投稿日 : 2019.02.14 更新日 : 2021.09.03

【証言で綴る日本のジャズ】池田芳夫|大手電器メーカーに就職後、会社に内緒でプロ活動を開始

取材・文/小川隆夫

池田芳夫 インタビュー

クラシックの先生に学ぶ

——見つかって、会社はどうなったんですか?

辞めました。クビですよね。

——入ってどのくらいのときに?

3年ぐらいです。

——2年間はバイトがバレずにやっていた。習いに行くのはそのあと?

会社にいたときに習い始めています。大阪NHK交響楽団の前野繁雄先生。17ぐらいのときから5年間ですね。

——前野先生とはどうやって知り合ったんですか?

タンゴ・バンドにいたときに、「君は弓をやらなくちゃいけない」といわれて、チェンジで出ていたスウィング・バンドのベーシストに最初は習ったんです。

——同じ店に出ていたバンドですね。

ええ。名前は高村さんだったかな? そのひとに習っていたけれど、忙しいひとで。「オレの習っているひとを紹介する」。それで、前野先生に。

——厳しい先生でしたか?

厳しかったですね。

——習うのはクラシック?

基礎からぜんぶです。厳しいといっても、なにもいわれないんです。だから、なんで悪いかがわからない。弾いていると、大阪弁で「あ、あかんな、これやめよか」とかね。

——レッスン代は?

こういうことをいうといやらしいけど、最近、生徒さんに「ちょっと高いな」と思われると、自分のときのレッスン代をいうんです。給料が8千円くらいのときに、3千円ぐらいでした。かなり高いですよね。弾き始めてちょっとでもダメだと、レッスン、終わりなんです。2分であろうが3分であろうが、「ありがとうございました」。

NHKのスタジオでレッスンを受けていましたから、チューニングをするのもシーンとしてますよね。で、チューニングして、先生を呼びに行って、「チューニングできました」。「ちょっと音を出してみろ」。それで弾くと、「あ、チューニングまだだったか」。先生は、ぼくがプロになるのをわかっていたんで、なおさら厳しくしてくれたんだと思います。

いま考えると、最高の先生です。レッスンの内容をいまだに宝にしています。教えの中に、「たまにはオレを泣かせてくれよ」というのがあって。「貧血」っていわれたかもしれませんが、「たまには倒れるぐらいまで弾けよ」。このふたつは宝です。

——池田さんもその言葉を使ってレッスンを?

いまは使わないですけど。

——会社を辞めたあとは演奏だけで食べていたんですか?

演奏だけです。完全にプロで。

——プロになろうと思ったのはどの時点で?

会社をクビになった時点で。ほかに、なにもやることがなかったですから(笑)。いまとは違って、音楽は生演奏だから、仕事はありました。自分でいうのもなんですけど、引っ張りだこでした。クラシックを習っていたから、テクニックもまあまああって、譜面にも強い。いまから考えれば、恥ずかしいですけど。

——進駐軍のクラブではやらなかった?

それはやってません。

——会社を辞めた時点で、ジャズには限定してなくて。

だって、タンゴ・バンドにいたんですから。

——そのバンドはどこかの店の専属で?

キャバレーっていうんですか? ホステスさんがいて、でかいところで。チェンジ・バンドに、さっき話に出たスウィング・バンドがいて。

——タンゴ・バンドの名前は覚えていない?

覚えてないですね。

——何人編成?

10人ぐらいいました。広いところでしたからね。

ジャズのバンドに引っ張られる

——その時点でジャズのバンドはやっていない。

まだです。それをやっているときに、どこで聞きつけたのかわからないけど、ジャズのコンボから話があったんです。自分としてはいうのが恥ずかしいけれど、割と音程がいいし、譜面も読めたんで、声がかかったんでしょうね。いまは読めないですけど(笑)。

——それはどういうバンドだったんですか?

MJQ(モダン・ジャズ・カルテット)やジョージ・シアリング(p)みたいな、ピアノがリーダーで、ヴァイブ(ヴィブラフォン)とドラムスとベースのカルテットです。洒落たサウンドで、クラブみたいなところに出ていました。

ぼくはハワイアンも好きで、リクエストがあると歌ったりもしていたんです。だから、ハワイアン・バンドにもちょっと魅力があって。大阪のテレビにしょっちゅう出ているハワイアン・バンドからも声がかかったんです。両方から話がきたんで、迷いました。テレビに出たら親が喜ぶだろうな、とか。でも、こっち(ジャズ)が好きだし、ってことで。

——ということは、そのころにはジャズがやりたいと思っていた?

やっぱり、最初に聴いたチャーリー・パーカーに繋がるので。あのときは、本当にビックリしましたから。

——ジャズのバンドに入るまでの何年間かで、ジャズのレコードは聴いていたんですか?

聴いていたと思います。

——ジャズ的なベースは弾けていた?

まだ無理ですよね。ジャズのバンドに入ったときも、ブルースがなにかもわからなかったし、コードもわからなかった。雰囲気が好きだったんです。

——でも、なんとかできちゃった。

なんとかできたというか、デタラメです(笑)。

——引っ張られたぐらいだから、そこそこは弾けたんでしょう。

指が動くのと、読譜力だけだと思います。クラブではショウが入りますし、歌の伴奏もあるから、譜面が読めないと。

——それがいくつのとき?

