投稿日 : 2019.02.14 更新日 : 2021.09.03

【証言で綴る日本のジャズ】池田芳夫|大手電器メーカーに就職後、会社に内緒でプロ活動を開始

取材・文/小川隆夫

池田芳夫 インタビュー

渡辺貞夫カルテットなど日本を代表するバンドを渡り歩く

——貞夫さんのバンドは誰の後任だったんですか?

引っ張られたのが26(68年)ぐらいのときで、滝本達郎(b)君のあとです。

——3回クビって、どういうことですか?

それは気に入らないからでしょ(笑)。1週間でクビになったこともあるし。ほかのベースもみんなそうですよ。

——でも、また戻る。

ありがたいですよね。ぼくは麻布十番に住んでいて、貞夫さんが六本木で。洗濯物なんか、亡くなられた奥さんに洗ってもらっていました。そういうつき合いだから、クビになっても、1週間ぐらいしたら「池田君、またちょっと」。最後は電気ベースを弾くようになって、ぼくがちょっとそれがやりたくなくて。

——貞夫さんのときは、ボサノヴァとかをやっていた時代?

ボサノヴァも始めて、ちょっと嫌気がさして。ビートルズの曲とかね。聴くのはいいけど、ぼくが上手くなかったんです。

——電気ベースも弾いているんですよね。

いちおう弾いて、レコーディングも2、3枚やっています。それが恥ずかしくて。

——それで鈴木良雄(b)さんが入ってくる。

そうです。そのあと、メインの仕事としたらプーさん(菊地雅章)(p)のバンドだと思うんです。

——プーさんがアメリカから帰ってきて、すぐに作ったバンドかな? 峰厚介(as)さんも、「しばらくして入った」と話していましたけど。(峰厚介「第3話」参照)

峰君はぼくよりあとでした。

——銀座の「ジャンク」とかでやっていたバンドですね。

「ジャンク」にはよく出ました。プーさんのバンドに入ったときにはアルト・サックスが鈴木重男さんで。プーさんに「誰か若いアルトはいないか?」といわれたときに、出しゃばって、「こういう音楽をやるなら、峰君ていういいアルトがいるって聞いてるんだけど」。それでぼく、彼がまだアルトを吹いているときに(のちにテナー・サックスに転向)、池袋の「JUN CLUB」に聴きに行ったんです。そうしたらすごくいい。それで峰君になったんです。

——ドラムスは誰だったか覚えていますか?

岸田恵士だったか村上寛だったか。

——プーさんのバンドに入ったいきさつは?

その前からちょっとは一緒にやっていて、バンドを組むというんで声をかけてくれたんです。

——そのころになると、60年代前半に比べて、オリジナルの曲を演奏するようになりましたよね。この変化に思うことはありましたか?

そうですね。そのひとの音楽が好きだから、そのひとのやりたいように、できるだけ沿うというか。好き嫌い、いい悪いは関係なしに、リーダーがやることが最高だろうと思って、必死だったですね。

——その時点で、自分のバンドを組む気持ちはなかった?

まだ思っていないです。

——一流のひとたちとやっていました。

いまから考えれば幸せものでした。本当に嬉しいですよね。一生懸命に前向きでやっていた姿が見てもらえていたのかもしれません。

菊地雅章のコンボを経て人気絶頂の日野皓正クインテットへ

——プーさんのあとが日野さんのバンド。

そうです。プーさんのバンドの前あたりで佐藤允彦(p)さんと富樫雅彦(ds)さんのトリオもちょっとやったりして。これは富樫さんに誘われて、ですけど。

——そのころからフリー・ジャズにも目を向けるようになって。

興味が出てきたころですね。そのトリオでやる前から、フリー・ジャズは好きだったんです。プーさんのバンドに入っていたときの日野バンドはベースがレジー・ワークマンで、彼がアメリカに帰るというんで、売り込みに行ったんです(笑)。プーさんには、本当に申し訳なかったんですけど。プーさんの音楽も好きだったけど、そのときは日野さんの音楽に魅力があったのかもしれないです。

——日野さんもレジーを入れてフリー・ジャズ的な演奏をしていました。

いろんなことをやっていましたからね。とにかくカッコよかったんです。音楽もそうだけど、スタイルもね。

——プーさんのところは円満に辞められたんですか?

