88歳という年齢を考えれば、いつこの時が来ても不思議ではなかったのですが、ジョアンはものすごく長生きをする人だと僕は勝手に考えていたんですね。彼はステーキが好きで、晩年も肉を食べていると伝えられていました。そのエネルギーで「100歳までも生きるのではないか」とさえ思っていたんです。

もっとも、SNSにはびっくりするくらい痩せこけた写真がアップされていたりもしました。家族が撮影したものでしたが、あの写真を見ると、どうやら体調がよくないということが察せられました。亡くなった理由は公表されていませんが、もしかすると重い病を患っていたのかもしれません。

ジョアンは2003年に初来日してから、04年、06年と3回にわたって日本に来ました。彼がこれだけ立て続けに海外で公演を行うのはたいへんに珍しいことで、今世紀に限れば、日本でコンサートをやった回数が本国のそれを上回っています。08年にも4度目の来日公演が予定されていましたが、これは中止になってしまいました。その年にリオデジャネイロとサンパウロでのコンサートに出演したのが、人前での最後の演奏となりました。

ブラジル音楽史 “ジョアン以前と以後”

ジョアン・ジルベルトは、アントニオ・カルロス・ジョビンと並ぶ「ボサノヴァの創始者」といわれます。この二人がいなければ、ボサノヴァという音楽は生まれなかった。これは断言できることです。しかし、ジョアンの音楽、ジョビンの音楽は、ボサノヴァという、いち音楽ジャンルよりもはるかにスケールが大きいと僕は思っています。

ボサノヴァとはサンバの一形態です。とくにジョアンの音楽は基本的にサンバで、サンバに革命的な演奏スタイルを持ち込んだのがジョアンでした。しかし、その斬新なスタイルは、サンバ以外のブラジル音楽にも広く影響を与えました。以前、ジョアンの同郷の後輩であるカエターノ・ヴェローゾにインタビューしたとき、「ブラジルの音楽はジョアン・ジルベルト以前と以後に分けられる」と語っていたのを覚えています。ボサノヴァというジャンルを生み出しただけでなく、ブラジルのポピュラー音楽の歴史を塗り替えた人。それがジョアン・ジルベルトでした。

ボサノヴァの音楽面での新しさは、ギター一本でサンバのビートを表現したところにありました。ジョアンは、ギターの低音弦でスルドという大太鼓のビートを、高音弦でタンボリンという小さな打楽器のリズムパターンを表現しました。ボーカル面では、抒情的なサンバ歌謡である「サンバ・カンソン」の朗々たるボーカル・スタイルとは正反対の、小声で耳元で語りかけるような歌い方を発明しました。その歌い方と言葉を発する独特の間合いによって、ポルトガル語の響きの美しさをいっそう美しいものとした。これもまた革命的なことでした。

奇跡の出会いから生まれた音楽

ジョアン・ジルベルトの実質的なデビュー・シングルである「シエガ・ヂ・サウダージ(想いあふれて)」は、アントニオ・カルロス・ジョビンが作曲を、詩人のヴィニシウス・ヂ・モライスが作詞を手がけた曲です。もともとは、ブラジルの伝統的な音楽の一つであるショーロの形式に根ざしたサンバ・カンソンの楽曲でしたが、それをジョアンがあの声とあのギターのスタイルで演奏して、のちにボサノヴァと呼ばれる音楽が生まれたわけです。

ジョアン、ジョビン、ヴィニシウス。その3人の才人が同時代に生きて出会わなければ、ボサノヴァは誕生しませんでした。とくに、ジョアンとジョビンの出会いは奇跡的だったといっていいと思います。ジョビンの曲の魅力を最もよく表現できたのがジョアンだったし、ジョビンはジョアンが歌うことを前提としていくつもの名曲をつくりました。

約20年に及んだ国外生活

しかし、ブラジルにおけるボサノヴァの時代はそう長くは続きませんでした。「想いあふれて」が発売された1958年から軍事政権が始まる64年までのわずか6年くらいがボサノヴァの最盛期です。ブラジルが経済成長のさなかにあって、平和で、人々が生き生きと暮らしていた時代。その時代を象徴する音楽がボサノヴァでした。