20歳ちょっと(62年ごろ)でしょうか。

——そのカルテットが、池田さんにとっては初めてジャズを演奏したバンド。

そうです。我慢してくれたんでしょうね。だってブルースがわからないんだもの。リーダーが山田さんというピアニストで、ぼくのソロになると時計を磨くか電話をかけに行っちゃう。手が動くものだから、デタラメでグワァーってやってると、みんなビックリして(笑)。それで、そろそろベースのソロが終わりかなというころに戻ってきて。

——そういう店は給料はいいんですか?

それは忘れました(笑)。

——サラリーマンよりはいい?

会社に行っていたときはたいしてもらっていなかったから、それよりはよかったです。でも、そんなにいい給料じゃないです。

本格的なジャズ・バンドに移籍

——そのバンドがジャズの第一歩ですね。そのあとは?

だんだん音もわかってきて、ジャズのもろもろもなんとなしに見えてきた。そのときに、太田純一郎(注5)さんってご存知ないですか? 四国にいて、ドラムスで割と有名なひとですけど。健在なら85、6かな? そのひとに引っ張られたというか。そのひとがぼくのジャズの1番目の師匠かもしれません。

(注5)太田純一郎(ds 1933~2017年)大阪府出身で、53年に大阪の米軍キャンプのオーディションに合格し、活動開始。77年に徳島市に移住。88年に「徳島ジャズ・ストリート」を立ち上げ、ライヴ・ハウスやバーを会場にイヴェントとして定着させ、徳島の音楽シーンを活性化させた。

——ヴァイブ入りのカルテットから太田さんのバンドに移る。

途中でほかにあったかもわからないですけど。これはピアノ・トリオでした。

——そうすると、カルテット以上にベースは……。

責任重大です。そこのバンドは2日置きにリハーサルをやるんです。2曲ずつやるんで、毎日1曲増えていくみたいな。それで、完璧にコピーしないといけない。レイ・ブラウン(b)だったらレイ・ブラウンのレコードを一生懸命に聴いて。ピアノは勝山さんといったかな? このひとなんかぼくよりたいへんだったと思います。2日に1回しか寝なかった。1日12時間ぐらいコピーして、次の日は寝ないでずっとコピー。いま考えると、それがものすごく勉強になりました。

——そのバンドにはいくつのころに入られたのかしら?

東京に出たのが23歳の終わり(65年)なので、21かそのくらいですね。

——東京に出るまでそのバンドにいたんですか?

太田さんのバンドがメインだったですね。

——そのトリオもどこかのクラブ専属で?

そうです。このバンドでジャズというか、ベース・ラインの重要性とかを学びました。

——当時、個人的に好きなベーシストはいたんですか?

とにかくコピーがたいへんで、そのときは誰がいいかなんてまったくわからなかったです。レコードを聴いているとリズムが重く聴こえる。それが粘っこいということなんでしょう。だから、ジャズのベーシストは半拍遅れて弾かないといけない。そう思っていたのだけれど、たくさんコピーしたり聴いたりしていたので、本来のジャズ・ベースのリズムが身につくようになりました。

そうなると視野が広がって、ライヴ・ハウスでやりたくなる。神戸に「ディキシー・ハット」といったかな? そういうお店があって、そこに「出してくれないか?」と交渉しに行ったら、「新人はダメだ」と。「なんとか演奏できないですか?」「店が始まる前ならいい」。それで嬉しくて、友だちとやったのを覚えています。これが東京に行く1年ぐらい前ですか。

——これは太田さんのバンドではなく。

友だちと組んだ素人的なバンドで。そこに行ったのが、ぼくにとってはでかいチャンスになったんです。そこで、昼間、店が開く前にやりました。名前は忘れたけど、あるとき、夜に地元のひとのライヴがあったんです。ぼくも聴きたいんで、残っていました。お客さんは満員。ところが、メンバーが誰も来ない。

オーナーは「どうしちゃったのかなあ」みたいな感じで。ダブル・ブッキングだったか、理由は忘れましたが、とにかく穴があいちゃった。オーナーとしたら、客は入っているわ、バンドは来ないわで、どうしようかってときに、「あ、お前、いつも練習してるから、なにかやれ」。

「なにかやれ」といわれても、こんなにお客さんがいる前で。でも、ものすごく頼まれて、ぼくも心臓が強くないのによくやったと思いますけど。ちょうど大先輩のドラムスのひとも聴きに来ていて、オーナーが「一緒にやれ」。「いや、あんな先輩とはできません」。でも、やるハメになって。

——ほかは誰がいたんですか?