けっこう引き止められたけど、ぼくは「とにかく行きたい」で。

——それで、プーさんのバンドにチンさん(鈴木良雄)が入ってくる。

そういう流れです。

——日野さんの弟さん、トコちゃんとは沢田さんのバンドで一緒だったから、前からつき合いがあって。

そうです。日野さんとも、それまでにちょこちょこやっていました。そういうときのプレイを、日野さんは知っていて、入れてくれたのかもしれません。もちろんプーさんとやっていたから、それも聴いていたと思いますけど。

——日野さん的にも問題なく「来てくれ」と。

どうかはわからないです(笑)。

——日野さんのバンドではドイツのフェスティヴァルなんかにも出て(注6)。杉本さんとは、入ったのはどちらが先ですか?

ぼくが入ったときにはいたかなあ? いや、入ったときはまだ村岡建さんでした。そのあと、同じクインテット編成だけど、サックスからギターに替わったんです。

(注6)日野皓正クインテットで、71年に「ベルリン・ジャズ・フェスティヴァル(ベルリン・フィルハーモニー・ホール)」、72年に「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル/ニューヨーク(カーネギー・ホール)」に出演。71年の演奏は『ベルリン・ジャズ・フェスティヴァルの日野皓正』(JVC)としてアルバム化されている。メンバー=日野皓正(tp) 植松孝夫(ts) 杉本喜代志(g) 池田芳夫(b) 日野元彦(ds)  71年11月6日 ドイツ・ベルリンで録音

——日野さんのバンドは、フリー・ジャズ的なもののほかにエレクトリックというかロック的な演奏もしていたじゃないですか。電気ベースは?

弾いてました。

——日野さんのバンドで弾くのは抵抗がなかった?

音楽がカッコよかったですから。真っ赤なギブソンのベースを買ってきてね。カッコだけで、内容はいい加減だけど(笑)。

——日野さんが人気絶頂のときだから、すごかったでしょ?

どこに行っても満員でした。いまだに覚えているのは、地下鉄の銀座線に乗るなり、乗っている車両のお客さんがみんな「あ、日野皓正」。それで、「こんなに有名なんだ」ってわかりました。そういうひとだったですね。

——音楽的にも面白かった?

面白かったけど、厳しかったです。

——プーさんと日野さんではどちらが厳しかったですか?

ふたりとも厳しいです。貞夫さんのバンドで、ピアノがプーさんでドラムスが富樫さんのときに、銀座の「ジャズ・ギャラリー8」で、ぼく、ほとんど弾けなかったことがあるんです。バラードをやったらプーさんにイビられて、アップ・テンポの曲では富樫さんに文句をいわれて。やっと弾けたと思ったら、貞夫さんにベース・ラインを吹かれた。それをいまだに覚えています(笑)。

——そうやって鍛えられる。

だからいい時代にいたというか、よかったですね。いま、ぜんぶ財産になっていますから。

——そういう経験は誰でもできるものじゃないので、貴重ですね。

そのときはもちろん悔しかったですよ。だけど、いまとなっては財産です。

——プーさんは厳しいことをいうんですか?

厳しいというより、当たり前のことですね。たとえばバラードをやったら、「お前のベースの音じゃサウンドしない」。音色と音の深みとか、音の重要性を教えてもらいました。最初にいいましたけど、割と弾けるほうだったじゃないですか。それがプーさんとやることによって、だんだんトニック(ある音階の主音)の重要性がわかってきて、音の数が減りました(笑)。

——考えて音を出せということですか?

そういうことです。日野さんも貞夫さんもそうでしたけど、なんとか上手くなってもらおうと思ってですから、イビりじゃないです。そうやって鍛えられて。

いよいよ独立

——そのあと、そろそろ自分のグループを始める。

日野バンドを4年で辞めて(74年に退団)。辞めたときぐらいに、やっぱりバンドを組まないといけないので、それで自分のバンドを持ち始めたんです。

——日野さんがアメリカに行くことになったから辞めたんですか?