ボサノヴァには、美しい海と山並みに囲まれたリオに住む都会人たちの生活信条を代弁した音楽という側面もあります。別の言い方をすれば、ボサノヴァは大衆の音楽ではなく、アッパーミドルクラスやインテリの音楽でした。日本ではボサノヴァこそがブラジル音楽であると考えている人が少なくありませんが、ボサノヴァがブラジル全体を代表する音楽であったことは一度もありません。

ジョアン自身も、3枚のアルバムを残して早々にブラジルから国外に出ています。62年に開催されたニューヨークのカーネギー・ホールで国外初のボサノヴァ・フェスティバルにジョビンとともに出演して、その翌年には、スタン・ゲッツ、ジョビンとの共演作『ゲッツ~ジルベルト』を録音しました。

ジョアンはその後も帰国せずに、アメリカにとどまりました。何度かブラジルに戻ったことはあったようですが、住んでいたのはアメリカやメキシコでした。海外生活を終えて帰国したのは、ようやく79年になってからです。翌年、彼はカエターノ・ヴェローゾと、同じく同郷の後輩であるジルベルト・ジルともに『海の奇跡』というアルバムを録音しています。その後に制作したスタジオ録音の作品は、91年の『ジョアン』と2000年の『ジョアン~声とギター』のみです。本当に寡作な人でしたね。

日本の聴衆を愛したジョアン

03年の初来日時、ジョアンはすでに72歳になっていました。しかし、彼はまったく守りに入っていませんでした。ステージは毎回2時間を超え、しかも、同じ曲でも歌い方やギターの弾き方を日によって変えていました。彼は優れた即興家でもあったわけです。

3回目の来日となった06年のステージではいくぶん肉体的な衰えも見受けられましたが、そのぶん彼の人間味のようなものを感じることができました。ジョアンは日本のオーディエンスに完全に心を開き切っていて、オープンな姿勢で演奏することを心から喜んでいるようでした。

あれは確か初来日の初日のステージが終わったあとでしたが、ジョアンは「こんな聴衆をずっと探し求めていた」と日本のスタッフに語ったそうです。演奏中は水を打ったように静かに聞き入り、終わると盛大な拍手を送り、次の曲に入ろうするとまたすっと静かになる。日本のオーディエンスの音楽家に対する敬意と演奏への集中力を彼は絶賛していたそうです。

もうひとつ、公演の成功のために奔走したスタッフの皆さんのプロフェッショナルな仕事ぶりもまた、ジョアンの心を深く捉えたようです。08年の母国でのコンサートの際、彼は日本公演の舞台監督だった宇佐美敏彦さんと音響エンジニア近藤健一朗さんを遥かブラジルまで呼び寄せています。舞台と音響の仕事を彼らに委ねるためです。それほど日本のスタッフのプロフェッショナリズムに魅了されていたということです。

来日コンサートのステージで、彼はときどき演奏を止めることがありました。その時間はときに30分近くに及びました。眠っているようにも見えましたが、その後のMCで彼は「会場の5000人のお客さんのことを考えて、一人ひとりに感謝の気持ちを述べていた」と語っていました。そんなコメントをステージで語ること自体、極めて異例のことでした。 先頃発売された素晴らしいブルーレイ『ライブ・イン・トーキョー』で、3回目の来日のステージを見ることができます。これが今のところ、公式作品で僕たちが見ることのできる最後のジョアンの姿です。

ジョアン・ジルベルトの代表作

解説:中原 仁

『想いあふれて/Chega De Saudade』(1959)

ジョビン曲のほか、ドリヴァル・カイミ、カルロス・リラなどの作品を歌った、記念すべきデビュー・アルバムです。打楽器の使い方などに少々、古臭さあって、ジョアンの斬新さに当時の制作陣がついていけていなかったことがわかります。最後の「エ・ルッショ・ソー」のギターの異次元のグルーヴ感をぜひ聴いてほしいですね。
『愛と微笑みと花/O Amor, O Sorriso, E A Flor』(1960)

アルバム・タイトルは、収録曲「メヂタサォン」の歌詞の一節から取られたもので、当時の平和なブラジルの世相を象徴するタイトルです。ジョビンとの共同作業の頂点をなすアルバムといってよく、曲も粒よりです。「ワン・ノート・サンバ」「コルコヴァード」などジョビンの有名曲のほか、晩年までのレパートリーであったサンバ「オ・パト」も収録されています。
『ゲッツ~ジルベルト/Getz/Gilberto』(1964)