ドラムスとベースだけで。こっちも怖いもの知らずというか、もうしょうがないという感じで。いまだに覚えていますけど、ブルースをやって、〈朝日のようにさわやかに〉、あとはマイルス・デイヴィス(tp)の〈ソー・ホワット〉。ほかにもバラードとかいろいろやったけど、手が動くもんだから、〈ソー・ホワット〉で、聴いているひとも店のオーナーもビックリしちゃって。いまはぜんぜん動かないですけど(笑)、これぐらいの早いテンポで(手を叩いてみせる)。指がよく動いている実感もあったから、こっちも客席の気配がわかる。そういう流れの中で、新聞に「彗星のごとく現れたベーシスト」みたいなことが書かれたり。恥ずかしいねえ。

そんなこともありつつ、太田さんのバンドやほかでもいろいろやるようになっていたんです。だけど忙しすぎて、ちょっと休みたい。それで1か月くらい休んでいたんです。

そのときに、大沢保郎(やすろう)さんというピアニストがいますよね、その方が東京の「ホテルオークラ」に出ていて、ギターが杉本喜代志さん。スウィング・ピアノの大御所、八城一夫さんのトリオにいた原田政長(b)さんが辞めるとなって、大沢さんのところのベーシストがそちらに移った。

それで、大沢さんのトリオにベーシストがいなくなったんで、関西の小林マサルさん、ぼくの大先輩で素晴らしいベーシストですけど、彼を大阪まで引っ張りに来たんです。ところが小林さんは「いまさら東京には行きたくない」。「それじゃ、誰か代わりのベースはいないか?」となって、「あ、池田というのがいま遊んでいる」。それで、ぼくのところに話がきたんです。

——それで東京に行くことになった。

小林さんが東京に行っていたら、いまのぼくはどうなっていたかわかりません。

23歳で東京に

——オーディションはなかった?

なかったです。いきなり「東京に出てこい」といわれて。

——「ホテルオークラ」にあったラウンジというかバーですよね。

ええ。そこの専属で入って。

——杉本さんとは、かなり若い時期から一緒にやっていたんですね。

杉本とは同じ歳だから、早いですね。23歳の終わりころですから。

——杉本さんとは、のちに日野皓正(tp)さんのバンドで一緒になります。その話はあとで聞くとして、東京に出てきました。

「オークラ」には1年ぐらいいたのかなあ? 若かったんでしょうね。いまから考えると恥ずかしいですけど、コマーシャル的な演奏をやっているのに、もっとジャズがやりたいから、外国人が踊っている前でスコット・ラファロ(b)みたいに弾いて、えらく怒られたこともありました(笑)。でも、大沢さんにはベース・ノートの素晴らしさを教えてもらいました。

なにかの曲をやってて、弾いてほしい音があると、それを低音部で弾いてくれるんです。それをぼくも弾いて、「ああ、なるほどなあ」。そういういい面もあったんですけど、とにかくもっとジャズがやりたい。それで辞めて、杉本とトリオを組んだんだったかなあ?

あと、「オークラ」でやっていたときに、チェンジ・バンドにおられたかどうかわからないけど、宇山恭平(g)さんに「池田君、東京に出てきたんだから、ライヴ・ハウスにも行ったほうがいいよ」といわれて、休みの日に銀座のライヴ・ハウスに行ったら大野雄二(p)さんが出ていました。

——それは「ジャズ・ギャラリー8」?

かもしれません。そこで、稲葉國光(b)さんの代わりに2、3曲遊ばせてもらって。それで大野さんに気に入られて、大野さんとのつき合いが始まるんです。

——大野さんとは、レギュラーで一緒にやったわけではないですよね。

半分レギュラーみたいな形ですね。レコーディングなんかもやらせてもらったし。

——大沢さんのバンドを辞めたあと、メインの活動はなんだったんですか?

杉本ともトリオでやりましたけど、とくにそれがメインではなかったです。

——この時期に「ピットイン」とかができましたが、池田さんはまだ出ていない?

「タロー」には杉本と出ているけど、いつだったかは記憶がはっきりしないです。とにかくいろんなひととつき合い始めたのがそのころからです。それで杉本とやってて、そのあと沢田駿吾(g)さんのバンドに引っ張られたんです。メンバーが、村岡建(ts)さん、日野元彦(ds)さん、徳山陽(p)さん。素晴らしいバンドでした。

——それって、銀座の「ワシントン靴店」の4階で、ラジオの放送があって。村岡さんがおっしゃっていました(村岡建「第3話」参照)。

トコちゃん(日野元彦)と「こんなところでやりたくないなあ」みたいなことを話していたら、それを社長さんか誰かが下で聞いていたらしいんです。だいぶ怒られて、ぼくら、たぶんクビになったんだと思います(笑)。

——沢田さんのバンドに入ったいきさつは?

吉沢元治(b)さんが辞められて、そのあとに駿吾さんから話があったのかなあ? そこにはあまり長くいなかったと思います。東京に出て、日野バンドが4年でいちばん長いんですよね。トータルすると1年ぐらいですけど、貞夫さんのバンドでは3回クビになっています。だいたい1年ぐらいで移っていく。

——沢田さんのバンドの次が渡辺貞夫(as)さんのバンド。時期は重なってはいない?

当時、ちゃんとしたバンドは就職じゃないですけど、気分としてはそこを辞めないと次のバンドに移れなかったですね。

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