その前に辞めています。

——その時点で、今度は自分の音楽をやろうと思うようになった。

そういうことです。

——自分のバンドではどういう音楽をやろうと思ったんですか?

やったらなにかできるんじゃないかなと、漠然と思って(笑)。

——基本はオリジナル曲で。

はい。余談ですけど、日野バンドを辞めて、大事故に遭って、顔を48針縫ったんです。42、3ぐらいまでむち打ちの症状で。今日みたいな天気(曇り)がいちばんダメです。

——交通事故ですか?

32ぐらいのときに、友だちの運転でガードレールに突っ込んだんです。日野バンドを辞めたチョイあとくらい。

——自分のバンドは始めていたんですか?

まだはっきりはしていない時期で、トコちゃんのグループに参加とか、なんとなしに自分のバンドもやっていました。

——どのくらい演奏ができなかったんですか?

1か月くらい入院して、退院してすぐにやりました。退院して最初の演奏が「ジャンク」の大野雄二さんだったから、大野さんとはずっと繋がっていたんでしょうね。そういうのをやったり、自分のバンドは、ピアノが高瀬アキさん、テナー・サックスが清水末寿(すえとし)、ドラムスが小山彰太。

——それが最初のバンド?

その前にもちょっとあるんですけどね。アキさんが入る前に、安藤義則、いま関西の、神戸の音楽シーンを仕切っているひとですけど、彼がピアノだったんです。そのときのサックスが清水末寿でドラムスが小山彰太。そのバンドでどこかツアーに行ったときに、地元のひとが「こんなアルト・サックスがいるんだけど、遊ばせてくれない?」といわれて、一緒にやったのが清水靖晃です。彼がすごくよくて、ピアノと交代させて、それがDADAバンドの2管編成の始まりです。そのサウンドが面白いんで、曲を書き始めたんです。

——そのときはまだDADAバンドとは名乗っていない。

池田芳夫カルテットでした。最近、昔のカセットテープが出てきたんです。伊藤君子(vo)さんが入ったやつとかね。ピアノがアキさんで、ぼくのトリオでペコちゃん(伊藤君子)をフィーチャーしたライヴ。そういうのでツアーをやったり、いろんなことをやっていました。大野えり(vo)ちゃんがいたこともあるし。

——日野さんのバンド以降、基本は自分のグループで。

そうです。池田芳夫トリオとか池田芳夫カルテットとかで。あとは、頼まれればほかのひとのグループでもやって。これでいまにいたっています。

——DADAバンドの「DADA」とは?

事故のあと、雨が降る前はなんかフラフラしちゃって、10年ぐらい電車の座席にも座れない状態だったんです。いまは慣れているから大丈夫ですけど。そういうことがあって、44、5になって、とにかく電車ではなにがなんでも真ん中に座る。いちばんひどいときには、真ん中に座っても脂汗が出て、「これはいけない」と。それで「オレは池田だ、オレは池田だ」と思いながら電車に乗っていたんです。それがDADAバンドのネーミングです。「気持ちは負けちゃいかん」ということで。変なところから名前をつけちゃったんだけど(笑)。

偉大なミュージシャンから学んだこと

——これまでに素晴らしいミュージシャンと共演してきた池田さんが、そのひとたちから学んだものは?

センスのこともひっくるめて、みなさん、音に対する執着心がすごいですよね。貞夫さんはタクシーに乗ってて衝突事故に遭って。それでアルト・サックスが壊れたけど、コンサートがある。「痛い、痛い」といっていたのに、ステージが始まれば何事もなかったように吹いていましたものね。

日野さんも、あとのほうだけど、ツアーをやっているときに、どっちだったかなあ? 肩の骨を折って、それでも片手で吹いてました。だから本当のプロは、音もそうだけど、細かいところで違いますね。

日野さんとか富樫さん、影響もすごく大きいですけど、彼らと演奏したことで、いままでスタンダードでなんとなしにそれこそコピーしてやってたものが、「これはいかん」と思うようになりました。「なにか自分を出さないと」と思って、目覚めたというんでしょうか。そこから音楽に対し、自分にもシヴィアになってきました。

——目覚めたのがいつぐらい?