主役はもちろんスタン・ゲッツとジョアンですが、じつはジョビンの存在が非常に大きい作品です。レコーディングで無理難題を押しつけるゲッツに対して、ジョアンはしばしば気分を害したと伝えられていますが、それをまとめたのがジョビンでした。これがジョアンの4作目になりますが、ブラジルでレコーディングされた最初の3枚を音質の面で大きく上回っています。
『三月の水/João Gilberto』(1973)

日本語タイトルは「三月の雨」とすべきですが、それ以外はケチのつけようがない名盤です。一曲目の「三月の雨」は、ボサノヴァの黄金時代が過ぎた70年代になってジョビンが作った曲で、彼のバックグラウンドにある自然賛歌をシンボリックに表現しています。文にならない単語の連なりで作られた歌詞を、ジョアンは言葉の間合いをつめる独特な唱法で歌っています。この歌い方は、晩年になっていっそう顕著になりました。ブラジルでは「ゼン(禅)ボッサ」という愛称で呼ばれているアルバムです。
『イマージュの部屋/Amoroso』(1977)

プロデューサーはトミー・リピューマ、録音エンジニアはアル・シュミット、オーケストラ・アレンジはクラウス・オガーマン。黄金トリオが手掛けた、誤解を恐れずに言えば “AOR路線”とも言える作品で、ストリングスを使ったジョアンのアルバムの中では断トツに出来がいいと思います。最後の「白と黒のポートレート」を聴くと、別世界に連れていかれるような感覚になります。
『海の奇跡/Brasil』(1981)

ブラジルの大作曲家アリ・バホーゾの代表曲「ブラジルの水彩画」。その史上最高のバージョンで幕を開けるアルバムです。ジョアン、カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジルが交代でワンコーラスずつ歌っています。また、カエターノの妹マリア・ベターニアも一曲に参加しています。自分を師とあおぐミュージシャンたちとともにジョアンがつくり上げた本当に美しいアルバムです。
『ジョアン~声とギター/João:Voz E Violão』(2000)

プロデューサーはカエターノ・ヴェローゾ。ジョアンのスタジオ作品の中で完全弾き語りは、じつはこの一枚だけです。過去の代表曲「想いあふれて」と「ヂザフィナード」の弾き語りバージョンが貴重ですが、初録音のサンバ古典も聴きものです。収録時間は30分程度と非常に短いけれど、何も足す必要はないし、何も引くことはできない。そんな作品です。
『イン・トーキョー/João Gilbert in Tokyo』(2004)

2003年の初来日では、2日目の公演が圧巻でした。その2日目のステージを記録したライブ作品です。ジョアンのチェック用にDATで録音していた音源でしたが、あまりにも出来がいいので作品化することとなったという経緯があります。DATの長時間テープは薄く、最後の方の曲はノイズが入って使えませんでした。したがって、収録されているのはステージの後半途中までですが、それで何の文句もありません。巨匠が日本のオーディエンスとともにつくり上げた素晴らしい音と雰囲気をぜひ味わっていただきたいと思います。

中原 仁なかはら じん

音楽・放送プロデューサー/選曲家。1954年・横浜生まれ。77年からFM番組の選曲・構成を始め、並行して84年までジャズ・フュージョン系のマネージメントとプロデュースに従事。85年から現在まで約50回ブラジルを訪れ、現地でショーロ・クラブ、ジョイス、Saigenji、akiko、村田陽一 with イヴァン・リンス、高野寛などのCD制作、山下洋輔ブラジル公演(95年)のコーディネート、国際交流基金主催リオ公演&東京公演の演出などに携わる。放送31周年を迎えるブラジル音楽中心の番組 「サウージ!サウダージ」(J-WAVE)をはじめとするラジオ番組のプロデュースからコンピレーションCDの監修、コンサートの企画プロデュース、ライター、DJ、MC、講師まで幅広く活躍している。近年も『アーキテクト・ジョビン』(伊藤ゴロー アンサンブル)の共同プロデュース、コンピレーションCD『SAÚDE! SAUDADE…30+beyond』の監修/選曲、著作『21世紀ブラジル音楽ガイド』の監修などを手がけている。

http://blog.livedoor.jp/artenia/