35ぐらいですね。それまでは深く考えていなかったです。きっかけはいろいろありましたけどね。亡くなった田村翼(よく)(p)さんとやってたときに、「ベース・ソロで1曲やれ」といわれて、「ベース・ソロなんかできるわけないじゃないですか」といったんだけど、「いいから、やれ」。そういうところから、スタンダードでも個性を出して自分なりのことをやるとか。

宮沢昭(ts)さんとは80年から20年くらい一緒にやっていたんですけど、あるときステージでボロボロになっちゃったんです。ステージを降りて、宮沢さんに「ごめんなさい。さっきはぜんぜんわからなくなったんです」。そうしたら宮沢さんが、「いや、池田君がちゃんとしている演奏なんて聴きたくないよ。これまででいちばんよかった。そういう瞬間を大事にしなさい」といわれて。「あ、これかあ」と思いました。それからだんだん「これが池田だ」みたいな。それがDADAに繋がっているんですけど。

——グループもあるけれど、ベースのソロ・ワークもやっていますね。

『池田芳夫ベース・ソロ』(フレグランス・オフィス)(注7)というCDも出しているんですけど。2年ぐらいやってましたかね。

(注7)スタンダードとオリジナル8曲で構成した自主制作CD。メンバー=池田芳夫(b)  97年5月10日、12日、13日 東京で録音

——ソロでライヴをやるのはたいへんでしょう?

たいへんでしたけど、すごく勉強になりました。ソロでやると、お客さんも、ほかの編成のときより緊張している。ぼくは大阪出身だから、そういうときはお笑いからいくんです。そういうのも含めて勉強になりました。

ソロの場合、激しい曲のときは、とくに間が重要なんです。そのころはまだ手が動いていましたけど、弾きすぎはいけない。それとか、曲想みたいなものがあるじゃないですか、1曲目も2曲目も同じじゃいけない。できるだけお客さんを飽きさせない、みたいな。それも勉強になりました。

——いまはヤマハで教えながら……。

DADAバンドと、ヴィジュアル系のバンドでGLAYってありますよね、そこでドラムスを叩いているToshinNagai(注8)がジャズ好きで、彼がメインのリーダー、ぼくがサブ・リーダーでSSG東京(注9)というのもやっています。

(注8)永井利光(ds 1964年~)Toshi Nagai(通称Toshi)の名でも知られる。GLAY、氷室京介、EXILE TAKAHIROなどのサポート・ドラマーとして活動するほか、音楽スクールなどでドラム・クリニックも行なっている。

(注9)清水くるみや市川秀男といったピアニストを加えたトリオが基本で、ゲストにサックス奏者を迎えるユニット。

——どういうジャズをやるんですか。

まったくのジャズで、スタンダードもやります。

——いわゆるジャズ・バンド。

そう。彼はジャズ好きだけど、ジャズ・ドラマーじゃないから面白い。強力ですよ。あとは、息子(池田聡)(b)と最近はベースのデュオをやっています。

——レッスンで教えるときに大事にしていることは?

「できるだけ個性を出すように」ということですね。決まったことをプリントにして、「こういうときはこういうことをしなさい」とやるのがいちばん楽だけど、極力自分の個性を出させようとして、「ボロボロでもいいから、なにかやりなさい」。「基礎的な練習はちゃんとしなさい」とはいいますけど、あとは「自由にやりなさい」。

——息子さんもベーシストですけど、池田さんが「やれ」といったわけじゃなくて?

自分からですね。彼はもともとピアニストなんですよ。

——でも、ピアノなりベースなりをやるようになったのは、やはり池田さんの影響?

そうだとは思います。

——教えることはあるんですか?

まったく教えていません。聞かれることもないです(笑)。

——教えてあげたい、ということは?

ないですね。デュオでやるときはちょっとアドヴァイスをすることもありますけど。ベーシストとしてはとくになにもないです。こっちが聞きたいことがあるぐらいで(笑)。

——息子さんとの共演も楽しいでしょうね。今日は長々とどうもありがとうございました。

記憶があやふやでしたけど、こちらこそどうもありがとうございました。

取材・文/小川隆夫

2018-12-06 Interview with 池田芳夫 @ 渋谷「ミュージックアベニュー 渋谷公園通り」

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